嶋野との挨拶はその翌日に急遽決まった。
午後から嶋野組に訪問する手前に、新宿の百貨店に立ち寄る。年賀状を買い足すためだった。
なかなか訪れる機会の少ない、文房具や雑貨のあるフロアを一通り散策する。年賀状コーナーを物色していると、見知った顔と遭遇した。ミヨコだった。
ミヨコとは七月以降、文通を交わしていて外で会うこともあるが、出先でこうしてばったり会うのは七夕ぶりである。
「涼ちゃんも、お買い物かしら」
「年賀状をね。ミヨコちゃんも、そうよね」
「年賀状に、お年玉袋ね。親戚が多いと配るの大変よ。特に年始はねえ、本家に集まるといとこの子供だけで八人よ。もう、たーいへん」
「……うん、大変そう」
大変といいながらも賑やかな家族団らんになるのだろう。
それは少し羨ましい気がした。母方の縁は薄いというより、母自体が教会の施設で育った経緯があるのでそもそも血縁の親戚がいないのだ。だからこそ想像しうるに、大人数の家族というのは凄まじいだろう。
「このあとお茶しない?」
「そうしたいのは山々だけど、用事があるの。ごめんね」
「そうなの。……あら、それエンゲージリングよね」
ミヨコは目敏く薬指の煌きに気がついた。七月の再会にて、涼が彼女のプラチナからその人生を、画一的ではない生き方を、されど平穏さを見つけたように。無意識の想像と詮索を行った。それが今は自分に傾けられていると感じると、焦りと緊張とが混ざり合い、腹の底が痛くなる。
「あぁ、……その、うん。そうなの」
涼は逡巡し、ゆっくりと肯定する。そこには僅かな諦めの色さえも含まれていた。
彼女と会う際には、なるべく外すようにしていた指輪であった。なぜなら、自分の行ったような、詮索と追求からは逃れられないことは明らかだからだ。きっと。たいていは、『どのような人か』と続けて問われるし、せっかく蘇った友情を、打ち止めにしない限りは恒常的な話題になる。会話の節々に、その存在は漂い、家に帰れば共に暮す相手を伏せていくことはないといっていい。
涼が怯えているのは、夫となる相手がそちら側の人間であることを紹介することで、この友情に緊張感を与えてしまうのではないかというものだった。正しい人間であれば、無論彼女は涼を諭すだろう。いかに世の中では認められないものかと説くだろう。
危険な男に魅せられるのは若いうち、それも恋人にするならまだしも、婚姻関係を結ぶとあれば考え直せと言われるかもしれない。十一月の頃。『あの島』で村波が言ったことは正しい。世間は、他人からはこう見えているということを教えてくれたのだ。――かといって、これが不幸な関係とは思っていない。
涼の考えていたように、ミヨコは続けて「どんな人?」と尋ねてきた。
ずっと考えていた答えを、たった今思いついたように話す。
「……見かけは怖いと思うけど、やさしい人よ」
「そうなんだ。その……」
収まるはずのないミヨコの追求が始まりかけたとき、ハンドバッグの中に入れていたポケベルが鳴った。この時ばかりは助け舟に思えて、「ちょっと電話行ってくるね」と会話を切り上げることができた。フロアの隅にある公衆電話に駆け込むと電話をかけた。相手は当然、真島である。
「もしもし、吾朗さん? ……え? うん。今はちょっとお買い物。……ええ、食べてないわ。……場所が変わったの? ぎ、銀座の? でも、いまはまだ新宿よ」
当初は嶋野組での軽い挨拶程度だと考えていた。それも顔を合わせるだけくらいのもので、真島の立場を考慮すれば組の構成員たちへの紹介も兼ねている、『通過儀礼』のものと想定していた。一発殴られるくらいの覚悟をしていたが、受話器越しの真島の話からでは、嶋野と彼との三人だけの会食になりそうだとの事で緊張感が高まる。食事を交えてというのは、逃れようのない状況になるだろう。
「……ええ。十三時に。……迎えはいいよ、電車でいくから」
一時間後に東京レトロ銀座駅。
銀座にいくのは指輪を買ってもらって以来である。そこへいくには地下鉄で三十分以内に着くとはいえ、はやく買い物を済ませなければ。
元の場所へ戻るとミヨコは先にお会計を終わらせていた。「申し訳ない、今日は急いでいる」と謝ると、けろりとした様子で「また今度ね」とあっさり引き下がった。ほんの少しほっとしたのは内緒である。
彼女とその場で別れ、涼は適当に年賀はがきや執筆に必要な道具の精算が終わった頃、立ち去ったはずのミヨコが何故か戻ってきた。
買い忘れでも思い出したのだろうかと考えていると、涼を見るなり表情が華やいだ。
「あのね、フロアの……エスカレーターのとこにね、あの、えっと、独眼竜政宗? がいて……!」
「ど、どくがんりゅう……?」
「伊達政宗よ、伊達政宗! ドラマやってたのよ。……その人もすんごい、格好よくて! 真っ黒でビシッとしてるの! 眼帯は逆だけれど……!」
涼の預かりしれない時期のドラマだろう。しかしミヨコはどうもその戦国武将がお気に入りの様子で興奮気味である。そんな眼帯をつけた人物が現れたくらいで、この童心にかえったかのようなはしゃぎっぷりは良いものが見られたような気がした。ミヨコはその興奮をどうにか共有したいと涼の腕を掴むと件の人物のいる場所まで引っ張った。色とりどりの雑貨を陳列したブースを抜けてたどり着くと、歓喜よりもさきにまず嘆息が出た。
「ね、ね! あそこ! 見えるでしょう!」
「…………」
見える。たしかに、見える。
正確には、見たことのある……人である。
もっといえば、見慣れている人が。
エスカレーターの下りの近くで、誰かを待っている。
脇にコートを抱え、全身を黒に統一したスーツを纏う、見慣れた長身の男が立っているではないか。『迎えはいらない』と断ったのにもかかわらず、なぜここにいるのか。涼は頭を抱えたくなったが、そこにいるなら声をかけなければならない。約束の時間に遅れてしまう方が遥かに問題だった。
声をかけようとした手前、キリンのように首を長くして、辺りをきょろきょろと見渡していたその男と目が合った。隣にいるミヨコは「こっちに来る!」と歓声をあげた。
「よっ。……涼ちゃん、どないしたん、そない睨んで。……さっきの電話んときにはもうデパート着いとったんやて。……お友達と水入らずのとこ邪魔したんは悪ぅ思っとるけど」
「え、まってちょうだい、涼ちゃん、これはどんな状況? 伊達さんとお知り合いなの? 言ってくれたらいいのに、水くさい!」
「俺は伊達さんちゃうで、真島や」
ミヨコの真剣な、ズレた物言いを訂正すると、真島が自分で名乗ってしまった。
婚約指輪から彼の話を避けたが、こうなってしまったからには紹介しなければ収まらないだろう。
「ええと……、この人が指輪をくれた人よ」
「ホント!? 独眼竜が!? うそ、……えっ。どうも、はじめまして。ミヨコと申しますわ」
「話はいつも聞かせて貰っとるで。……俺は、真島吾朗や。せっかく会うたばっかりやけど堪忍。このあと行かなアカン用があるさかい、悪いねんけど……」
「あ、ハイ。それは、もちろん……! お引き留めしてしまって、すみません」
ミヨコが楚々と謝ると、「よかったわね」とそっと涼に耳打ちした。涼はミヨコの住む世界で彼の名前が有名でないことに安心していた。初対面が人の印象を左右するなら、まずまずといっていいのではないだろうか。ミヨコが不快に受け取った様子はなく、疑いも詮索も減る。先に乗った真島に続いてエスカレーターに乗り込むとミヨコが小さく手を振って見送ってくれた。
一段下に立つ真島をやや見下ろすというのは不思議な気持ちで、旋毛を眺めているとくるりとその頭が反転し涼のほうを向いた。
「……伊達政宗ってなんやねん」
「私じゃないわ。それは、ミヨコちゃんの思いつきだから……」
「涼ちゃんもそやけど、おもろい子やのぅ」
真島は「ひひ……」と思い出し笑いをすると肩をすくめた。
涼にしても、おそらくミヨコにしても、おもしろいつもりで言っているわけではない。一旦踊り場に出るとまた下のエスカレーターに乗る。
エスカレーターの手すりに凭れかかって、身を横に顔だけを前方に向ける真島は、見慣れぬブラックスーツに身を包んでいるのが新鮮だった。肩で着るといわれる代物だけあって、彼の首から広がる逞しい僧帽筋、がっしりとした肩幅と背中によって格好よく仕上がっている。色白な肌と黒のコントラストが、はっきりとしていてよく映えている。
「まさか、スーツとは思わなかった」
「ん? せやな。挨拶やったらしっかりしてこいいうて、ドヤされるからの。こっち着いてから親父が飯行こうやいう電話入れてきよって。……いつも通りやったら一人だけ店入れへんかったわ」
「……お店って」
「気にせんでええ。……なんや、張り切っとるし。花を持たせたってもええんちゃうかのう」
銀座でドレスコードのある飲食店、ともなれば当然お高いお店である。辛うじて抑えめな色のワンピースにパンプス、明るめのコートを合わせてきたが、当日になって予定が変わるのは少しひやりとした。会食の飲食代をあとあとになって、吹っかけられないかと心配してしまいそうになるが、真島の様子からするに嶋野の今日の機嫌は上々なのだろう。
百貨店の一階。
入り口の大通りに、面した曲がり角。停車していた黒塗りの車に乗り込むと、銀座へ向かった。
銀座。
いつの時代も、誰かの憧れの東京の華。
その地名だけで、人の居佇まいを正す街である。
中心の大通りから数百メートル南に下がり、細い通りにある料亭へ入った。
女将に防寒着を預けて、お座敷へ案内されると、そこには想像に違わず、先に座して二人を待つ粗暴をスーツに収めた巨漢がいた。揃って深く頭を下げる。涼は処刑場にある断頭台に登るような気持ちでいた。嶋野とテーブルを挟んで向かい側。二つある座布団のうち、左側へと正座した。
真島が隣に座ると、それを見計らって料理が運ばれてくる。
飲み物を何にしようかと、真島がメニュー表を見せた。当然だが値段は書かれておらず、ソフトドリンクの価格帯が最も低いのでそちらに視線がいった。しかし、かえって安いものを頼むのも失礼にあたるのでは、と考え始めてしまったのと、テーブルの向こうの嶋野の威圧感にやられて、最も飲みやすそうな梅酒を頼むことにした。
余談であるが、大陸にも食前酒に、果実酒の檸檬香酒、林檎芳酒、桂花陳酒などといった、果物をベースとしたアルコール度数の低い甘く口当たりの良い酒がある。金木犀や花などの芳香も楽しめるので、専ら女か酒のきつい味が苦手な男の飲むものであった。
女将が一度下がったのを見届けると、嶋野が口を切った。
「やっと揃ったの。エラい待たせよって、真島。半年越えとるやないか。年の瀬近いっちゅう時に」
「すんません、親父」
「まァ、飯の前で説教垂れたら不味うなるさかい。……ほんで、見ないうちにエラい別嬪になっとるやないの」
窺い見るようにして、嶋野は好色そうな笑みを浮かべた。
品定めされるような目つきに、若干の居心地の悪さを感じながら、「ご無沙汰しております」と涼は極力視線を外さぬよう言った。王吟はこの男を前に飄々としていたところがある。いかにそれが凄いことだったか、身を持って知った。吟にとって嶋野はただの依頼人という認識だったのだとしても。彼も彼女も、最もおそろしいのは王汀州だけだった。
そう、自身に言い聞かせてみると、不思議と呼吸が楽になってきた。
暴漢。この見るからに暴力的な男に較べれば、あの男は底知れぬサディストだった。細身の肉体に宿った凶悪は今でも筆舌に尽くしがたい。女をみて喜ぶことも、酒に呑まれることも、金に目が眩むこともなかった姿を思い返すと、まだこちらは『人間らしい』男ではないだろうか。慣れ親しんだ地獄の味によって、どうやらこの食事の席が乗り切れそうだと思い始めると、忘れていた空腹も顔を出すというものである。
頼んだ酒が机上に並ぶと、嶋野が女将からの酌を断って涼を呼んだ。
男の傍らに膝をつくと日本酒の入った瓶を手に持つ。酒の突き抜ける香りが鼻をついた。真島は女将からの酌を受け取り、それにまだ口をつけずに様子を見守っている。その隻眼は無感情を装っているが、狂気の片鱗に似た姿がある。嶋野を見詰める彼の正面の姿は、『親子』とするにはあまりにも乾いている。自分を甚振った人間に対する正しい表情である。――涼も拐われた朝、そのような顔をしていただろう。
ふたりは、似ている。
そう直感的な親近感に胸の奥で微笑んだ。それでも、真島と涼の決定的な差は、人を殺したことがあるか、ないかである。そういう意味では、涼はとっくに壊れている。どれだけ平穏な日常にやつし、穏やかに過ごしていても、海底には巨大な墓がある。屍たちが恨めしそうに無数の手を伸ばしてくるのだ。
「まさか、あん時のガキが――こないして生きとるいうんは、神様も戯れが過ぎるっちゅうもんやわ」
「――さようで」
「ホンマに男やったら……いっぺんくらい、啼かせたやろなぁ」
穴倉の処刑執行人たちは王汀州も、王泰然も死んだというのに、生きている。
荒川涼の生存の妨げになるために、殺された者たちである。
真島はあれを事故だと片付けているが、その根底から涼に帰属する。王汀州の直接的な死因は爆発ではなく、銃創からの失血死だ。頭を狙ったつもりが、左腕へ命中した。第三勢力によって暗殺が行われようとした。きっと、真島ではないが、暗躍の気配は拭い去れない。……けれどもう、その仔細な話をすることはないといっていい。そうすることがお互いのためだからである。暗黙の了解として、業を背負っていく。―――王汀州を海底の墓へと沈めて。
「親父。そのへんに」
真島の静かな仲裁によって、涼を沈没した意識は引き上がる。嶋野はいやらしく笑った。
酒を注ぎ終え、座布団まで戻ると、グラスには梅酒が注がれていた。そろって乾杯をし、そこでようやく食事の席が始まった。梅酒を飲み下すと、緊張が一気に解けた。先付けには、一見豆腐にしかみえないものの上にいくらが載っている、形容し難いが、味も食感も大変美味なものだ。
清貧な生活に馴染むと、どれもこれも美食になる。
料亭の料理は満足な量を腹に収めるというよりも、粒揃いの純度の高い味を楽しむものであるため、三口食べれば終わってしまうのが切ない。涼の食事の基準は美味い不味い以前に、食事にありつけるか否かであった。それを踏まえればこれは最後の晩餐といってもよい。
酒を服すと緊張が和らいだのは、涼だけではなかった。
他愛のない会話を挟んで、料理は進んでいき、先付けにはじまって、造里に焼き物、蟹の小鍋と続いたコースは締めの季節のデザートが登場して、少し寂しい。デザートは雪うさぎを模したアイスクリームだった。香り高いラム酒入りのバニラにまろやかに広がる口溶け。適度な甘さと冷たさが酒の熱を取り払う。
「腹いっぱいか?」
「……うん、とっても」
涼は満たされた腹を軽く擦って、足を崩して真島の左肩に寄りかかった。真島は女将に熱いお茶を頼んだ。
血糖値の上昇でわずかに眠気が迫る。嶋野はひとり静かに酒を楽しんでいるが、その瞳は相変わらずなにか探っているようだった。肥え太った家畜が、これから肉として狩られる前のような静けさである。
頼んでいた茶が運ばれてきた。涼は佇まいを直し、熱いお茶を啜った。
「ちょっとお手洗いいってくる」
真島に一言告げて、涼はお手洗いに立った。
まさか軽い挨拶と食事だけでお開きになるわけではななかろう。その準備も兼ねて一旦席を外すことにしたのだった。