お汁粉と東山




 街角にある古びたタバコ屋で買ったマールボロ。フィルターを唇で挟んだとき、雑踏のなかからふっと姿を現した黒い外套の男に、青年は顔をしかめた。年始にも関わらず、築地はなんだかんだ人で大賑わいをみせている。場外市場の通りから一つ外に出た道路の一角に車を停め、ある人――当該の男を待っていた。


 「おう」
 「真島さん……! 明けましておめでとうございます!!」
 「アホ。公道でデカい声張んなや」


 男は片手を挙げ、軽い挨拶をした。
 少年より前に先にでた知り合いの男は、迷惑を考えないほどの怒声を上げ、今し方来た黒い男に注意を受ける羽目になった。

 男は――ー、背が高く、細いが身長も手伝ってか、ひ弱そうには見えない。
 面長で黒く濃くすっきりとした眉に、すっと伸びた特徴的な鉤鼻、頬骨が出ており、口には綺麗に形作られた髭。髪は短く、項から剃りこみを入れており、切りそろえた黒髪が印象的である。もっとも目を惹くのは、左目を覆う眼帯だろう。きざな男が、洒落だと思ってつけるようなそれに、少年は事前に聞いていた話から――自分をその男に会わせたいという、傍らの男が、気狂いになってしまったのではないかと疑うには十分だった。


 「えっ」
 「あ? 見てわからんか? オフじゃ。オフ。三賀日はオフや言うとったやろ。っちゅーわけで、営業終了中や!」
 「ブッ!! はっ。はいィ!?」


 まさか、諭されるとは考えていなかったのか、素っ頓狂な声をあげた。
 青年は、それはそうだろうと思った。緊急事態でもないのに、年明け早々から呼び出しているのである。年下を前に、格好をつけたいのが伝わってくる、同級生の四つ上の兄である男を、同情心から憐れむように見た。

 組長らしいその男が、軽く小突いた。小突いたように見えるが相当痛むのか、人間が出す声ではない音が鳴った。
 青年の憐憫を恥じた男は吠えるように「あとで覚えてろよ」と言った。
 

 「木崎、誰やそいつ」
 「へい。弟とようつるんどるヤツでして。ヒマならいっぺんこっち来てみねぇかって声掛けて、今慣らしの最中なんです」
 「新年早々ご苦労さんやのぉ坊主。おう、こいつ怖いか?」
 

 ――事前に聞いている話では、もう少しヤバそうなやつだと聞いていた。

 真島という男が「ニヒヒヒ」とおもしろそうに笑った。
 木崎は物言わぬが強面な表情で『怖いと言え』と圧をかけている。


 「えっ。ああ……まあまあ怖いッス」
 「マアマア? まあまあってなんじゃあ!」
 「いっっってぇ!!」


 バチンと後頭部を叩かれ、想像を絶する痛みに叫んだ。
 目の前にいる真島はおどけた態度で笑っている。


 「ひひひ……! おー。こわぁ」
 「真島さん……! やめてくださいよ! 見習ってみたんスよ!」
 「俺を見習うて、ソレかいな」
 「ヒギィ! きょ、今日はオフちゃうんですかぁ!?」

 真島はどれ手本を見せてやるとばかりに木崎の肩を持った。その悲鳴を聞いて分かる通り、見かけ以上の力が加わっているが、相当、真島に惚れ込んでいるのか拒絶の意思はみられない。

 青年はふむと納得してみる。
 そうでもなければ、定職につかず、『ヤクザの世界で修行だ』などと息巻いているわけもない。青年に対し、木崎はのっけから『男を磨いてみないか』などと、キラキラと煌くロマンを語っていた。似たような勧誘をほかで喩えるなら、宗教勧誘だ。だから一度、丁重に断ったのだが同級生との縁もあるので仕方なく、呼ばれたら行くということをやっていた。

 そして此度も、新年二日目にして、あったかいこたつから抜け出てきてやったのだ。

 木崎は特別悪人というわけではない。だが、今日のように人の事情も汲まず良かれと思ってやっている節があった。
 憧れの人と呼び慕う、目上の真島とて同じなのか、いかに家でだらだらしたかったかを説き始めた。


 「三賀日はゆ〜っくり、ゆーっっっくり! する予定やったんや! けど! お前の電話を側で聞いとって、鯛を食べたそ〜にじぃーっと見てくるから、わざわざ来たったんや!」


 心の声を代わる熱弁に、青年は心の中で深く頷いた。
 木崎の知り合い、というかその父の友人漁師が、気前よく新年の祝いだと分けてくれることになったのだ。
 真島が見かけによらず、まともな感覚を持ち合わせているようだと安心をした青年は、その男の家で鯛を待っている猫の姿を思い浮かべた。


 「いいですよね、ネコ」


 青年の実家にも二匹、猫がいる。黒猫と、サビ猫のオスたちだ。
 魚が手に入ると刺し身にして、よく食べさせた。
 軽い感傷に浸っていると、ドスの効いた低い声が真島から轟いた。
 

 「あァ?」
 「いや、ネコでも飼ってんのかなって……」
 「おい、馬鹿!!」


 青年は思わず身が竦んだ。木崎のソレとは全く段違いの、人を目で殺すような鋭い目付き。暴力を行使する本職の威嚇は凄みがある。狼狽えるあまり口から滑り落ちる言葉に、隣にいる木崎がサッと顔を青くしたのがわかった。失言、だったのだ。しかしながら、青年はこの男の内情を深く知らないので、答えに窮し俯いた。


 腰をくっと屈め、睨みつける真島は恐ろしくもニヤッと口角を上げて言った。


 「あ? 坊主、エエ度胸しとんのぉ! エエで? 気に入ったわ。言うとくけどな、うちんとこの涼ちゃんは、ネコみたいなとこもあるけど、ネコちゃう」
 「へっ……びっ!! いってえ!!!!」
 「スンマセン!! こいつにはぁ、言ってきかせますんで!」


 面食らって気の抜けた返事を零した次の瞬間、力加減も迷惑も考慮に入れない殴打が、再び後頭部を襲った。
 真島はけろりとした様子に打って変わった。身を引き、時間すらも惜しいとばかりに本題に入った。


 「ま、エエわ。それよか鯛や、鯛」


 木崎はすでに用意していた発泡スチロールの白い箱を、真島に差し出した。 

 そこでようやく木崎は、青年の耳元でこそっと「昨日入籍したばっかなんだ」と囁いた。
 事情を把握して、「ああ」と空返事をすれば後頭部にまた衝撃が走った。

 「ってえ!」
 「腑抜けたコト言ってる場合じゃねえぞ。お前、真面目に組入るんなら、その人は俺らの姐さんになるんだからよ」
 「ねえ、さん? 姐さんって、極妻みてえな?」
 「ありゃあフィクションだ」


 そりゃそうか。

 小さな納得に、青年は想像を巡らせた。なぜだか、この見てくれだが、真島は女好きのする性質に思えた。それこそ、一人の女で収まりそうもない、夜毎にとっかえひっかえ、複数の情婦に取り囲まれ、浮ついた情愛の似合いそうな雰囲気がある。だから、そういう男の選ぶ女、その男が結婚にまで至る女とは、華やかだと思う。

 そして、恐れなく言えば、気が強く、どちらかといえば我がままであり、場合によっては組員を召使いと思い違いをするような、傲慢な性格を想像した。真島はいいかもしれないが、志を持ったところで、その女に振り回されるのだけは御免だと考えた。

 「女が出張ってくんのマジだりぃ。ってーな!!」
 「口が裂けても言うんじゃねえぞ」

 ゴツンと拳骨が振る舞われる。いい加減慣れてきた衝撃に、青年は本音を滑らせる。

 「えー。あの人の嫁ってコトだろ? 相当なヤバい奴じゃ?」
 「普通だ、フツウ。今どきの大人しい女だ。……あんまし詮索すっと、またボコられるぞ」
 「へいへい」
 
 気づかれないよう、ひそひそと密談をする二人をよそに、真島は発泡スチロールの中を覗いた。
 氷水が敷き詰められた上に、鯛が丸々一匹が堂々とのっている。
 
 「おぉ、エラい立派やのう」

 嘆声をもらした真島に、木崎がそっと訊ねた。

 「塩焼きにして食べるんで?」
 「いーや、それはまだ決めとらん。もう昼過ぎやな。家に電話するわ」
 「姐さんですか」

 「せや」と肯定して、立ち上がった真島は近くの公衆電話をみた。

 「なんにして食うか任せたんや」
 「場合によっちゃ、ここで捌いてってのもできます」
 「わかった、わかった。ちぃとばかし、静かにしとれ」

 また周囲を見渡して、頷くと公衆電話の方へと歩いていった。






 「……家かぁ」


 サイドミラーに映すのは、真島の背中とその帰るべき『家』だった。
 今晩食卓に並ぶあの鯛は、刺し身となり、鍋の主役となる。もっとも青年の関心は、真島の意外性の連続であった。木崎の言葉を信用していないわけではない。だが、陶酔のあまり美化しているかもしれない。だから、実際にその通りならば木崎は実は冷静な男で、もう少し信じてみるのも悪くないと考えた。

 真島はあれから、鍋の準備がてら、営業しているスーパーに立ち寄った。木崎は良かれと思って鯛を用意したが、年明けの家庭では独り身と違い、家事休息のための「おせち」だってある。めでたいのは承知でも、やはりもう少しタイミングというものがあったのではないか。

 ――しかし、玄関先で、木崎のいった『姐さん』と思しき女が、発泡スチロールの中身を確認して喜んでいる気配に、青年はかすかに笑った。杞憂だったようだ。


 「なーに笑ってんだよ」
 「……別に」
 「な? ふつーだろ。やっぱ」
 「地味、っすねぇ……」

 木崎の評価が真だった。
 運転席に座る木崎がタバコを吸った。
 

 「だから言ったろ。フツーの人だって。俺らみてぇに遊んでる輩じゃねえ」
 「輩っていう自覚あったのか」
 「あぁん? なんか言ったか?」
 「いや。なんもねえっす……」


 具合の悪くなりそうな追求を誤魔化して、青年は木崎のほうをちらちらと見た。
 一日に何回も殴られるのは飽きてきた。木崎がふうっと息を吐くと、たちまち車内に煙が漂った。


 「去年の……春くれえになんか、ヤバいことがあったらしいって上の人たちが言ってたけど。そのあとに入ったから」
 「………」
 「まっ。お前はまず運転手目指せよ。金稼いだり喧嘩できりゃ一番だが、組織にゃ、それ以外の出世街道はある。だからよ、こっち来んなら、免許取れよ」

 ぺしっと軽く叩かれて、青年はこっそりむくれた。
 口答えも兼ねて「誘ったのは木崎さんじゃないッスか」と、責任転嫁をした。また叩かれる覚悟をしたが、仄かに柔い励ましにも似た言葉を口にした。

 「おう。誘ったのはな。でもな、入ってからはてめぇの責任よ。他にやることねぇんなら、いっぺん頑張ってみ」


 世間はバブルが弾けて、就職活動も暗礁に乗り上げた。プー太郎街道を歩いていたのを見かねて、木崎が声をかけてきたのだ。面倒を看られているというと、どうしてだか気恥ずかしい思いもあり、素直になれないが実は感謝している。
 
 そこへ、家の方へ食材を置きに行った真島が戻ってきた。
 両手にはなにやら二つの缶飲料を持っている。木崎が一旦外へ出ようとしたが、真島が制止をかけた。


 「おう。今日はおおきに。ご苦労さん。もう帰ってええで。……の前に、アッツアツのお土産や」


 窓ガラスを下げるなり、「ほいっ」という掛け声とともに熱い缶が飛んできた。
 よくみるとそれは、お汁粉だった。

 「ありがとうございます……!」
 「あざっす」
 「いらん言うたけど、どうしてもっちゅーから。……さっぶい中、そこにある自販機で買うて、ストーブの上で温めといてくれたんや」


 大仰な物言いだが、真島の向かう『家』の中にいる人の心遣い。ストーブで温めたというだけあって、自販機のものよりずっと熱いが、冷えた指先にはちょうどいい暖かさだ。外に立つ真島はよっしゃ、と手を打った。


 「ほんなら次は五日や。木崎、……と、そういやお前、名前聞いとらんかったのう。なんや自分」
 「東山っていいます」
 「おう、東山。……次会うたらビシバシいくさかい、覚悟しろや」
 「えっ。は、はい……!」


 青年、東山は瞬間的に恐れた。
 ビシバシということは、殴打込みだろう。あれほど木崎が痛がっていたのだから、強烈なビンタであるのは間違いない。……そうはいっても、木崎が面倒を看てくれている恩を仇で返すわけにもいかず、真島組の門戸を叩くことになるのは必定だった。  



 流れに乗って入門した真島組だったが、まさかそれから二十年。気がつけば幹部にまで上り詰めることになろうとは、その頃の東山青年は知る由もない。……と初老の領域に根ざした東山は思い返す。


 「まあ……まさか俺も、親父見習うて、こない関西訛りになってまうとは思わんかったんやけどな」
 「東山の兄貴も……苦労されたんですねぇ」


 黄色いドカヘルが妙に馴染んでいる西田が何度も頷いた。
 資材置き場の近くの自販機に、お汁粉が入っていたからだ。それに気を取られていたら、ちょうど休憩に入った西田に声をかけられて、よもやま話に花がさいてしまった。


 冬の時季、自販機にお汁粉が並んでいるのをみると、あの日の鯛も一緒に蘇るのだ。
 




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