交渉決裂B



  ◆ ◆ ◆




 「それで、部屋にコモりっぱなしというわけダ」


 ホテルに帰還後。マレーシアとの契約を持って返ってきた首長らを囲んで、作戦の総括に入る手前、肝心の参謀役である王吟の姿はなかった。ジーハオは怪我をした吟の治療にあたっているため、兄弟の部屋にはいなない。
 そんななか、王兄弟の部屋には相変わらず、独特な花の茶の香りを燻ぶり、ちょうどクゥシンの報告を聞き終えた王汀州はロッキングチェアの上で、熱い茶を啜りながら鼻で笑った。


 「また、お前がいじめたんだろう。懲りない奴だ」
 「お言葉ですが、大哥」
 「ああ、ああ、皆まで言うな。俺も同じだと言いたいんだろ」
 「……忌憚なくいえば、小姐は、……不能かと」


 クゥシンがそう言うと、王汀州は冷笑を浮かべた。
 部屋の片隅で傾聴する真島は、その男の言う『契約』に従い案山子役だった。吟の前でだけの日本語がこんな時にまで使われている。真島は王汀州の視線に気がつき、この会話が真島に向けているものだと確信させた。


 「決めるのは俺だ」
 「――もちろんです。ですが、リ・チュンイェンも吟が急に昇格したことが気に食わなかったのが実情です。今後も同様のケースが発生しうるリスクがある。堅牢な組織には、危険因子を取り除くことが必要不可欠です」
 「――だ、そうだ。なあ、真島。お前なら、どうする?」


 壁に凭れて腕を組んでいた真島は顔を顰めた。
 非常に意地悪な問いだった。


 「案山子いうたんは、あんたやろ」
 「参考意見を示せ。……あいつと同じ日本人の意見というやつだ」
 「……あの娘は、なんや、寂しそうやろ。話を聞いたったらええんとちゃうか」
 「――だ、そうだ。クゥシン」


 人の回答を流用するやり方に、一言物申したくなるのを真島はぐっと堪えた。
 クゥシンは眉根を寄せ、不本意だと言わんばかりに大げさなため息をついた。


 「まともな会話が成立していればこうなっていない。――真島さんなんかシカトされまくり。向こうが拒んでいるんだから仕方ない」
 「エン・クゥシンよ。お前は決めつけが過ぎる。簡単に答えを出そうとする悪癖がある」


 王汀州に諫言されては、不承不承といった風にクゥシンは「是」と承諾した。
 その時、部屋の電話のコール音が反響した。クゥシンが受話器をとった。


 「もしもし……。请再说一遍。是、是……明白了」


 クゥシンは送話器を胸で塞ぎ、王汀州のほうを見た。
 ロッキングチェアから立ち、クゥシンから受話器を受け取った。


 「你好。阁下……」


 王汀州は電話口で喋りながら護衛人に指示を指で下した。きびきびとした動きでクゥシンは金庫を解錠し、中から小さな箱を取り出した。そして使わなくなった紙袋に詰め、箱を覆うように包装紙を被せた。
 ホテルの内線は、ホテル外からの外線に繋ぐことは不可能である。電話の相手はホテルのフロントを通じて掛けてきているということだ。

 流麗な中国語で商談をこなす王汀州は、泰然に人差し指をたて、ドアの方に向けた。
 同じようにしてクゥシンに護衛につくよう指示を出し、二人は『品物』を持って部屋から出ていってしまった。自然と残ったのは真島だけとなる。本物の部下でもないために割り振られる仕事はない。

 王汀州の唇の動きが止み、しばしの静寂が訪れる。
 そうして、男は次に聞き慣れた日本語を操った。


 「――ご無沙汰しています、閣下」


 真島は立ち聞きしていてよいものかと躊躇った。
 

 「……ええ、それで構いません。引き取った子供は我々が面倒をみます。ははは、ああ、ペドフィリアじゃない部下に任せますよ。――過酷とは? ――この期に及んで性善説を用いるのは卑怯者のすることです」


 込み入った内容に一度退室するべきだと身を翻した時、吟の治療に出ていたジーハオが部屋に入ってきていた。
 好青年はにっこりと笑うと「出られますか?」と小さく尋ねた。思わずしどろもどろな返事から、出任せの勢いで吟の容態について問いを口にした。


 「今はお休みになってます。出血量が多いので簡易的ですが輸血が必要で」
 「輸血?」


 真島は首を傾げた。まさかこの環境下で、輸血を行える設備が整うとは考えられない。
 ジーハオはその思考を読み取ったのか「まさか」とおどけた。


 「その方面に買いに行くんです」
 「わかった。早う行ったほうがええな。伝えとくわ」
 

 「それでは」と一礼をして、ジーハオは踵を返す。
 王汀州は日本語のまま、電話の向こうの人間に説得を試みている。
 

 「閣下、考えてもみてください。彼らは親に捨てられ、故国も喪った。徒人にもどったところで、待ち受けるのは難民として最底辺の生活だけです。どのみち男は軍事徴用され、女は兵士の慰み者になる。我々は一定の教育を施し、食事を与え、僅かな期間ではありますが幸福を提供します。……契約書にもサインなさったではありませんか。シー。閣下、そうです、その時のものです」
 


 しばしの応答を待ち、性格の悪い笑みをふっと浮かべたのであった。
 それによって相手が承諾したことを察して、真島は視線を男から外した。詮索はするな、という契約だが思索は自由である。
 たった一つの海を隔てた先の大陸の人間の考えつくものは、同じアウトローの世界でも常識外れだと思った。



 「ええ、それでは、また」

 受話器を落とした王汀州はテーブルの上にあるB4サイズの茶封筒とルームキーを手にした。吟の部屋のスペアキーだった。
 ジーハオについての伝言を口にしようとした真島を手で制した。


 「構わん。おおよそ検討つく。……どうした真島、お前も来るか」
 「吟になにするんや」
 「顔色を見るだけだ。行かないなら、クゥシンが戻ってくるのを待てばいい」


 含みのある言い方に、好奇心を擽られたことは間違いない。

 ベッドの上に穏やかに眠る吟の肌は青白く、死人を想起させた。右手には包帯が厚く巻かれている。二人の男は会話もなく見下ろした。
 沈黙に耐えかねたのは、真島の方だった。


 「――この娘が先に気ィついて飛び出したんや。クゥシンの姉ちゃんは、軍人やったんやろ。せやから自分が、許せへんかったんやと思うわ」
 「お前がそう思うなら、そうなんだろう」


 王汀州は部屋から持ってきた茶封筒を、書類の積み上がったテーブルの上に置いた。サイドチェストにあったバインダーを手に、何枚かの紙をめくった。カルテのような書式で、手書きのグラフ表には数字、各項目の所定の欄にアルファベットの羅列。それをみて嫌な想像が膨らんだ。『獣』という存在の片鱗――、人体実験を行っているのではないか。改造人間やSF映画の世界にしかないような、不気味で非人道的な何か。

 しかしそれは、質問できない決まりになっていた。
 部屋を見回してみると、それらしい道具は少ないがあった。ジーハオが手当に使ったと見られる医療行為の道具のなかには、小型の精密機械に顕微鏡と――、それらがさらなる想像を掻き立てるには十分だった。


 「真島。ジーハオが出てどれくらいになる」
 「二十分と少しや」
 「そうか」


 王汀州はジーハオの荷物の一つにあるバッグに手をかけた。特殊な細工がしてある箱を開くと、なかにドライアイスが入っているのか白い冷気が漂った。パッケージングされたアルコールの脱脂綿を、ピンセットでつまんで吟の左腕を拭った。ドライアイスの箱から一本の注射器をとれば、慣れた手つきで注射した。


 「止血したのはお前か」
 「ああ」
 「賢明な判断だ」
 「あ? ……おお、きに?」


 思いがけず褒められたことで、真島は目を丸くした。まさか、そんな言葉がこの男の口から飛び出すとは、夢でも視ているのではないか。素直に驚いた。ヤクザの世界では刃傷沙汰がつきもので、すぐに病院に飛び込めば助かることが殆どだが、理由があって病院にも入れない人間を匿うこともある。簡易的な処置にかけては、一般人よりも経験がある方だった。


 「血が止まりにくい体質。免疫機能が低下している。敗血症の確率が高くなる、というわけだ。型のあった血を探し回るのも厄介。こいつが怪我をして得することは殆どない。クゥシンの怒りはまっとうなものさ」


 王汀州は肩をすくめて笑ってみせた。
 部屋の扉がノックされた。真島が内から開けるとジーハオが息を弾ませて立っていた。
 

 「真島さんもいらっしゃいましたか。……失礼します」


 肩掛けのクーラーボックスをソファに置いて、ジーハオはてきぱきと輸血の準備に取り掛かった。
 元諜報部門出身ということは、日本での生活経験がある。おそらく、本職は医療行為を行える立場にあるとみえた。医療用手袋を装着したジーハオは真島の心を読んだのか「衛生兵の経験があるんです」といった。


 「日本に来て資格を取得しましたので、ご安心を」
 「ジーハオ、おしゃべりを控えろ」
 「ええ、大哥」


 彼が治療の専念に集中しはじめて、またその場がしずかになった。
 衛生兵ときいて、真っ先にアフガン戦争が浮かんだのは、クゥシンの前歴を知っていたからだった。二人の接点はおそらく戦争で、このチームも『戦争』のために組織されたものなのだ。王汀州の思い描く『国』とはどんな世界なのか。思い巡らせていくうちに、彼らに惹き込まれていることを自覚した。

 ハンガーをガートル台に代用し、輸血パックを吊り下げる。表面の青いラベルには黒字でO型陰性と表記されている。管を通じて赤黒い血液が吟の腕に入っていく。隣で一段落ついたといわんばかりに「今日はもう終いだ」と王汀州がいった。


 「ジーハオ、早いが夕食だ。鎮静剤を打ってある。しばらくは起きない。……お前も休憩を取れ」
 「……しばらくここにおってもええか」
 「勝手にしろ。メニューはこちらで決める」


 王汀州は腕を組み足早に部屋をあとにした。 
 そのほかの雑務をこなすジーハオの邪魔をしないよう、真島はテーブルの方にある椅子に腰掛けた。


 「ああ見えて心配性だと思うんですよ、大哥は」
 「……ああ、せやな」


 冷酷に思える男の本性はどれが本物なのか不明だが、腹心と認めた者にはそれ相応の情けがあると信じたい。裏社会に属する者であっても血の通った人間だ。優しいと思えるようでも、悪人であり、冷血漢にもなにかを愛でる心は残っている。

 会合先にいたリ・チュンイェンという女の言葉は、たとえその意味を正確に知ることは難しくとも、吟に向けられた罵詈雑言の類いであることは間違いなかった。そして彼女が、王汀州とその他の護衛人たちや、そのリ・チュンイェンのような情熱を、持ち合わせていないことも不思議だった。言葉の乏しい彼女が何を考えているかなど、誰にも考え及ばない未知である。真島以外の者とは疎通ができているといっても、実際のところ、本当の気持ちを打ち明けられるような人間はいないのだろう。

 真島には、彼女が諦めているように思えた。
 他の者たちはそれぞれの立場から、吟に理想を求めている。彼女もそれに気付いていることだが、上手く行っていない。


 「なあ、家族はおるんか?」
 「……家族、ですか。それは、私の?」
 「ああ」
 「親兄弟は国にいます。文化大革命で父が投獄されまして。母が五人兄弟を育てたんです。私が一番末っ子です。大変でした。縁あって大哥に拾われたんです」
 「苦労しとるんやのう」


 ジーハオは苦笑した。
 中国の内政に落ち着きなどない。都市部と地方、民族と貧富の格差、差別。日本の比ではない壮絶な世界が広がっている。大飢餓には兄弟を食らい生き延びる子供がいたときく。


 「その娘も、そないな苦労してきたんやろうな。吟にも家族がおるんやろ?」
 「小姐は……どうでしょう。あまり聞いたことがないですね。私が組織に入った頃にはいらっしゃいましたから」
 

 真島はそうかと納得した。
 見かけ二十代前半にして、真島が穴倉にいた頃には、十代半ばであったのは確かなようだ。中国残留日本人の二世や三世の孤児かもしれない――、そんな思考の果てにどこか薄暗く儚い女が、半年前に邂逅した盲目の彼女に重なって見えた。


 「真島さんは」
 「ん? ああ――俺は親の顔はよう覚えとらん。せやから、恋しいとは思わへん」


 元々ないものと、あるものを失う感覚は異なる。寂しいという感情はせめて似ているのかもしれない。
 ジーハオは「大変でしたね」と言った。真島は微かに笑った。
 

 
 



 薄闇のなか瞼を持ち上げ、視界を彷徨わせると、いるはずの彼女がいなくなっていた。
 急激な覚醒と共に飛び跳ねるように起きれば、その部屋には真島一人だけだった。時計の時刻は二十二時を過ぎた頃。
 吟が眠っていたベッドの脇にある、窓のカーテンレールに吊るされていた輸血パックの存在はない。真島がうたた寝から熟睡しているうちに、ジーハオが処置を済ませたのだろう。


 「吟?」

 王兄弟の部屋に行っているのかもしれない。しかし、真島は嫌な予感から胸騒ぎがした。
 部屋の内線電話で彼らの部屋のコールを鳴らしたが、待てども応答の気配はない。潔く諦めて、護衛人たちの部屋に飛ばす。数コール以内につながった。


 「もしもし」
 「ジーハオか? 吟はそっちにおるか」
 「真島さんですか、おはようございます。小姐が、部屋にいらっしゃいませんか?」
 「ああ。あの二人はどないしたんや、部屋におらんみたいやねんけど」
 「お二方は、夕方頃に緊急で入った取引です。……私がそちらで最後に措置を完了したのが八時頃になります」


 ジーハオの声はわずかに硬い。
 彼も真島が部屋にいるからと油断をしたようだった。ホテルを抜け出したと考えるのは早計かもしれない。だが、昼間のあの様子を鑑みれば思いつめて――ということもあり得る。


 「心当たりは? 行きそうな場所は……」
 「……いいえ、まったく。……ホテルのフロントに問い合わせ、防犯カメラから探ります。こちら側の人間を使って探らせますので、真島さんは部屋でお待ち下さい。分かり次第連絡します」


 ジーハオはそういうと電話を切った。
 真島は嘆息した。吟に出会って、二日目。穴倉の時期を含めれば長いが、会話は成立せず、心の内を知ることなど出来るはずがない。彼女のことを、何も知らない。誰も彼も知らない。唯一、もっとも接点のある王汀州には理解があるかもしれないが――あの男が特別に意志を尊重し、幸福を授けているようには見えなかった。

 待て、と言われて大人しく待てるわけもなく。
 真島は部屋の灯りをつけ辺りを見回した。といっても、手荷物を持つような女でもなく、鞄はクゥシンが大量に買ってきたという新品のものがクローゼットに収まっている。テーブルの上に変わったところはなく、あるのは辞典や書類、走り書きの簡単な字の練習に使ったメモ程度で情報に乏しく頭を抱えた。


 「はあ、アカン」


 一旦落ち着こうとソファに凭れた。ふと視界の端に映ったのは小さなゴミ箱だった。
 ソファの脇にあるそのゴミ箱の中には、ビニール袋に処置で使われたものや、血のついたガーゼといったものがひと纏めにされている。それの上に小さなクズ紙が一つくしゃくしゃに丸められていた。今日は午前中に会合に出かけたため、室内清掃が入っている。すなわち、ホテルの部屋に戻ってきてから以降のゴミしか入っていないということになる。

 真島は手で丸まった紙を広げた。
 簡易的なメモだが違和感があった。はっきりわかるほど、その字はテーブルの上にあるメモの筆跡とは違ったのだ。


 「『千束・4』て」

 ひねりもなく順当に考えれば、数字は住所を示しているともとれる。真島は首を捻った。当該の住所先と吟の相関がいまいち掴めなかったからだ。いわば、歴史的にも有名な風俗街のど真ん中であり、男ならいざ知れず、女が行く場所にはそぐわない。この紙くずの書き手が指定した場所と捉えるにせよ、女相手の接待場所とは言い難い。考えれば考えるほど奇妙である。

 振り出しに戻り、これを吟が書いたメモと考えるのも不自然だ。
 真島は、内線電話のジーハオらの部屋の番号を押した。



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