四章『極夜の匣』@

 四章 『極夜の匣』


 
 夢を見ないという夢を見る。

 眠っている間だけが束の間の幸福はどこからか滴る水音によって次第に覚醒を促される。
 鼻につくのは水っぽさのある土の匂い。さあさあと雨が降っている。濃密な闇の中でも、外界の世界の音や香りは、石壁を隔てた向こうに感じられる。正確には地上、だが。

 ここは地下だ。窓もなければ光もない。狭い空間。低い天井。朝でも昼でも夜でも暗い。常に泥の中で眠っているような感覚に囚われている。
 ふと自分の腕を伸ばして手を握ったり開いたりをさせ、頬を拭うとあの少年の太陽の匂いがした。

 「……ええにおい」

 嶋野がやってきて、身体を暴かれて、インの接吻を受けたところまでは覚えている。あの後体中が燃え上がり、そのあとどうなったのか。
 身を清められズボンも履いているので、きっとインが世話してくれたのだろう。どういうわけか体中から石鹸の香りがする。

 すこしずつ、すこしずつ、毒を飲まされているような、騙されているのに心地いいと思う。日の当たらない極夜の世界で、真島は体も心も慣れていくのだった。
 
 ジャラジャラジャラ。

 廊下の奥から鍵の束が鳴る。呼応するように獣の咆哮が、少年を呼ぶ。
 鍵を持っているのはインだけのようだった。もう一人いる瘦身の男の名前は知らないが、あの男はどうも力業でこなすタイプのようで、時折容赦なく『仕置き』をしている。独房の左と右にも拷問受刑者が入っていることがその男の仕事でわかった。


 「なぁ、聞こえるか」

 ぼんやりと天井を眺めていると、どこからか掠れた男の低い声が耳に入る。真島はきょろきょろと暗闇を見渡す。石壁を手で探って「ここだよ、いや、わかんねぇなら返事しろ」と声の主は言った。真島はつとめて外へ聞こえないようにそっと「聞こえてる」と返事した。
 それに一安心したのか、男は息を吐いた。

 「俺はあんたの、右側の部屋にいる。へへっ、まさか壁の穴が空けられるなんてよ。案外ここはザルなのかもしれねぇな」
 「……あんた、何の用だ」
 「何の用も、ねぇだろ。閉じ込められた者同士、仲良くなったって何が悪い」


 男の話ではたまたまこの部屋と右隣りの部屋を隔てる壁に穴が開いていて、喋れるかどうか試しただけ、だそうだ。
 この『穴倉』は道を外した極道が最後に入れられる場所なのだから、きっと男も同業者だ。しかし真島は何をしでかしたか等は問わなかった。野暮というものだ。

 「しっかし、おっかねえ場所だよな、ここは。…あの細い男は特におっかねえ。噂には聞いてたが大した腕だぜ、『蠅の王様』ってやつは」
 「随分、おしゃべり……やな、あんた」


 連日拷問を受けているはずなのに、男はぺらぺらと弾むように喋った。そして真島は『蠅の王様』という言葉に引っかかった。嶋野はインを『蠅の王』と言っていたはずだ。
 妙なもやもやに真島はあまり話したくないが口を開く。

 「なぁ、『蠅の王』っちゅうのは、二人おるんか?」
 「二人? 冗談きついな、兄ちゃん。ここの穴倉で一番手酷い仕置きをしてる。拷問の王様とか色々言われてる。とにかくおっかねえ。舌もナニもすっこ抜くっていうしよ、これじゃあエンコ詰めてカタギになったほうがずうっとマシさ」
 「ほお…」

 嶋野が閻魔より怖い、と言っていたことは間違いではないらしい。
 おしゃべり男は「それに引きかえ」と続ける。

 「あの小せえガキは甘っちょろいよなぁ」
 「……」

 真島は閉口した。どう答えていいかわからなかった。意識のない受刑者たちをを支える力はあっても暴力を振るうには向かないだろう。まともにやり合えば真島のほうが強い自信がある。…しかし心理掌握術に関して言えば痩躯の男よりは長けているはずだ。

 「飯に風呂、歯だって磨いてくれる。母親かっての。いんや、おいらの母親はそんなことしなかったけどな」
 「……あぁ」

 この男にも、インは世話を焼いているのか。焼いているのだろう。食事部屋に連れていき、手ずから食べさせてもらい、湿気た浴室に連れていき全身を隅から隅まで洗ってもらい、清潔なタオルで拭かれる。独房に戻れば歯を磨いてくれる。この穴倉にどれだけの拷問受刑者がいるのか真島にはわからないが、毎日、毎日、汚い男たちの世話をしているのだ。『優しい』と揶揄される彼がなぜこの世界にいるのか、ちっとも想像つかない。

 それ以上に、真島の胸の中にとぐろを巻くのは『嫉妬』で、それはまるで背中に背負う鬼女のようだった。
 支配されている、と気づいている。インの恐ろしいところはこれだ。
 どんな拷問も生きて過ぎれば過去になるが、執着を持つということはずっと心の中に感情を飼い続けるということに他ならない。


 「あのガキが『蠅の王』だって言うんなら目が腐ってるよ。どうみてもそんなタマじゃねえ」
 「なあ」
 「あん——?」
 「あんたは、あのガキの名前知らへんのか」

 男ははあ、といって考え込んだ。「お前さん、妙なやつだねぇ」とおどけて言う。
 「知ってて、だから、どうだってんだ? 穴倉にいる限り、どいつもこいつも性根は一緒なんだからよ。名前を気にしてちゃあ務まんないね」

 それは、至極まっとうなセリフだ。
 真島でも自分自身の言ったことに、可笑しくなった。そうだ、おかしくなっているのだ。もう、自分は、狂い始めている。
 彼の名前を知っていることに、この男に対して『優越感』を、覚えているのだから。壁があってよかったと真島は思った。きっと今の自分は笑っているはずだ。この世界に似つかわしくないほどに。

 インはたしかに際立って暴力をしない。真島が比較的おとなしいから、制裁を課さないだけとはいえ、この男の話から察するに『仕置き』をしたところで手ぬるい程度なのだろう。

 すでに歯牙にかかっているのだ。甘い毒を食らっていることに気づいていないだけなのだ。
 真島の思考を醒ますように、ジャラジャラジャラという鍵束の音が近づいてくる。壁越しの男は「おっと、生きてたら、また今度な」と言って静かになった。

 インが入ったのは隣の部屋のようだった。慣れた静寂が戻り、真島はまた天井を見上げた。起きていると余計なことばかり考えてしまう。
 瞼を閉じると、冴島の顔が浮かんだ。

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