◇ ◇ ◇
――真島吾朗。
救いようのない『穴倉』から、生還した男。
――真島、吾朗。
極道に復帰し、組織の接待にて再会した男。
……真島吾朗。
かつて、その昔に、会ったことのある、忘れたい女の、忘れられない男。
吟は布団にはいっても眠りに就けないまま、深夜二時半を迎えた。
その日最初に目覚めたときから、就寝直前までの出来事を、頭の中で巻き戻しては、繰り返していた。
『涼』の名前を捨てて、『吟』を選んだ女の意識は『穴倉』にいたその男が、少女の頃に懐いた憧れの存在であることに気づいていた。また、男の方も吟という存在が『穴倉』にいたことを覚えていたようだった。
一枚掛けの布団の下でぎゅっと音をたて歯を食いしばった。
(――忘れていれば、よかったのに)
とても運が悪い。
その男がすっかり、拷問王に虐げられた吟のことを忘れていて、ほんとうに、最初から、まっさらに初対面であれば。もう少しやりようがあった。印象の決まった相手と、語り合うべきことはない。吟はその過去を知られていることも、何もかもを恥じていた。
もっと最悪なことは、その男は、無関心であればいいのに、吟のことを知ろうとしている姿勢がはっきりと見て取れた。たった一つしかない瞳が、薄っぺらい虚勢を崩さんと探っているように見えて、言葉なぞ交わしてしまったら最後――今ある精一杯の形すらも喪ってしまいそうな恐怖が、もう背中越しにある。
はっきりいえば、都合の悪い、不格好な姿を見られる居心地の悪さがあった。
――同時に、あと三日、四日で向こうの滞在期限が切れる。自然に元鞘に収まり、平穏な日常に還っていく男にかける言葉は、なにもない。
それまでの辛抱だと堪えればいい。
(そう、たまたまだ)
偶然にも、男ともう一度、二度、三度めの再会に至っただけだ。
一度は、家出をした最後の日。二度目は『穴倉』で。三度目は、今朝。そのどれも、特別なことは何も起こらなかった。だから、今回も何事もなく、三度目を終えていく。
『涼』はその男との邂逅を特別視する。童話のなかのプリンセスのような、夢見がちなロマンスを期待する。けれど、どう転んだって――吟はハッピーエンドのプリンセスにはなれない。手遅れだった。吟の手はもう血まみれで、これからもたくさん血を流す。
(忘れろ。――忘れろ)
呪うように、戒めるように、繰り返す。
義兄弟の盃を交わしたあとに、それは覆らないのだ。
吟は暗闇のなかで、そっと自嘲した。きっと、自分の人生というものは、幸せに生きられないようにできている。――そう過去を振り返って、あのときどうしていれば良かったかを考え出すと、いつも不幸な結末にたどり着くのだ。その度に、最初を悔いる。
あの日、友だちと遊びに出かけさえしなければ、と。
優柔不断な少女が、少ない友だちからの、電話口での誘いを断ることは難しいだろう。母親の予定に振り回されることに疲れて、逃げ出したかった。自分一人では行く宛のない、どこかへ行く口実のために、都会への逃避行を選んだ。――せめて、友だちと一緒に忘れ物を取りに戻っていれば。ぼんやりとしてさえいなければ。不良にさえ絡まれなければ。
(――好きにさえ、ならなければ)
未熟でいればよかった。
愚鈍でいれば。運命なんかを期待せずに、楽に生きられたかもしれない。
自然と力の入った拳を押し付けて皺を作る。
どうして、今になって、目の前に現れるのだろう。――視界に入れるたびに、その男の何から何まで、呼吸一つにしても、瞬き一つにしても、そこにいて、生きているという存在をまざまざと、――女の人生の全てを否定し見せつけてくる。
綺麗な頃には懐かなかった憎悪が、塵のように積もっていく。
言葉を交わしてしまえば、きっと今以上に――狂ってしまう。そんな霊感があった。
その男に何ら罪はないというのに。
「……くそ」
女は悪態を漏らしてベッドから起き上がる。
寝つけないままベッドの上にいるだけで、慚愧に堪えぬ過去が反芻し、精神が摩耗していくのを知っていた。備え付けの金庫をこじ開けて鋏を取り出すと、それを持って洗面台へとふらりと歩いた。
硬質で整然とした、風格のある額に収まった鏡には、一人の憔悴しきった顔の若い女が映っている。鏡は嫌いだった。
肌は蒼白で、汗によって前髪が額に張り付き、洞穴の中を覗いたような、濃い闇がじっと見つめ返している。一切の感情が抜け落ちた人形のような味気のなさが、不気味に存在としてそこにある。
それが、『獣』に魂を売った女の、あるがままの姿だった。
王汀州はいった。
『お前は人間じゃあない』と。穴倉を出る時、そういった。その意味はすぐにわかった。
『獣』とは本能そのもので、したがって本能のままに欲求を満たそうとした。『獣』はしゃべらない。けれど、腹を空かせば満たそうとし、眠りたい時は寝入ろうとして、肌の熱が恋しいというならば、ふらりふらりと夜の風俗街を彷徨った。
その矢先、たった一つの過ちを犯した。
出会った一人の女は、吟の内側で飼っている『獣』の欲求を見抜いたのだろう。
女は、優しい言葉をかけた。愛に飢えていた心の隙間から、するりと這入りこんでいった。それこそが女の策略であり――それを許してしまったばかりに様々な不興を買った。
吟は『獣』のせいにしたかった。
しかし、周りのすべての人間は吟の意志のもと行った行為だと信じる。吟も当然それをわかっているし、人はそれを病だというだろう。
「うう……」
唸るように、呻くように、噛み締めた歯の向こう側が音を震わせる。
長くなった一房の髪を握ると、そこへ鋏をの刃をくぐらせた。カシャンと断つ音とともに、洗面台の中へと髪が散った。一度を許せば二度めに躊躇がない。軽やかな断髪の音がやけに響く。
女の象徴ともいえる長い髪。
件の事から、いつしか、吟は自分自身を愛せなくなっていた。
洗面台の足元に蹲っていたら、いつの間にか朝が来ていた。
ささやかな水音が窓ガラスを叩いている。音から雨だと知れば、鼻の奥に土と草を纏ったその匂いが香った。
眠りには程遠い意識の海のなかで。
『あなた、自分が世界で一番かわいそうだと思ってるでしょう?』
忌々しい女の言葉がふと蘇った。
真紅の口紅で縁取られた三日月が見下ろして、吟を嬲った女はジャスミンの香りがした。
『持たざる者を愛してくれるほど、世界は優しくないのよ』
覆いかぶさる複数人の、人間の皮を被った、非情かつ野蛮な獣たちの隙間から見上げた。
長い髪は黒く艶めき、細くしなやかな指で毛先をくるくると巻いて遊んでいる。女にとってそれは、余興でしかなく、時折向けられる『お前は卑しい』という視線が、この体を蝕む陵辱よりも遥かに屈辱的だった。
長い夜が明け、吟を迎えにきたのは王汀州だった。
いつもニヒルに笑ってみせる表情は無機質で、真剣な顔つきをしているのを意外に思った記憶がある。思考を奪う薬物の余韻と他人の汗と体液の臭い。――吟は粛清を行うだろうと思っていたし、死を覚悟した。紛い物の『獣』は『失敗作』なのだから。
いっそ、一思いに殺してくれ――。
そう頼んだものの、男は受諾しなかった。
股の間を覗き込んで、王汀州はやがて得意の表情に戻った。『つまらん酔狂だ』と吐き捨てるように言った。
『今頃、良い思いをした輩共は無に帰しているだろう。――なに、泰然の玩具にするだけさ』
寂れた路地裏の上空に、夜明けの光が射し込んだ。
残酷で、冷酷な朝日をいつまでも覚えている。
ホテルの駐車場には、黒塗りのくもり加工を施した特注の黒い車が、エンジン音をたてて停まっていた。
気怠くなるほどの、生ぬるく湿った空気はかすかに、雨と蒸された土の匂いを含んでいる。
冷房のよく効いた車内に身を滑らせれば、運転手である同じ年頃の護衛人である男が、バックミラー越しに話しかけた。
「おはようございます、小姐。……一緒に降りてこなかったんですか」
「……なぜ」
誰よりも根明な男が当たり前のように尋ねた。嫌味にも聞こえるそれも、男の護衛人はひねくれ者ではないので、いやらしさがない。吟は煩わしげに問いかえした。ジーハオは白い歯をみせて笑い、「彼の仕事ですからね」とそれらしい事を言った。
意図的な不機嫌を貫く吟を、彼らも気付いている。根ざす理由を後天的な『人間嫌い』と思っているだろうが、実際はそんなものよりも子供らしい。真島すらも、覚えているはずのない遠い過去を――必死に大切にしていることなど、酒の肴にもならない。
「テイシュウが勝手に言ってることでしょう。どう見たって、不本意な仕事よ」
「ああ、まあ。そんなものは百も承知です。……ええ」
ミラー越しにジーハオは、吟の髪が短くなっていることに触れようかと思案しただろう。けれどそれをやめてしまった。そうなる前に、彼の助手席に座るべくもうひとりの護衛人と、話の中心人物となっていた男が共に現れたからだった。気配をしると、吟は唇を結んだ。後部座席の反対側のドアが開かれると、男の挨拶が向けられた。
「おはようさん」
昨晩の『おやすみ』の続きである。きっと、男もそれを期待して、あるいは、それだけしか得られない会話を望めるかもしれないとあってのことだと、吟は思った。だが、意図的な不機嫌をとる建前上、二人の護衛人を前に羞恥が勝って続かなかった。
どうして気紛れに『おやすみ』などと返事したのか。心の隙間からはみ出ようとする『甘え』を戒めるよう、吟が窓の外へ顔を向けた。
高級中華料理店の扉が開かれる。
磨かれた木の丸いテーブルが敷き詰められるように点在している。中央のテーブルには一人の女が座っていた。
その女の周囲には黒スーツを着用した残党――かつての同胞たちが取り巻いている。誰一人、テーブルの椅子には座らず、来たるべき者を歓迎するように直立していた。女は、吟の姿を認めるとその艶のある声で出迎えた。――半年前、男たちを使って吟を弄んだ女である。
王汀州は実情を護衛人には告げず、内々に留めるようにと指示した。政治情勢の切り札にする目算があり、つまるところ、再三『上の指示』で日本撤退を図ると口では言うが、彼自身の意図がほとんど含まれているということだった。
理由なく日本から退けばよいものを、――戦争の理由を作っては各々の流通経路にする。何もかもを利用して、金を作る才に恵まれた男だった。
吟にとって、因縁の相手ともいえる女は中国語を操り、たおやかに笑ってみせた。
「いらっしゃいませ。――お待ちしておりました、小姐。お忙しい中ご足労いただき感謝いたしますわ」
「李春燕(リ・チュンイェン)挨拶はほどほどに。話を手短にする」
吟は椅子を自ら引いて座るなり、さっそく本題を切り出した。
「あら、せっかちなのね。――新顔がいるじゃない。彼はなんて名前なのかしら」
「――あなた方の進退についての話だ」
リ・チュンイェンの興味は後ろに立つ隻眼の男に向いた。
話し合いを有耶無耶にさせまいと、吟は声を強めた。女が光沢を放つ机の上を指先で叩くと、どこからともなく侍従のような男が現れて、茶を用意した。
「東方美人茶。お好きだと聞いたのだけれど、いかが?」
「リ・チュンイェン。話が先だ」
「話? そんなもの、とっくにおわかりでしょうに。――そうね、きっとあなたはまだ話し合いさえあれば、私達が考えを変えると思ってるわ。でもそれは間違ってる」
リ・チュンイェンは黒子のある口元を柔らかくもちあげて、男をその気にさせる性愛の眼差しを吟にも向けた。毅然として向き合う吟の瞳の奥にあるかすかな怯えを読み取ったようで、首を小さく傾けた。
「綺麗になったわね。……ねえ、あんなことになったけれど、立場のことを捨て置くなら、あなたのことを好ましく思っているのよ」
「……リ・チュンイェン。最終通告だ」
「恐い顔しないでよ。ふふ。王汀州の真似ね。あの人もそうやって、命令するのが好きだもの」
「こうなることを望んで、企てたのはあなただ」
リ・チュンイェンの掴みどころがない物言いに、吟は沈黙だけは選ばないように食らいついた。
吟の恥辱と悔恨をもたらす根源となった女は、その華やかな顔のなかでひと際目を惹く、二重瞼のの大きな瞳を眇めた。
「悪者役にするのは、簡単よ」と小さく呟いたかと思えば、また笑った。背後からその両脇を守り固めるように立つ、三人の気配を感じながら、もう一度名前を呼んだ。
「あなたは――私を疎ましく思っただろう。こうなることも予期できたはず。なぜそうした」
「なぜ、ですって? ――王吟、あなたは、愛と憎しみが背中合わせだって知っているかしら? お子様なあなたには、まだ早いかしら。それでも結構。――これは意趣返しなのよ、私なりの。あなた如きが、王汀州の片腕だなんてお笑い種。だからせいぜい――苦しめば?」
面白おかしく女は嗤う。
吟を陵辱した理由である。女が抱く、妬みと嫉み。
リ・チュンイェンの態度に堪忍袋の緒が切れたクゥシンが「最低ね」と吐いた。
「あら少尉。元同胞のよしみとしてもう少し加勢してくれたっていいじゃない。――あなただって、こんな小娘の命令を聞く羽目になるなんて、嫌でしょう? いくら王汀州が決めたことでもね。だけど、血盟状に名前があるってことは私達より上なのよ。急に現れて、大きな顔されるなんて、そっちのほうが耐えられない」
クゥシンは腹立たしそうに腰に手をあてて続けた。
「理由はそういうこと? フン。そんな理由で反対する程度の、とんだ腑抜け野郎どもを同胞だなんてこっちから願い下げだから。小姐が力不足なことは否めない。――けれど、大哥が素質を見出した上で決めたことに異議はない。大哥を信用しているからよ。あなたは、たった今、自分で信じていないことを証明したのよ」
痛快なクゥシンの指摘にリ・チュンイェンは声を荒げながら机を叩いた。
「――この、くされアマ!」
それが合図となり、四方八方から銃口が取り囲んだ。
背後で真島が息を呑んだ気配を感じ取った。もっともたじろいではならない矢面に立つ吟は、内心に募る恐怖を抑え込みながら、眉一つすら動かさずに「リ・チュンイェン」と平静を装って呼んだ。挑発を行ったクゥシンは脚に巻いたホルスターに手をかざしている。視線を往復させ、今か今かと銃撃戦に備えている。
勢いのまま立ち上がった女は、にやっと嗤うとあの日のように吟を見下ろした。
「この女を殺してしまったら、大哥はどんな風になるのかしら。ねえ――どう思う?」
「……さあ。……笑うんじゃないかな。 ……それが、お望みなんだろう」
「ええ、そうよ。そう! でもね、――腹が立つほど小生意気な娘ね。どうやって、大哥に取り入ったのかしら」
吟は目を伏せた。テーブルの上に出されたお茶の入った椀を手にとると、返答をしなかったことに燃え上がった女は、金切り声で「王吟」と叫んだ。吟が湯気の立ち上る茶器に鼻を近づけると、それが死への劇薬入りであるとすぐに理解した。
女は上塗りの化粧の色からはっきりわかるほど、頬を上気させ、激情に一区切りがついた様子で息を整えながら、冷たく見上げる吟に「なによ」と強がりを見せた。
たとえ、吟がこの場で死のうがそれでも構わなかった。
命とは有限の時間であり、人生とはその余興でしかない。この眼の前で年下の小娘に向かってはっきりと怒りをみせる女をむしろ、羨ましくさえもある。それほどまでに、彼女の思う王汀州への情は強く、必死に手を尽くして報復に走っている。
リ・チュンイェンは『生きている』に値する。吟は自己にその漲るような情熱が欠けている。死体がなんとなく、歩いているだけだ。
吟は消去法でこの組織に居続けている。それを本心から組織へ尽くす人間にしてみれば、おもしろくないはずだ。クゥシンにしても――リ・チュンイェンと根っこは同じである。彼女らは目敏く、聡明であるゆえに吟の怠慢を看破した。血盟状に血判を押した身分にふさわしくないと。王汀州は彼の秘密計画であった話を彼女らに振る舞うが、実際信じられていない。それほどまでに――男のカリスマ性が素晴らしいからだ。その男が選んだ女子供に期待するのは道理である。
王汀州は役職という身分の枷を吟につけている。それが、幸福であるわけがないのだが――そんなことを理解してほしいという期待はとうに薄れていた。諦観が表情にあらわれているのだろう。リ・チュンイェンは忌々しそうに侮蔑語を吐き捨てた。
「交渉決裂だな」
吟が小さく呟くなり、クゥシンが「伏せろ!」と英語で号令を下した。周囲を取り囲む男たちに向けて、クゥシンは先制を放つ。向かい側に立つリ・チュンイェンが銃を吟に向けようとしていた。吟はテーブルの縁を掴むとそれごとひっくり返した。それにより狙いが逸れた。ジーハオがすかさず女の方へ撃ち込んだが外れた。クゥシンは真島を向いて指示を下した。
「小姐を連れて遮蔽物へ!」
「わかった。――吟!」
真島の長い手が吟を引き寄せた。
すっぽりと広い体に覆われ、非常事態だというのに、昨日その手が肩に触れた記憶を呼び戻していた。
「走るで」
「え、ええ」
記憶の通りに、真島は手を吟の肩に回し走り出した。
入り口から中へと押し進もうと狙い撃つ者たちを、真島は与えられた銃で一掃していく。その鮮やかな動きに、自らの銃を取り出すことを忘れさせた。ほんのわずかに、彼の顔を見上げた。遠い昔、少女だった頃にみた、不良を退けた頃の姿に、不覚にも重なった。
薬莢が弾み落ち、火薬の臭いに満ちた廊下を走り抜ける。
事前の打ち合わせによって、避難場所には食料品を収めておく倉庫に決めてあった。一階の厨房奥にあるそこへ身を隠し、銃撃戦が鳴り止むのを待った。
入り口の扉前を物で立て塞ぎ、二人は距離をとった。本来はそれこそ密接な護衛に務めるべきだろうが、吟の態度がそうさせた。身勝手な回顧と憧憬に走る自覚を得ていた。浮上する『人間らしい感情』に戸惑っていた。とくに、密室で、二人きりというのは余計に意識させた。
「吟」
遠くで銃声が鳴っている。
中華料理店の食料品の倉庫とあって、刺激的な八角の臭いがした。
真島の呼びかけに対して、それが銃声によって聞こえなかったふりをした。――真島の存在が、リ・チュンイェンにあるとした『情熱』を呼び覚まそうとするのだ。人間として生きていた頃に戻れるような期待を、意思に反して抱いている。記憶は残っていても、決してどうにもならない。複雑な構造に絡まりあった感情に、吟自身どうしていいかわからない。
リロードの音が空間によく響いた。張り詰めた空気のなか、合図としていた回数のノックが扉から鳴った。いつの間にか、銃声は鳴り止んでいた。
真島は扉を防いでいた物を除けた。
「開けるで」
合図に返事はしなかった。真島は銃を構えながら扉に手をかけた。
扉の前には掃討が完了したクゥシンが立っていた。返り血を浴びているが怪我はないようだった。
「小姐。終わった」
「ごくろうさま」
「あの女だけが見つかってない」
わずかな動揺を隠すように唇を噛んだ。
冷静に取り繕って役割を終えなければならない。
「……そう。だとしても、彼女の私兵はほとんどいないはず」
リ・チュンイェンの手駒は今日のこの中華料理店が精一杯のはずだ。他の伏兵がいたとして、これ以上のリスクを取るには日数を要するだろう。それに――と、吟はスラックスのポケットの中に入っている、紙の感触を指先で確認した。つい先程の用意された茶碗の下にこっそり忍んで置かれていたものだった。未読だが、今後の進展に際しての報せであることは間違いなかった。
「小姐、どうする」
「一旦戻りましょう」
「わかりました。応援に処理を任せます。ジーハオが先に車の方に」
「ええ」
扉前で体ごと吟のほうへ向けるクゥシンの背後――廊下の奥に黒い影が差した。
それに気がついた時、声よりも先に体が前へ進んでいた。
「クゥシン!」
「な、シャオジ――」
時間にして一秒未満の刹那。
死角から飛び出た弾は、構えた右手の肉を抉るように掠めていった。それから残党の存在を認識した二人が一発、二発と影への射撃に入った。クゥシンは舌打ちをすると姿勢を屈めて走り出した。
「くそ。絶対に仕留める」
廊下の向こうから来る弾を避け、残党の黒い覆面の男を躊躇なく射殺した。
「大丈夫か」と、真島は尋ねた。確認するまでもなく右手は鮮血に染まっている。痛み――というよりも、一帯が燃えるような感覚に顔を歪ませれば、それが苦痛に映ったようだった。真島は持っていたハンカチを広げると手際よく腕を縛った。
「――あなたは、死にたいんですか」
戻ってきたクゥシンの言葉に心臓が跳ねた。
声音はどこまでも冷たい。万が一にも死んでいた可能性はクゥシンのほうにあった。一見すれば吟がそれを救ったようにみえるが、クゥシンは聡く本質を捉えたようだった。
「ええやろ、今そないな場合ちゃうで。はよ車んとこに行こうや」
「……私が先導します。真島さんは後方をお願いします」
幸運にも、真島の仲裁によって追撃は免れた。
先をゆくクゥシンの後ろを追う。針のむしろを歩いているみたいだった。