エスケープゴート


  ◇ ◇ ◇



 たとえば、ギラギラと光り輝くミラーボールの反射。
 原色のタイトなドレスに、真っ赤なリップに豊満な肉体を持つ美女。減らないグラスの酒。


 たとえば、畳の上の芸姑による伝統的な舞踊。
 静寂と、少量に盛られた芸術性の高い日本料理。退屈な沈黙と減らない辛い日本酒。





 大量のテキストにサインの載った紙も、それに覆い尽くされたモダンな木机も、果てしなく気分を塞ぐには憂鬱な仕事だった。
 欠伸を噛み殺すと腹が空腹の音をあげる。ガラスで作製された置き時計は深夜の時刻を示している。ロッキングチェアから降りると、その動きの行き場が丸テーブルへ振動を伝え、読んでいた南米、南アジア、東南アジア各諸国の折り重なるいくつもの契約書と、それを解読するための言語辞書たちが、ばさりと絨毯の上へと散らかった。

 隣の部屋で快眠を貪る男たちはきっと、『契約書など、どれも一緒だ』と言うだろう。案外そうでもないと、こちらに不利な条件を呑まされることになっては遅い。そうして仕事に精を出すと『腐っても日本人だな』と揶揄を用いるのだ。

 女は空腹と眠気と疲労に、それらをかき集める気力すらもなく、紙を踏まないように隙間を歩いて、洗面所の方へと向かった。歯を磨けば空腹は収まるらしい、という俗説を信じて、歯ブラシに歯磨き粉を塗りつける。鏡の向こうに立つ女の目の下の隈は、殴られたアザのように濃い。
 歯を磨き終わり、ベッドの方に近づくと、サイドチェストに肉の盛られた皿がそこにあったことに気がついた。


 「あー……」


 今日の晩御飯だったはずのものだ。気づくのがもう少し早ければ、ありつけただろう。しかし時刻はもう深夜二時半を越え、肉は硬くなり、どんな上質なそれも不味くなる。おまけに、せっかく歯を磨いたゆえに、今から食べてもう一度洗面所へいくのが、あまりにも面倒だった。ベッドに潜り込むと、肉はともかく、ソースの芳醇な香りが鼻腔をくすぐり入眠を妨げた。

 気になって、仕方がない。
 かといって食べるのも――、と逡巡を繰り返し、サイドチェストの上の皿を持つと、また足の踏み場もない紙の隙間をひょこひょこと歩いて、どこか置く場所を探すも、あちらこちらに物が散乱しているので置く場所がない。というのも、護衛人であるエン・クゥシンという女が、毎日毎日仕事に出ていくと、お土産だといってブランド品の香水だとか、靴だとか服だとかを買って帰ってくるのだ。


 「増えてる」


 ブランドのロゴマークの入った紙袋が、また部屋の質量を増やしている。
 生活可能容積はすでにマイナスで、ゆったりと身動きの取れる範囲は、ベッドの上だけになってきて久しい。今日は靴と服だ。靴は箱に入っているために、余計にかさばるのである。最も困るのは、これがクゥシンの私物ならばいざしらず、すべて女へのプレゼントと称して買い与えてくるところだった。高額な買い物の金の出処は組織の経費だが、役職に付与される報奨金で女はこれに手を付けたことがない。

 女が求めるものは金でも地位でもなかった。
 自身のなかに居座る凶暴な『獣』を従えた時、女の止まっていた時は動き出した。宗教を捨て、新たに縋る世界を見つけた。――それは、新しい国を作るという男の信念だった。独立した国を作る。ただの女に戻れないなら帰る場所はなく、行く宛もない。新しい人生をやり直すために、計画を成就させるために、男たちの組織に正式に加わる決断をしたのだった。


 あれほど憎かった男たちが同志となるのは不思議なものだった。
 かつて、香港の港の食べ物の香りに満ちたあの騒がしい、食堂の小さなテーブルの上で交わした、義兄弟の儀式。所変わって、地獄の地底――『穴倉』で、三本の腕を切り、盃のなかで朱を交わらせた儀式。裸電球が三人の頭上を薄く照らすだけの世界で、覆らない血の盃が交わされた。
 


 『歓迎します。――あなたは、今日から同胞だ。そしていずれ、女王となる』


 唇の端を持ち上げて、男は冷たく笑う。
 男の作ろうとする国に、既存の信教はなく、既存の純血主義はなく、既存の経済観念はない。立国者が男なら、彼が王になればいいと言ったが、『女君主のほうが上手くいくものだ』とジンクスを説いた。それは歴史が証明していた。エカチェリーナも、エリザベスも、卑弥呼にしてもそうだ。


 『そういうものだ。女が上に立つと喜ぶのは女で、男は楽になるのさ』
 『つまり、エスケープゴートというものね』
 『――そうだ』


 それはそれは、あの『蝿の王』の島の世界のようだった。新しい国とはまさにそういうことだ。この世界で漂流した者の行き着く先。――男たちに本土への愛国心はなく、女にはすべてがどうでもよくなった。人を殺す感触を一度でも理解すれば、忌避するものが消えた。信じていた神も、血縁者たちも、思い馳せた一人の男も霧散した。一線を越えてしまったほうが楽だった。


 『では、始めようじゃないか。――手始めに、香港はどうだ』


 最初の計画は、本拠点を完全に手中に収めるというものだった。
 途方も無い野望。破滅に向かうとしても、そのような生き方しかできないのだと女は思った。



 深夜三時。

 女は皿を持ったまま、壁に凭れかかって、天井の華やかな模様を数えていた。掃除をはじめようかと思い立ったものの、やる気が潰えてしまった。いっそゴミ箱に捨ててしまえばいいものをそれが出来ないのは、食べ物の有り難みを、よくよく理解しているからだ。重度の栄養失調から解放されて、食欲が人並みになったことで料理の上手い不味いを舌が覚えだした。肉体は女の成長を思い出し、背丈が伸び、成長ホルモンの分泌により一日を丸々睡眠に宛てる時もある。

 日本の極道組織がホテルの軟禁生活を強制し、はや一週間。
 女は陳腐な悪あがきに関心を寄せなかった。日本という国は女が生まれた国だったが、多くの情熱家たちのような愛国心はなかった。親家族も死に絶え、自分という存在を引き止めるに値する、特別なものはどこにもない。

 生活拠点を『穴倉』から市街地にあるビジネスホテルに缶詰になっていたところから、高級ホテルの広い部屋に変わったのも束の間。護衛人の趣味で汚部屋へと変えられ、居住スペースはベッドの上だけ。明日の昼間に起きていられたら、クゥシンを呼び出し説教を垂れる光景を想像するも、彼女にも悪気があってしたことではない。しかしここ何日かはそれが度重なって、ちょっとした言い合いに発展することが増えた。

 空腹と疲労と眠気と、散らかった部屋の壁に立つ女の隣の部屋で、当の本人は愛する男と新婚ほやほやで仲睦まじく眠っているのだ。
 幸い、この部屋はその隣の部屋に繋がっている。実に、実に腹の立つことなのだが――彼女の部屋のほうが整理整頓が行き届いていて過ごしやすい。というのも、若旦那であるエン・ジーハオが潔癖症で王兄弟の部屋も極力綺麗にするらしいが、半時間も経たぬうちに散らかるので諦めてしまっている。

 彼らの言い分は『清掃などはここの人間の仕事だ。奪ってどうする』というもので、至極真っ当そうにきこえるが、清掃人たちはゴミ箱の中か水回りしか手を付けないので一向に床に散らかったものは片付かないのである。

 女はそんなことを考えていると不意に怒りが湧き上がり、隣の部屋へつながる扉の鍵を開けた。

 (いっそ、このゴミを撒き散らしてやろうか)

 ゴミといっても、殆どが新品のブランド品と、契約書の山だ。
 起きて、仕事をして、また眠りにつく。そんな繰り返しもちょうど嫌気が差す頃だ。隣の部屋は予想通り、綺麗に整理整頓が行き届き、最初にこのホテルにやってきた時の部屋のように美しかった。間接照明すらも消灯し、窓の薄いカーテンから差し込む柔らかい光が、足元をほのかに浮かび上がらせる。

 備え付けられた、すっきりとした何もないテーブルに冷え切った料理の盛られた皿を置くと、二台あるうちの片方のまっさらなベッドが目に入った。


 (ジーハオが戻ってない――?)


 彼らの勤務時間は二十二時までだが、時間関係なく二人の男たちが寝静まった夜に『出かけたい』と言い出したときはジーハオが護衛人として共に外へ出ていくのだった。武力だけでみれば二人だけで十分に思えるが、銃を携行しているうえに何か衝突があれば騒ぎを起こしかねない。そのための見張り役として護衛人が必要不可欠なのである。


 「――ねえ、クゥシン。クゥシンってば」


 つまり使用中のベッドにはクゥシン一人ということである。それならば不満を告げても構わないだろう。何度か呼びかけるも、彼女が目覚める気配はない。深夜三時の静寂だけがそこにある。女は自室へ引き返そうかとも思ったが、あの部屋で眠って次に目覚めた時、ゴミの散乱とまず挨拶しなければいけないのは我慢ならなかった。

 とはいえ、ジーハオのベッドを独占するのも、彼が戻ってきた時、遠慮をしてソファで寝てしまっては不本意である。ソファで寝ようかと考えているうちに眠気がまた煙のように立ち昇る。クゥシンは女のなかではそこそこ大きい部類だが、いい部屋の大きいベッドはキングサイズである。女二人が寝るには申し分のない余裕がある。睡魔が女の口を借りて、眠りの頂点の雄叫びをあげた。 
 


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List午前四時の異邦人