終章 極道の血盟状B



  ◆ ◆ ◆



 涼がお手洗いに出てからしばらくして、嶋野は爪楊枝を口元から外した。
 義理事があれば供される割烹よりも少しだけ精度の高い、実の詰まった料理たちに舌鼓を打った。洗練された、上質な味だが普段食べる家庭料理のほうが性に合っている。家庭料理があってこそ、外食の味を心地よいと思うものだからだ。――とくに、嶋野にしてみればこの席の料理は味をよく知るがゆえの、もてなしに過ぎない。

 食事が終わったここからが本題であることを真島は理解していた。

 ただの会食を設けるはずがない。食事を前菜とし、涼の有り様を測っていたのだろう。率直にいって――この女が真島の傍にいて作用性があるかどうか。『嶋野の狂犬』と囁かれていることを知っている。いわば、首輪のついた凶暴な犬である。主人の機嫌をうかがい、忠節を誓いよく働く。嶋野の危惧するところは、それを妨げることである。『穴倉』にまで沈めて、人間の尊厳を奪い、劣悪な環境を外の世界でも強いて、それでもなお極道社会に舞い戻ってきた男の強い催眠を解く存在があってはならない。――それが本当にこの世の毒を知らぬ生娘ならば嶋野も見逃しただろう。

 その程度にこの男を覆すことは不可能だからだ。
 しかし、涼は地獄を知っている。毒を食べ続け、毒の種類も濃淡も、毒に対する抗体も併せ持つ。嶋野の犯罪も知っている。彼女は事あるごとに事件の証言を行ってきた。それらはどれも正しく証明されている。彼女が一言その披瀝を明らかにするだけで、一波乱が起きる。警察もまともに取り合うだろうし、極道社会を揺るがしかねない、破滅をもたらす存在なのだ。

 そんな危険な女を、みすみす放って置くことをするはずがない。
 身も蓋もないが、殺すか、殺さないかの判断をするための場である。それがわかっているからこそ、会わせないよう引き伸ばしてきたのである。


 嶋野が胸ポケットから煙草の箱を取り出すと、真島は腰を上げる。傍らで膝を折って、手持ちのジッポーライターを掲げて点ける。嶋野はくつり、と喉を鳴らして笑った。深く味わうように吸い込んで、その紫煙が重く吐き出される。

 「……指輪は、アレ、買うたったんかい」
 「へい」
 「籍も入れとらん、式も挙げとらん、エラい入れ込みようやな。あの女に宝石なんぞ安いもんや。――あの紙、イヌに渡したんやって? 血盟状とかいうアレ。それが、正解や。あの紙はのう、あの女が使てしまうんが一番効くんや。名前がそこにあるとかないとかちゃう、あの紙握った人間が組織のトップや」

 真島は食い入るように嶋野を見つめた。
 それは想像の斜め上の話であった。

 「上の二人がおらん。でも、女は生きとる。なんだかんだっちゅうて、組織の中であの女を、擁立する人間もおるさかい。組織の内紛収めて、まっとうに動かすにはあの女を擁立して、摂政関白にでもしたほうがまあるく収まるんや。……ええやろ、王のお気に入りは正統な後継者や。女王様の下のほうが外聞もエエ。ご機嫌取って「うん」言わせたらエエんやからな」

 それはそうだと、頷くほかない。
 政治的に彼女の存在は手に余る。嶋野の思考を読み解く。この男は頭が切れる。真島の考えている数歩先を見ている。

 「『蛇華』に吸収してもらおうにも、僅かや。構成員は正式な数でも多い、潜伏しとるやつもおる。スパイもおる」
 「――もし、涼を殺したら……どないなるんや」
 「戦争や。本物の戦争が起きるわ」

 嶋野の声は硬く、不動の岩が動くような響きを伴った。
 真島はかすかに息を呑む。

 「ただの戦争ちゃう。――向こうはな、『預けとる』くらいにしか思てへん。ほとぼり冷めるまで、最低十年。その十年で上手いこと弱体化するか、王ほどの器のある長が就いて、後釜に座ればの話や。資金は向こう数十年は保つ言われてるさかい――。しばらくは金の分配で揉めて、そのうち組織運営で揉めよるハズや。擁立派は最後の最後に、奥の手ェで政局ひっくり返すとき、海越えてくるやろうな」

 つまり嶋野にとって最も有効性の高い切り札であることを意味していた。騙れば、巨額が懐に入る。金のなる木である。

 「真島。――お前、このまま結婚するつもりなんやったら、よう考えや。――女はお前を幸せにはせえへんで」
 「―――」

 覚悟を定めるのは、彼女ではなく真島の方であった。
 退路はもはや無い。退路を断ち切ってきたのは己だからだ。

 「まァ、これは見通しの話で、擁立派の信仰が衰えれば状況が変わるわ。――その擁立派を殲滅するのが手っ取り早いっちゅうわけやな」
 「……親父」
 「そのために『蛇華』がおるんやないか」
 
 嶋野の謀略はこうだ。涼をダシに『藍華蓮』の擁立派から金を吸い上げる。弱体化させ、反発が見えた頃に『蛇華』を使って殲滅作戦を行う。完膚なきまでに殺し尽くすということである。――他に選択肢はない。嶋野が真島にそう思わせるための陽動話だとしても、彼女の生存権を優先するには他に考えつかないのである。なにをしても禍根を残すのであれば、徹底的に滅ぼすしかない。

 「ただいま」
 「―――涼」

 お手洗いに行っていた涼が、襖を開けて立っていた。
 酔いも落ち着いたようで、顔の火照りが薄くなっている。真島は嶋野に目配せすると、自分の席へと静かに戻った。――初めに考えていた、想像と違う目論見を知ることになったことで、嶋野の涼に対する『暗殺』の話は立ち消えた。しかしそれは、会食を催行する大きな要因も消えたことになる。

 「親父、――なんで飯食べようやなんて言うたん」
 「事務所は騒がしなる。――余計なもん入れるのはマズいさかい」

 リスクを排除した結果である。と言いたいようだった。
 涼の存在感は依然として巨きい。秘匿するためだったというわけだ。高木の件のように、壁に耳あり障子に目ありになっていては不味い。

 その話を聞いた上で、真島が涼にできることといえば、静かで、穏やかな生活を送らせること。それだけだ。

 嶋野は机の下に隠し持っていた、A3の角封筒を差し出した。
 真島はそれを受け取ると、中を覗き込んだ。

 「それは、渡しといたる。……たまには親父らしいことせなアカン、思うてなァ。――書き損じは二枚までや、ええな」
 「……親父、おおきに。……ありがとうございます」
 
 真島は深く頭を下げた。隣に座る涼は、何のことだかよくわからないなりに、やんわりと頭を下げた。
 大男は満足そうに頷くと立ち上がった。真島も立ち上がるが、手で制される。

 「ここで話し合ったらええ。……ワシは先に組戻るさかい。話ついたらいっぺん電話しい」

 嶋野はテーブルの端に何枚か重なった万札を置いて、ひとり座敷を後にした。 
 
 

 涼は向かい合うように座布団に座った。真島が受け取った封筒の中身が気になるようで、手元を凝視している。その間に封筒の中身を取り出すと、薄い紙が出てきた。三枚重なったそれは――婚姻届であった。彼女は神秘に出会ったような顔つきで、何かを言いかけたもののやめてしまった。

 真島は婚姻届の証人欄に、嶋野の署名捺印の書付があることを認めて、喩えがたい胸中となった。

 ――利益追求のために厭うことをしない狡猾さ。まったくもって不可思議な話だが、この結婚の一端の責任を証人として負う。それを、先んじて嶋野から認めたことは心強かった。そこに欲望を孕んでいるものだとしても、この紙はただの紙ではない。

 ――先の話を涼に打ち明けることは困難を極めた。

 嶋野には個別のパイプがある。その情報網から、『藍華蓮』の内情を探っていてそう言うのだから、信じるにしても半分は本当だろう。婚姻を辞退しても、婚姻を結んだとしても、残党がいつか、海の向こうからやってくる可能性は捨てきれない。
 真島はそっと涼を盗み見た。ひどく落ち着いていて、穏やかに手元を見下ろしている。聖母子像の赤ん坊を抱える女が、無限に拓く真理を見つめているような尊さがあった。

 もっと、ロマンチックであるべきだろう。
 もっと、幸福に満ちていて、希望の光が向こうから差し込んでいて、不安などなにもなくて。
 確実に、幸せだと言い切れる結婚が望ましいだろう。

 そう、これは真島が勝手に考えていることだ。――自分といることで相手の人生を阻むのであれば身を引く。常用手段の通じない人間はこの世でたったひとり、彼女だけである。――彼女を愛している。
 それに間違いはない。彼女は毒を食べ続けた。次第に、彼女自身が毒になってしまった。

 涼はこんなに、綺麗なのにも、かかわらず。

 「――吾朗さん、どうしたの?」
 「いや……。なんでもあらへん」
 「嘘、ついてる」

 指摘されて、怒りを上回った悲しみによって覆い尽くされる。
 普通に生きたいという彼女の幸福を、全肯定できないのだから。
 「ねえ、話して」と彼女はせがんだ。

 「とっくに、壊れてる」
 「――!」

 思わず真島は顔を上げた。聞きたくない言葉の一つだった。
 すでに痛みが馴染んでいるがゆえに。何を聞いても、『傷つかない』ということだった。
 気がつけば、固く、強く、女を抱きしめていた。骨と筋が軋んだ。痛いとも、苦しいとも言わない涼は真島の背に手を回していた。
 
 「――もしもの話をさせてくれへんか」
 「うん」
 「……もういっぺん、拐われてしまうかもしれへんのや」
 「――うん」

 涼の凪いだ声が触れ合った肌越しによく聞こえる。


 「幸せを、保証できひん」
 「……うん。そうだよ、しなくていいのよ」
 「なに、いうとんねん……そういうことが、大事やろが」
 
 顔を見合わせる。鼻先が触れ合うほど近くに、お互いがいる。
 涼はちっとも泣いていなかった。それどころか、朗らかに笑っていた。覆いかぶさった悲しみが一気に霧散して、怒りが顔を出す。憎らしいほど彼女は当たり前に、真島の苦悩を小さく扱っているような気がして、事態の大きさが理解できていないのではないかと思う。


 「――だって、もう幸せなんですもの」

 そう言われてしまえば、真島は閉口してしまう。
 幸せだと言われて思い浮かんだのは、懐石料理を至福といわんばかりに頬張っていた、ついさっきの表情だった。


 「あんなあ、……ちょっと美味いもん食べて得られる幸せとかちゃうで。もっと、こう――人生のやな?」
 「小さいけど、幸せなことには変わらないでしょう。それに、人生は小さな積み重ねよ」

 あんなに思い詰めていたのに、彼女と言葉を交わらせると深刻な陰が抜けてしまう。
 悩むことを愚かだとでも言いたげに、なぜか明るい。


 「そら、そうやけど。……せや、子供できたらどないすんねん。すぐ拐えるで? 親が守ったるっちゅうても、限界あるで?」
 「吾朗さんみたいに強いかもしれないじゃない」
 「強いいうたって、女の子かもしれへんで? ちっさ〜くて、かわいい子なんかあっという間やで?」
 「――その時は、その時よ。いつか来るかもしれない可能性のほうを信じるの……?」


 行き詰まって抗言をやめ、論点をすり替えた。真島は再び閉口する。
 それ以上を許せば回り回って、涼の半生の成り立ちに触れかねないところに差し向いたからだ。彼女とて、こうなる事を望んで生きてきたわけではない。どうしようもなく、抗えない難局を何度もくぐり抜けてきた。けれど――そうなる可能性が予めわかっているなら。
 二人に望めなくてもいい、と思った時、彼女の唇が震える。


 「ねえ、吾朗さん」と、彼女は仕切り直すようにそう呼んだ。
 

 「私、欲しいから。――――赤ちゃん」

 はっきりとした本音は、真島に戸惑いを与えた。
 軽率に望んでいるわけではないこともわかる。真島が考えているように、彼女も時間をかけて考えた結果が、いま言葉として形を成しただけだ。衝動的な欲求ではないことくらいわかっている。自分が不幸だったから子供を作らない人間と、自分が不幸だったからこそ子供に幸福を託す親がいる。彼女はきっと後者だ。真島もそうだった。そうなるよう、一瞬でも期待してすぐに打ちのめされた。

 もちろん、今もどちらかといえば後者を選びたい。
 彼女のいうように、未来は恐ろしいかもしれないが、憂いても仕方ないという言葉もその通りである。

 涼は真島の腕の中から出ると、畳の上を這った。
 部屋の片隅に置いていた百貨店の紙袋の中から、買ったばかりのボールペンを取り出すと、男の手にあった薄い紙を引き抜いた。テーブルの上のアイスクリームのあった小鉢の器も、グラスや箸をも除けて、平らで湿り気のないところに紙を置くと、ボールペンを紙面上に滑らしはじめた。

 「――涼」

 静かに名前を呼びかけると、彼女は泣き出しそうな声で叫ぶように言った。

 「身勝手よ、全部。――生まれてこなきゃよかったって、思ったもの。なんども、なんども……そう思ったけれど、たくさん恨んだけれど――愚かだから、幸せを満たそうとしてるの。……だから、ほんとうに赤ちゃんができて、その子に本当に悲しいことが起きて、恨まれても……受け容れるわ―――」


 恨むほうが簡単だ。子供は親を選べないから、そうなるよう仕組んだ親に責任がある。けれどそれは巣立てるまでの話で、涼はそれに気づいたから子供ではなくなった。責任を負う覚悟を決めた。いつの間にか彼女は、大人になっていた。
 一つ息を吐くと座布団を傍らに、真島は畳へ両手と額をつけた。その覚悟が敬服に値するものだからだ。――真島が想像するよりも、涼は決して弱くない。

 「吾朗さん」

 涼の声に真島は微かに視線をあげる。一度ボールペンを置いて彼女の体も此方に向いていた。
 綺麗に膝をくっつけて、指を畳につくと頭を下げた。

 「―――末永く、よろしくおねがいします」


 
 この日の出来事を、一生忘れることはないだろう。
 そして何度も、何度も思い出すだろう。
 彼女の覚悟を前に自分自身の心も革めたことを。ずっと。



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