終章 極道の血盟状@


 終章 『極道の血盟状』


  ◇ ◇ ◇


 冷たい海風に背を押されて、海水まみれの砂浜に降りる。
 数字上の季節は二桁になって二度目の月初め。日本よりも緯度の高い北部に位置する島は早くも冬の様相を呈している。

 十一月初旬。

 特別捜査の最終段階である。
 十数年前の飛行機事故のあとに、漂着したと思われる島を訪れての実況見分だった。倉庫、紀伊半島、穴倉、そしてこの島。夢うつつながら何度も思い出した、『あの島』である。裾の長い防寒コートを羽織り、すべての始まりの島へ降り立つ。――最後の場所であった。

 本州の外は危険だと止められたりもしたが、どうしてももう一度足を運んでみたかった。
 彼は同伴を望んだが、それを断った。現実的に、彼が自分のいるところから出ていくのは組の申請やその他の調整を行う必要があるためである。煩雑な手続きをすでに何度も見ているので、とくに本州から離れるとなると面倒である。警察官のように県移動が実は容易ではない立場を考慮して、今日だけは涼ひとりで実況見分に臨んでいる。

 島には、近年誰かが立ち入った痕跡はなく、あちらこちらで伸び盛った草木に野生動物が見受けられ、純然かつ自然な姿へと還ろうとしていた。
 文字通りの無人島。密林の奥に茨に包まれながらも佇む、彼らと過ごした家。白い壁はくすんでおり風化している。記憶のなかの景色に比べれば、当たり前ながらも荒廃していた。実際に、屋内も廃屋化が進んでいて、奥の捜査は足場が危険だということで、警察や検察が執り行うことなった。涼は外で待機し、その都度の聴取に応じた。

 白い建物の地下からは、多数の人骨が発見された。また、改良の進んだ薬物やその原材料の植物など違法性の高いものが残留していた。そのほかにDNA鑑定の可能なサンプルをいくつか採取し、涼の証言と符号するものがあれば被害者実証が完了するという手筈になっていた。

 建物へ続く密林の入り口をぶらついていると、奥から数人の影がみえた。
 捜査員が発見した残留物のいくつかのものを涼に見せた。

 「奥の部屋から、ノートが見つかりました。……中身は、日本語と漢文、中文ですね。……見覚えはありますか」
 「……それは、私が書いたものです。ページの端に『正』って漢字が、いくつかあるはずです」

 日記は全体が黄ばんでうねっている。表紙はおろか中身の文字も薄くなっているが、捜査員が何枚かめくったページの端には該当するものがあった。
 「たしかに」と捜査員は頷いた。

 「これは、どういったつもりで書かれたんですか」
 「経過日数……です、この島に来てからの……」
 「ひい、ふう、みい………たくさんありますね。他のページにも飛んでますから、おおよそ、数ヶ月……くらいですかね」
 「はい」
 「ご協力感謝します」

 記憶の中では、島へ来て半月でアジトへいこうという話があった。しかしその後、数ヶ月もこの島にいた。半月以降の記憶がどうも朧気だが、ノートには数ヶ月分の『正』の文字がある。吟が、時折戻ってくる涼がはじめた習慣を引き継いでいたことになる。
 捜査員に少しだけ見せてもらった、古ぼけたノート。

 (………彼の、筆跡がちがう)

 吟の筆跡のものは組織の本部にならわずかに残っているかもしれないが、それを押収することは不可能だ。
 このノートの『正』の文字が唯一彼の遺した文字といっていい。この筆跡の差によって、涼と吟の人格は別であることが証明される。決定的な証拠として。

 その後も、複数人の捜査員から入れ替わり立ち代わり細かな物証の確認を求められ、涼はそれらに丁寧に応じた。
 

 

 午後三時が過ぎ、一足早く黄昏が迫る頃。
 捜査第一課の警部補である村波が、五時間に及ぶ現場捜査の終了の号令を発した。

 「なんだか、名残惜しそうな顔だな」

 村波は砂浜の上で波打ち際を眺める涼にそう声をかけた。
 近くまでやってきた気配を見上げれば、ガッシリとした体型にいかにも刑事という風体の男である。もうひとり石田という刑事がいるが、この男が常に現場の執行権を握っている、というのが涼の認識であった。警察側なのだから、向こうはこちらの詮索が進んでいる。わざわざ声をかけたのは、きっと、こぼれ話でも聞きたいのかもしれないが、とくに涼からは何も話すことがなかった。

 かといって、無視も失礼にあたると思い、とりとめもなく記憶の天蓋にいつもある景色について述べた。

 「……ここ、星が綺麗なんです」
 「ふーん、お星さまねえ」

 薄く夜空の片鱗が見え始めた頭上になんとなく星の気配がある。
 それを、ひょいと見上げる仕草をして男は三角座り、もとい体育座りをする涼を見下ろす。

 「一個聞いていいか」
 「……はい」
 「なんで、真島と一緒になろうだなんて思うんだ」
 「……なんで、と言われましても」

 その質問には困るだけだった。
 村波が尋ねたくなるのも無理はない。同じような問いを、各所で聞いた。

 「不思議でしょうがねえんだ。……結局、同じだぜ。ああいうやつはロクな死に方をしねえ。恨みも買うし、トラブルだってくっついてくる。あんた……せっかく、チャラになるんだよ。人生上向きになるかもしれねえのに、……似たようなヤツと一緒に居やがる」


 犯罪者に人生を狂わされたくせに、犯罪者と結婚するのか。
 村波の言いたいことはそういうことだった。――概ねその通りで、反論することはない。けれど、どう言葉を尽くしても、彼の優しさも、誠実さも、他の人には伝わらないのだろう。また、どれだけやさしい人であっても社会では受け入れられない生業をしている。孤独な人だと――涼は思う。

 どんな時も最初に助けに来てくれたのは、彼だった。
 必要なときに傍らにいてくれるのも、彼だ。
 万人を納得させられるような答えは思いつかない。説明を果たすにも、途方も無い時間を必要とするし飽きてしまうだろう。他人には心底どうでもいい、きっかけだ。
 
 ゆっくりと、絞り出すように涼は言う。唇が震えた。

 「――たまたま好きになった人が、ヤクザ者……だったんです。……これじゃあ、いけませんか……?」
 

 村波は目を見開くと、それから返す言葉もないようで、しばしの間を置いた。
 自分から尋ねたくせに、返事がままならないのはおかしかった。波の穏やかな声が聞こえる。


 「……そうかい。そういう、巡り合わせってやつなんだろうな、あんたらは」

 沈黙を挟んで男はなにかを諦めたあとのように、深く息を吐きながら言い――遠くを眺めた。涼の視線もその遥か彼方へ惹きつけられる。
 海鳥たちの飛影が横切る。橙と青が混じり合ったいわし雲が潮風によって、蜃気楼と水面が融解する水平線の向こうまでゆっくりと押し流されていく。
 数日がかりの捜査協力ももうじき終わる。

 何度も心を慰撫した星空にさようならを告げて、涼は『あの島』を去った。
 もう二度と、ここへ訪れることはないだろう。
 





 1993年 12月


 
 師走。

 月の異名の如し、誰も彼もが忙しなく街中を往く。
 クリスマスが過ぎると、それまで赤と緑の彩りが一気にお正月ムードへ変わる。テレビ番組には『今年一年』という振り返りの前置きがつくし、あらゆる総集編が流れる。どこか退屈で期待に満ちた落ち着かない、一週間足らずの非日常の最中。
 こたつに入ってみかんを頬張っていると、クリスマスプレゼントに贈った手編みのセーターを着た真島が神妙な様子で切り出した。


 「年賀状……書かなアカンのう」
 「年賀状?」
 「出すとこ多いんやで。これが七面倒臭いんや。まだ残っとるし、新年の用意もせなあかん」

 義理かけなどの内々の行事、盆暮れの見舞いや、その他年間行事が常にある。極道社会が神道の形式に則るので年末年始は特に忙しい。その忙しなさは万国共通なのだろうなと、涼はぼんやり思う。今こうして、こたつに入って暇そうにしていても、実は暇ではないのだ。

 「年賀状なら手伝うけど」
 「ほんま? 下のモンに任せとったけど、字ィ汚いいうて書き直させたらそれも汚のうて。まだマシな奴は流行りだしたインフルで一週間前から寝込んどるし……」
 「わかった。見本があれば書けると思うわ。……あれでしょう、墨で書くんだよね?」
 「筆ペンでもええで」

 写経をやった感触を体が忘れていなければ、年賀状くらいなら十分こなせそうだ。ただ、家にある年賀状の量は少ないので買い足しが必要である。
 二個目のみかんを残り二切れまで残したところで、テーブルに突っ伏してこちらを見ている真島と目が合った。なにか物言いたそうにしているので、手元の二切れを口元へ運ぶと、手懐けが上手くいった犬のようにペロリと食べた。

 「ひひ、美味いわ」

 飾り気のない笑みにつられて涼も微笑む。
 しかしその眼差しは未だ何かを告げたそうに、涼のほうを見詰めるのである。まだ食べたいのかと思って、テーブルの中央に置かれた籠の中から三個目のみかんを手に取る。その薬指には真島から贈られた婚約指輪があった。優美な曲線の花模様を描き、中央のダイヤモンドを縁取るように、ガーネットが嵌めこまれて華やかな仕上がりになっている。
 そこへ大きな掌がそっと被さった。


 「涼、……大事な話があるんや。……ほんまは早う言わなアカンかったんやけど、せっつかれてのぅ」
 「……うん」
 「親父に、会うてみぃひんか」
 「親、…父って……嶋野さんのことよね」
 「おう」

 彼の実父の存在は希薄で、時折話してくれるが『親父』とはっきりと出すのは嶋野だけである。
 『穴倉』の頃に何度か対面もしたが、涼のまま直接的なやりとりはなかった。嶋野太。親子の盃を交わした子の真島を陰惨な世界へ放り込んだ男。その『穴倉』で、二人は出会った。狭く暗い地獄の世界で最悪な時間を共有した。
 恨むことは容易にできるけれど、嶋野のその残忍な行為がなければ、涼は助け出されなかったかもしれないのだ。

 今頃、腐りきった蝿のたかる死体に埋もれて、骨に還っていただろう。あるいは、紀伊半島で、ムーンスターブリッジの上で殺されていた。
 嶋野を極悪と裁くことは、涼にはできない。つくづく奇妙な関係である。――涼の沈黙を真島は、それが『否』と捉えたようで「無理やったらええ」と気遣った。涼ははっとして、頭を横に振った。


 「ううん、大丈夫。――それっていつ行くの?」
 「……年末までには来い言われとる。せやから、今週中、や。土壇場ってかんじやな、先延ばしにしとったんは俺の方やけど」
 「もしかして、ずっと気を遣わせてたの」
 「……ん、……涼は悪ない。……俺はあの人の『子』やけど、親父の腹の中までは覗けへんからの。……何しよるか、何考えとるか、その場になってみいひんとわからへん」

 ため息をつきながら真島の広い背が丸まる。
 テーブルにしなだれかかるように俯く。その両肩にはどれほどの重いものがのしかかっているのだろう。その重しの中には、もちろん涼も入っている。彼はその重圧に耐えながら、なんでもない風を装って今日まで生きてきた。そこへ感謝して――労い、励まし、支えるのが涼の役割ではないか。彼が、そうしてくれたように。

 背中に手をあてると、基礎体温の高い真島の熱が、毛糸の柔らかな質感越しに伝わってきた。

 「……明日、行こうよ」
 「ほんまに、ええんか」
 「いいよ。こういうのは、早く終わらせたほうが楽だよ。……年賀状も早く書かなきゃ。ほかにも、することがたくさんあるでしょう?」
 
 真島は微かに笑うと涼のほうへ凭れた。顔の距離が近くなり、ここ数日手入れを放置している無精髭を撫でてみると、じょりじょりと固い感触があった。
 香港の頃、ほかの構成員が密輸してきた、ハリネズミの飼育を任されたことがある。その痛くも気持ちのいい感覚から、思い出すことになろうとは。そのハリネズミは数週間ほど世話をしっかりして飼っていたが、食用のハリネズミと間違って捌かれてしまった。

 小さな命を懐かしむ。優しくなる手つきを快いと思って、そこにある切れ長の黒い瞳が細くなった。

 「……髭、伸ばしたほうがええと思う?」
 「吾朗さんなら、似合うわ」
 「ヒッヒッヒ……。そない言うんなら、伸ばそうかのう」
 
 精悍な顔立ちに髭は映えるだろうし、もうすぐ三十路に入るからちょうどいい時期かもしれない。様々なからい経験をした二十代があと一年で終わろうとしている。それはとても、感慨深いものがあった。



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