点けっぱなしのテレビからは、大学三大駅伝の一つとされる恒例行事、東京から箱根間を往復する駅伝の中継が行われている。熱の入った実況。寒空の下、沿道を埋め尽くす人の波。息を切らし公道を駆ける若人らを画面の向こうに、カリカリとノートを滑る筆記の音と、石油ストーブの上で蒸気をくゆらせる薬缶の音が混ざる。
課題にある数学の設問も残り一つ。前述の問題よりも発展した内容に涼は首を傾げる。積み重なった参考書をパラパラとめくって唸っていると、トントントンと階段を下りてくる足音に襖の方を見た。
「うー、さぶっ。くぁ〜。おはよ……ふあ、よう寝たわ」
寒がり、欠伸をし、挨拶をしてはまた欠伸をする。感情変化に忙しいその男は、冷えた指先をすり合わせ、ギュッと握り込んで灯油ストーブの上にかざして温めている。それからこたつへ身を潜らせてくるなり、涼の体をぎゅっと抱きしめた。
「おはよう、涼ちゃん。お勉強してんの」
「吾朗さん、おはよう」
香水も整髪料の匂いもなく、上下色の揃ったスウエット姿。癖付けしている前髪も下ろし、飾り気のないこの男は、東京の治安ワースト・トップ一位を誇る場所で、一度目をつけられたら逃れられない、泣く子も黙る、武闘派の怖いヤクザ屋さんをやっている。
そして、昨日から夫となった人である。――甘え半分、暖を取る半分。体をぴったりとくっつけて、肩口に顔を埋めている。この姿からは到底、その筋の人には見えず、片目に眼帯をつけた、ただの若い男だ。
涼とは紆余曲折があり、こうして一緒になった。
紙の上に並ぶ数式が、ただの印字の羅列に見えてきて目を擦っていると、夫はスンと鼻を鳴らした。
「三賀日くらい、勉強なんかせんで、ゆ〜っくりしたらエエのに」
「うーん」
最後の一問を残して切り上げるのも、なんだか気持ち悪いので解いてしまいたい。涼は先が擦り減ってきた鉛筆を持ち直した。
リリリリン。――と、玄関にある黒電話の呼び出し音が鳴った。
夫は、気怠そうに頭を持ち上げ、不満を募らせた。
この家の電話が鳴るのは、警察か病院か、あるいは遠く離れた親戚の安否確認の電話か。祖母が依頼しているヘルパーが基本で、年末年始にかかってくることはほとんどありえない。そうなれば、普段は『電話を入れるな』といってある、妻の家に電話を寄越さざるを得ない者たちの仕業と決まっているのだ。
「あ? 誰やねん」
夫、――真島吾朗がそこまでして不愉快になるのは、約束を反故にされそうだからだ。
正月の最初の三日間は絶対に休む、という嬉しそうな宣言を聞いた年の瀬。入籍して最初の正月。水入らずの家族団らんに胸を膨らませているのだろうと涼は思った。
「もしもーし、こちら荒川……。あ? オマエか。三賀日はかけてくるな言うたやろが。ああ? 鯛ィ? 初競りはまだやろが、あ?」
電話をとった真島は、伸びやかな応答の後、やはりそうかと低い声を出した。
『鯛』という魚の名前に、三つまで書いた途中式の続く熟考が、一気に立ち消えた。「ん?」と首を傾げていると、奥の部屋の襖が開いて祖母が現れた。
「おはよう」
「おはよう、涼ちゃん。あらら、お電話? ……もしかして、組の方?」
「たぶん。……鯛だって」
「鯛?」
二人して廊下の方へ首を伸ばすと、電話の前で腰に手を当てて、相槌を打っている真島のやりとりを観察した。
「んーいや。せやけどな、……おう」
ふと、四つの眼から放たれる熱視線に気がついたのか、真島は涼のいる此方をみた。
「一匹だけ貰うわ。あぁ、……なんでそないトコおんねん。魚屋でも始めんのか? あー。わかったわかった。……やかましい! 今から行けばエエんやな? わかった。ほな」
話の相手は、真島の持つ組の構成員だろう。そして、『鯛が手に入ったのでいらないか?』という主旨の内容で、たった今から真島は外に出ていくことが決まったようだ。受話器をカチャンと置いて、真島は口角をくいっと上げた。
「今日の晩メシは鯛や! ……っちゅうワケで、俺は鯛を貰いに卸売市場まで行ってくる」
「あらまぁ。ホント、お魚屋さんでも始めるの?」
「魚屋の奴が知り合いにおるらしくての。ささやかながら、お祝いらしいわ、入籍のな」
「あらあら」
「涼ちゃんは晩メシの鯛、どないして食べるか考えとってや。ヒヒヒ……! 宿題やで」
正月二日目にして、早速予定が崩れた真島はふうっと息をついて支度を始めた。一匹丸々の鯛を食べるのは随分久しぶりだ。玄関前で靴を履く真島に感謝の伝言を託した。
「お礼言っておいてね」
「おう。あ、せや。向こうで貰たら一旦電話かけるわ。そん時に晩メシ言うてや。ついでに他にいるやつ買うてくるさかい」
「うん。ありがとう」
黒コートに赤いマフラーを巻いた真島は、出ていこうとする足を止めて、思い出したように振り返った。
「涼ちゃん、涼ちゃん」
おもしろい遊びを見つけたような、弾みのついた声に涼は「え?」とあっけにとられた声を出した。
真島は腰を屈め、ずずいと顔を差し出して――頬にしてくれ、という合図と、今までは控えていたおっぴろげなスキンシップの要求に、うれし恥ずかし応えるべく、涼は唇を軽く触れさせたのであった。
期待が満たされたことで、真島は大層ご機嫌になり目を細めた。
「ひひっ。ほな、行ってくる」
小さく挙げた右手を振り、玄関の引き戸をガラガラと開けて出ていく背中を見送り、しばらくぼうっとしたあと、身を翻すと、ちょうど真後ろでしげしげと観察している祖母とばったりとお見合いになり、涼の体はビクッと跳ね上がった。
「おっ…ばあちゃん……!」
「あら。なぁんにも見てませんよう」
「みてた! 全部みてた!!」
頬に手を添えお淑やかに振る舞ってみせる祖母は確信犯だ。それがひどく羞恥心を煽り、涼の両頬は湯だった蛸のように赤くなっていく。
「恥ずかしがり屋さんねえ。新婚さんなんだからフツウよ〜」
「わ、わかったから。誰しもが通る道だっていうんでしょ……もう」
祖母にしては擁護のつもりだろうが、ちっともフォローになっていない。
二人っきりなら全然構わない。しかし、そこに誰かが見ている状況が落ち着かない。――自意識過剰気味だと自覚しながら、涼はその反応をみて楽しむ祖母にはっきりと嫌とは言えなかった。
「おばあちゃんの頃も、そうだったの」
「熱々よ。珍しい恋愛結婚だったもの。親とは大喧嘩よ。駆け落ちっていうのかしらね」
「か、駆け落ち……?! はじめて聞いたんだけど」
「そりゃそうよ。誰にも言ってこなかったんですもの」
さらりと明かされた真実に、涼は大いに驚いた。
真島との結婚に対して、一切申し立てせずに許した。その経緯が今になってわかった。人に歴史あり、だ。
祖母は、きゃらきゃらと笑っている。
「うふふ。帰ってきた時、次は奥にすっこんでるから安心なさいな」
「お、お気遣いなく」
「あら、また語っちゃったわ。やあねえ、もう。それじゃ、涼ちゃん。お夕飯のことでも考えましょうか」
真島から授かった宿題のことを思い出して、涼は再び唸りだした。