1989年 7月7日


  ◆ ◆ ◆

 


 朝十時。

 真島は、内線のコールで目覚めた。
 深夜零時過ぎにホテルに戻り、吟が部屋に戻るのを見送った。シャワーを浴びてベッドに入ったのは午前一時。目まぐるしい変化と緊張の連続に、疲労が溜まっていることは言うまでもない。

 習慣になっている数コール以内の受電に、とりあえず握った受話器を耳に持っていくと、護衛人のエン・ジーハオの挨拶が響いた。


 「おはようございます、真島さん。――あ、もしや、おやすみ中でしたか。申し訳ございません」
 「あ、あぁ――、いや謝らんといてくれ。用件きくで」
 「はい。大哥からでして。小姐の買い物に同行せよと」


 「あぁ」と真島は空返事した。昨晩にたしか、今日のための服を買いに行くようにと吟に言っていた。なにも真島でなくとも適任者はいるはずなのだが。口を開くとあくびがこみ上げてくる気配にぐっと噛み殺した。


 「クゥシンは? 女の子同士やろ。お洋服はネーチャンのほうが詳しいんとちゃう?」
 「ええ、それは、そうだと思います。……私どもも夜からの式の準備で忙しいので、真島さんが用命向きと考えられたのではないでしょうか」
 「そうか、そうやろなぁ。……悪いの。時間取らせたわ。あとで吟の部屋行けばええんか?」
 「小姐も先ほど起床されたので――そうですね、十一時十五分に。大哥らの部屋までよろしくおねがいします」
 「わかった」


 受話器を置いた。サイドチェストにもってきた置き時計を一瞥し、ベッドから降りた。
 テレビを点け、午前の主婦向けの料理番組が映った。『七夕のちらし寿司の作り方』とテロップが表示されており、二人の女が簡易キッチンでその支度をしている。


 「七夕か……、あっという間やの」


 リモコンを操作し公共放送に切り替える。
 『日の丸航機HM774便・日本海墜落事故』のニュースがやっていた。
 エンジントラブルにより日本海方面に着水し、乗員乗客合わせて一〇二名のうち半数以上が亡くなった事故から八年。生存者へのインタビューと、事故現場に最も近い能登半島の輪島に作られた追悼碑の映像が流れた。

 そういえばそんな事故もあった、とぼんやりと思い出して毎年この季節を迎えるのは、八月にある終戦の日のような、一つの風物詩のようであった。同時に、ニュースにすら乗らない重大なことが、世の中には溢れていて、自分はその渦中を傍目から見守る立場にいる。真島の取り巻く環境は日常からそういうものだが、今回は比類のない出来事の一つといえた。

 ――親父である嶋野ももちろん、属する東城会とて把握していない。一部の特権階級と黒社会の巨大な陰謀工作の一端を垣間見る。もちろん、交わした契約通りに口外は許されない。その前に消されることも間違いない。墓場まで持っていく秘密を勝手に増やされたのである。

 テーブルの上にあるタバコの箱から一本取り出した。気休めに吸った。そうでもしなければ、これから吟を連れて外を歩くのに支障が出てしまうからだった。
 
 ――昨日、はじめて彼女の人間らしい表情をみた。
 常になにかに傷ついているようなそれが、ほんの僅かに和らいだのだ。一緒にいたチャン・ホンファという若い女はそんな彼女が『笑った』といったが。もしも、ほんとうに笑っていたのだとするならば、喜ばしいことである。

 真島にできることは少ない。辛い人生にも、受けた傷の痛みも、代わってやることはできない。
 それでも――少しでも穏やかに過ごせるように気楽に構え、大事な局面では守ってやることはできる。だから、吟の前で暗い顔をしないための一服なのだ。




 

 「いい朝だな。眠れたか、真島」
 「おはようさん。……えらいご機嫌やのう」
 「状況としてそうでもないが、気の持ちようだ」


 王泰然によって開かれた扉の向こうでは、バスローブ姿の大男がパイプを吹かしながら、ロッキングチェアの揺られている。一見優雅にもみえるが部屋の散らかり具合から察するに、昨晩のまま一睡もしていない様子だった。


 「吟はまだだ。包帯を替えてからこっちに来る。――そうだ、お前に一つ教えておかねばならんな」
 「なんや」
 「合図さ。我々の中での共通のサイン。いざという時に使える。手を出せ」


 口頭の指示通りに真島は右手を出した。手本である王汀州は自らの手のひらを水平にし、表裏を数回上下させた。それを見様見真似でなぞると、「それでいい」と納得がいったようだった。


 「『匿え』、あるいは『隠せ』と使う。街なかにいる同胞はサインをしっている。幹部クラスの顔は覚えてるから、お前一人でいるところで使っても効力はない。吟になにかあった時には代わりにサインを出せ。そうすることで俺に情報が回ってくるようになってる」
 

 真島は頷いた。
 リ・チュンイェンのことがある。彼らの組織内では私服姿の構成員が、厳戒態勢で街に散らばっているのだろう。そして行動記録は逐一、王汀州へ報告されるという流れになっている。安全を最優先に考えるなら、そもそもホテルから出なければいいのだが。考えを読み取ったと思しきニヒルな王はフン、と鼻を鳴らした。


 「プロモーションだ。……提供者たちのご機嫌取りも仕事のうちさ。そのために睡眠を削ってリストアップしたのだから俺は働き者だ」
 「俺モ付き合わされタがな」
 「お前は途中から寝ていたくせに。明け方の四時にそれが盲点だと気がついた。なぜなら、我々よりももっとも詳しいやつがいたんだと忘れていたんだ」


 王汀州の言動は要領を得ない。――が、その目が真島を捉えた。
 「は?」と声を出せば、そういうことだと鷹揚に頷いた。


 「真島、女の買い物はどこが定番だ」
 「どこ、て。……百貨店か?」
 「そうだ。大抵のものは揃う。お前に頼みたいのはその目利きだ。我々にはこの国の伝統衣装に関しての見識がない。吟には馴染みが薄い。好きに選べといって見当外れのものを着られては困る。――むしろ、お前の本分だろう」


 冠婚葬祭に義理事――神道行事に則ることの多い仕事柄。馴染み深いといえるのだが、男が女物の着物を誂える機会はそうない。吟が着物についてどれくらいの理解があるか、それを一切ないとした上で王汀州は真島を推薦しているのだろう。晴れ着くらい好きに選べばいいだろうに――そう一筋縄ではいかない理由が、彼のいう『提供者たちのご機嫌取り』なのだろう。


 「リストアップしたんはどれや」
 「これだ。上にある名前ほど優先順位が高い。大きく分けて三つの派閥がある。上から二番目については宝飾店を経営している。アクセサリーは一番最後に選べばいいだろう」
 「着物にアクセサリーはあんましつけへんで」
 「では、それに代わるものを考えろ」


 A4サイズの紙二枚にボールペンで書かれた文字の羅列は、出資者たちが表で経営する企業名とその分類だった。結婚式に出すビールの銘柄を、出席者の会社の系列によって変更するようなものだと得心した。王汀州が求めていることは、それら三つの派閥がそれぞれちょうどよく納得できるような配分でコーディネートをすることである。


 「途方も無いと嘆くには早い。出資者はそれぞれ私鉄企業の筆頭株主だ。これで手を打つ。その系列の百貨店で買えば諍いは避けられる」
 「あ、ああ……」
 「……俺は妥協しない。今日のチップは多めに弾む。いいな、真島」
 

 意志の強い声音が念を押すように言った。
 真島はまさかここにきて、蒼天堀のキャバクラ経営で磨いたドレスアップ技術が活きるとは思わなかった。それに、条件が予め決まっていることで選びやすくなっている。憂慮することといえば――。


 「予算は、いくらや?」
 「気にするな」


 テーブルの上に放り出されていた本革のカードケース。その中から一枚のカードを見せた。ブラックカードだった。真島は目を瞠った。正規経路の代物でないにせよ、審査を欺くほどの工作を経て所持しているのだから大したものだ。



 「おはようございます、王大哥。――小姐、それでは」
 「ありがとう」


 玄関のほうをみれば吟が来ていた。ジーハオは軽く頭を下げ部屋を出ていった。
 ロッキングチェアが一度揺れた。パイプの中で盛り上がる葉をタンパーで押しこむ。煙をゆらりと燻らせて――挨拶もなく「吟」と呼ぶなり、カードの入ったケースを手渡した。

 「今朝届いたばかりだ。失くすなよ。――真島と買いに行け。門限は、そうだな、一七時。一八時から開場だが、その前に挨拶にいらっしゃるだろう。買ったものはその場で着替えてこい」
 「テイシュウ、時間は足りるの?」
 「真島にリストを渡した。出たとこ勝負というやつだが――どうした」


 吟はテーブルの上、ソファの上の、不眠不休の徹夜の痕跡となっているカタログを拾い上げた。
 

 「……無謀すぎる。電話をかけて在庫の確認よ。ほんとうはオーダーメイドのほうが一番いいでしょうけど、行きあたりばったりでは計画倒れする」
 「ふん。……随分調子がいいな。……電話は内線からで構わない。料金が上乗せになるだけだ。ともかく俺は寝る。あとは真島に聞け――ああそうだ、飯を先に食べておけ。腹を空かせて倒れられては困る」


 注文の多い司令塔は、パイプに溜まった葉を灰皿の上に掻き出し、いよいよ就寝の気配を漂わせている。
 吟は呆れた顔つきでため息をついた。カタログを腕に抱え真島をちらりと見て玄関へと向かう。それにならって追いかけた。

 吟は自室へ戻ろうといった様子だったが、黒いタイトスカートのポケットを探るなり「……うう」と呻いた。

 
 「どないしたん」
 「……カギを、部屋に忘れてきた」
 「スペアキーあるやろ」


 真島の助言に無言で納得した吟は、今し方出てきた王兄弟の部屋をノックした。少しの間を置いて扉は開いた。


 「ナンダ。俺も疲れタから寝ルんだが」
 「スペアキー持ってない」
 「アー。ジーハオとクゥシンが持ってイル。ココにはナイ」


 掌をパッと開くジェスチャーをして王泰然は「それじゃあナ」と挨拶した。締まりかけるドアに足を挟み込み「ピッキングの道具を出して」と頼めば胡乱な顔つきに変わった。


 「ヤメロ、カメラに映る。ジーハオを呼べばイイダロ」
 「いいから」


 王泰然は渋々といった風に道具を吟に渡すと「今度こそ寝ルゾ」と宣言した。
 


 「……部屋開けて」
 「あ? 俺がするんか?」
 「違う。自分の部屋を開けて」
 「……そういうことやな。ええで」


 二つの部屋がコネクティングルームとなっている構造上、その接続部分にある扉を解錠するつもりらしい。真島は自室の部屋を開け吟を中へ通した。迷いのない足取りで接続された扉の前に立つと特殊な工具で解錠した。一分もかからず終えた手際の良さ。彼女が常習犯であることを示唆していた。


 「先に飯にするか?」
 「その紙、貸して。……下のカフェでクラブハウスサンドイッチ、ハーブティー・ホットのテイクアウト」
 「……ひひ。わかった。ほな、いってくるわ」


 気がつけば、あれほど口を聞きたがらなかった彼女と喋っている。そうでもしないと支障をきたすと判断したのか、あるいは心境の変化が訪れたのか。どちらにしても、真島にはそれが面映い。癖を引きずった笑いをこぼすと、吟は睨んだが何も言わなかった。








  ◇ ◇ ◇




 季節は夏。軽装する大衆の合間に、振袖姿の女と眼帯姿の男は嫌に目立った。
 もちろん想定内だったとはいえ、数多の好奇心から容赦なくぶつけられる視線――動物園の客寄せパンダの如く、格好の的になる居心地の悪さに吟は今すぐにでもホテルに帰りたいと内心嘆いた。

 つかず離れずの距離を保って後ろについてくる真島は嫌味なく、吟の振袖姿を褒めた。


 『よう似合っとる』


 その男の性格を考えれば、自然な社交辞令であるが、そう言われて悪い気はしないものだった。

 若者が好むような派手な色味ではなく、白地に松竹梅の図柄。落ち着きのある温かい色味に、寒色が差し色にアクセントとして引き立つ上品な仕上がり。かつ、金の帯締めなどをあしらうことで威厳ある風格が漂う。――そんなために、道行く人々から「お嬢様」という囁きが聞こえてくる。嫌に目立つのは苦手な性分ゆえ、一刻もはやく百貨店から飛び出したいと願いながらも――順序が前後するが、呉服屋での着付けを終えてヘアセットや化粧や、女の支度という手間暇をかける必要があった。

 事前のアポを入れたこと、クレジットカードのグレードが印籠の役割を果たした。呉服屋の紹介の美容院で支度を整えることになるが、そこでも好奇心に晒されることとなった。


 「美容院は床屋とはちゃうもんやのぅ」


 明るい自然採光が大理石に反射して、どこかラグジュアリーな空間の『サロン』と呼ばれる世界に、真島は感心のため息を漏らした。
 待合室の椅子で吟の仕上がりを待つ男はきょろきょろと顔を巡らせた。ガラス製のローテブルの上にあった女性雑誌をとってぺらぺらと捲りだした。一部始終を横目で観察していると、化粧を施していた、『ヘアメイクアップアーティスト』と呼ばれる長い肩書きを持つ女が、これまた仕事柄やむを得ないが話かけてきた。


 「彼、ボーイフレンドですか?」
 「え。えぇと……」
 「あーすみません。でもこんな盛装なさっていらっしゃったもんですから。てっきり、結婚の挨拶かなぁと」
 

 無理もない話であった。

 ホテルに滞在しはじめて数日程度。見慣れたとはいえ、真島はずっと黒ジャケットにタイを締め、黒いスラックス姿である。こうした日中は蒸し暑さから耐え難いと多少着崩しているが、十分正装の部類に入る。
 何も知らない赤の他人からすれば、二人は恋人かあるいは、結婚を約束した仲に見えるということだった。――好奇心に満ちた視線。無節操な解釈に、吟はたじろいだ。


 「お似合いですよ〜」


 礼装に合った化粧が終わると、洞穴のあいた暗い顔がまだ生気を伴った女の顔に変わっていた。


 「ひひ。エエやん。綺麗な顔しとる。姉チャン、お化粧上手いのぅ!」
 「わー、ありがとうございますぅ!」


 本人を差し置いて付添人のほうが盛り上がっているのは、些か考えものであるが愛想のない不器用な女には有り難かった。気の利いた台詞の一つや二つを素直にかけられるフランクな態度は美点といっていい。せめてもの挨拶を告げ、店をあとにすると見送りにならんだ店員は「お幸せに〜!」と発し、羞恥心に頬が熱くなった。店員とのやり取りを知らない真島は首を傾げていた。知らなくていい、と適当にあしらうと「ふーん?」と相槌を打った。

 今晩の準備がおおよそ完了した頃。
 次第に濃くなっていく曇り空からついに滴るものがポツリと肌を濡らせば、真島は吟の名前を呼び、手を引いた。ビル街の裏、カフェが複数並んだ道筋の路面に出たパラソルの下に入ると、一気に本降りへと変わった。地面を叩く水しぶきが着物に跳ね返らないか気にしていると、面白そうに真島は笑った。


 「すんごい雨やの」

 それがあまりにも子供じみた興奮だったために、不意を突かれた吟は「すんごい」とつられて口走った。
 吟の様子に気がついた真島は「ヒヒ……」と特徴的な笑い声を漏らし、パラソルの中央の下へ招いた。二人用のテーブルと椅子が少し邪魔だったが、今更雨のなか別の場所へ避難することは避けたほうが懸命だった。


 「マシになったら、タクシー拾おか。……買いモンは済んだやろ?」
 「……ええ」


 黄色い学校指定の傘をさした、都内の学校に通う小学生のグループが道の往来をゆく。無邪気なはしゃぎ声に紛れて、音を外した七夕の唄が辺りに満ちて、潮騒のひくように消えていく。吟は今日が七夕であることをすっかり忘れていた。


 「……七夕」
 「なんかお願いすんの?」
 「願い……だなんて」


 躊躇いがちに見下ろす真島の顔のほうを見た。眼に曇り一つなく純粋に、吟に関心を寄せている。彼も大多数の人間と同じく、『なんでもない』特別な日なのだとわかると羨ましい気持ちになった。『運命の日』と思っているのは吟だけで、未だに葛藤と後悔を孕み続けている。しかし――今日でようやく決別できるのではないか。そんなどうしようもない淡い期待があった。

 事故後の『涼』に代わり、はじまった『吟』の人生。
 共に生き残ったはずの兄を喪ったあの夏のはじまり。実験場の島から香港へ連れ出された十月。人殺しを覚え、底なしの欲望と悲劇を目の当たりにし、金の稼ぎ方を覚えた。肉体の内側に宿った『獣』は根を張り、今も生命を吸っている。『涼』が手綱を握って支配するには手に余る快楽主義な怪物だった。



 「願いなんて、ないわ」


 『願い』なんて軽やかなものはない。確実に、絶対に、なんとしてでも――果たさなくてはならない。
 生き方は、選べないのだから。――と、強がってみせても、臆病が顔を出す。

 見事な自己矛盾に吟は表情をくしゃりと歪ませた。
 



 『『獣』は宿主の生命を食う。そいつはたとえ、お前が生きるのを辞めてしまっても、限界まで活動するだろう――』


 鈍い黄色の裸電球に寄る蛾の影。
 放り出された手足に浮かぶ斑点のような注射痕の数々。暗い部屋のなかは、鼻がもげそうなほどの腐ったタンパク質の臭いと不快な蝿の羽音。外の香りとともに入ってくるのは極悪非道の王だった。


 『……まえ、……我らに、罪を犯す、ものを、……我ら、が赦すごとく……』
 

 諳んじるのは主の祈り。無論そこに神などいるはずもなく。『吟』は無意識に唱えていた。薬を打つごとに視界の景色が歪んでは変色する。糞尿まみれの少女を見下ろす影が、一人、二人、三人と増えていく。目や口や鼻は落ち窪み骸姿のそれらがぼうっと漂い、生きていることを責め立てる。

 なぜ、お前だけが生き残ったのか。人殺しだ。――亡者たちはゲラゲラと嗤っては詰った。
 記憶の錯乱、強い幻覚症状、無痛状態。もたらされる地獄の日々。――そうして生まれたのが、『獣』だ。
 理性を吹き飛ばし、無差別に、流血も苦痛をも知覚せず――絶命に至るまで生命を燃やし尽くす、人為的改造人間。人類が生み出した『兵器』の一つ、戦争マーケットの商品だった。

 死にたいと願いながら、死ねないのは――宿主の死後もわずかに『獣』の生命活動は続いており、無差別な快楽主義を周囲に撒き散らすリスクがあるからだ。『獣』にとっての快楽は、三大欲求である、食欲・睡眠欲・性欲に加えて『殺人』である。
 


 「――吟、……雨、上がったで」
 「――っ!」


 何度も呼びかけていたのだろう。真島は覗き込むように見下ろしている。吟の怯えた態度を訝しみ、周囲に首を巡らせて「リ・チュンイェンか?」と呟いた。安全の都合を考えて、数十メートル先に停車しているタクシーを呼びにいくといった、真島の袖を反射的に掴めば驚いた顔をした。


 「……お、おう。そない、引っ張らんでも。……手ェ、冷たいのぅ」

 
 戸惑った様子ながら、自然な流れで触れた手が大きな掌に包まれると、途端に泣き出しそうな気持ちになった。
 湿気に汗に涙まで流せばせっかくの化粧が台無しだ。――こうして十二歳の秘密が現れては立ち消え、また知られることも、告げることもせず淡雪のように消えていく。つながった手。あの頃どうしようもなく願がったものが、今ようやくここにある。

 振り払った少年だった彼が今、気遣い導くように、手を握って前を歩いている。
 八年もの静止した時間。ゆっくりとその長針が進みだした。



前へ  140 次へ
List午前四時の異邦人