Prologue

  『Prologue』 


 2006年 1月




 ふん、ふん、ふ〜ん。

 すっきりと澄み渡る夜空には、まんまるから綺麗にくり抜かれた三日月がぽっかりと浮かんでいる。
 その下を機嫌よく、歌詞をぼかした鼻歌をうたって、ひょいひょいと身軽に歩く男が一人。酔っているわけではない。ほんとうに、ただ上機嫌に宵闇のなかを闊歩しているだけで、男は、男を待つその家族と住む家への帰路の最中であるだけなのだから。


 海風は、今日も今日とて、穏やかである。
 東京二十三区内にある、セーフティハウスとして使用している部屋からの、およそ半月ぶりの帰宅だった。


 新婚の頃。わずかな同居期間に使っていた部屋で、帰宅困難な用事の時分などに今も使っている。――実際、その日も昨年暮れに起こった『100億円事件』からの四代目会長就任――襲名披露と引退式を同時に行った後の、五代目会長就任という東城会の大混乱と波紋により日々慌ただしく働いていた。

 また、事件の最中に嶋野をはじめとした、東城会の執行幹部が立て続けに亡くなり、葬儀をはじめとした様々な後始末に忙殺され、気がつけば一月のうち、半月分もセーフティハウスとしている部屋で、一人寂しく寝起きをする羽目となった。
 十年と数年間。まだまだ浅い結婚生活の時間のなか、こんなことは滅多にない。ゆえに、男の上機嫌な理由は説明できるだろう。


 ふんふん、ふ〜ん。

 
 それは、人差し指の外側を遠心力を使って、チャリチャリと音を立てながら回転する。付属したキーホルダーは青い海色、マリンブルーのイルカを象ったなんとも愛らしいキャラクターのもので、その男の風貌からはとてもではないが、不似合いなアイテムである。じつは、愛娘が貯めたお小遣いで誕生日に買ってくれたものである。思わず面映くなるエピソードが存在するが、それはまた割愛しよう。


 結婚をする前も、してからも。潮の香りの吹く、このゆるやかな坂道を歩いている。


 変わったことといえば。


 自宅近所にある、妻が幼少期を過ごした家を取り壊し、五階建てマンションを建てた。
 横浜の一つ手前で、眺望良し、駅からはそこそこ、立地がいいため自家用車があればどこへでも行けるようなマンションは、ファミリー層からの需要が高い。賃貸用の部屋はすべて埋まっており、あまり入居の決まりにくい一階はテナントにして、パン屋と併設したカフェになっている。

 これらはすべて、彼女が暇つぶしを兼ねてはじめた事だった。
 決して共同事業などではないのだが、時折警察から疑われるときがある。
 日々の生活と、子供を養っていく収入を得るための不労所得。暮らしていくのに不自由のない貯蓄があるにも関わらずはじめたのは、ちょっとした理由があった。いっときは、それが原因で喧嘩もした。

 小遣い稼ぎだと本人は言っているが、先日ついに、スイス銀行の口座を開設したらしい。



 住み慣れた家の門を潜り、玄関前に立つ。

 同じ輪に通されいくつかの大小様々な形状と凹凸を成す鍵のうちから、一つ選び取ると慣れた手つきで、穴へと差し込み回しこんだ。カチャンと音を立てる。扉を開けると、外の世界との境界線をまたいで、スイッチが切り替わる。

 婚姻届に記したとき、二人で将来を相談しあったとき、新しい命を腕に抱いたとき。少しずつ、内側の世界の条約を形作っていった。
 十年をかけて。この人生では得難いと思っていた家庭へ入っていく。


 「たーだいま〜」


 時刻は二十二時手前。

 金曜日の夜。

 朗らかなな帰宅の報せに、リビングでのはしゃぎ声が一旦静まり返る。
 金曜日の夜はテレビで映画が放送されるとあって、夜ふかしが許されており、子どもたちは毎週楽しみにしている。靴を脱ぎ去ってリビングへ向かうと、一つの頭がソファの背もたれの陰からにゅっと生えている。一度それは、帰宅者と目があい、その『侵入者』を確認するなり声を上げた。

 「おかえり、パパ。……ねえ、きたよー!」

 その号令が何を意味するか、実はもうわかりきっているが、茶番に付き合うのが慣わしである。
 小さな『発見者』は、きょろきょろとリビングと台所の方とを見回してみて、「なんだなんだー!」と言ってみて、余興のボルテージを上げていく。長女が事前に示し合わせた通りの役を演じ終えると、きゃはきゃはと笑い転げては、本来の楽しみであったテレビの方を向き直った。


 ひょいとカウンターの向こうを覗けば、カウンターを隔てた向こうにキッチンがあり、そのあいだのスペースに隠れているものと思ったのだが、いない。では、次はリビングの方から庭だ。

 元々居間として使われていたところだが、改築してフローリングの床に変え、縁側にはウッドデッキを設え、日本家屋特有の凹凸をなだらかなバリアフリーに整えた。彼女の祖父が、息子に家を譲った際に建てた家を手放すことはしなかった。祖母が旅立ったあとに、二人で決めたことだった。

 そんな経緯を持つこの家の庭には、ちょうど遮蔽物になる植物の茂みがたくさんある。サンダルを履いて降り、探してやるがいない。

 「どこやろなぁ。ん〜?」

 ともなると、戻ってソファの影にいるかもしれない。しかし、その予想すら外れて、久しぶりに首を傾げることとなった。

 テレビの厚い液晶には、クリスマス映画で有名な映画が、なぜかシーズンを終えて時期外れに放送されている。少年の仕掛けた罠が炸裂し、泥棒たちの阿鼻叫喚が映し出されている。向こうは仕掛けがてんてこ舞いだが、こっちはまだ一つも『何も起こっていない』ことが不気味だった。

 一息をつかんとしたところ、背後から「ええーい!」と掛け声とともに飛びつかれる。その衝撃が、子供の成す腕力の想像を超えており、真島は思わず、「うおっ」と声を上げた。

 「ちょ、ちょお、痛いわ!」


 相手がなまじ丈夫な男親、という認識を持っているせいもあって、加減がない。背中に飛びついた下の年長が体全身でしがみついている。

 怪獣映画と特撮ヒーロー作品の影響で、すっかりその気分は正義の味方である。帰宅すればまず、攻撃という名の洗礼を受けることが慣例となっていた。長男はヒーローもの、長女は女子中学生が変身して戦うアニメがマイブームで、日曜日の朝になるとテレビの前がまた、やんややんやのお祭り騒ぎとなる。

 「ちょっとぉ! パパ静かにして」

 やられ役として、しっかり応えてやるのが親である。「ううぉおおお!」と断末魔を叫ぶと、背中に覆いかぶさった男の子はきゃっきゃと喜んだ。そこへ間髪入れず「ちょっと」と声が挟まった。
 ソファに座り、映画のテレビ放送に熱中している長女に、「今いいところなのに!」と厳しい声を向けられる。理不尽ながらも謝ってしまうあたりが、娘持ちの父親の甘さだろう。はきはきとしていて下の弟の面倒をみる良き姉である。舌戦ではそのうち、母親を超える日が来るかもしれない。

 戦隊ごっこもそこそこに、長男を床に下ろしてやる。ちょうどそこへ、浴室の扉が開閉する音と「パパー?」と呼ぶ、軽やかな声が響いた。長男は今度はソファに座る長女に「ズガガガ」と勢いのまま、腕を武器に見立てて攻撃を仕掛けると「やめてよ」と突き放されてしまい、半べそをかきだした。

 「うえ〜ん、パパぁ〜……!」
 「泣かされたのぅ……、おねーちゃんは怖いやっちゃ。……っしゃ、あっちいこ」

 さきほどの勢いはどこへやら。年相応なのか、姉が怖いようだった。
 助けを求めるようにして、ちっちゃなカエデのような両手を広げて父親の腿にすがった。そんな五歳の息子を軽々と抱き上げて、腕の中で泣き止むまで背中をしばらく擦っていると、風呂上がりの妻がパジャマ姿で登場した。

 「おかえり、吾朗さん。あ、また泣いちゃったの」
 「ただーいま。千縁ちゃんに構ってもらいに行こうとしたら、この通り」
 「千縁ちゃんは叩いたりしてないでしょ?」
 「ああ」

 五歳といえど、嘘を覚え始める年齢である。損得もわかるし、下の子供ゆえに気を引く上手さから、必然的に長子は叱られる回数が多くなってしまう。泣けばお姉ちゃんに責任がいく、というしたたかさを理解したうえで、妻は感情的にならず事実確認を行う機会を取り入れていた。子育てに正解はないのでしばらくはこのままでいくといっていた。父親は一番最後に叱る秘密兵器、らしい。

 「吾朗さん、お風呂入る? まだお湯あたたかいよ」
 「入る入る」
 「うん。ね、パパお風呂入るって〜。え? 一緒にはいるの? さっきお姉ちゃんと一緒に入ったでしょう。ママがご本読むからお二階いこうよ」
 
 腕の中にいる息子は丸くなって、離れたくなさそうに上着をぎゅっと掴んだが、説得を受けると渋々とうなずいた。それから日に日に体重を増やす五歳を落とさないように妻へ手渡すと、そのまま二階へ続く階段を上っていった。





 二十三時過ぎ。

 入浴を済ませてから小腹が空いたので、娘の隣で、ピーナッツの入った唐辛子味の米菓をポリポリと食べていた。映画はクライマックスを迎え、そろそろ終わるだろうというとき、二階から寝かしつけに行っていた涼が戻ってきて、小さな欠伸をしている。軽いエンドロール、次週の映画予告ときて、娘――千縁の金曜日の夜は終わる。テレビは真っ黒い液晶になり、ガラスがリビングの景色を映し出している。

 「千縁ちゃん、寝る時間よ」
 「――うん。……あ、でもまって宿題なんだけど」
 「夕方に全部終わらせたんじゃなかったっけ。今じゃなきゃだめ?」
 
 ソファの背もたれを掴んで、キッチンの方でコップ一杯分の水を飲む涼のほうを千縁は見つめている。週休二日の休みの手前で、終わらせたはずの宿題を、夜中に持ち出すのを涼は訝しんだ。千縁はソファから飛び抜けると、涼のもとへ近づいた。しかし言いにくそうに躊躇って、指を閉じたり開けたりしている。

 「えーっと、総合の時間の授業で……発表があるんだ。それがないと進まないから。あと、別の話がある」
 「うん、おいで」


 涼は千縁の肩を抱くと、リビングの外へでた。こういうとき、父親は手持ち無沙汰である。あとあと情報共有をするが、異性の子供の深い悩みに乗れるのは同性の親だけだ。両親が揃っていて特別な事情がなければ、あえて出番はない。涼は十分、母親としてよくやっている。『吾朗さんにはやることがあるから』と気にせず、抱えているものを全うしてくれと言われたものの、それはそれで家庭での居場所が無いように思えてくる。

 他の子持ちの下の組員にそんな話をすると、『それは姐さんがフツーじゃないからっすよ』と、答えになっていない解答に悩んでしまう。

 組内で、涼のあだ名は『聖人』である。習わし通りなら『姐さん』と呼ぶのが筋であるが、陰ながら『聖人さん』と、格の高い単語に敬称つきで呼ばれている。最初は宇宙人の意味合いをもつ、「星人」と同音異義語の思い違いをして、思わず手と足が出たものである。

 もっとも、本物の『聖人』であれば真島と結婚などをしているわけがないが、そう言われても遜色ないほど、彼女は常に最善を尽くす姿勢を貫いている。

 
 「終わったん?」
 「うん。……吾朗さん、ビール呑まないの? それだけじゃ寂しくなあい?」
 「呑んでもエエけど、涼ちゃん呑まへんの」
 「トイレ近くなるからなぁ、ちょっとだけ貰おうかな」

 冷蔵庫から出したビール缶一本と、グラス二つを手に涼が隣に座った。
 プシュッと勢いのいい音が弾けて、真島の手に握られたグラスへビールが注がれる。泡がこんもりと盛り上がりをみせ、溢れそうになるも絶妙に溢れない。ぷくぷくと細かな気泡が下から上っていく。

 「……おっと」
 「ふふ、お疲れ様です」
 「ヒヒ、おおきに。……カン貸してみ」
 「ありがとう」

 涼の方に三分の一ほどのかさまで注ぐと、缶にはもうわずかに残った。それをテーブルに置いて、乾杯をする。チン、とグラスのぶつかり合う高い音が鳴った。ぐっと一口で泡もろともに呑むと、塩っけのあるつまみの味に苦味が足されて、まろやかにちょうどよくなる。ちびりちびりと呑み始めた涼はちらりと真島をみて、堪えきれずに笑みをこぼした。

 「はあ、うま」
 「………ふふっ」
 「なんや、おもろそうな顔して」
 「お髭が白髭になってる」

 「白髭?」と小首を傾げてやると、笑いのツボに入ったようで、顔を赤くして笑っている。
 髭を指の腹で軽く拭えば、白い泡シュワッと弾けて消えた。

 「そない笑わんでもエエやないか。――もう酔っ払ってるん? ん?」

 空いたほうの人差し指で、柔らかな頬をちょいちょいとつっついてやると、「酔ってない」と子供のような愛くるしい反応に、真島は相好を崩す。
 ビールの二口目を流し込んだところで、遠慮なく真島を背もたれにしなだれてきて、今日は酒の量に対して酔いの回りが早いようだった。眠気も混ざっているのか、重く伏せがちな瞼とぼんやりとなりがちな瞳が、熱に浮かされた時のような表情にも思えて、意に反して体がそんな気分になりかける。

 真島は「はあ」と溜息をついた。
 酔いに浮かれた涼は、なにがおもしろいのかケラケラと笑って、熱の覚めた頃に後悔するほどのちょっかいを真島に「えい、えい」とかけている。

 「涼ちゃん、ホンマ、なんべんもいうけど外で呑んだらアカンで」
 「う〜ん、うふふ」
 「あァ?」

 ずりずりともたれていた肩から滑り落ち、こてんと腿の上へ仰向けになれば「へっへっへ」と、いつまでも上達しない真島のモノマネを披露する。そんな仕草さえも、劣情を催させることを彼女は知ってか知らずか。やけにボディタッチが多い。酒の酔いに紛れてにシグナルを送っているつもりだとしたら、大変なご褒美である。

 「寂しかったん?」
 
 まどろっこしいことを抜きに、直球で尋ねてみれば、彼女は一瞬笑みを止めたがまたくすぐったそうに、満更でもないと笑う。ビールを飲みきって、コップをこつんとテーブルの上に置くとそれが最初の合図だった。背中を丸め、膝のうえで挑発的な愛らしさを振りまく女の唇にかぶりつく。ほろい苦味も、やがて甘みに変わる。

 「シたなる」
 「だーめ」

 真島が首筋に顔を埋めると少女のようにはしゃぎ、その手でやんわりと拒んだ。仕掛けてきた側へのささやかな憎らしさ。期待を理性で圧し殺す半分、じゃれ合いがもう半分。

 「おーおー、意地悪やのぅ。今、誘っとったやろぉ?」
 「んふふふっ……! くすぐったい……っ!」

 仕返しに脇腹の下を擽ってやる。「悪い娘や」と、真島はそう言って一つ、二つと啄むようなキスをした。

 「あっちで、お仕置きせなアカンのう。ひひ。楽しみにしとくわ」

 あっち、というのは半月の間、寝るだけに帰っていたセーフティハウスの部屋のことである。
 繁忙期の間。涼が昼間のうちに来て世話してくれていたが、いつも入れ違いになっていた。平時であれば、何かと理由をつけて部屋に通い、本宅ではできない夫婦の時間を捻出していた。

 「よいしょ」と涼が身を起こすと、真島は娘のことを尋ねた。

 「……千縁ちゃん、なんて?」
 「ん?」
 「さっき喋っとったやろ」
 「うん。……課題で作文があるみたい。テーマが、『家族』で、書いていいかって」

 涼はくだけた口調で説明した。「学期末の、最後の参観日に発表するんじゃないかなぁ」と付け加えた。
 真島は「家族、か」と厳かに呟いた。小学校高学年の女の子の精神的な発達はめざましい。思うことがなければ、母親に相談することはない。テーマがそれであるだけに、真島はそれが父親の職業を含めた、他の家庭とは違う風合いであることを意識しだす頃なのだと、娘の成長を感じた。

 「悩んどるんかのう」
 「できるだけ、普通の子と同じようにやってきたつもりだけど」

 外では立派なヤクザに、良妻賢母に努める二人だが、子供の話となれば子煩悩から、うんうんと唸りだす。それは、義務教育間における集団生活の経験に、乏しいか、やんちゃの二極化したそれぞれの、『普通』とは程遠い人生経験の賜物だった。
 好奇心から『パパとママの子供の頃の話』に興味を持たれると、回答に困り果てることはしょっちゅうで、とはいっても、誤魔化すのだって時間の問題である。訳ありの山あり谷ありの経歴。娘もその辺の嗅覚が鋭い。いずれ、話し合いの機会を設ける必要があるだろう。

 「作文はとりあえず、書きたいように書いてみてって」
 「……夏休みの宿題ん時も困ったのう。日記に書くことがないいうて」
 「うーん」 

 友達は親の帰省に伴い『田舎』の祖父母の家に行ったのに、と娘は言った。隣の芝生は青く見えるもので、『よそはよそ、うちはうち』だ。理解を得たところで、また頭では理解していても。同年齢の他の子供と過ごす時間が多い時代だからこそ、比較はやめられないだろう。友達との話題に合わせられないことで、疎外感と不満が生まれる。――だいいち、親の職業がヤのつく自由業で、家には家族外の人間が度々顔を見せるのだから、気にしていないわけがない。

 「日記と作文の検閲をする家なんて、教育ママのところと、うちだけよ。ふふ」

 ほろ酔い気分で、ちびちびとビールを含む涼は目を細めた。
 教育方針は、自主性、創造性、あいさつ。まるで学校のスローガンのような三拍子が揃っている、つまりよほどのアウトローでない限り、放任主義でありたい――という意志の表れである。期待はするが、しすぎないのがモットーだ。

 子育てのブリーフィングもそこそこに、涼はずっと気がかりであっただろう組のことを口にした。

 「吾朗さんは、組の方、大丈夫そう?」
 「ぼちぼちや。……桐生チャンもエラいことやってくれたわ、ま。そこが、らしいんやけどな。ヒヒヒ……!」


 嶋野の葬儀は内々に簡易的に済ませる必要があった。桐生が四代目の椅子に座ることは、三代目の世良の遺言状によって決まっていたが、やはり組織が脆弱な状態。風間組の方とてそれは同じようで、外に漏れればクーデターが起きかねない。友好関係のある組織ならともかく、大きい組織では敵が多いからだ。

 嶋野の葬儀には涼も列席し見送った。
 その数日後、喪中明けきらぬうちに、襲名披露……だったのだが。

 「桐生さんねぇ。びっくりしちゃった」

 涼は困った顔でしみじみと頷いた。

 四代目襲名披露と引退式が同時になり、東城会は揺れている。
 桐生一馬が次に指名したのは、五代目近江連合本部長。さらにその人選も内部で混乱を生んだ。しかし、執行役大幹部の面々を一息に喪った状態で、トップが空席になるのは組織として危うく、四代目の指名だからと呑み込まざるを得ない状況である。真島はそれまで好き勝手にやってきた方だったが、嶋野がいなくなった今、嶋野組の若頭として役職を全うしなければならなかった。

 「今、一旦組を引き継いどる。気に食わん奴もおるやろうが、しゃーない。死んでもうたんや。やばい連中を街中に放り出すんも危険やからのぅ」
 「そうね」

 求心力が衰えては野に獣共を放すことになる。真島は序列上のしきたりに従い、嶋野組を継いだ。若頭が自分の組を立ち上げていないのであれば、親の名前そのままに組織が続くが、真島は組を持っている。その結果、嶋野組の構成員、及び兄貴分や弟分、そのさらに下の子分が一気に真島組に入ってきたのだ。大半が若い頃の真島と同じで、嶋野に憧れてきた者だった。  

 そうなると、どうなるか。
 大人数を吸収したことで、上納金の額が増え、組織の格が自動的に上がっていくのだ。
 
 「おかげでいーっきに、直系の幹部行きや。ダルいわぁ、ホンマ。……涼ちゃんとイチャコラできんしのぅ?」
 「もお。二人とも気づくから」
 
 真島は大袈裟に肩をすくめてみせて、隣に座る涼に甘えるように抱きついた。綿のパジャマと温かな体温、洗剤とシャンプーと石鹸のいい匂いで肺を埋め尽くす。
 
 「ふふ。よしよ〜し。お疲れさま、お疲れさまです」
 「ひひひ……!」
 「そんじゃ、歯磨きして寝よっか」

 子供たちに対する優しい母親と、妻としての労り。柔らかな抱擁と、頭を撫でる手。のしかかる責任も、やらねばならない事もその瞬間に霧散する。ゆっくりこのまま、穏やかな眠りに陥る期待。身も心もがほぐれて、ぽかぽかするような、朗らかな号令をかけて涼が笑った。

 この笑顔を見るために、家に帰ってきた。肩肘を張らず落ち着ける安息の場所へ。
 
 



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