波音が聞こえる。
わずかに寝入っていた意識はふっと浮き上がり、宿屋の廊下の柱に肩をぶつけて「ああ、そうか」と誰に向けるわけでもない声を出す。
板張りの長い廊下は暗い。各部屋から、かすかに漏れ出る光がぼんやりと見え、刹那のとき、『ここはどこだろう』と意識を巡らせているうちに、外の海の音が思考を断ち切ってしまう。
ここから、港がよく見える。
港口からのびる大通りは特に明るく活気があり、舟歌や民謡がどこからか風に乗って聴こえてくる。人々の熱気と、離島という風土。朝から晩までのんびりと過ぎる饗宴。現実離れした不夜城の世界。そこは、さながら桃源郷だった。
時刻は二三時。
巡回ならびに巡視の、仕事の合間だった。
「吟さん、ただいまぁ〜」
店の方から戻ってきた女達が、階段を上がって部屋へ帰っていく。
煙草とアルコールのにおいは嗅ぎ慣れたものだったが、女達からは仄かな性の香りがした。
彼女たちは借金をカタに春を売り、暴力団の資金へ供している。
そのなかには男に騙されて身売りされた娘もいた。環境に順応できる娘はともかく仕事に積極的で、景気が良いことも手伝い一晩で儲けを出す。しかし、体が丈夫でない娘は悲惨だった。――その世界で、涼は春を売る女達の世話をしていた。
売春は、すくなくとも屈辱的な仕事だった。
その感覚は、日本にはないが、斡旋する側の仕事としてはやるものではない。最低な仕事の一つだった。たとえば、刑務所があるとする。性犯罪者はヒエラルキーの最底辺だ。どんな悪人にも、誇りや愛する心や人が残っているからだろう。――という御託だ。
その『悪人たち』が御託を並べながらも、女を売って生きているという矛盾がある。
人身売買をし高額な身請け金を貰い、さらに彼女たちが肉体労働によって売り上げた金をさらに差し引いて懐に収める。業腹な商売である。
売春の中でももっとも、下劣な仕事。王汀州は、殺人と売春の二択を与え、涼は下劣な仕事を選んだ。
しっかり働く女達のなかには、まるで自由意志でそうなったと信じる者もいる。実際は自分を騙しているだけで、――実際、彼女たちの給与を計算すれば明らかだった。売上の殆どは手元に行き渡らず、相場の三分の一に減った給与に喜んでいる。
それが世の中での若い女の肉体の価値で金である、と言われているようだった。
そういうとき良心に従って、……涼は、帳簿を書き換えていた。
とはいえ、あまりに額が大きいと怪しまれるため、端数を切り落としその金を隠匿し、人数に足りぬ分は懐から補填した。
微々たる金額だが、女達は喜んでいた。
なかには、最初からその額を渡してくれと言う者もあった。だが、彼女たちに真実を打ち明けることは許されない。
帳簿改ざんが明るみに出れば、命はない。
騙し、搾取する。悪辣を強いる労働。
王の嗜虐に満ちた懲罰は、目論見通り涼の身も心も蝕んでいった。
なによりささくれ立つのは、男に抱かれた経験のない涼が、女たちの面倒を看ることだった。一度でもその経験があれば、もう少し寄り添って、気を配ってやれただろう。同時に、一人、また一人と身体を壊していく同年代の娘をみると、いつか自分も最後には身体を売り捌くほかない未来を垣間見たものだった。
暗渠の世界で、蹂躙され、嬲り殺されたほうが幸せだったかもしれない。
――そうならなかったのは、この頃の涼はまだ一神教との縁を切れないでいたからだ。その清い身は神と、正しく夫となる者にしか与えてはならない。
婚前交渉を固く禁じる戒律を守らねばならない土壌が前身にあったことで、涼にとって島の生活は針のむしろだった。
「……ひっ、……く、う……っ、うう……」
今日も、誰かのすすり泣きが聞こえる。
それを耳にするたびに、涼は己の無力さを呪った。
拷問も行えず、人を殺せず、同じ女の面倒も満足に看きれない。明朝の光を目にするたび、悔しくて、叫びたくて、海へ身を投げ出したくなる。
「吟さん。……大丈夫ですか?」
薄暗い廊下に突っ立っている涼に、一人の女がそっと声をかけた。年齢は涼よりも五つほど上で明るい性格をしていた。吟がオーバーワークの際に手伝ってくれる。この宿で働いている娘のなかでは、もっとも頼りにされていた。
「え、はい。大丈夫。……どうかした」
「あー。えっと、ヨウコちゃんがナプキン欲しがってたんで医務室いったんですけど。なくって」
「……わかりました。彼女は、トイレ?」
吟の仕事はもっぱら経理と彼女たちの世話だった。
ときには揉め事を起こす客との間に入って取りなすこともあるが、見張り役を兼ねる中国人の男たちに任せたほうがうまく行った。
「はい。あぁ、いただけるなら私が持っていくんでお願いします」
女は唇を柔らかく持ち上げて笑った。
涼は一階に降りて買い出しに向かうべく、裏口から出ようとした。呼び止めたのは、別な女だった。パタパタと駆けてくると吟の華奢な体に飛びついた。さきほどのすすり泣きの張本人のようだった。
涼が困惑していると、通りかかった女が事情を説明した。
「吟さぁん……」
「この娘、一昨日からだったんだけど。今日来たお客さん……? に、色々言われたんだって。ああ、もう泣かない、よしよし。それで……」
わんわんと泣き始めた女は年の頃が一八と聞いている。どうしてこの島に来てしまったのか事情を訊ねたとき、ホストへのツケが嵩んでいると言っていた。そこから口八丁手八丁で運悪くこんな場所へ流されてきてしまったのだろう。涼は、そのホストクラブがヤクザと手を組んでいるのだろうとカラクリを察しているが、どうしても真相を口にする気にはなれなかった。
「吟さん!」
「ごめんなさい、待っていて」
「うわぁん……!」
泣き縋る女の向こうで新たに顔を出した女は、切羽詰まっているのか大きく息を弾ませていた。
謝りながら引き剥がすと、緊急の仕事の対応に向かった。
店の方の建物に入ると、一人の泥酔客が暴れていた。
身なりの雰囲気からして島の人間ではない。その日は週末に差し掛かる金曜日。島外から団体客が押し寄せてくる日で、そこから数日間はかき入れ時となる。貴重な最初の金曜日の営業に厄介な客がいると、みすみす他の客を逃してしまうだろう。涼は顔を強張らせると、そっと踏み込んだ。
「大変申し訳ございませんお客様。……恐縮でございますが、お引き取り願います」
「おぉお? やんのかぁ、ネーちゃんよお!」
男は涼を見下ろすと、見かけで判断したのか態度を大きくした。
島外の店であれば、外までなんとか腰を低く保って追い返すだろうがともかく時間が惜しい。
「……从这里滚出去」
出ていけ、そう口にするとどこからともなく男たちが出てきて、客の両腕を抱え店の裏口から外へ突き飛ばした。
はじめは駄犬のようにギャンギャンと吠えていたが、やがて大人しくなった。
灯台の光がくるりと回る。
週末とあって島は最高潮に賑やかだ。今日の最終便が到着すると、雑多で幸福な男たちが降りてくる。
島唯一の薬局まで自転車で漕ぎ着けて、衛生品とついでに不足しがちな備品を思い出した。レジで会計を済ませると、涼はそういえばと首を捻った。
閉店間際の近所にある食堂に立ち寄ると、店主に明日の朝食人数を記したメモを手渡す。明日の朝食のオーダーである。それを終えて、外のおつかいが完了した。吟が任されている仕事は、表向きは宿の形態をとっている売春宿である。宿であるからには、宿泊し長時間滞在を目的とする。朝食というのは朝までの意味合いがあり、抜き打ちの摘発に耐えうるよう、食事は島にある食堂屋にいつも任せていた。
「ごくろうさん」
「よろしくお願いします」
この島が栄えるよりも前から存在する食堂の店主は三代目。日焼けをした浅黒い肌、がっしりとした筋肉。白髪交じりの初老の男だった。
およそ栄えている事情を知っているが、黙認している。島に住んでいる住民の生活を下支えしている観光業の一端を担っているので、当然快く、吟のいる宿の朝食も請け負ってくれている。快活な店主は、しばしば吟との交流を望んだ。
「あんた、中国人なんだって? 意外だなぁ。真面目で礼儀正しいやつがいるもんだって、みんなが言ってるよ」
「……そうですか。恐縮です」
答えに窮して尻すぼみになった。
涼が涼である確固たる証書も根拠も、この世界にはどこにもない。今の涼は吟という名前を与えられた中国人だった。
食堂の主人との世間話もそこそこに切り上げた。
明日への準備が出来上がったらば、次は宿に戻って生理品を渡し、泣いている娘をなだめなくてはならない。
急いで宿へ帰ると裏口の前に、薄手の羽織を引っ掛けた一人の女が立っていた。
涼の帰宅を認めると「涼」と呼んだ。
彼女は吟の本名を知る存在の一人だった。他人の懐に飛び込むのが得意な性質で、他愛のない会話を続けているうちに、ふと本当の自分を明かすことができた得難い友人のような人だった。
しかし、今は仕事中である。
外で呼ぶといらぬ詮索を働かせる者たちがいる。
「……あまり大きな声で呼ばないで」
「ごめんごめん。今日は大賑わいね。お疲れ様」
「……うん。ありがとう」
「熱下がったよ」
彼女の報告に胸を撫で下ろした。
涼の様子を察して、彼女はやや申し訳無さそうに俯いた。
「ねえ、本当に……ありがとうね。働いてないのに面倒みてもらっちゃって」
「気にしないで」
「……やっぱり、ダメそう?」
「わからない。……他にも可能性があると思うけど……」
彼女は病人だった。
見立てでは感染症。梅毒だった。発疹やしこりなどの症状が見受けられた。今は熱が続いていて、当然仕事をさせるわけにはいかない状態だった。本州であれば、そのまま辞めてもらい病院に行かせるだろうが、ここではそうはいかない。
彼女は家庭の窮する金銭状況から、はじめはキャバクラで働いていた。そして例のごとく、この島に流れてきてしまった事由を持つ。
ともかく島の医療設備では精密検査を受けられない。暫定、梅毒の症状だろうが、涼の勘では、それ以外にも併発している何かがあるのではないかと考えていた。
「ごめんね。ほんとうに。私だけ外に出るなんてズルだわ」
「……気を強く持って」
「ホント、ばかみたい。あんなやつの、口車になんか乗せられちゃって。ほんとうに、どうしようもない大馬鹿者よ……大人しく、キャバとかにしとけば……今頃……」
自分への恨み節を言って、彼女はまた謝った。
このとき。吟に、涼に、何ができただろう。
一刻も早く島外の病院へ連れていけるのならそうするが、リスクは大きい。
まず、船頭に袖の下を渡し、往復を手伝わせることも考えた。
半日以上の行動は彼女の体調を悪化させかねない。病院へ移ったとして、高額な医療費の請求に際して逃れられる手段がない。この島へ来る際に、彼女を連れ出したヤクザに健康保険証を奪われたと言っていた。奪われた身分証は彼らのシノギになるのは明らかだった。
あるいはいっそ、告発することも考えた。
だが、ふたりとも、証拠がなかった。
かろうじて彼女には行方不明届けが出ている可能性はある。救いの光はあるとはいえ、ギャンブルだ。
吟のほうに後ろ盾はなく、証明を信じて貰える自信もなく、もしあの男たちにバレてしまえば、即刻あの暗渠へ連れ戻されるだろう。そうなれば、ここにいる女達はどうなるか。――前任者はある日、買い物に行くといって帰ってこなかった。女達はそう証言した。
失踪したのはその者だけではない。働いていた病人の娘も、頭の弱い娘も、障害を持つ娘も『島の外へ行くことになった』といって消えたそうだ。事実であれば構わないが、実際は違う予感から、女達の間では『解雇』という名の『口減らし』である暗黙の了解だった。
使用者であり管理者という立場柄でありながら、涼とていつ、『解雇』されるかわからないのだ。
――いずれこの島で死んでいく。この島でなくとも、別のどこかで、藻屑になって洗われていくのだろう。そう思っていた。
秋めくある日、彼女は、骨だけになった。
彼女がいた形跡を無に還し、証拠を隠滅せねばならなかった。
進行の早い病と最期まで闘った四畳半の片隅から、一通の遺書が見つかった。綺麗な字で綴られた遺言、彼女の証を目に入れることすら涼は辛かった。
無心を装い、ひたすら働いた。
しかしふと、閉塞感と絶望が織り交ぜになって押し寄せてくる。
日々薄い膜のような意識に守られているが、浮き上がってきては痛みが呼び覚まされる。虚ろに沈み込む暇もなく、涼を呼び止める者がいた。
「吟さん、時間いいですか……、実は」
悲しみに暮れるには、涼の身は忙しかった。
病によって労働を免除されていた女の死。落伍者の女への弔いも許さないというように、その日も、次の日も、明後日も、明々後日も。ひたすら仕事が続いていくだけだ。
施術台の上に横たわる女を見下ろす。
そこに麻酔の効果で眠る女が、まるで自分の死体のように思えた。
女は、妊娠検査薬で陽性となり、自ら堕胎を望んだ。このように施すことは始めてではなく、島にきてから両手で数えられるほどの数をこなしていた。一人でも堕胎する執刀者がいると知れば、他の宿で預かられている女からの要望もあった、
彼女たちにとって子供は重要ではなく、働いて島から出ることのほうが最優先事項だったのだ。
「……先生、このことは……また、どうか内密にお願いします」
マスク越しに目の前にいる診療所の主への進言に、その男は同じく手術着を纏い、目を伏せた。
島で唯一の診療所で、内科・呼吸器内科の医師は諭すように言った。
「吟さん、あんたわかってるね? いい加減、島から出りゃいいんだ。なあ……俺だって取次いでやる。……あんたが引き受けると、収集がつかなくなる。立場があるのは、わかってるさ。働いてる女達のおかげで飯が食えてることもわかる。けどな……。………医者は融通がきく。交渉だってしてやるさ。だから、これっきりにしてくれないか」
医師の言い分もよくわかった。
けれど、そうすることで――あぶれて、落伍者になる女を作ってしまう。十月十日を待ち、出産し、産褥期を待ち、子育てをしながら仕事に復帰する時間の間は稼げない。損益を考えれば、女達も身軽になることを選ぶ。
「あなたに、恐ろしさがわかりますか。……島に出るのはきっと簡単です。思ったよりも。ですが、きっと連れ戻される。……先生のほうがよくおわかりになるはずです」
医師は、やりきれない気持ちをそのままにため息をついた。
「口止め料をあとでお支払いします。……承諾していただけるなら、麻酔をお願いします」
「……俺もとんだ藪医者だ。あんた素人なのに手際がいいな。……はじめて解剖した時、ああ、俺には外科は向いてないって思ったくらいだ」
「先生」
「すまんな。喋りすぎだ」
医師は指示通り、麻酔器の調整に取り掛かった。
合図を受け取ってから、アルコールを含ませた脱脂綿をピンセットで摘んだ。青いドレープ越しに覗く、印のついた下腹部のうえを滑らせた。
「はじめますね」
「……ああ」
赤い命の塊。
未完成のまま引きずり出され、死を名付けられようとしている。
決して生まれてくることの許されない運命の生暖かさを、ゴム手袋越しに感じる。
産声を上げる口も、親の指を強く握り返す手も、世界を見渡す眼もなく。されど、わずかに弱々しく脈打ち、血を巡らせ、母から切り離されたことで、もうすぐ消えていく浅い意識がたしかにそこにある。
「……ごめんね」
ぽろりと唇から溢れ落ちたのは、贖罪だったのだろうか。
「ごめん、ね」
もう一度、呼びかける。
手の内に収まった命の最初で最後に得たこの世で得た言葉を。その母親がかけるべき祝福も、謝罪も重ねて告げる。
そうして、命は潰えた。
透明のどこか見えない世界へ旅立って、赤い塊になってしまった。膿盆の上にそっと置けば、食肉加工の、牛だとか豚だとか鳥が白いまな板の上で処理されたあとみたいに、血潮の海から打ち上げられた、ただの死肉になってしまった。
止血をし、皮膚を縫合し、適切な処置を終えて、涼は縺れるように静かに項垂れた。
秋深まる日暮れの浜辺。
波が泡をたて、寄せては引いてを繰り返している。
弔うことはいつの間にか、慣例になっていた。
すっかり冷たくなった肌の上を、一筋の涙が伝い落ちた。それは滾る血のような涙だった。……それとも茜色の落日の色だっただろうか。
「う、うぅっ……」
声を出せば震えていた。
人の心が残っている安堵と哀しみと、この上ない深い深い絶望が慟哭となった。
いっそ、人ではない化け物に成り果ててしまえば。気狂いにでも成り果てたほうが幸せだろうに。
いつまで、人でいなければいけないのか。
「っうう……うぅっ、うう……うぅぅ……!」
泣くには短い時間だった。涙が乾けば、感情を黙殺し次の仕事をしなければならない。……せめて、今だけは弔いを許してほしい。
わずかな暇が終わる、星が瞬き始める前に。
静かな夢の終わり。
涼は、泣いていた。
しばしばこの夢を見る。現実はすっかり穏やかに移ろいだ今も、罪悪感が持て余す悪夢をみている。
そんな涼を包み込む、人肌のぬくもりが規則正しく揺れていた。
瞼を閉じ眉間の力を失った表情は、幼い子どものようにあどけない。すうすうと寝息をたてて離さぬと言わんばかりに体はぴったりとくっついている。どんな肩書きも今はない、隣に眠る幸せそうな男。――どんな時も傍にいて、危機が瀕すれば助けにきてくれる。世界で一番の味方。それが、どれだけの幸福を授けてくれるか、彼の自覚は薄いだろう。
何度も何度も『夢だった』と言い聞かせる。
『幸せになる』と決めたのだ。いつまでも過去に囚われ続けることはない。
「……いいのかな」
ぽろりと零れる一抹の不安。
夢をみるきっかけを涼は自覚していた。
夢とはいわば、心理的欲求の具現化だ。もしくは、記憶の断片が作り上げる亜空間。その景色は色濃く、彼女の不安と軋轢を映し出していた。
子供を得る幸福を願いながら、自分が親になっても構わないものかと、密かに涼は葛藤していた。
懸念に関しては、まったく真島の言うとおりだった。
年の瀬間際。嶋野太との会食後の席での問答は、ほとんど理性的な対話とはいえなかった。半ば、涼の押し切りに真島が譲った形だ。不安がないのは嘘ではないが、幸せになるには必要な暗示だった。
それでも半ば強情で押し通した意思表明に訂正はない。いくら憎まれても、不幸を想像したところで始まらない。
二人で追い求める幸せもあっていい。それでいて、明確な形。確固たる意味や責任や存在が欲しかった。減り続けた幸せの秤を重くする糧を欲していた。
けれど、夢はその本質を詳らかに表す。
「……贖罪」
命を奪いすぎた。
その取り返しを、償いのために望んでもいいのか。
精神科の担当医である早見は、幸せを肯定してくれた。
定期検診のとき彼女は一つの提案を、涼に行った。
『あぁ、そうだ。気分転換に旅行もいいかもしれません』
『旅行、ですか……?』
ごく当たり前に、『お昼はご飯にするか、パンにするか』のような軽やかさで言った。
逡巡の答えを待たずして、早見は緩やかに続けた。
『新婚旅行は考えましたか』
『……行ってもいいでしょうか』
『もちろんです。……外出が怖いですか』
『外出は、平気です。長時間の旅行となると、祖母が家に一人っきりですから。……ですが、やっぱりそれが怖いのかも』
過去を振り返れば様々なことがあった。
ほとんど事件性の高いものばかりで、あの組織が今も解散していないことが懸念材料だ。あの兄弟の死を証明するものが不確かだからだ。真島が組織した組を始めとする暴力団組織が身近な盾役として機能を果たすのか。警察とて、信じきれない節がある。拘置所にいた王を逃した事実は、内部にとって揉み消したいスキャンダルだ。
とはいえ、涼には何もできない。
脅威的な兄弟が目の前にいなくなっても、こうして不自由な人生を送る、歯がゆさともどかしさ。思考を煮詰めていくと、幸せになりたい欲求が現実に打ちのめされて、負けてしまいそうになる。
『そうですね』
『いない間に、なにかあったらって考えて……』
早見も同じことを考えただろう。
原因を取り除くか、ストレスから離れることが快復への近道だ。
『そう、ですね。では、一日だけ始めてみるのはどうでしょう』
『一日だけ』
『そうです。一日だけ。デートから始めてみるのも悪くないと思います。お祖母様のアクシデントの対策も考えれば安心かと』
『……はい』
もっとも現実的な提案だった。
早見は『ぜひ、ご家族の方と相談されてみてください』と笑顔で言った。
『一日デート? お泊まりするの? いいじゃないの〜。ぜひいってらっしゃいな』
家に持ち帰った提案に、あれこれいうまでもなく賛成したのは祖母だった。
『お、おばあちゃん。……いいの?』
『いいのって、先生がそうおっしゃったんでしょう? ずうっとお家にいても退屈でしょ?』
いろいろなことに気を揉んでいる涼とは大違いだ。気持ちが良いほどあっけらかんと笑うので、思わず意地を張り、『そんなことはないわ』と、ムッと意に反した物言いをしてしまう。
『そう? あぁ、でも……入籍しただけでしょう? 水入らず。二人っきりもいいと思うわ』
『…………』
人生経験豊富な祖母からすれば、入籍は序の口だ。スタートの号砲が鳴ったばかりである。
もぎ取ったみかんの一切れ口へ放り込んだところで、玄関の戸がガラガラと音をたてた。
『ただいまぁ』
真島の帰宅の報せが反響する。
涼はこたつから抜け出ると、台所のテーブルにある夕食にかかっていたフードカバーを外した。献立はきのこの入ったクリームシチュー、ほうれん草のおひたし、鮭の塩焼き。お昼に残った炒飯である。テーブルに着いた真島に向けて、今しがた決まった計画を祖母が先に口にした。
『おかえりなさい、吾朗さん。ねっ、涼ちゃんとデートいってらっしゃいな』
『お、おお。なんや急に。そら、ええが……。涼ちゃん、どっか行きたいとこあるかのう』
『き、急に言われても』
行き先を考える時間などいくらでもあった。
真島が涼の意見を優先するだろうことも、予見済みだった。だが、したいことは思いつくが行きたいところはない。世俗に疎く、外に対する欲の無さが答えを難解にさせた。
『遊園地はどうかしら』
『遊園地……?』
祖母の助け舟をきいて脳裏に思い浮かんだ光景は、子供がはしゃぐ姿だった。
『遊園地、だなんて。……子供が行きそうなところ』
『そうかしら? ええと、ほら千葉にある東京のお名前のついたところ。あそこなら大人でも行くんでしょ。テレビでさっきみたでしょ!』
『……う、あれね』
米国生まれの黒いマウスがメインキャラクターのテーマパーク。
涼の預かり知らぬうちに誕生した娯楽施設。もちろん知っているはずもなく、そこへ行きたい欲はおろか、行って楽しめるものなのか――と、想像をするだけで馴染めない予感と、行った気になってしまう奇妙な満足感があった。
反応が薄い涼に、次はどうかと祖母が嬉々として提案をする。
『それじゃ、あれよデートカー』
『デート・カー? カーって車?』
『そうよ。ドライブデートなんてどうかしら』
また流行語の類いか。首を傾げていると、箸で鮭の身をほぐしていた真島が口を挟んだ。
『ばあちゃん、デートカーっちゅう言い方はちぃと古いのう』
『何言ってるの、ほんのちょっと前よ。ホントよ涼ちゃん』
『ひひ。……そら、ばあちゃんの行きたいデートプランやな!』
「ふふふ、バレちゃった」といって祖母は大げさに笑った。
おそらくドライブのことだが、デートカーの真実を何も理解できぬまま話は進んでいく。さらなる思いつきに祖母が「あっ」と声をあげて手を叩いた。
『スキーよ。スキー。映画もあったわ。『私をスキーに連れてって』、流行ったわねぇ!』
龍宮城に行っていた浦島太郎の心持ちとは、きっとこのことだ。
ちんぷんかんぷんである。ただ、スキー場を舞台にした映画なのだろうという推測しか働かない。雪山の登山といえば、玉龍雪山に連れ出された記憶がうっすら残っている。なぜそこへ行ったのか殆ど覚えがないので大した記憶ではないのだろう。
『どうや?』
真島が再び尋ねる。消去法でドライブを選んだ。
『ドライブがいい』
『よっしゃ。任しとき』
『うふふ。決まってよかった。それじゃあ、おばあちゃんはお風呂に入ってくるわ。仲良くねえ』
よいしょ、と立ち上がって祖母は自分の部屋へ引き下がった。
『ね、吾朗さん。……おばあちゃんのことなんだけど』
気取られぬように少し待って、涼は懸念を伝えた。
真島も気にかけていた様子で、あらかじめ考えていたのか決断は早かった。
『せやのう。……ほんなら当日はうちのモン呼んどいたらエエやろ』
『うちのって、組の人? いいの? 大丈夫?』
『エエねん、エエねん。使い時っちゅうもんや。事務所で腐らせとってもしゃあないやろ』
『う、うん』
公私混同。権利濫用ではないか。この際、文句を呑み込んだ。
いろいろな局面でお世話になっている身の上で今更だった。
『九日に行って十日に帰ってくる。……エエやないか。せっかく涼ちゃんの誕生日やしのう』
『ん……あっ! ほんとだ』
『なんでやねん! 忘れとったんかい』
壁にかかったカレンダーをみてようやく気づいた。
真島はわかりやすく肩を落とした。彼なりに企てがあったのかもしれない、と思うと申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
『ご、ごめんなさい』
『謝らんでええ。せや、なんか欲しいもん考えてや。何でもええで?』
誕生日のない日々はもう終わった。にもかかわらず慣れない。平々凡々な年明けの十日目。西洋占星術では山羊座の女である。
とっさに謝れば、温かい声にそっと包まれる。テーブル越しに見る真島はニッと笑った。
『なんでも……?』
『おう。……ひひひ。今すぐっちゅうわけやない。また、聞くわ』
『……うん。ありがとう』
なんでも。
四文字にある、無限の選択肢の海へと漕ぎ出す。
なにを提案したところで、真島は否定も拒絶もしないだろう。
潮の香りがする。
重い頭をあげると、ボーッと重い汽笛がこだましては、いつの間にか波音に掻き消されていく。
週末の最後の船が行ってしまった。
「吟さん」
「……どうかした」
廊下に立ち尽くす涼に女が声をかけた。
「さっき、タツオがきて。ほら、志藤組の……ヤクザなんだけど。……そいつがサナエにまたひどいこと言って」
「…………」
「吟さんに来てほしいって。あとタツオを出禁にしてくれって。……あの吟さん? 聞いてます?」
視界に映るものが不鮮明だ。ものが二重にして見える。
疲労が溜まっているのだろう。
「……ええ。わかった。サナエさんの様子見ておくから。今日はおやすみ」
「お願い」
頭がくらくらする。
今はいったい、いつだろう。なぜだか、ぼんやりとそう思う理由がわからない。
「仕事、しなきゃ……」
サナエの様子を見に行かなければ。それから、明日の朝食の注文にはまだ間に合うはずだ。
女たちから聞いて、不足備品を確認し、今月の帳簿作成の作業の続きをしなければ。……それから、ブローカーから身請けの依頼が来ている。その対応をしなくては。次の娘を部屋に入れる準備もある。明日の朝の精算後に金庫のチェック、今月の売上の納金作業が――――。
どこかで、なにかがひしゃげる声を聞いた。
「―――え」
廊下の突き当りにある窓の外は、不気味なほど濃い闇にべったりと覆われている。美しい星の囁きも、白波の海模様も、船の明かりもない。まるで陸から遠く離れた絶海の孤島のような静けさが横たわっている。
「おぎゃあ、……ほぎゃあぁ……」
いくつか並んだ部屋のどこからか、赤子の鳴き声が床板を這っている。
回らない頭が、どうして赤子がここにいるのだろう、と疑う。
「ねえ、誰か、赤ちゃん部屋に入れてるの?」
誰でもない誰かに尋ねる。
部屋からひょっこりと貌を出した、顔のない女の声が笑いながら答える。
「赤ちゃん? うちに赤ん坊なんていませんよ。どうして?」
「え? えっと」
「あ、そうよ。野良猫だわ。最近外にある箱で子猫がいたって、ミツヨちゃんが言ってた! きっとそれじゃない?」
「……そ、そう」
子猫。
子猫がいるなら、親猫の繁殖期の鳴き声だろうか。
もし、猫でないのだとすれば気のせいだろう。
「吟さん。……明日の朝食の追加、いいですかぁ?」
「おんぎゃああ!」
顔のない女たちが集まってくる。
どうして、誰もおかしいと思わないのだろう。
涼はもう一度、確認する。顔のない女たちは、口がないのに喋った。
「聞こえない?」
「聞こえないって? なにがです?」
「その、ほら、赤ちゃんよ。赤ちゃんがいるの」
「赤ちゃん? 吟さん、大丈夫ですか。……疲れてるんですよ。あ、ミカが手術のお礼言ってましたよ。楽になったって」
とうとう困惑する。
だって、きこえるのだ。
涼は首を傾げる。頭ではもちろん理解している。この宿にいる女は皆、成熟を待たずして命の芽を刈り取ってしまう。けれど、どこからか嬰児の叫びが聴こえてくる。
では、どこから?
「オマエダケが、幸セニナルノカ?」
しゃがれた、ひしゃげた声だった。押しつぶされて苦しそうにしている。
その音の震源地が思いの外近く、しかも繋がっている。涼はふと足元を見下ろした。暗がりの廊下、部屋から漏れ出る明かりから、何やら水溜りができていることがわかる。よくよく目を凝らせば、その色は赤く、水溜りの中央には拳ほどの大きさの塊がある。
「――あ、あ、……そんな」
赤い塊はぬるぬるとした表面の膜を引きずり、涼を見上げている。そしてそれは、きっと『笑った』のだ。悍しいと思うが、己の体を介して生まれ出た『子供』を拒絶できまい。
「ま、ま……」
目も鼻も口もなければ指もない塊。血潮に覆われた肉塊の生命が涼を『ママ』と呼ぶ。そうして、揺らぐ意識のなか、求心欲求の叫声にどうにかこの我が子をあやしてやらねばと両手を差し出す。
不思議な感覚だった。
生まれ落ちてはならぬものであるはずが、それが自分の一部であり育んできたものであるなら、もはや恐怖ではない。
「あ、いして、よ、まま……」
手の内側にある肉塊は生暖かく、脈打っている。生きている。この生命を大切にしよう。もう、喪うのは辛くて敵わない。
「う、……あぁ、朝」
締め切ったカーテンの切れ間から見える外は暗い。
朝刊が投函された音、走り去っていくバイクのエンジン音が通り過ぎ、オレンジ色の常夜灯によってぼんやり浮かび上がる天井の模様を見つめていた。
傍らには、すうすうと心地よく寝息をたてる夫。
時々、その快い眠りを羨ましいと感じる。この布団で共に眠るようになって、入籍をしてから八日が過ぎたけれど、それらしいことは一切ない。愛情を確認し合うのは唇までで、その先は名残惜しく途切れる。
『涼ちゃんが、もうちょっと元気になってからや』
真島は際のところで理性を奮って、辛そうにその言葉を告げる。
涼もその通りだと納得して終わる。真島はとても愛情深い人だ。だから拒んでいる。これ以上の不幸にならないように、然るべき時が来るまで、境界線を守ってくれている。
しかし、その度に思うのは、一体いつになったら元気になるのか、だった。
体も、心も治していかなくてはならない。そうでなければ、いつか子供を授かったときに耐えきれないだろう。されども、なにか不足したままだ。けれど、幸せを希求している。切望している。
幸せとは、一つしかない。
同時に。
祖母のいる家族団らんを壊したくないと、心のどこかで避けていた。
彼もきっとそれを感じている。その次に、涼の葛藤だ。このような悪夢ばかりをみてしまうほどの、欲求と理性の矛盾が途方もなく渦巻いている。