『Valentine capriccio』
パ、……父は毎年この日、二月一四日になると、真っ赤な大きな花びらをつけた薔薇の花束をママにおくる。
何本あるか、ちゃんと数えたことはない。八四本まで数えたのが最高記録。途中であきてしまうからだ。
ママは嬉しそうに、大きくてお風呂にできそうな花びんに水をためて、一本一本大切に生ける。わたしが覚えている限り、幼稚園に通い始めた頃には毎年、花束を抱えて帰ってくる父と受け取るママの姿があった。
それが普通じゃないことに気づいたのは、小学校に通ってから。
その日はバレンタインデーで、友達のあっちゃんが、学校にチョコレートを持ってきて、クラスメイトの山本くんに手渡したことで学級会が開かれてしまった。
『学校に不必要なものを持ってきてはいけません』といって、先生がHRであっちゃんをやり玉にあげた。山本くんは他の男子にからかわれていたし、みんなの前に叱られて、あっちゃんは気まずそうだった。
学級会が終わった放課後、わたしはびっくりした。
あっちゃんをなぐさめて一緒に帰っているとき、みてしまった。校舎の影でクラスメイトの他の女子が、山本くんにチョコレートをわたしていたのだ。
あっちゃんはわんわん声を上げて泣きだしてしまった。
わたしはあっちゃんの背中をさすって、またなぐさめることにした。
「あっちゃん、顔がハレててかわいそう。ねえ、うちにおいでよ」
「うー……。すん」
「あっ。バレンタインだから、ママのチョコあまってるかも! 一緒にたべよ?」
「いいの? チョコって女の子から男の子にわたすものなんだよ? 千縁ちゃんのパパのチョコなのにいいの?」
「大丈夫。毎年食べてるもん……パ、お父さんだって怒らないし」
バレンタインの日のおやつは、とびきり甘い。
スーパーで売っているチョコレートとはなにか違う。ママは毎年チョコレートの味を変える。ジャムを入れたり、ちょっぴり洋酒漬けしたフルーツが入っていたりするときがある。お酒入りは、大人のチョコレートだからわたしはおあずけにされちゃったけど。父、……お父さんがこっそり、味の感想を教えてくれた。
今年はいったいどんな味なんだろう。
わくわくしていた。おいしくて、どきどきのチョコレート。あっちゃんも食べたらきっと、悲しい気持ちが飛んでいっちゃうよ。
家の玄関に入ったしゅんかん、チョコレートのいい匂いがした。わたしとあっちゃんは顔を見合わせた。声を出して笑って、ただいまのあいさつをした。
「ママーただいまあ。あっちゃん連れてきたぁ」
「えー? あっちゃんきたの? いらっしゃい、あっちゃん。うがいして手洗っておいで〜」
「はぁい」
ママの温かい声はいつも安心する。
あっちゃんも、隣のクラスにいるリコちゃんも『千縁ちゃんのママは優しくていいなあ』って言う。ちょっぴり嬉しくて誇らしい気持ちになるのは悪くない。もちろんダメダメなところも知ってるけど、まあいっかとなる。
目元がうさぎみたいに赤くなっているあっちゃんがかわいそうに思えて、私は一足先に手洗いをおえてママに近寄った。
「あ、ねえママ。あっちゃん顔洗っていい?」
「どうしたの?」
「目が赤くて、泣いちゃって」
「待って。お水はやめて氷で冷やそっか。あっちゃん呼んできて」
あっちゃんは恥ずかしそうにリビングに入った。
ママはにっこり笑って「ランドセル置いて、一緒にチョコ食べよっか」と言ってくれた。涙の理由を話さなくてもいいと分かったあっちゃんは、安心したみたい。
「千縁ちゃん、冷蔵庫見てみて。チョコあるよ。今年はコーンフレークを使って、ザクザク食感のクランチチョコにしてみました。あっ、パパにはまだ内緒にしてね」
はあい。
返事をして、わたしは冷蔵庫を開けた。ママの言う通り、中にチョコレートの入ったトレイが二つ並んでいる。
「ママ、チョコいい感じだよ」
「右手の方にあるトレー出して、お皿に盛り付けて。……ね、あっちゃん紅茶飲めるよね。桃とりんごどっちが好き?」
「ももです」
紅茶にはたくさん、ふれえばあがある。もちろん、いい匂いがする。
「桃ね。千縁ちゃんはどうしよっか。りんご?」
「んー……あっちゃんと同じやつ!」
「はーい」
ママは戸棚から、きれいな絵の入ったポットとカップとお皿を出して机に並べた。いつも飲むときに使っているカップと違う。特別な日にしか出さないのを知っている。それだけで、わくわくのボルテージはマックスだ。
「そうだ。そろそろ起こさなきゃ。……お湯沸かしてるから、コンロの周りうろうろしないでね」
四さいになる弟を起こしにママは階段を登っていった。お昼寝はほんのちょっとうらやましかったりする。給食終わりの授業はあくびが出ちゃう。わたしは、保冷剤をくるんだタオルで、目のまわりを冷やしていたあっちゃんに声をかけた。
「あっちゃん落ちついた?」
「うん。ありがとう千縁ちゃん。さっきより大丈夫になった」
あっちゃんは笑った。
ママが弟を抱っこして二階から戻ってきた。おしゃべりで走り回るのが大好きな弟は、電池が切れたみたいに動かないで、まだうとうとと半分夢の中。動物図かんで見た、コアラみたいにママにしがみついている。
「ごめんねぇ。今いれるね。……宿題あるなら出していいよ。あとで見てあげる」
「あっちゃん。漢字ドリルからする?」
「ワークプリントからするー」
宿題の前半が終わる頃、ママが号令をかけた。
お茶の準備ができて、いよいよお待ちかね。チョコレートを食べる時間がやってきたからだ。
あっちゃんと声をそろえて「いただきます」と手を合わせた。大きな飴玉くらいの大きさのチョコは白いのと黒いのと二種類あった。ザクザクチョコレートはその名前のまま、ザクザクといい音がした。チョコレートと、甘いキャラメルナッツ、フレークのざらざらとした舌ざわり。最後に塩っけが追いかけてくる、甘いものたちの運動会が口の中で始まっている。
「おいしい〜」
ほっぺたが落ちるくらいおいしい。
あっちゃんも「おいしい」って。だけど、山本くんにわたしたチョコレートを思い出しちゃったのか、ぽつりと「食べてくれたかな」とこぼした。山本くんは人気者の男の子。わたしにはあっちゃんみたいに山本くんをいいと思う気持ちも、勇気もない。
「きっと食べてくれてるよ」
「ちょっと不安。自分で味見したけど、こんなふうにおいしくないと思うから」
「大丈夫。ぜーったい。ぜーったい美味しいから! 気持ちを伝えられるってすごいんだよ。もし不味いなんて言ったらコテンパンにしちゃう」
あっちゃんは目をまんまるに丸めて、それから笑った。
楽しい時間はあっという間に過ぎてしまうのが、いつもさびしい。時計の短いのが五をさして長いほうが天井をむいている。外は暗い青色で寒い。おまけに、友達と長く遊べないから冬はあんまり好きじゃない。
「あっちゃん。あっちゃん。外暗くなってきたよ」
「え、もう〜? はやい」
「外真っ暗になっちゃうと危ないから。……あっちゃんのママに電話入れていい?」
ママがあっちゃんのママに電話をかけていると、玄関のドアが開いた。
ガサガサと大きいな音をたてて、ふんわりと花の匂いがする。毎年恒例のお花の時間がやってきた。お父さんはネズミ色のつながった作業着を着て、両手は軍手。ピンク色の薄いフィルムをまいた、大きな大きな花束をかかえている。
きっと玄関の靴の数をみてわかったのか、すぐにあっちゃんに気がついた。
「ただいまァ〜。おっ、あっちゃんやんか! いらっしゃい。元気か?」
「げんきです」
「外暗いやろ。おっちゃん送ってったるけど、どないする?」
「え、えぇっと……」
あっちゃんがちょっぴり怖がりなことを知っている。
わたしは「ついてくよ」と言った。
お父さんを見た人は、怖がっている人のほうが多い。目も一個しかないし、髭も生えているし、体も大きいからびっくりするんだと思う。だけど、とびっきり優しいのを知っている。ママが毎年欠かさずチョコレートを作るのだって、お父さんが大好きだから。
リビングから出てきたママは声を高くして喜んだ。
「あら早い。わあ! おっきいお花! 今年もすごい量ね」
「……ひひひひ! 農園の方のおっちゃんも今年のはエエって言うとったわ! はい涼ちゃん」
「ありがとう〜! うれしい〜!」
ずっしりと重そうな花束がママの腕をうめつくす。
よくよく見れば、薔薇の一本一本すべてがきれいなわけじゃない。お父さんは前に『これは、おすそ分けなんや』と言っていた。わたしのとなりで立ち尽くすあっちゃんは、やっぱり驚きをかくせないみたいだった。
「毎年こんなかんじ?」
「うん。いつもそう」
「すご〜い。何本あるの?」
興味しんしんのあっちゃんは、つま先立ちをして薔薇の海を見わたした。
得意顔のお父さんは茶化すようにいった。
「ひひ! 数えてみいひんの?」
「お、お父さん。時間ないから! 送ってってくれるんでしょ」
「あ、そうだ。あっちゃんもうちょっとだけ待っててもらっていい?」
流れで「うん」と答えてしまったあっちゃんはソワソワしだした。
奥のリビングでママは、花束から何本かぬいて、それをくるくるくる……っと。テーブルにあったラッピング用のフィルムとリボンを巻きつけた。
「お待ち遠さま。はい、おすそわけ」
「えっ! いいの!」
あっちゃんは、嬉しさのあまり、うさぎみたいにぴょんと飛び跳ねた。
「どうぞどうぞ。持って帰ってあっちゃんママに花瓶にいけて、って言ってね」
「わあ、ありがとう!」
あっちゃんは、送っていく車の中でも貰ったばかりの花束を嬉しそうにながめていた。
わたしも嬉しくなった。両親の毎年恒例のおくり合いが、だれかを笑顔にするだなんて考えたことがなかった。
「いいなぁ。わたしも、お花をくれる人と結婚したい」
「えっ。結婚? あっちゃん早い。……結婚っていつになったらできるんだっけ」
「十六さい」
運転席でその話を聞いていたお父さんが、けらけらと笑い出した。
「ヒヒッ。あっちゃん、よう知ってんのう! おませさんやな〜。好きな子おるん?」
「う、うん。……チョコをね、つくってね。わたしたの」
「おお! めっちゃすごいやん! 絶対、喜んどるで〜!」
あっちゃんは、照れ笑いを浮かべた。
わたしは家の前まであっちゃんを送った。
また明日も学校で会える。山本くんにはこっそり感想を聞いておこうと思った。
「バレンタインってチョコレートをおくるだけかとおもったけど、ちがうんだね」
「うん」
「ありがと。なんで泣いちゃったのかわかんないくらい、嬉しかった」
あっちゃんのその言葉をきいて、胸の中がじんわりと温かくなった。
ばいばい、と手をふりかけたとき、最後にあっちゃんは「そういえば」と言った。
「千縁ちゃんのパパって変わってるけど、すごいよね。いつもは何してるの?」
パ。……お父さんは、日によってお洋服が違う。
ジャージの日。真っ黒のシワひとつないパリッとしたスーツの日。どこで買ったのか売っていたのか、不思議な絵が入った服の日。黒い着物に袴を履いている日とたくさんある。
そして今日みたいな日は、汚れても良いような作業着をきている。
「うーんと。………きょうは……お花屋さんかも」
あっちゃんは「なにそれ〜」と笑った。