『――真島、吾朗』

  ◆ ◆ ◆




 五つ星ホテルの部屋の天井は優美な模様と装飾に彩られ、朝陽の光によってその金色が光っている。それが普段目にしないものだから、自分の部屋でも組事務所の天井でもなく、特別な仕事を割り与えられ、ほんの一週間の非日常の、最初の朝を迎えたことに対する小さな感動のなか、瞼が数度の瞬きを繰り返した。

 昨晩は夕食をともにし、彼らの組織のあり方や今後の展望を聞いたあと、『明日は一日ホテルに籠もる』とざっくりとした予定をきいて自室へと帰った。勝手のわからぬ風呂に入り、風呂上がりに軽く煙草を吸い、部屋にあった本革表紙のインフォメーションを少し読んで、いつの間にか眠りに就いた。朝起きて、昼に来るという嶋野へ一度、連絡を出そうと考えていた。
 嶋野が危惧するほどの、野生児ではないという確証は彼ら本人たちが証明している。嶋野が計画を変えるならば、一週間の無駄な接待も早期になくなるだろうが、『藍華蓮』を上回る上客は今の所ない。――その性格上、潔く諦めるにはもう少し時間を要するだろう。

 ――そんなことを考えながら、真島は身を起こそうとしたとき不思議な異物の感触を味わった。
 というのは、布団の中でシーツとも掛け布団とも違う、もっと柔らかくてしかも温かい。人肌のような感触だ――と脳がそれを理解すると、一滴の恐ろしい想像が広がった。まだ夢を見ているならと、一度頬を打つもその腹の上へ絡む、人間の細い腕のようなものがくっきりと現実に存在している。

 真島は思い切って布団を捲ると、そこには膝を折りたたむように丸まって眠る、ホテルのナイトガウンを一枚だけ纏った女がいた。


 「うわ! ――お化け、ちゃうよな」


 呼吸をするたびに、背中が上下に、浮いたり下がったりするそれが霊の類なわけがない。
 紛れもない人間。ベッドの上からはその方向が仕切りに遮られて見えづらいが、隣室の部屋へと繋がる扉がある。エン・ジーハオが昨日の説明で入らないように、といった部屋である。


 「けど、女がおるなんて一言も――」


 真島はそう口にしながら、そっと女の顔を覗きこむ。うつ伏せになっているせいで、顔の造りまではっきりと捉えられない。髪は癖のない長い黒髪。エン・クゥシンでないことは確かだ。また骨太というよりは華奢といってよい。派手ではなく質素で、王汀州らの一味として考えるなら何故かしっくりときた。――あの男たちが明かさない存在として、女が一人いるとするなら、情婦と考えるのが普通だが、あの男は人間としての欲望に薄い気がした。


 「妹――か?」


 妹。また、しっくりと、なにかが嵌る。
 嶋野が、この仮に妹という存在を見逃すはずがない。妹でないとしてでも、身内に女がいればもう少し頭を使って接待方法を変える。なぜならば――女という存在は良くも悪くも影響をもたらす。その場の最終決断は長が担ったとしても、それまでに女の意見をきく。裏で「あれはいい」「これはダメ」だといって指針のブレを招く。よほどの男社会でなければ、この一向に起きる気配のない女が、参謀の役割を担っていることは想像に難くない。

 王汀州は愚かではない。最初から当初の予定を覆す必要がないからこそ、嶋野に女の存在を秘匿していたことだって考えつく。――何度も電話でやりとりをしてきたが、一度たりとも女の話題はなかった。むしろ、夜の接待に連れ出したくらいなのだから。しかし問題は、どうしてこの部屋で、ベッドに潜り込んでいるのかということだった。


 「はあ、もう、しゃーないのう」


 気持ちよさそうに眠っている。
 揺り起こすのも忍びなく、真島はベッドの上で胡座をかき首を落とした。
 



 朝、八時半を過ぎても、女は目覚めなかった。
 着替えたものの、見かけは昨日と変わらず、白シャツに黒スーツの下である。いつもの柄ジャケットもレザーパンツも持ってきていたが、そういう風合いではない。郷に入っては郷に従え、高級ホテルで刺青を晒せばこの一行が悪目立ちをする。彼らは礼儀を欠くことなく、王汀州は真島の滞在を受け入れた。それ相応の礼に則るのが、筋を通すというものだ。

 ソファに座り、煙草を一本咥えたところではたと気づく。
 テーブルの上には、昨日食べた肉料理が盛られた皿が手つかずのままそこにある。


 「――食うてへんのか」


 なぜ食べずにこの部屋に持ってきたのか。すこしばかり想像を巡らせたが、頭を振ってやめた。
 考えるだけ無駄だと言わんばかりに、ライターの火で煙草の先を炙ると息を深く吸い込んだ。部屋にあるブラウン管のテレビを点けると、民放の朝番組が映り、女子アナウンサーの明朗たる声が部屋に響く。それにも飽き、チャンネル変更をして公共放送の落ち着いた天気予報の画面に切り替わった。

 ベッドの方をちらりと窺うも、女の寝相は変わらず胎児のような形から変わっていない。不気味にも死体を連想させたが、しっかりと生きている。時刻は朝の八時半。適度な空腹感を覚えて、一度空の灰皿の上に煙草を押し付ける。

 眠っている分には一向に構わない。好きなだけ寝ていればいい。朝食のために部屋を離れ、その内に何かあっては困るのは真島のほうだった。考えた矢先、部屋にある電話の受話器を取った。

 エン・ジーハオは寝ているものだと思っていたが、数コール以内に出た。開口一番、律儀に「おはようございます」と出て、真島は胸を撫で下ろした。


 「おはようさん。――部屋に、若い女の子がおって、寝てるんやけど。お前の嫁はん以外に女の子はおるんか?」
 「――パジャマは着ていますか? おそらくシャオジエです。隣の部屋を使っています。――五分後、そちらに向かいます」
 「シャオ、ジエ? ―ーまあええ、助かるわ」


 エン・ジーハオが説明に訪れるというので待つことにした。
 真島は、受話器を置くと、もう一度「シャオジエ」と繰り返した。『シャオジエ』とは昨晩も聞いた言葉だった。
 エン・クゥシンが流暢な中国語を喋ったとき、何度か登場した言葉で、それがどうやら人の名前で、あのベッドの上の女を指す名前であることがわかった。

 五分後、約束通りにエン・ジーハオは部屋をノックした。
 
 扉を開けると、エン・ジーハオは、黒いビジネス鞄を抱えそこに立っていた。
 Tシャツにスラックスパンツといった比較的ラフな服装であるが、髪は一本の後れ毛も許さぬとばかりに整髪料で固められ、きっちりとフォーマルに仕上がっている。


 「真島さん、おはようございます。シャオジエが部屋に?」
 「ああ、よう眠っとる」
 「起床は昼頃になるでしょう。食事は摂られましたか? まだでしたら、代わりに部屋にいますので」
 「なんや、悪いのう」


 エン・ジーハオはにこやかに答えた。
 彼の態度から、シャオジエと呼ばれる女が繋がった隣室へやってくることは、当たり前のことのようだった。

 「お気になさらず。私は十時から外に出ないといけないので、それまでには。クゥシンも午後から会合ですし、申し訳ないのですが……真島さんお一人でお三方をお願いすることになります」

 『お三方』という形容から、真島の予測は概ね外れではない。
 シャオジエは彼らの隠された『妹』であるという気配は間違いなく、護衛人の二人は組織の交渉の手先として機能している。嶋野がホテルに缶詰にした事が原因かは定かではないが、それが彼らの仕事のやり方のようだった。


 「昨日の晩に言い忘れとったんやけど、昼からは自分とこの親父が来るんですわ」
 「嶋野様ですね。わかりました。後々、大哥(ダ)にうかがいます」


 入り口で入れ違いになると、真島は『3010番』の部屋をあとにした。






 朝食を終えエン・ジーハオの出向までに部屋へ戻ると、二つの女の声が言い争っていた。
 真島は一度、手元にある鍵の番号を見て、外の部屋番号を確認した。『3010』と金字で印字された扉の中にいる。女二人は日本語ではなく、中国語で舌戦を繰り広げており、一分の隙もなく痛々しいほどの怒声と嗚咽が入り混じっている。


 「あー、おかえりなさい。真島さん」
 「お、おう……」


 真島の帰還にいち早く気づいたエン・ジーハオは通路の脇にある浴室への曲がり角で、立ったまま資料をペラペラと捲っていた。エン・ジーハオは『すごいでしょう』と言いたそうに軽く笑った。彼にはこの悲惨にも見えるやり取りが当たり前のようで、仲裁に入る気はサラサラ無いのは見ての通りだった。


 「朝食はいかがでした?」
 「美味かったで。――なあ、アレは止めんでええんか?」
 「いいんです、いいんです。いつものことなんで。手を出すと、痛い目にあいますよ。女性ってのはおっかない。恐ろしいとわかるのに、好きになってしまう。これが男の性というものです。――ああ、日本人が羨ましいなあ」


 真島は思わず同情的な眼差しを向けてしまう。
 明朗で気さく、優男にもみえるエン・ジーハオの本音が吐露される。恐妻が何たるかを身を以て知る、男の悲哀がそこにあった。


 「なんで喧嘩しとんの」
 「あぁ、その。理由は単純明快――伝達失敗でしょうね」
 「失敗?」
 「元々、真島さんのこの部屋は我々が使用していたんです。ただ、日毎に喧嘩がひどくなっていくので、二人のね。ルームチェンジをしようということになったんですが、当フロアで可能な部屋がないということでして。シャオジエだけ別フロアか、お二方の部屋どちらかに……とも提案したんです」


 真島はどういっていいのか「はあ」と気の抜けるような返事をした。


 「テイシュウは寝言がうるさく、タイランはいびきがうるさいと。お二方も女物の私物が増えるのが嫌だというので、部屋は最低三つ必要だと。ないし四つ必要だと。ちょうどそこへ、真島さんが加わるということで我々は階下のフロアに移動したというわけです」
 「あ? ……一個ええか。嶋野はどこにおったんや」
 「嶋野様は本館の部屋ですね」


 真島はその言葉に項垂れた。
 本館とタワー館のグレード差がいくらかは知らない。電話越しに聞いていたほどの窮状ではない、そんな気がするのはどういうことか。組織との話は本気のようだが、真島を呼んだのは揶揄の面が強い。昔、真島を嬲った男たちに会わせる。たとえ交渉失敗に終わったとしても、それは嶋野の不手際ではなく、真島の失態として終えられる。己の面子を保守するための、残忍な嗜好である。


 「伝達失敗っちゅうのは?」
 「昨日、ルームチェンジをした旨をクゥシンが彼女に伝えたのですが……どうも聞いていなかったようでして。まあ、その手前にクゥシンが起こしにこの部屋に来た時に――シャオジエが『自分の部屋に物を増やすのでいい加減にしろ』と怒ったのが発端です」
 「――面倒くさいのお」


 私物が増えた叱責を皮切りに、『そもそも、どうしてクゥシンがこの部屋にいないのか』『この私物はジーハオのものじゃないのか?』『じゃあ、この部屋は誰が使っているのか?』――と、パニックが連鎖し喧嘩に変わったというのが順序だろう。

 「一番の問題は、コネクティングの扉に施錠がされていなかったことです。これに関しては、ホテル側の問題です。このあとフロントに立ち寄りますので、今日の清掃以後、施錠してもらうよう頼みます」
 「あぁ」


 真島は手のひらで顔を覆う。
 負の連鎖が連鎖を呼び爆発した。どすん、と壁に何かが当たった音がして様子をみると、二人の女が取っ組み合っている。どう見ても体格差を考えうるに、クゥシンのほうが勝るだろう。その読みは当たっており、クゥシンのほうがわざと力を抜いているようだった。――ただ、『シャオジエ』の方も的確に体の仕組みを理解し、無駄な動きなく急所を狙っている。

 エン・ジーハオは苦笑し「止めてみます?」と言った。やめておいたほうがいいですよ、と顔に書いてある。


 「お前、怪我したらアカンやろ」
 「はは。怪我するのは私達のほうですよ。一応、止めましたからね」


 エン・ジーハオは予防線を張った。真島はしばらく考えたが、この喧騒がとどまるところを知らないので一歩、二人の女に近づいた。クゥシンの身体の造りは見た目からみても素人の女ではない。実戦向きに誂えた筋肉の付き方をしているし、力技で推せばその躱し方や反撃も大きい。狙うなら『妹』のほうである。パワーで言えば皆無で、急所にさえ入らなければ力でねじ伏せられる。――取っ組み合いに夢中な華奢な女を後ろから腰を持ち上げると、軽石のように舞い上がった。


 「きゃあ!」


 女は悲鳴をあげ、それから脚をばたつかせ、泣いているのか怒っているのかもわからぬ顔で、男を殴った。一度、二度と容赦なく顔を殴りつける。女に殴られるのは初めてだった。叩かれることはあってもいいが、殴るのに男も女も関係ない。



 「痛いやろが――!」

 女をベッドの上へ叩き落とし、起き上がらぬようにのしかかった。腰という支点を両腿で挟みこみ、動きを封じ込めるだけのワンモーションで女には為す術もない。獣のように唸ると、取っ組み合いの相手だったクゥシンが勝利宣言を告げた。


 「諦めてください、シャオジエ。――部屋については、フロントに注文つけて清掃に持っていってもらえばいいんです。伝達については、そりゃ……寝惚けてる時に言ったこちらの不手際があったかもしれません。謝ります。ですが何度も言いました。二十二時以降はプライベートだと。それ以降に部屋を入らないようにと! わかりませんか、万が一ですが、我々がセックスをしていたとしましょう! ありえなくはありません。寝覚めが悪いでしょう!? 施錠をせずにいたのは、あなたがいつも部屋の鍵を忘れて外にでるからです!」


 女の護衛人であるクゥシンの小言が続くなか、真島の顔を見上げるその女の表情が冷静に様変わりしていく。それは、急速冷凍によって凍りつくようなものに似ていた。神秘に出会ったときのように、その『シャオジエ』は静かに、はっきりとその名前を口にした。


 「――真島、吾朗」


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