料亭を出ると、雪が降っていた。
足元は湿っていて、風が吹くと余計に冷たくなり、素足にタイツだけを履いた涼は寒そうに震えた。待機させてあった黒い車に乗って、銀座をあとにした。横浜の一つ前の駅のロータリーで降りた。涼がどうしても歩いて帰りたいというので、それに付き合うことにした。
東京のビル風に比べて、海風こそあれどそれはまだ柔らかい。
午後四時を回って、五時手前だが陽は落ちとっぷりと暮れている。祖母の家を目指して歩いている。手を繋いで。
しばらく歩いたところで、今日を振り返って彼女は口を開いた。
「……もっと、すごいことかと思っちゃった」
「なにが」
「吾朗さんが、そんなふうに幸せにしようって、思ってくれていたなんて」
「――ああ。そら、そうやろ。……好いとる女幸せにできひんのは甲斐性ナシや」
涼は嬉しそうにくすくすと笑った。
「――もっとね、実は虎と人間の両親がいて自分は半獣だから、将来生まれてくる子は耳と尾がついてるかもしれない――って思ったもの」
「は、はあ? なんやソレ。ファンタジーすぎるやろ。それやと俺……、あー、ツッコミ追いつかへんわ……!」
「……というのは冗句で、―――やっぱり結婚をやめようって、言われるんじゃないかって思ったの」
「――――。そっちのほうが、冗談キツイわ」
まともな良識があれば、彼女との結婚は辞退するだろう。
その良識を彼女も備えていることが、より辛い。彼女は持っている良識の中で、たくさんの自傷を行っているからだ。他人からだけでなく、自分自身も傷つける。真島がその良識通りの甲斐性のない男として選んでいたら、彼女は傷ついただろう。壊れているといえど、痛みはある。
「帰ったら……おばあちゃんにも、書いてもらわないと」
「そう、やな。……届け出はいつ出すんや。もうそろそろ役所も閉まるで」
「元旦がいい。王道だけど――どんな時も、めでたいでしょう? お役所は閉まってても、受理されるって聞いたから」
「わかったわ。……書いたらいっぺん役所で見てもらう」
祖母の家が見えてきた。
玄関の入口の上の電気が灯いている。門の前に立つと、帰る家があるという喜びが湧き上がって沁みていった。
傍らにいる彼女を見下ろすと、視線に気がついてその顔と向き合う。透明な碧が霞みがかった色は灯りの色と混ざり合って、街中の華やかな色合いを醸し出している。
――ほんの軽く、唇を触れ合わせると、なにかが満たされた。
門を潜り、家の鍵をポケットから取り出す。
ドアノブの穴に差し込み回しこむだけの簡単な動作のなかで、外の世界から内側の世界へ切り替わる。肩書や武闘派の極道の顔を閉じ、家の中の『真島吾朗』に戻る。
「ただいま〜」
やや大きく帰宅の挨拶をかけると、居間から祖母の顔が覗いた。
「おかえりなさい、二人とも」と、朗らかな祖母の声が返事する。靴を脱いで、玄関を上がると出てきた祖母に手土産を渡した。
「はいこれ、お土産や」
「まあまあ! なんでしょ、これ。お寿司?」
「ヒヒ、せや。――昼に美味いとこで飯食うて来たんやけど、ばあちゃんに何もないのは寂しいいうて、そこで握ってもろたんや」
「あらぁ、粋なことをなさるのね。どうも、ありがとう。嬉しいわ」
祖母は嬉しそうに笑い、寿司の入った紙袋を受け取った。
脱いだコートを涼へ預けると洗面所へ行く。午前中に真島組で所要を片しに行った時、インフルエンザに罹ったのが二人に増えていたので予定よりも二日早めて事務所を閉めることにした。地方から出てきた者はこの機会に一度帰らせるようにしているが、今年は東京に残る者のほうが多いだろう。
手洗いうがいを済ませて居間へ戻ると、台所から小皿や飲み物などを拵えて戻ってきた祖母が「銀座に行ったでしょ」と弾んだ声で言った。
「紙袋でわかったわ。あの人、そこが行きつけだったから。東京の撮影が一段落したら、若い子をよく連れてって、帰りにあたしと息子にお土産買ってきたもの。もうやだわ、そっくりね!」
お土産を買って帰ろうと言い出したのは涼だった。似ているのは孫娘のほうだが、祖母の回顧に喜んでいる姿に本当のことを告げるのは避けた。
手洗いの終わった涼が居間のそとで「着替えてくる」といって二階へ消え、真島は自身も着替える前に電話をかけることにした。
玄関の通路にある黒電話から、嶋野組へ。
「――もしもし、真島や。親父はおるか」
電話番が回線をつなぐ。しばらくして、粗野な声が耳朶を伝った。
再度、今日のお膳立てに届け出の署名捺印のお礼を言って、二人がその紙に署名したことを告げた。書類としてはまだ埋める必要のある箇所がいくつか残っているが、完全同意が果たされたことは間違いない。
「ようわかったわ。――ワシも人の子や。お前の嫁いうことは義理の娘になる。相応に面倒看たるさかい、安心せえ」
「おおきに――、親父」
嶋野は重い声で涼を認めた。
情婦(イロ)はいても、正妻を娶っていないので実子はいない。もしかすれば内縁の妻子がいる可能性もあるが、嶋野にとって明言できる娘は初めてだろう。
その他の連絡事項を伝え終えると、嶋野との電話を切った。
早めの簡単な夕食を終えて、婚姻届を祖母に見せると待ってましたと言わんばかりの満面の笑みを浮かべた。
戸棚にある書類の収まったところから、ファイルを取り出してそれを机の上に広げた。よく見てみると、戸籍謄本の写しだった。
「ずっと、楽しみにしてたんだから。涼ちゃんの戸籍を再取得したとき、ついでに印刷してもらったのよ」
「……それは、随分待たせたのう」
涼の戸籍を再取得をしたのは新緑の時期――五月の頃だった。
そんな早くから、彼女は待ちわびていたのである。嶋野がこぼしたように、待たせすぎたようだった。すべて真島の杞憂だったのを年の瀬を間近に控えて知るとは、その当時は夢にも思わないだろう。
ゲルインクのボールペンを執ると、祖母は証人の欄の記名に臨んだ。隣に座る涼は照れくさそうにそれを見守っている。
祖母の人生における三度目の署名である。一度は、自分の頃、二度目は息子夫婦の頃である。真島のような存在との婚姻を、快く承認されることは滅多にないゆえに、密かな感動を懐いた。――誰よりも最初に、彼女への感情を見抜いていて、なおかつそれを肯定していた奇特な人である。
必要なだけの項目を書き記して、あとは真島の細かい埋め合わせと捺印だけである。
印鑑は借りている部屋のほうにあるので、明日以降になる。紙面を見渡すと壮観だ。ほとんど極道者で構成されている。荒川という姓は元ヤクザ者の祖父、その妻に、その血を受け継いだ息子、孫。そして現役のヤクザ者が二人いる。そこへ、真島の事実上の両親の名が加わるのだから。
―――まさしく『極道の血盟状』である。
実社会に効力を持つ『極道の血盟状』は古今東西どこを探してもこれだけだろう。
◇ ◇ ◇
市役所の前にある赤いポストに、ようやく書き終わった最後の年賀状の束を差し入れた。
年賀状は想像よりもずっと多くて、人脈の広さを知った。なによりも、手本として書いた真島の字があまりにも綺麗だったので見本を前に少々書き損じた。というのも若衆の頃に散々書かされて、今も下に新入りが入ってくるとその名刺を書いてやっているらしい。どこの組織も字を書かせたがるものだと涼は改めて思った。
婚姻届に不備がないように事前に真島が確認に行ってくれたため、あとは時間外受付窓口に提出するだけである。元旦のハレの日の入籍は誰しもが考えることなので、市役所の中には同じような男女の姿が複数あった。列ができていたので、その手前でもう一度最終確認を行うことにした。
「ぎょうさん、おるのぅ」
「考えることは、みんな一緒なのよ」
窓口手前にある記載台で婚姻届を広げる。
確認した真島いわく、不備はないとのことだったが念には念を入れる。彼の話だけに聞く実の両親の名前を知るのは妙な心地である。夫の欄に、真島吾朗。妻の欄に荒川涼、とあるのは嬉し恥ずかしのむず痒さがこみ上げてくるもので、受理された暁には涼は真島の姓に変わるのである。
たくさんの名前を抱えてきたが、姓が変わることは少ない。それも、愛している男の姓は特別である。
しっかり目に焼き付けて顔を上げると、隣で頬杖をついていた真島が微笑んで「もうええの?」と尋ねる。そう言われれば何か忘れていることがあるかもしれないと思えてくるのだから、もう一度紙面を凝視する。隣で彼がおもしろそうに笑った。
「もう、大丈夫よ、大丈夫……!」
「ヒヒヒ……! ほんまかいのぅ? ……ええで、気が済むまで見たらエエ」
「からかってるでしょう! ……大丈夫だもの。ほんとうに」
こんな調子では夜になってしまう。
捺印も全部ある。本籍の住所の記載ミス、漢字ミスもない。記入漏れなし。届け出の提出日は、平成六年の一月一日。もう何周目かの最終確認を行って、涼は頷いた。
「吾朗さんもしっかり見てよ」
「さきに穴あくほど見たさかい。――ええな?」
「……うん」
涼があまりにも弱々しく返事をするので、しょうがないと言わんばかりに真島はもう一度、婚姻届に目を通す。「こんなん、手汗でシワッシワになりそうやわ」と冗談を口走りながらも、真剣な眼差しをしている。見直しを終えて、再度涼に確認をとると「いいよ」と認めた。
「よっしゃ。……行こか」
「うん」
列へ並んで、窓口のところに提出する。あれほど確認した書類だが提出は一瞬だ。後日受理した旨を郵送で知らせてくれるらしい。
映画であれば特別な演出や音楽がかかるものだが、市役所を出ても平坦な日常の風景が続いていく。普段よりも静かで、すこし騒がしい気配も感じられる元旦の午前。冷え切った空気が、気持ちよく清々しい。
「昼どないする?」
「お雑煮と、おせちがあるから」
「筑前煮に黒豆、栗きんとんもいっぱい作っとったのう」
作りきれないものは買い揃えたが、それでもまもともな元旦のおせち料理は随分久しぶりである。
自然な癖で真島が涼の手に触れると「つめた」と短く発した。
「涼ちゃん、手袋忘れてきたやろ」
「……そういえば」
実は婚姻届のことで頭がいっぱいだったのは内緒である。
両手を見下ろすと、指先がほんのりと赤い。真島は黒いコートのポケットに入れていた毛糸の暖かそうな手袋の片一方を涼に渡した。
「そっちの手ェにはめとき」
男物の一回りも二回りも大きい真島の手袋はポケットの中に入っていたこともあってほんのり温かい。手袋をはんぶんこにして、彼も反対側の方の手にはめると、素手のほうを涼のむき出しの手に絡めて包みこんだ。
「あー、つめた。つめたいわ。氷触っとるみたいやわ」
「悪うございましたね」
「……ひひ、――入れとき」
繋がれた手がそのまま、コートのポケットに招かれる。張らないタイプのカイロがポケットの中にあって、とてつもなく温かい。真島の指が涼の冷え切った指先をほぐすように揉んでいる。そのうち、血流がよくなってじんわりと熱が広がっていく。
「帰ったらなにしよう」
「今日はのんびりしたらええ。明日はテレビで箱根駅伝があるやろ」
「あのただ走ってるだけの……?」
「……身も蓋もないこというたらアカンで。それがオモロイんやないか」
そのおもしろさはまだいまいち理解できていない。
ちょっと退屈なほどの日常の楽しみ方は他にもたくさんある。こんな日常を、ずっと望んでいた。
特別でなくていい、他愛のない会話の続く幸福を。
穏やかな海風と陽射しを受けながら、家路へと繋がっている坂をゆっくり、ゆっくりとのぼっていく。
1994年 1月1日
『極道の血盟状』 完