藍華蓮の王



 日本の迎賓館といえる五つ星ホテル三十階のスイートルーム。
 モダンなデザインの絨毯の上には、服、空いたワインの瓶、玩具にぬいぐるみ、重要そうな書類と封筒が、足の踏み場もないほどに散らかっている。そんな部屋をまさか、中国組織『藍華蓮』の『拷問王』と言わしめる男たちの私室と化しているなど誰が想像できよう。真島はこの荒れた巣窟を『子供部屋』と称することにした。



 「お久しぶりですね、真島吾朗」


 部屋の張り出した窓の向こうは遠くに銀座の夜景が望める。設えられたロッキングチェアを揺らし、黒い中国服の男はカップに入ったお茶を啜った。部屋へ入ったときの独特な香りはこのお茶が発生源だった。

 王汀州。地界の主である男と地上で顔を合わせるのは不思議な感覚に陥った。弟の王泰然はソファの方に腰掛けて、テーブルの上の籠に盛られた菓子に手を伸ばしている。彼らは年の頃は真島よりも一回り上にみえるが、事前に伝え聞いていることといい、実際に目の当たりにした態度といい、『子供部屋』といい――。

 実態は子供なのかもしれないと思うと、ライオンの檻の中に放り込まれたかのような気持ちでいた真島の強い恐怖心も、緩やかに収まるというものである。この男たちに対する怯えを知らないわけがない。王汀州は悠然に微笑んで、返事をしない真島にむかって更に言葉を続けた。


 「例の話、お伝え下さり感謝申し上げます。おかげで、よい仕事ができました」
 「……ああ」


 例の話というのは『穴倉』を出る際の交換条件のことだった。
 『赤い波止場の竜』という隠語を嶋野へと申し付けるというもので、あの時は間接的だったが、約束を果たした。

 「奇妙ですか。母国語で話せばよかろう、と? そうでしょう。これは心遣いのつもりです。我々があなた方にわからないよう話すことは、なにも、会話でなくとも構わないのですから」

 そういえば確かにこの二人は終始、日本語だった。エン・ジーハオもそうだが、たった一人紛れ込んでいる真島のためだけに日本語を話す必要はない。ニヒルな中国人男――王汀州は、茶器の蓋を持ち茶碗の縁を撫でるような所作を二度繰り返した。それになんの意味が込められているかは知れないが、そこにいる弟と二人だけの沈黙の会話であることはわかる。



 「どうぞ、貴方も堅苦しい服を脱ぎ、くつろいでください。――じき、食事の時間です。一度部屋に戻りますか? それも結構。――あなたが考えていることを当てましょうか。この部屋を逃げ出すのではないか――とんでもない。我々は疲れている。毎夜、毎夜と連れ回され好きでもない飯にくだらない余興に付き合わされてきたのです。あの男が音を上げ退散するように仕向けた矢先、今度はあなたが来た。そんなところです」



 真島は素直に驚いた。
 よく喋る男だろうと思っていたが、それ以上の饒舌っぷりを披露し、その本音を包み隠さず打ち明けている。仮にこれが偽りだったとして、真島に嘘をつくメリットはない。嶋野とは相性が悪いだけで、仕事では上手くいった経歴がある。真島が呼ばれる理由はもう、すでに無いように思えた。
 嶋野が『なにもしなければ』上手くいくのを、焦って状況をかき回しているだけの可能性がある。


 「確認させてくれ。――今後の提携に問題はないんやな?」
 「提携? 歩を共にする意味であれば、少し異なる。――我々は、日本から退き中央アジア・中東へいく。戦争をするための武器を売りさばき、人を流す。そのほうが金になるからだ。あなた方は我々から武器や薬を買う。しかしそんなものは頭打ちだ。この国は戦争をしないからな」



 臆することなく王汀州はいう。要約すると、彼らにとっての利益が薄いから撤退する、シンプルな答えだった。
 しかしそれでは一つ疑問が残る。利益が薄いことは始めからわかっていそうなものだ。嶋野と組む以外に強いメリットがあって日本にいた、ということだが真島にその追求するにあたって切るカードがない。


 「老大(ロウダ)が西へ行けといえば西へいき、東へ行けといえば東へいく。――我々とてあなたと同じだ。組織のなかの働きアリ。それだけだ」


 王汀州は品よく笑ってみせた。
 口にしていることの道理は通っている。もっと殺人狂や、暴漢だと思っていたが、エン・ジーハオが頭を下げ付き従う人間というあたり、そういった意味で、優秀な部下に恵まれた組織の長なのかもしれない。敵に回せば恐ろしい相手。だが立場変われば、強力な存在だと真島は思った。嶋野がしぶとく食らいつきたくなる相手としては十分立派だ。

 「七日の猶予が残っとる。俺は仕事させてもらわなアカン」
 「それはあなた方の都合だ。――まあ、よいでしょう。免じて差し上げます。日本も見納めでしょうから、散歩の案内くらいは任せます。あとは部屋の中で菓子と茶がつまめれば文句はない。無論、我々がここで何をし、口にしても口外するな。貴様は案山子だ。それが条件だ」
 「ああ――わかった」



 ギイ、ギイとロッキングチェアが軋む。
 真島は冷酷な男が実はふつうの人間なのではないか、という錯覚をも起こしかけた。『穴倉』での王汀州は彼にとって必要な仕事をこなしていたに過ぎないのであれば、今から真島が取り掛かろうとしている心意気にも同じなことだった。『許し』などはあり得ないが、この男にも立場があったのではないか。甘い詮索に、この男が自分と同じ血の通った人間であると見出したかったのかもしれない。

 その時、出払っていた護衛人。エン・ジーハオが部屋の扉をノックした。
 真島は王汀州から視線を外すと玄関へと向かった。
 
 



 ルームサービスで届いたレストランのディナーはホテルのグレードと風格にふさわしく、上質で美味というには差し支えのない味をしていた。
 意外な発見として、彼らには食事中の沈黙を守る規則でもあるのか、終始無言だった。もしくは王汀州もいったように、真島の知り得ないところで会話をしているのだろう。散らかった『子供部屋』の中央のテーブルに、数名の男たちが黙々とステーキを頬張る絵面は、異色であり奇妙なものだ。この男たちが人前で飲み食いをする、ということすらも不思議な風合いがした。

 食事というのは無防備な瞬間であり、それだけで生まれや育ちや、持っている性格などが垣間見える。二人の兄弟には偏食がないようで、付け合せのパセリも何もかもを口に運んで皿の上を綺麗にした。会話らしい会話はないが「明日は魚を食おう」と王汀州が言ったきりで、そこには皿とナイフとフォークの立てる冷たい音、肉を噛む咀嚼音だけの空間になる。

 真島はなんとなしに、嶋野はこの沈黙を嫌ったのではないかということだった。彼らたち同士の会話がもう少しあればいいが、黙々と料理を機械的に食べていく姿はもてなす側としては面白みがない。中国人だが中国人臭さというのは薄い、どちらかといえば外国映画に登場する貴族のような食べ方だった。


 「まるでフランス貴族や」
 「――俺たちとこのゴミの山を抜けば、貴族の部屋さ」


 おどけたつもりが、王汀州はその冗句に乗った。
 そのニヒルな返しはフランスというよりも、イギリス貴族ではないだろうか。ただ、フランスといったのが幸いか王汀州はこの静謐な空間の疑問の答えを告げた。


 「我々がまだ『青幇』だった頃の名残だ。フランス租界に出入りし有力な資産家からの金を吸うには必要なマナーだった。あなた方が我々を粗野で野蛮な民族の末裔と思っているのは結構だ。実際、我々の生まれは貧しい農村で、学はない。だが、付け焼き刃であっても相手を欺くには、それらしい振る舞いがある。我々の首領が、我々に教えたことだ」


 この男には、考えていることが筒抜けなのではないか。それともそのような印象を持つように、仕組んでいるのではないか、ともかく相手の心象を読み取る力に、想像力に長けていた。王汀州はまた流暢に日本語を操った。

 聞けば聞くほどこの男はまっとうなことを言っていて、流儀すらも持ち合わせているようで、自分に与えた壮絶な暴力など白昼夢だったかのようだった。こうしているとただの、組織の中の上役に、若くして就いた優秀な男にしか見えないのだ。王汀州はにやっと笑うと「ちょうどいい機会だ」と言った。


 「同じ飯を食べた者同士。昨日の敵は今日の友だ。真島、お前の話をしろ。嶋野よりはまっとうそうだ。あいつは結局金だ。金は手段ということを忘れている。親が親なら、子も同じか知りたい」
 「――あいにく、あんたらほどの崇高なもんは持ち合わせとらへんわ」
 「日本人はすぐ謙遜を使う。それは自分が弱いことを教え、相手を慢心させる。そして互いを間違ったように捉え、不幸を生む」


 王汀州は、食事の役目を終えたフォークとナイフを、重ねて皿に対して斜めに置いた。ソースの一滴も残さぬようにかき集める王泰然を横目に、さきほど備え付けの冷蔵庫の中から取り出したペットボトルの水を、グラスに注ぎ飲み干した。真向かいに座る真島の半分に減った水を眺めると、ペットボトルを手前のグラスに傾けた。少し離れたところでエン・ジーハオがフットレストを椅子に代えて腰掛けゆっくりと肉を齧っている。
 真島の代わりに語る者はいない。

 謙遜だというが嘘ではない。巨大な野望を懐き、世界を掌握し、なにかを成し遂げる英雄のような、理想が真島にはない。その時々に過不足なく衣食住に足り、強きをくじき弱きを助ける義理さえ忘れず、愉快に楽しく生きていけるだけの心の豊かさ、腕の強さがあればいい。


 「取るに足るを知る――かのう」
 「足るを知る者は富む、強めて行う者は志有り。老子だな。いい心がけだ」


 決して奇を衒ったわけではないが、王汀州の気に召したみたいだった。
 また、この男に褒められるということが、不思議な気分にさせた。言葉らしい言葉を、会話らしい会話を成立させている。水が上から下に流れるほど当たり前のことに、奇妙な感動を得ている。


 「一つ聞いてええか」
 「今は気分がいい」
 「なんで、日本に来たんや。――組織がデカいんやったら、わざわざこないチンケな国相手にせんでもエエやないか」


 王汀州はグラスに口をつけたまま、くすりと笑った。
 「いい質問だ」といって椅子に凭れた。衣擦れと、ソファに深く沈み込む音が軋むように鳴り、跳ね返るように起き上がると口を切った。


 「動物的実験――というやつだ」
 「――動物?」
 「我々はある研究をしていた。いや、出資者がいて、提供者がいて、私達は実行者だった。――なあ、真島。無人島に行くとしたら、何を持っていく?」
 「それは万国共通のネタなんか」
 「持っていくものはなんでもいい。この質問に正解などない。我々は、『獣』を生み出す実験をしていた」


 
 『獣』とはまた、フィクションの小説の題材になりそうなキーワードだ。真島は彼らが冗句で言っていると思った。食後の余談、これから七日間の接待における挨拶代わりの小咄。SF小説のような他人の物語。


 「ある一人の女の話をしよう。ある日、女は島に漂流した。女は子供で、か弱く、また言葉が通じなかった。身よりもなく、自分のこともなにも話さない。わかっていることは、女の祖国だけで――帰りたいとも言わない。男たちは匿った。そして思いついた。――そいつに『獣』の作法を教えてやろうと」
 

 王泰然は肩をすくめながら「獣とはいうが、愛玩ダロ」といいながらクツクツと笑った。
 真島にはいささか抽象的な話だった。彼らの中では共通の話題らしいが、それが喩え話の領域のものか、実際の話なのか判別がつかないからだ。この男たちの仕事が、自分の経験にないかなり違法性の高いものということだけが知れる。

 「世界には戦争が満ちている。人が人を殺し合う。資源や領土や信教によって、毎日血が流れている。――女たちが命がけで産んだ命はたった一つ、弾が急所に入っただけで死ぬ。戦争がなくとも人は死ぬが、我々はその戦争を有利に進めるための道具を作っていた。それが『獣』だ」


 獣になる条件は、痛みに鈍く、血を好み、また相手を油断させる力があることだった。
 どう見ても女子供が自分を殺すなどと、力に自信のある戦場の兵士たちは思わない。王汀州はその子供を使って殺人兵器を作成し、戦争犯罪に加担し、その利益で一つの国を作ろうと、画策していることを打ち明けた。矛盾だらけの、途方のない夢物語である。既存社会ではなく、新しい自分の国を作る。まるで子供が七夕に書く願い事のような、無理難題を描こうとしている。

 くだらない、馬鹿らしいと切り捨てるには難しいほど、王汀州の目は真剣だった。


 「だが、想定外のことが起きた。『獣計画』はどうやら失敗に終わる。兵士を作ろうとしたら、そいつは金の卵だった」
 「金の、卵」


 ぽつりと溢れた復唱は軽快なノックによって遮られる。エン・ジーハオが玄関へ行き、一人の女を通した。
 身長は女にしては一七〇センチ近くの高身長で、白いブラウスに黒いタイトスカート、小さな女物のバッグと高級ブランドの紙袋がいくつか。堅い職に就くOLのような出で立ち。まるで、たった今外から戻ってきたかのようだった。女は激流のように、早い中国語を喋った。部屋にいる真島を見つけると軽く礼をとり「はじめまして」と日本語を発した。


 「エン・クゥシン、といいます。私の妻です」


 エン・ジーハオがそう紹介した女も随分若い。
 もしや王汀州の喩え話の金の卵とは、彼女のことだろうかと眺めてしまう。それにしては『護衛人』という役職は不似合いな気がする。「どうも」と頭を下げ、にこやかに女は笑うと、また怒った機関銃のように中国語が飛び出す。早い音の流れのなかで、唯一何度も登場する音を拾うと、『シャオジエ』といっている。エン・ジーハオは「ははは」と軽く笑い、王泰然は食べ終わって自分用に茶を淹れている。

 二言三言、エン・ジーハオがいうとエン・クゥシンは手を振って部屋を出ていった。


 「すみません、真島さん。ちょっとした業務連絡ですから。彼女は外回りの仕事が終わって気が立っているんです。お二方が動けば目立ちますので」
 「ああ、いや――そない詳しゅう教えてくれんでもエエんやけど」
 「はは。嶋野様は色々聞いて回られましたので」

 エン・ジーハオの物言いは、嶋野組との契約外に、他組織との連携があることを示している。他組織といえど、それが日本の組織である保証はない。この組織にとって、日本はもはや旨味のないものと言い切っているのは、すなわち、日本組織外との提携の話ではないかと推測するのが正しかった。王汀州が、嘘をついていなければの話である。

 
前へ  140 次へ
List午前四時の異邦人