協力者



  ◇ ◇ ◇





 「顔色が悪いわ、吟」
 「……要件を早く」


 銃創の痛みと空腹、鎮静剤の余韻に体調は最悪だった。
 ソープランド街の一角にある小さなバー。諜報部門の特別監査の任務を受け、本部から派遣された元スパイである、王汀州がスカウトした女で、見かけはごくごく普通の可もなく不可もなくといった風貌をしている。

 ホテルで意識を取り戻した頃にはすっかり日が暮れており、なぜか部屋には真島が一人眠っていた。ポケットにあった紙切れを開くと、呼び出し場所が記されていた。定期報告の場は毎回変更されるため、元スパイのチャン・ホンファの知り合いの店を転々としている。


 「せっかちね。汀州なら――まずこの部屋の趣を褒めてくれるわ」
 「趣味が悪い」
 「うふふ。はっきり言うわね。でも、ねえ――知っていたでしょう、私が香港にいた頃から……気にかけていたこと」
 「……」


 チャン・ホンファは目を細めた。普通とはいえ愛嬌のある顔つきをしている。普段は中国大使館に勤務している。人の流れを掴み、内外の動向を注視する役割を担っている。直属の部下を国籍・人種を問わず数百人持ち、不法入国者をも把握している。一言でいえば、この女に人を追わせれば一流である。


 そして、彼女はレズビアンだった。
 吟が穴倉から出てまもなく。正式に組織に加入した後に行われた秘密会議。チャン・ホンファとは香港にいた頃から顔を合わせていたが、吟を特別視していることは知らなかった。なぜか自分に興味を示し、迎合してくれる相手を恐ろしいと感じたのだ。

 正直にいえば今でさえ、この女が自己の利益のために近づいてくる人物であるかもしれない、といった疑いを持っている。例の強姦事件の実行をリ・チュンイェンに指揮した可能性に、吟は頑なにホンファを信じることができなかった。

 その潔白の証明に――リ・チュンイェンの監視については、個別で報告を直々に行うようにさせていたのだった。
 バーのカウンターの隅で、人払いを済ませて他の客は一人もいないのに、ホンファの息遣いがかすかに頬を掠める。香水はつけておらず、賑やかな時代に負けず劣らずの鮮やかな口紅も、シャドウも、イヤリングもない。地味な日本人を装って生きている彼女と、中国人を装って生きる吟は同じであって対照的だった。



 「今日の作戦が成功してよかったわ。リ・チュンイェンの居場所はちゃんと把握してる。それが私の仕事。――吟、一度でいいのよ。あなたがそんな趣味でないことくらい知ってる」


 吟はちらりと隣に座るホンファをみた。
 貫き通すほどの強い眼差しをしていた。それが、心のなかで燻り続ける男によく似ていて泣き出しそうになった。



 「私は結婚もして、子供だっているわ。そうして演じていないと上手く生きていけないからよ。――好きだと思った人に一生振り向いてもらえないだなんて哀れだと思わない?」
 「チャン・ホンファ」
 「……党の競売に勝ったわ。あなたの見立通り上手く行った。名義は汀州の名前を借りたけれど、いずれあなたのものになるはずよ。汀州には夕方連絡を差し上げたわ。……賭けに勝ったのに、嬉しくないの?」
 

 賭け、というのは一つの宣言だった。
 リ・チュンイェンの謀略に対する、雪辱を果たすため一石を投じた。もし、失敗すれば『縊死する』と、ホンファに告げたのだ。


 ホンファは非常によく働いてくれた。リ・チュンイェンとは通じていないこと、本省の本党が財政建て直しにより企業を競売にかけ、その一部を手中に収めるということが目的だった。表向きは陸軍幹部が落札したことになっているが買収済みである。
 青幇は本党が大陸を征服した際、台湾や香港に逃れた。頭目らが亡くなり後継者がおらずいよいよ組織も消滅かと思われた時、今の老大がその後を引き継いだ。名を変えたが実質的な後継者である。

 蒋介石の時代の屈辱を晴らす計画として、本件は水面下で動いていたのだった。
 計画には旧日本軍の戦争裁判を逃れた影の立役者たちも賛同し、戦後最大の巨大計画であり――生き別れた兄弟が力を結ぶためのものだった。その計画を実行すると決断を下したのは、吟だった。もし事が明らかになれば、大衆の前で首を刎ねられるのは避けられないだろう。


 どうせ、賭けは失敗する――そう思って大見得を切ったのだが不運にも実を結んでしまった。
 死ぬ理由を正当化するためが、いよいよ死ねなくなってしまった。――死にたいのならば勝手に死ねばいいのに、吟は己を深く呪った。こんな組織とはいえ自分を拾った人間を無下には扱えなかった。つまりは、甘いのだ。つくづく甘い性格をしている。


 今計画から逃れれば、心の底で会いたいと思いながら、危害を加えることを憂慮して憚られる祖父母たちさえも粛清の対象になる。
 重大な戦争犯罪、政治犯罪の一端を担う重圧が押し寄せてくる。軽率な死は許されない。それが、今夜――ホンファの報告で確定してしまった。もちろん、この話はトップシークレットで、知っているのは血盟状に名を連ねる幹部クラスのみとなる。
 


 「リ・チュンイェンは……」
 「埼玉の方にいる。この数日でカタをつけるつもりよ。東京は見張ってるから、独り歩きは難しいわ。手駒が減って堪えてる。――ねえ、何か飲む?」
 「アルコールは、のめない」
 「わかってるわ。野菜ジュースならあるけど」


 言い終わるよりもはやく、ホンファはカウンターの向こうにある冷蔵庫から、パック入りの野菜ジュースを二本取りだした。吟はお礼を述べながらストローを突き刺した。ひと口を飲み下すのもやっとだった。


 「恐いのね」


 ホンファは緊張を読み取った。
 もうすでに彼女の潔白は証明されていた。けれど良心に従って、その愛に報いることはできなかった。下手を打ち真っ先に標的に上げられる関係者に加えたくなかった。あくまでも同じ幹部同士の提携関係に留める。お互いのためだった。


 「本部の評価は今日から変わる。あなたは、世界最大の貿易会社『海宝大運』の筆頭株主。まさしく大運河の覇者よ。祝杯が野菜ジュースなのが残念だけれど!」


 ホンファは声を弾ませた。
 『藍華蓮』――もとい青幇は、運河を利用した水産業から興った秘密結社であり、原点回帰であり悲願成就といってよかった。彼女がその素晴らしさに感動するのも無理はない。「乾杯」ともう一本の野菜ジュースを吟のものにあてて、ホンファもストローを吸った。



 「あの女の始末、私がしようか」
 「ホンファ。……それは、いい。……自分でする」
 「その腕で? ホテルの近くで護衛人が緊急マニュアルの合図を出したわ。輸血したんでしょ」
 「さすが、耳が早い」

 吟は自嘲気味に笑った。
 

 「数日後、香港から迎えが来るわ。出港式には出資者の元財閥、旧華族――」
 「いい、言わないで」
 「そう。でもよく覚えておいて。彼らは、あなたが日本人だから出資したの」


 吟は息を詰まらせた。
 民族の野望を、結託を、身勝手な期待を課せられて肩が重くなった。――きっと、王汀州の野望はそこにあったのだろう。吟を日本に連れてきた最大の理由は、商談を成立させるためだ。日本の反社会的勢力との直接交渉から身を引くのも、日本の中枢と渡り合うための予防線であり、すべては彼の策略通りに動いている。

 占領下にある国々を手中に収め、国をつくる。
 親日家を装い、賛同者を募った。――とても、恐ろしい男だ。

 ジュースが半分にまで減ったところで、店の電話が鳴った。ホンファは一度だけ真顔になったが、すぐに微笑んだ。受話器ををとると、指で鼻をつまみ少し訛った日本語を発した。中国語を母国語にする人間の癖を消し、東南アジア訛りを出すためだと以前教えてくれた。
 随分な役者だった。吟が残った半分を吸い始めたところで、店の扉が開かれた。そしてその開口一番に目を瞠った。


 「お、おった。吟! 探したで」
 「――っ!」


 興奮した犬のような喜色を顔に浮かべ、駆け寄ってくるなり、ハイスツールの上に座っている吟を抱きしめた。声にならない悲鳴をあげ、それに気がついたホンファは、とっさに不明瞭な言葉で叫んだ。 


 「點解!? 呢個人係邊個――!!」
 「ほ、ホンファ」
 「ちょっ、姉ちゃん、包丁投げんなや!」


 癇癪の勢いに任せて、包丁が恐ろしい角度から飛んでいく。それが来訪者、真島の顔の真横を通り過ぎると、木の扉へダーツのごとく突き刺さった。次は銃を取り出しかねないと判断した吟は、真島の腕の中から抜けるように、ハイスツールからひょいと飛び降りた。
 ホンファは目を白黒させて、吟に詰め寄った。


 「し、しぇ、什么、什么意思?」
 「ど、どういう意味って……」
 

 しどろもどろな吟では答えにならないと思ったホンファは、真島の胸を拳骨で小突いた。


 「你、情人?!」
 「はあ」
 「あんたは恋人かって聞いてんの――!」
 「はあ――?!」
 

 慮外な真島の反応に、羞恥の混じった焦燥感によって、吟の体はぴくりと揺らいだ。
 事情の説明を図ろうにも、ホンファの顔は鬼のように赤く、目はつり上がっている。真島は「なんで中国人の姉チャンはみんな怖いねん」と諦めの境地に入っている。


 「チャン・ホンファ。猿ぐつわをかませるぞ」
 「王汀州!」


 開かれた宵闇から、黒いチャンパオ姿の男が厳しい声で戒めた。王汀州だった。扉を閉めると刺さった包丁を逆手に抜き取った。そのままカウンターの上に放り出し、壁際にあるL字型のソファに腰掛け、吸いかけのパイプで一服すると、にやっと笑った。


 「来る途中でジーハオに会った。この店に電話を寄越したそうじゃないか、タイ語訛りの日本語で女が出たと思ったら、急に広東語に変わり、お次は普通話ときた。そんなやつがどうして、売春窟にある安いバーの電話番なんかしているんだと言っていたぞ」
 「ア、アイヤー……。こ、この男が吟にすり寄るから、チィンレェンかどうか聞いてやったのよ!」
 「すり寄るて……俺は犬か! 心配しとったんじゃ」


 ホンファは気に食わない様子で「うぅ〜、ワンワン!」と犬の鳴き真似をした。
 ほのかに甘い果実の煙が頬に触れる。王汀州が吟へ声をかけた。
 

 「吟、チャン・ホンファから聞いたな?」
 「……ええ」
 「明日の夜、ホテルにて約定の署名式だ。相手方が来る。まともな服を着ろ。無ければ明るいうちに買いに行け」
 「クゥシンの買った服がある」
 「あれはダメだ。出資者も来る。この意味がわかるな」


 矢継ぎ早に指示を下す男に向かって、不貞腐れた声を出した。何もかもが思い通りで、結局自分はその傀儡でしかあらず、せめて小さな抵抗を見せようと代替策を打ち明けるも、あっさりと却下されてしまう。

 王汀州の言いたいことはわかる。
 出資者は、ホンファの言ったように日本人で、彼らは吟が日本人だから計画に賛同し多額の金銭を賭けたのだ。その期待を損なうなという意味である。そんな彼らがほしいのは、吟が日本人であるという証明だろう。ドレスコードはこの時点で決定していた。


 「私も行っていいですか」


 沈痛な面差しの吟に代わり、明朗な声でホンファが手を挙げた。
 王汀州は目を眇めて呆れた声でいった。


 「チャン・ホンファ。お前はリ・チュンイェンの監視だ。リークを防ぎ、厳戒態勢で警備にあたれ。台無しにしたら一〇〇億ドルが紙くずになるぞ。全員A級戦犯で一族諸共、公開処刑で銃殺だ。黙ってひき肉にされたほうがマシさ」
 「アイヤー……ブラックジョーク、洒落にならない」


 心臓に悪い冗談にもならない話にホンファは唇を尖らせた。
 カウンターに寄りかかって話を傍聴している真島を、不可解に思ったのか腰に手をあてしげしげと眺めた。


 「お前ニホンジン、ヤクザか?」
 「訳アリで預かってもらっとるだけや」


 興味深く頭のてっぺんから、靴のつま先まで吟味し唸った。


 「ン―、どっかで、見たことある顔してるネ」
 「東城会の嶋野組におる。っちゅうか、姉チャンわざとカタコトで喋っとるやろ」
 「あァー! よろし、よろし。有名人だから。名前しってるヨ。真島って名前よ。またヤラカシタの?」
 「またって何やねん!」
 「ワンワン、おもしろい男ネ」
 「おもろないわ。ワンワンやめろや」


 青筋を浮かべ吠える真島に対して、ホンファはケラケラと愉快に笑う。切り立った空気を融解させるやり取りを眺めていると、何気なく真島と視線が交わった。


 「なんや?」
 「吟、もしかして笑ってる……?」
 「え……?」


 自身のことに指で顔に触れる。吟は感情と行動の乖離に驚いていた。
 『楽しい』などと。思うはずがないのに。どういえばいいのか、ためらいがちに誤魔化した。


 「……お腹がすいただけ」
 「あらそう。それじゃあ、何か作るわ。――オニーサンたちもついでに食べてって〜」
 「ホンファ、ここ知り合いの店じゃなかったの?」
 「そうよ〜。でもお客さんに出すわけじゃあないから。ヘーキヘーキ。吟、鉄分とらなきゃね! レバニラ炒め! それとしじみの味噌汁よ!」


 おどけてホンファは鼻をつまむと、タイ語訛りの日本語――おそらくこの店の店主のモノマネをした。
 こんな時間に食材が手に入るのだろうかと思案しつつ、促されるまま四人がけのテーブル席に座った。
 王汀州は電話を借りて、先に帰したジーハオに連絡をいれていた。今後の進展。明日の予定、段取り。彼の思い描いた細かいシナリオが、現実になっていく。


 「どう? 美味しい? ミックスジュース作ったよ」
 「おいしい」


 果実をふんだんに使いミキサーにかけた、お手製のミックスジュース。
 賛辞を贈るとホンファは照れ臭そうに「スイッチ押しただけ」と笑った。


 「チャン・ホンファ、飯はないのか」
 「ウン。電子レンジでチンするやつならいっぱいあるヨ」
 「お、姉チャン。パックご飯は二回チンすると美味いで〜」
 

 二人の中国人から感嘆のため息がもれた。
 茶を飲む時、食事の時は無礼講でも構わない距離感は、王汀州がまるで善良な性格を持っているのだという錯覚を起こす。――ホンファお手製のレバニラ炒めを、スプーンを使って不器用な手つきで口へ運ぶ。緊張感はまだ残っているが、居心地の良さを覚えはじめていた。


 左隣に座る冷酷な男と虐げられてきた過去を、とうてい赦すことはできない。
 向かい側にいる未練と憧憬を残す男を、忘れ去ることなど出来やしない。
 ひたむきに愛を示す女に見合うほどの、愛を与えられない。

 吟は、何もかもに正解を与えることができない己を恥じた。
 
 吉原の混沌とした、ソープランドのひしめく合間にある、小さなバー。
 人生を変えた男が二人、疑っていた女が一人と、同じ卓について、遅い夕食を共にしている。
 それは、とてもとても、不思議な時間だった。




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