交渉決裂


 王汀州は宿泊している部屋へ帰ってくるなり部屋を荒した。
 正確には荒らしながら、盗聴器の類を調べていた。ベッドの下、戸棚の奥、椅子の裏、何から何まで無言のままに探りそれから、設えられた電話のコードを外した。ゴミ箱以外のものに手を付けない客室清掃を逆手にとって、散乱した私物のなかから、微かな移動が認められる物品を手に取り確認した。
 そこで真島は、彼らの子供部屋の意味をようやく理解した。


 「ただいま戻りました、大哥」
 「釣果はどうだった。おっと、その様子では大失敗だな」


 午後六時。エン夫妻が帰宅した。
 ジーハオはいたってまともだが、昨日ともにクゥシンは怒り心頭といった風で中国語で叫んでいる。
 暇を持て余した王泰然に付き合わされて真島はシャンチーの相手をしていた。シャンチーとはいわゆる将棋のボードゲームで紅と黒で先行後攻を決める。吟はベッドの上で眠っていたが、クゥシンの叫声に煩わしそうに起き上がった。


 「クゥシン、うるさい」
 「黙ってられない! あいつら――どれだけ譲歩しても痩せ犬みたいに噛み付いてきやがる」


 髪を振り乱さんとする勢いで捲し立てる女の傍ら、吟はあくびをしながら一度トイレに入った。
 王汀州は揺れるロッキングチェアの上で片膝を立てて、声を殺すようにせせら笑った。


 「いい話だ。いたく日本を気にいったんだろう。あっちよりずっとブルジョワの国だからな。そいつらの言い分はこうだ。日本に住み続けたいとさ。本国の頃の野心などない鈍らに成り下がった。――今日、新橋で吟が見つけたそうだ。一つ戦争が起きるかもしれない」
 「戦争ですか。……なるべく事を荒立てたくないところですが」


 吟がトイレから出てくると、全員の視線が集まった。
 王泰然はゲームを止め、背もたれにふんぞり返って投げかけた。


 「どうスる、吟。参謀役の意見が聞きタイ」
 「明日もう一度、会合する。私が出席し、それで決定する」
 「小姐。明日はマレーシアとの話がある。その後ですか?」
 「そうだ。……きっと流血沙汰になる。……テイシュウこれでいい」


 ロッキングチェアが軋む。
 王汀州は飲んでいた中国茶を啜ると「上出来だ」と答えた。
 そして真島の方を向いて声をかけた。


 「真島、吟の護衛を頼む。なあに、交渉決裂したらば全員殲滅するだけの簡単な仕事だ。処理はこちら側で行う。好きなだけ殺れるぞ。――そうだな、肝心な仕事をヘマされたくない。マレーシアの件は俺が直々に伺う。ジーハオ、先方に予定変更を言ってくれ。泰然と一緒に先に出る。二人は共に吟の護衛にあたれ。……契約書は持ち帰る。二重承認を経て正式契約だ。これでいいだろう」
 

 吟は鷹揚に頷いた。
 小さな参謀を眺めて、クゥシンがふうと息を吐くと一件落着とばかりにジーハオが手を叩いた。


 「それでは夕食にしましょうか。レストランへのオーダーでいいですか」
 「そうしてくれ。今は接触は極力避ける。今晩と明日の夜は外出を控えるように」
 「わかりました。各自、メニューをメモに記入してください。オーダーします」


 緊張が解けたように各自は緩慢な動きで、夕食のためのセッティングを始める。
 テーブルに置かれたペンを指で回しながらクゥシンは「そうだ」と呟いた。


 「真島さん。作戦を教えておかないとね。……大哥、教えていいだろう?」
 「それは構わない。口外しない契約をしている。むしろ、現場で下手打ちだけは勘弁願いたいところだ」
 「わかった。それじゃ、ご飯のあと小姐の部屋で作戦会議ね」


 
  夕食後。クゥシンの決定通りに護衛人たちは、吟の部屋へ集まった。王汀州のしたように念入りなチェック。それに加えて、隣接する真島の部屋へと続く扉の鍵がしっかり閉じられているかどうかも調べた。部屋を出た時よりは荷物が減り、幾らか空間に余裕ができてすっきりとした眺めに吟は納得がいったような顔をした。

 吟はのそのそとした動きで冷蔵庫を開けた。
 あらかじめ入っていた人数分の水入りペットボトルを取り出すと、部屋の中央にあるテーブルに並べた。そのうち一本を手にロッキングチェアに飛び乗ると、がくんと音を立てて前後に弾みをつけて動いた。エン夫妻はジュラルミンケースをテーブルの上に置いて、真島にソファに座るよう促した。


 「簡単な説明を。ジーハオ」
 「君がしないのかい」
 「わたし、ニホンゴ、下手!」


 『こういうときばかり』と文句の一つでもつけようものならどんな目に遭うかを知るジーハオは、不承不承としたくなる態度を笑顔でひた隠し、ううん、と一つ咳払いをした。真島は内心に苦労をしている若い男を不憫に思い、そのうち労ってやろうと考えたのだった。
 

 「――明日の相手は、『藍華蓮』・中国諜報機関部門の日本支部。この度、日本撤退により諜報部門を解体及び、競合他組織への合併移行期間を設けていた」


 冷気がひやりと肌を撫でる感覚を覚える声に、それがロッキングチェアに乗った主だと気がついたのは、その主が一息に説明を終えた頃だった。どこか孤独を湛えた生の薄い声音が、いつまでも耳奥で反響を続けている。今日の朝から今のいままで、吟のまともな言葉が聴けるとは思ってもみなかった反動に、真島は言葉を挟むタイミングを見失った。


 「ええ、そうなんです。小姐、ありがとうございます。――簡単にご説明しますと、我々の元・同胞といいますか。その彼らがこの度の決定に納得がいっていない様子なわけなんです。今日に我々二人が会合に向かったのはそういう理由なんです」
 「……要するに、内輪揉めっちゅうわけか」
 「あはは。お恥ずかしい。……彼らは本国に帰還を望まないそうです。理由は各々違います。なかには帰化した者もいて。日本に家族を持ったり、表の生活がある者や、純粋に我々の決定に賛同できかねる者も一部います。――もちろんその中から賛同し指示を呑む者もいますが。クゥシンのようにね」


 ソファにだらりと凭れかかり水を呷るクゥシンに視線を向ければ、照れ臭そうに目を細めた。
 

 「そのなかでも、過激な者たちがいて――新橋で小姐が見たという女はその一人です。以前までは賛同派だったのですが、手違いが起こりまして。賛同派を装った、二重スパイとでもいいますか。――その女が契機で日本撤退に踏み切ったという事由が実はあります」
 「ふー。……ねえ、小姐。酒はどうしました? 冷蔵庫にウィスキーがまだ半分残ってましたよね」


 半ば話をはぐらかせるようにクゥシンが挟み込んだ。吟は一言「冷蔵庫」とだけ言ってその顔を俯かせた。
 ソファから立ち上がり冷蔵庫へ向かう女を見届けて、ジーハオは説明を続けた。

 「明日もう一度会合を開きます。対話で解決しなかった場合、おそらく向こうは武力を用いるでしょう。外での許可されていない武力行使は、我々の中では戒律違反とみなされます。――真島さんには申し訳ないがそのお手伝いをしてもらう。ははは、これも恥ずかしい話ですが、私はもっぱら諜報部門の盗聴やハッキング専門でして。実戦向きじゃないんです」
 「お、おう」
 「銃の実戦経験はありますか」
 「あるけど、大したもんちゃうで」
 「結構です。銃は当たればなんとかなります。クゥシンは例外ですが、相手は普段は非戦闘員ですから」 


 グラスにウィスキーの原液を流し込み、少量の水で割ったものを舐めている女が、ぼそぼそとロッキングチェアの主に耳打ちしている。その仔細は不明瞭で数少ない言葉数ながら、返事をする吟の表情は厳しさが、いささか和らいでいる。真島はなんとなしに、諜報部出身ながらジーハオよりも抜きん出ていると思しき戦闘力を持つ女について尋ねてみることにした。


 「例外て、どういうことや」
 「彼女ですか。数年前までアフガンでとある私設特殊部隊で内偵任務にあたっていました。そういう意味では彼女もスパイだったのですが、潮目が変わって撤退命令が出たので本国へ帰還する途中、大哥がオファーを出したんです。そのまま諜報機関へ来ました」
 「優秀やのう」


 エン・クゥシンがどうやら腕利きの本職の軍人であるということが知れた。相当、王汀州が粘った相手とみえる。アフガン戦争に参加しているともなれば、戦力としては十分すぎるほどに心強い。それを聞いて、女にしては、実戦向きに仕上がった肉体に納得がいく。抱えていた明日への杞憂が少し晴れたところで、真島はようやくペットボトルの蓋を開けたのだった。

 ジーハオは軽やかに笑いながらも「だから喧嘩はあまりしたくないんです」と小さく言った。それに真島は頷いた。忌憚なくいえば、軍人とは限界突破している。人を殺すことに躊躇なく、大義名分のもと人を殺すことを許されている身分である。市民が持つ道徳的な価値観を捨て、葛藤を乗り越えた者が続けられる仕事をしている。その人間とまさか同じ仕事に就くことになろうとは、奇妙なものだ。

 日本で本物の戦争経験者ともなれば、二つ世代を遡らなければならないくらいには、縁の薄い時代になった。

 クゥシンはウィスキーの入ったグラスを置いて、ジュラルミンケースを広げた。蓋を開けて仕切りとして表に工作してある板を外すと、そこには二丁の拳銃が埋まっていた。


 「グロック17だ。これを貸す。弾は9x19mmパラベラム弾。これは弾数が17と1つ入る。弾倉は抜いてある。あとで詰める。――それじゃ、まずフィールドストリップをしよう。手順はジーハオ、教えるついでに、あなたも練習をかねてやって」
 「ははあ……ご丁寧にどうも。苦手なんだよなあ」


 フィールドストリップ。
 それは銃器を掃除・メンテナンス・修理のために分解することをいう。真島は静かにその埋まった黒い銃を手に取った。


 「こういうものは、使いやすくて必ず当たる方がいい。――吟は自分のものを持ってるから、万が一のことがあれば使う。しかし私達は兵士だ。貴方は明日限りのね。でもね、ボスに銃を使わせるなんてサイアク。終わってる。――真島さんの噂は十分聞いているわ。けれど、それは近接戦闘に持ち込めればの話。相手は多い。こちらも応援を呼んでいるとはいえ非戦闘員が多いわ。大哥はハメを外しても構わないような事を言ったけれど、目的はあくまで護衛よ。作戦は、一瞬で終える」


 元本職の女軍人がまるでキネマのなかにある、用意された台詞のよう、説明を流暢に行い、思わず溜息をついてしまいそうになった。
 クゥシンに向けていた視線をわずかに外せば、不意にロッキングチェアの上で両膝を抱えて退屈そうに此方を見詰める女と視線が交わった。それは一瞬のことで、興味がそれたようにまたフイっと明後日の方向へ向いてしまう。

 真島の目線に気がついたクゥシンは腰に手を当てて吟の方に首だけ巡らせた。


 「小姐。眠いならベッドへ行きましょう」
 「行かない」
 「こんなとこで駄々こねないでください。部屋も綺麗になったはずです。あ、そうだ。買った服、着てみてください。捨ててないでしょう。貴女ほどの年頃の子はお洒落を楽しむものですよ」


 ムッとした様子で吟は両膝の上で伏せていた顔を上げると「お風呂はいる」といってロッキングチェアから立ち上がった。
 着替えを引きずり浴室へと消えると、それまで手元の拳銃と格闘していたジーハオが苦笑を漏らした。


 「上手くいかないものだね」
 「ジーハオ、手順が違います」
 「僕もなかなかだけど、君もね。……今のじゃ、追い出したみたいだ」
 「小姐のことですか。発言しない人間はいないものと同じです」


 ジーハオは肩をすくめると「そりゃあ、君はそれでいいけどさ」と言った。
 その態度が気に食わなかった様子で、クゥシンはきゅっと眉根を寄せた。


 「ジーハオ。優しさと甘やかしは異なる。あの人はまだ甘えたまま。いつも自分が最も不幸だと思っている。――仮にそれでも構わないとしても、統率者ならばその責務を全うすべきだ。私は、ああいう手ぬるいやつが、戦場で真っ先に死んでいったのを見ている」
 「……少尉殿、あなたは正しいかもしれない。正しさが必ずしも世界平和にできなかった事を知っているはず。そして、小姐は己の未熟さを理解しているはずだ。君が優秀であることも。どうか、おおらかになってくれ。人は、簡単には変わらないものだから」


 クゥシンは厳しい顔を緩めない。溝と呼べる隔たりが護衛人の女とその主人にある。ジーハオはこうして、度々二人の間を取り持っているということもわかった。飛び入りの新参者である真島にその応援は難しいが、その困惑の表情を見て取ったクゥシンは「失礼」と謝った。


 「仲が悪いんです。――あの娘の脇の甘さが、今回の引き金だった。本人は忘れたくて、隠していることかもしれませんが。だとしたら、尻拭いはきっちりしてもらわないといけない。大哥はそれをわかっていて、外に出るように言ったんでしょう。まさか、本当に向こうが昼間っから捜し回っているとは思いませんでしたが」


 クゥシンはジーハオの銃に手本として、フィールドストリップをしてみせた。
 鮮やかな手つきで全てをバラし、順序を示すように組んでいく。「問題はなさそうね」と言うと眉間のシワが緩まった。


 「一つ聞いてええか」
 「なんです」
 「……ずーっと考えとった。なんで、日本語を話し続けるんやろうってな」


 手元にある銃を分解させながら、真島は呟くように口にした。
 吟が日本人であることに今更驚きはない。バックヤードからクゥシンが中国系の東欧人である可能性と同様に、日本以外の場所で生まれ育ったかもしれないし、日本で生まれたが都合があって、海外に行った流れでこの組織に加わった経緯があるのかもしれない。


 「疑いを減らすため……やろ?」
 「……ふふっ。あら、そう。……いやだ、『拷問部屋』送りにされたっていうから頭が冴えない人かと思ったら、違ったんですね」
 「……あ? 姉チャン、それは俺がアホやって言いたいんか?」


 張り詰めた空気に亀裂が入る。それは堪えきれずに漏れた女の笑い声だった。思いがけず、手元にある視線を元軍人へ向ければ差し込んだばかりのスライドが押し戻され、組み立ての流れが詰まった。
 「まさか」と言うものの、表情に笑みは絶えない。


 「だからそれが違ったってことを、たった今証明なさったんですよ。あの部屋から出ていける人間は一握りです。我々の間では有名人ですよ」


 クゥシンの声が弾む。失礼なことを言っているが嘘偽りない性格が憎めない。それがこの女の魅力というやつだろう。隣にいるジーハオが「いやあ、すみません」と代わりに謝っている。


 「先に件のトラブルがありまして、その後からこうして共通語を『日本語』としているんです。もともと大哥らは小姐から学んでいたそうで発話に問題ありませんし、ジーハオは日本へ移って五年で大学にも通っていました。私も日常会話程度であれば可能でしたから。……小姐は疑い深い方ですから。今回はもう少し早く、相談さえ――していればよかった」


 クゥシンは尻すぼみになっていった。肝心な言葉の先が続かない。それだけ吟の身にセンシティブな出来事が起こったのだろう。彼らから語られることはもちろん、吟の口から聞けることはない。また、そこまでの詮索を真島も欲してはいなかった。
 ただ、吟自身が事を招いたとはいえ、彼女が孤独であり――さらに、それに傷ついているように見えた。
 

  
 「――クゥシン。クゥシン――?」
 「あの姉チャンたちなら、自分の部屋に戻ったで」
 「………」

 浴室の方の扉が開閉する音のあと、女の護衛人の名を何度も呼び、その返事が男の声で返ってくると、あからさまな無言の態度に、いっそ笑いたくなった。無視とは冷酷に思えるが、徹底してそう振る舞うということは、逆に強い意識を行っていることと同じである。なにがそこまで真島を嫌うのか、俄然――興味が湧いてくるもので、拒絶があればあるほど、愉快な気分にさせた。

 吸っていた煙草をテーブルの上の灰皿に置けば、ゆらりと煙が立ち昇る。
 浴室の扉の前で睨みを効かせたまま立ち尽くす女は、無言のまま『早く部屋に帰れ』と言っているようだった。
 
 「明日の朝十時に、またこの部屋に集まるさかい。寝坊せえへんようにって言うとったで」
 「――――」
 
 不機嫌な吟は顔を逸し、すたすたと一直線にベッドの方へと向かっていく。
 ほぼ一日過ごしてみて、何もわからなかった人間は彼女の他に例がない。真島の自己評価であるが、たいていどんな人物とも、そこそこに会話でき、冗句の言える間柄まで進むことが出来る、社交的な性格をしていると思っている。――壁に独り言を向けるほうがマシな程、彼女とのやりとりは不毛で、絶望的である。その要因でトラブルを誘発しやすいのも頷ける。

 
 吟がベッドのサイドにある灯りを消すと、巣穴のように掛け布団のなかへ潜り込んでいった。真島はそれを見届けて、部屋の灯りを消した。
 ダメ元で「おやすみ」と声をかけると、空耳を疑うほどささやかな声で「おやすみ」という四つの音が聞こえて、その不思議な感触に自然と真島はベッドの方を見た。

 「……なーんや、それは言うんかい」


 おかしな事ではない。『穴倉』にいた頃とて、『彼』は一度も会話らしい会話をしたことがなかった。不意に訪れる本来の仕草を垣間見た時、いつだってその優しさを見出してきた。それがまた、今も、この瞬間も、続いているような気にさせている。


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