沈痛な面持ちで吟は部屋へ戻った。
頭の中は次から次へと思索が浮かび、神経が焼き切れてしまいそうなほどの頭痛に顔を顰めた。
だが、どのように考え尽くしても、行き着く先は、吟の中にある感情だった。
冷徹に、冷静にならねばならないと戒めた。なぜならこの決定によって、彼の人生は変わる。
いままで様々な人間の末路を見送ってきた。
肉体の記憶が、精神の記憶が、人の生死を味わってきた。それは全くの他人であれ、あの島で喪った兄であれ、海の中で溺れ死んだ両親であれ。一度は心を許した人の死であれ。
真島が好意を告げてしまわなければ、長考に至らなかった。
二度と出会うこともない、今度こそ未練を断ち切ることができたはずだった。
彼は、日本で。
吟は、海の向こうで。
分別が可能だった。境界線を引くことができた。
今度こそ。今度こそ、―――他人になれた。
『好きなんや。……吟のことが』
淡く浮かんで、煙のように溶けていく。
吟の人生を変えた、『1981年7月7日』が霞む。皮肉にも、今度は人生を変える番になった。
くやしいのは、彼の方はそんなことすらも覚えていない。
隣室へつながる扉を開ける。
真島の部屋は玄関の方だけ灯りがついていた。部屋の外に行ったのかと考えていると、浴室の方から水音がした。
シャワーを浴びているようだった。
室内を見渡した。薄らぼんやりと残る朝の記憶では荒れていた部屋が、綺麗に元通りだった。どうも昨晩のことだけが綺麗さっぱりに抜け落ちている。――昼食後、睡眠薬を飲み、目覚めたあと、薬を欲しがっていた。
「ひっ!」
思い出そうとすると、恐怖が駆け抜けていった。
ぞわりと総毛立つ感触にぶるりと身が震える。誰も、そこにはいない。いないはずなのだ。
「ちがう。今は……」
頭を左右に振りかぶる。
記憶の扉は頑丈に縛りつけられている。まるでそれを恐れるかのように。今開くにはふさわしくないというように。
そう。――”今は”、ふさわしくない。
窓の外の雨と、シャワーの音だけが聞こえている。
吟は、手が震えていることに気づいた。
恐れ? 戸惑い? いいや、武者震いだ。
これから選択する行動が、どちらも成功する保証はまったくない。計算づくめのスパイ映画でもない。
たった一人で計画し、実行する。緊張の意識に支配されている。
吟はでごくりと生唾を飲み込んだ。
『重要な選択』だ。
〈私は。〉
〈その手を、離さない――。〉
〈幸せを、願っている――。〉