運命の夜

  ◆ ◆ ◆

 


 「帰ってきたか。ご苦労」


 扉を開けたのは上半身裸の王汀州だった。
 着痩せする性質なようで、筋骨たくましい肉体の持ち主に意外だと真島はこっそり思った。
 自然光だけの室内は逢魔が時を超え、陽が落ちて薄暗い。体臭に混じって石鹸の香りから、直前までシャワーを浴びていたようだった。クローゼットに収まった黒の礼服を出し無造作にソファへ放り出した。

 王汀州の背中を見つめながら帰宅報告を告げると、抑揚のない声で相槌を打った。


 「吟は部屋で休んどる」
 「そうか。……手間取ったか」
 「いや。自分で選んどった。松竹梅の柄のな」


 事前に案じていたが彼女は自分自身ですべてやりきった。
 男たちの心配は杞憂に終わった。

 タオルで長い髪を拭く男の背中には、鮮やかな麒麟が舞っている。
 『平和が訪れる』と謂れをもつが、はたしてこの男の行き着く先に平世といえるものがあるのだろうか。


 「松竹梅ーー歳寒三友だな。梅と竹は本省から伝わった。中日関係を表すにはいいチョイスじゃないか。平等を意味する」
 「平等? 特上とか、並とかやないんか」
 「日本はそうかもしれんが、こちらでは違う。清廉潔白・節操ーーまあ、いい印象戦略なんじゃないか?」


 鼻先で笑い軽く褒める。――吟が己の指標に沿って行動するか、適切に意を汲んで組織に貢献するか否かーーそれを試しているのだ。
 絶対王者に意見することは許されない。――というのを傍からみて、感じ取っていても真島ひとりの力でどうこうできる相手ではない。仮にやり遂げようとするならば、戦争が起きる。流血は避けられず、国同士の衝突に発展する可能性すらあるのだ。香港は、この男の手に落ちた。

 チャンパオの袖を通そうといったところで内線が鳴った。真島が動こうとしたのを手で制し、王汀州がとった。相手は中国人、とりわけ『普通話』の通じる相手であることは、もはや真島の耳でもわかるようになってきた。


 「……ニーハオ。……シー」


 話に夢中になりだす傍ら、部屋の扉のノック音を受け、真島が出た。クゥシンだった。式の準備が整ったことを真島に耳打ちした。


 「小姐は部屋ですか」
 「さっき帰ってきたばっかりや。休ませとる。……もう出るんか?」
 「お会いしたいという方が、何名か。すでに来てる。……三十分後、有料ラウンジに二人を通して。それが終われば会場に」
 「……わかった」


 今後の進行を一息で説明し終えたクゥシンは「あ、そうだ」と思い出したように言った。


 「さっき、チャン大小姐から連絡が来たんだけど、怒ってたわ。なんで?」
 「……チャン……、チャン・ホンファか? 怒ってたて、俺にか?」
 「ふーん、まぁ、いいわ。それじゃあ、また。予定通りに」


 手をひらひらと振りクゥシンは吟の部屋の方へと歩いていく。


 「――閣下、スパルタをご存知です? ええ――そうです。現代ではスパルティでしょうか。スパルティの国が厳しい軍国主義であり続けられた理由は女に自由を与えていたからです。称賛されがちなアテナイは堕落した。民主制はその頃から腐敗しているが、人類は未だ希望を抱いている。――ははは、私の作る国はそんなものではありません。戦争は進化するでしょう。いずれ機械一つで大量殺戮を行えるようになる。しかし、私はそんな無駄とリスクを省く。首級さえあげればいいのです。百人の平民を殺すのではなく、たった一人の王を殺しさえすれば構わないのです。おわかりになりますか、閣下」


 王汀州の話し相手は先日と同じ人物だろう。
 たった今、このホテルの中のどこかにいる出資者の一人に熱弁を振るっている。


 「理想論だとおっしゃいますか。――閣下はご存じないのですから無理もありません。しかし安いものです。たった一人の不幸で、十数億の人類がもう少しまともな生活を送れるようになるのですよ。――私はこれでも、平和主義なんです。ええ、是非。……お待ちしております」


 受話器を置いた王汀州はチャンパオに袖を通した。
 真島を一瞥すると「一足先に出る。吟は定刻通りに連れてこい」と硬い声で注文をつけた。役者だった。



 「なんで切っちゃったんです」
 「……似合わないからよ」
 「またそんなこといって。こういう時に苦労するんです。スプレーで固めただけですから……そのうち取れますが、いいでしょう」
 

 定刻までの残り時間。吟は湿気によってセットした髪の崩れと格闘していた。
 クゥシンは手持ちのメイク道具や整髪料で、最終調整を施しやり終えると、大仕事をやり終えたようなため息をついた。


 「先方のお名前は覚えましたか。先に大哥がいっているので問題は起こらないと思います。念には念を、ですから」
 「わかってる。失敗はしない」
 「はい。……小姐、もしかして寝不足ですか」
 「…………」
 「ジーハオに薬を出すよう言っておきます」


 目の下の色濃い隈は、化粧の上からでもはっきりとわかる。吟は返事をせずに立ち上がった。
 二十歳前後の若い娘。修羅を行く顔つきは一層凛々しいもので、真島には当初出会った頃のように彼女が男に見えた。またそれが、真島自身が同じ年の頃。上野誠和会襲撃に赴かんとした心意気をそのまま思い出せた。共犯である一人の盃を交わしあった男を裏切る形となってしまったが――はたして、彼女には真島のように共犯と呼べるに等しい相手はいるのだろうか。


 「真島さん。ラウンジのあとの会場警備なんですが」
 「ああ」
 「参列者が入場完了後、一旦ドアを閉めます。ホテルマンは中に入れません。入り口は二箇所。その一つの監視をお願いします」
 「わかった。……外からノックがあったらどないする」
 「一度外へ出て対応を。入場を断ってください」


 真島は首肯する。
 ホテル内は厳戒態勢である。人目に触れる芸能人よりかは騒がれにくい。とはいえ、ホテルのロータリーに並んだ高級車の数は関心を十分に惹き付けるものだろう。嗅ぎつけたマスコミがこっそり覗きに来る可能性も捨てきれない。あるいはそれよりも上層部にあたる機関が勘付くことだってあり得る。



 「真島」

 三つの音が吟から発せられる。彼女の代わりに扉をあけ、彼女の前を歩いてエスコートをした。
 運命の夜の始まりを告げる鐘の音を聞いた気がした。





 

 「Mr.王」
 「どうも。よくお越しくださいました。感謝します。中佐」


 前方で広い会場を見渡していた王汀州は、左胸に手をあてて頭を下げた。
 車椅子の男。最後に入場した参列者に対し、すでに着席している幾らかの者たちは囁きをやめた。『中佐』とだけ明言された階級だけで彼らには、いったい誰なのか。どんな功労者であるか。また、王汀州がたびたび電話口で熱弁を奮った相手であることを知らせた。

 ただ彼はしばしば『閣下』といっていたのが引っかかった。『閣下』とは、将官以上の人間、すなわち『中佐』は含まれない。国家元首や閣僚ランクの人間のものだからだ。

 『閣下』という階級を呼称するそれがほかに用いられるとするならば、たとえば英国の例をとるなら『貴族』しか残らない。


 「君の熱意に敗けたのさ。さあ『竣工式』をみせてくれたまえ」
 「もちろんです。……閣下。こちらに。彼女が登壇します。どうぞ拍手でお出迎えください」


 合図とともに吟が姿を現した。会場は沈黙と今日何度目かの好奇心に満たされている。彼女は大衆の視線を浴びて、用意された椅子の前で貿易会社、『海宝大運』の代表取締役である周と握手を交わした。それから一言、二言交わすと先に吟が椅子に座った。王汀州は両者の署名にあたって、口上を述べた。

 『海宝大運』のオーナー権を獲得したこと。出資に対する配当は後日行うこと。
 ――次第に大衆の熱の高まるそれはまるで賭博場のようだった。実際そうだろう。この部屋にいる名状しがたい人々は高額投資を行った。それが叶ったのだから、すなわち勝利の報せである。

 真島は会場の出入り口に立っていた。周の署名から吟の署名に移ったとき、その視線がわずかにあがって、真島をみた。
 広い会場。距離が離れていて、目が合ったというのは、そんな気がするだけだろうが、真島には確信があった。
 吟は瞼を伏せた。手元の重要な紙の上に署名した。歴史が動く瞬間だった。小説や映画のような壮大さはない。一人の女がクリーム色の紙の上で万年筆についたインクを引いただけである。

 だが、こうして彼女がこの先の人生で使い果たせないような莫大な富を得て、人々の期待と重責がその両肩にかかる。
 それが約束された決定的な瞬間だった。


 重要な『儀式』のすべてが完了したのは午後二十時半。
 ホテルのメインロータリーで高級車の列を見送りロビーへ戻ったとき、かの車椅子の男と王汀州が別れ際の挨拶をしていた。邪魔をしてはならぬと柱の影から伺いつつ通り抜けようとした矢先、なぜかその場にいないはずのチャン・ホンファに捕まった。


 「オイ、兄チャン、ちょこまかしてないでよ」
 「チャン・ホンファか? なんでここにおるんや」
 「……フウン、盗み聞きねえ? いい趣味してる」
 「たまたま二人が喋っとるとこに出くわしただけやないか」


 ブラックスーツで身を固め、まさにたった今も仕事中といえる格好に、昨晩の酔狂も覚めるというもの。ただ彼女の仕事はリ・チュンイェンの監視であったはず。こうして出歩いているのは、動きがあったからなのかと勘ぐるも「真島さんの考えはハズレ」とすっぱりと切られる。


 「……せやったら、吟に会いに来たんか?」
 「そうしたいのは山々。でもちゃんとお仕事よ」
 「はあ――いッ! な、なにすんねん!」
 「腹いせよ! 昼間っから色盛りの吟とベッタベタ……! ムキィ!」


 チャン・ホンファは真島のみぞおちに一発ぶちかますと金切り声をあげた。 
 そういえばクゥシンが『怒っている』と首を傾げていたことを思い出したが、どうもこの様子では仕事半分、真島への怒り半分といったところだ。吟に対する忠誠心が立派な証明ではあるが、いささか過ぎた暴力に苦い顔も禁じ得ない。


 「なにしてるの、チャン・ホンファ」
 「吟! あぁ! 振袖姿よくお似合いです!」
 「ど、どうも。……ごめんなさい、お見送りに行かないと」


 吟はそう断ると『中佐』のもとへ行ってしまった。
 チャン・ホンファは嘆息すると冷静な顔つきに戻った。真島の視線に「なによ」と愛想なく発した。吟の周囲には利用する者と、あくまで仕事として付き合う者しかいないと思っていたがチャン・ホンファはどうしてだか違うと思ったのだ。


 「いや、なんていうか……吟のこと気にしてるんやのぅ」
 「そうね。でも、片想いよ」
 「片想い?」
 「永久に報われることはないの。お互いのためにね」
 「複雑やのう」
 「あら。色男の同情じゃ慰められないわよ」


 さっぱりとした声音でホンファはあしらった。
 わかりやすい好意をもってしてでも吟には通じない。その犠牲者はほかにもいるのだという安心と、無欲を貫く彼女には何も届かないかなしみが混ざり合う。

 向こうで『中佐』が吟に握手を求めていた。
 彼女はそれに応え、両手で男の手を握った。









  ◇ ◇ ◇



 車椅子に座った敗戦国の亡霊と呼ばれるその男は、一見好々爺で一人の娘と二人の息子に恵まれ、今や六人の孫がいるという。
 息子の一人は銀行の頭取。もうひとりは元財閥系企業に勤務。一人娘の子供二人はアメリカに留学させており、まさに上流層の営みがそこにある。王汀州が『中佐』に目をつけたのはそんな華々しい一族の履歴の中に、士業をはじめとする警察関係者が紛れ込んでいないことだけだった。


 「お嬢さん。わたしはね、あなたに期待しておりますよ」
 「はい。中佐」
 「またお会いしましょう」
 「もちろんです。中佐」


 男は綺麗な手をしていた。直接何かを行うためではない、労働を知らない手である。
 握手を終えると、彼は付き人に車椅子を押されて車に乗り込んだ。しずかにそれを見送る。王汀州は両手を後ろ手に組んで中国語で呟いた。


 「覚悟は決まったか」
 「…………」
 「お前はもはや、日本人でありながら日本人ではなくなった。藍華蓮の王吟。あの島で誕生した化け物が人権を得た。おめでたいな」
 「なにも喜ばしいことじゃないわ」
 「ふつうの人間なら欲望を金で満たすさ。酒に女に……女ならそうだな、好きな店を買い取る。イイ男を毎晩呼べる」
 

 皮肉のきいた台詞である。
 金が手元にあるという点において、吟よりもその男のほうが恵まれている。だが、王汀州は一切の欲望を金で満たすことをしない。――否、当初こそ、その豪遊生活もあっただろうが、早々に飽きてしまったのだろう。黒社会でも異端児と呼ばれるだけの男は、有り余る金で島を買った。


 「お前が、何に使うのか楽しみだ」


 王汀州は笑いながら発した。吟の金の使いみちはまだ決まっていない。
 こうして立っているだけで、過ぎ去っていく一秒一秒のうちに金は増えていく。そうすれば、かつて素通りした人間が目の色を変えて近寄ってくるようになる。彼らは金を持つ女の肩書きに恋をしているだけで、結局、吟は孤独のままだろう。


 王汀州はいまだロビーの椅子に座っているチャン・ホンファを見咎めた。なんだかんだそれに付き合わされている真島に一瞥をくれると、大袈裟なため息を吐いた。


 「チャン・ホンファ。まだいたのか」
 「あら、王大哥。失礼しちゃうわ。待ってたのよ。せっかくあの女の話を持ってきてやったというのに」
 「フン。あの女が動いたのか?」


 不遜な物言いにチャン・ホンファは口元をへの字に曲げたが、その後ろに吟の姿を見つけると口角を上げた。


 「大姐、ハイキングはお好きですか?」
 「ダー?」
 「貴女は今夜からそう呼ばれるんですよ。大姐」
 「ハイキングって? 埼玉にいたんじゃないの」


 歩く外務省であるホンファは調子よく笑うと「ええ、秩父です」と答えた。
 

 「ロープウェイのあるところやな」
 「そうです」


 真島の付言にホンファは大きく頷く。王汀州は硬い声で喋った。
 彼の試算のうちにリ・チュンイェンが不要因子に成り下がったことは間違いなかった。
 

 「呼び出したのか」
 「ええ、そうです。名指しで。大姐と直接お話したいそうです。今日のことを知らないはずがありません。ですから、命乞いをするのではないかと」
 「予断を許さんな」


 リ・チュンイェンがどこまで愚かなのかに依るが、この命乞いの交渉に応じるのであれば吟が死んで多額の負債に組織が沈没するか、応じずに逃げ切ってその女のクーデターで死ぬことになるかの二択だった。

 つまり、どういうことかといえば、リ・チュンイェンを手にかけることは、変えられない運命にある。


 「交渉に応じる」


 吟の答えに王汀州はにやりと笑った。
 

 「フン。いいだろう。『大姐』の初仕事だ。俺の出る幕ではない。――真島、腹が減った。ピザを頼むぞ。チャン・ホンファ用件はそれだけか?」
 「わたしもピザ食べたいんですけど」
 「お前、家に帰らなくていいのか。子供はどうした」
 「いやだ王大哥ったら。夫も子供もアメリカに住んでるってことくらいご存知でしょうに。のけ者にしようだなんて意地悪ね!」
 「気色の悪い喋り方をやめろ」


 椅子に腰掛けていた真島がなにやら考え込んでいるのを横にホンファは「酒でも買ってきます」と意気揚々としている。
 彼女はともかく賑やかなことが好きらしい。


 「リベンジですよ、大姐。メニュは――少々ジャンクですがお祝いしないと! ねっ。今日は呑めますよね?」
 「え、ええ。たぶん」
 「低い度数のもの買ってきますよ。……真島さん、シーフードとテリヤキの入ったやつね! あ、そうだ。野菜も食べなきゃ。サラダもオーダーよ! ケーキはホテルの中で買えるでしょ。それもヨロシクね! ガトーショコラが美味しいって聞いたわ! ホイップもつけて。ルームサービスでデザートのときのお茶もオーダー! ロンネフェルトの茶葉じゃないとダメよ! デザートティーね! ホットとアイス、両方を用意して! それじゃあね!」


 胡乱な顔で真島が「注文多すぎやろ」とため息をつくのに時間はかからなかった。
 早口の機関銃を乱射して、ホンファは軽い足取りでロビーから外へ駆けた。外務省のスパイは舌が肥えている。
 もし彼女が吟ならば、大金を食事に使うだろう。そんな想像を膨らませると自然と微笑んでいた。

 



 所狭しと並んだピザにサラダに、外に出たついでに買ってきた新しくチキンの丸焼き。
 ホールで登場したガトーショコラと付け合せのクリームの白が際立つ。ティーカップから立ち上る甘酸っぱい果実の香り。
 喧騒は遠い記憶の彼方に消失したはずの楽しい七夕まつりの景色に似ている。

 ちらし寿司にオレンジジュース、たくさんのフルーツが載った祖母手作りのラム酒のきいた生クリームのケーキ。


 『ねえ、涼ちゃん。お願い事は書いた?』
 『願い事? んーん、まだ。叶うかなぁ』
 『早くお願いしないと、七夕が終わっちゃうわよ』


 居間にある木のローテブルの上で、少女は長方形の青い紙とにらめっこしている。
 手にはペン先の細い油性ペン。キャップを外すまでに考え込んでいる。紙のうえは空白で、まるで少女の頭の中のようだった。
 彼女は迷っていた。考えがないのではなく、それを書くべきかどうかを真剣に悩んでいた。母親譲りの、厳格な一神教の教えを守り貫く性格から、さらに信心深かった。だからこそ、たかだかおまじない程度の儀式すらも信じ込んでいた。

 少女、涼の頭の中にはたった一人の少年の存在があった。
 彼はいわばヒーローだった。不良に絡まれていた少女を救ってくれた。窮地に訪れた年上の男に無条件に憧れた。束縛の強い家庭のストレスを解放するきっかけといえば夢はない。少女に現実逃避をさせる異性は、生まれてこの方初めてだったのだから。

 当然彼女は、ほんのわずかな出会い方をした少年の名前を知らなかった。
 狭いスペースの紙に収まる文字数は限られている。詳しく書きすぎると家族の追求を受けるだろうと思った少女は、極力省略を施して『もう一度、あえますように』と記したのだった。



 酒の酔いが見せた夢が少しずつ揺らめいて、靄のなかに消えていく。
 はっきりとしない意識のなかで最初に見せた現は、男の左腕だった。白い長袖のシャツの袖から出た大きな手が女の右手と繋がっている。ソファの上、肩に頭をあずけ完全に凭れかかった姿勢で覚醒するとまず驚いたが、次に鼻先を掠める煙草の香りに瞼が自然と下がった。

 肩口に接する耳殻を伝い、男の脈動を感じ取る幸福に浸っていたかった。
 正式な『祝杯』として饗され、酔いが回ったところで休むように部屋へ戻されたのだろう。その介抱役がたまたまその男だった。『祝杯』の発案者である女は気に入らない態度だったが、グルメ女王はデザートのガトーショコラをまだ食べたりぬと二切れ目をフォークでつつきだした。そんな記憶をぼんやりと思い出していると、呼気とともに煙草の香りが強まった。

 こっそりと悟られぬように巡らせた視線は、彼の意志の強い眉とその眉間から伸びた長い鼻梁、顎、喉仏を辿った。なめらかな鉤鼻から唇へかけての端整な輪郭。フィルターを軽く咥えた隙間から覗く白い歯の艶めき。メディチの白い胸像を見たときのようなまろやかな色気を湛えている。彼を見るたびに俳優のようだと例えてきたが、今のこの生活で上手くやれるほど器量がいいのだから、実際そうなのだろう。


 「目ェ覚めたん? 水持って来たろか。っちゅうても、手ェ放してくれへんと立てへんのやけどな」
 
 ――真島は気配に鋭く、吟の目覚めを認めた。
 夢うつつ、その左手を枕代わりにしていた幸いに、手を放せと言われて、否という差し障りのない理由がなかった。

 真島にとって、それほど特別な存在でもなければ、『なれるはずもない』という確定的な事実があるだけだ。――だからふと、この男に選ばれる女とはいったいどんな存在だろうと興味が湧いたのだ。


 「夢をみていた。子どもの頃の」
 「子どもの頃? 吟の? ひひ、……ちぃっとも想像つかんのう。おもろい夢やったんか?」
 「……はじめて、人を好きに、なった夢」


 相手を語らせるための自己開示は思いのほか拙い。当然のことだった。この世界で生きてきて、過去を打ち明けるということは禁則事項だからだ。何かを語るということは、弱みになる。利己的な組織において命取りになる行為ならば慎むべきだが、それを今、はじめて破っている。


 真島はその境遇からはありえないほど、きわめて健全な良識を持っていることを知っている。そして、その通り、朗らかに女の呈した話題を潰さぬように保とうとした。意思疎通の得意な性質を嫌う人間はいない。この時点で真島は人間的な魅力に溢れていると思った。


 「初恋、やのぅ。相手はどんな子やったん」
 「……年上で、喧嘩が強かった」
 「ケンカ強いん? ガキ大将かいな。ヒヒッ。ほんで、その子に守ってもらったん?」


 吟は小さく頷いた。
 よくある話だ。真島も有象無象の一つの話だと思っただろう。
 混じりけのない、生まれたての、イノセントな愛をいつまでも大切にしている。
 


 「甘酸っぱい話やのぅ」

 真島は笑うと呟くように言った。
 尊厳ともいえる核を、彼は否定しなかった。吟はそれが都合のいい脚色された勘違いでも嬉しかった。


 「……あなたは」
 「ん、俺か? 大したもんとちゃうで。よう一緒に遊んどった子や。虫捕まえたり、土掘って川作って水流したり。遊んで楽しかった子が別ンとこで遊んどったらサミシイ思たわ。その子だけにそう感じとったから、初恋なんちゃうかのう」


 その話から、少年時代の真島の姿が思い浮かんだ。外で元気よく遊んでいる利発な少年の姿が。まさか生まれてこの成年の姿というわけではないのだから、子供らしい時代を想像すると途端に微笑ましくなった。
 

 「今はいないの」
 「今て、恋人がか? せやのぅ。しばらくはおらんわ。ずっと大変やったさかい」
 「……ごめんなさい」


 忘れていたわけではない。
 この男が『穴倉』の客人であったことを。そこから出て普通に振る舞えるようになることが、どれほど困難なのかを知らないはずがない。大抵は、せん妄の症状が出る。夜が怖くて朝になるまで眠れなくなる。真島は「吟が悪いわけやない」と言った。
 彼は乾いた唇を舐め、続けざまに問いを重ねた。


 
 「なあ。なんで、……穴倉で、……あない、優しゅうしたん」


 慎重に言葉を選んでできあがったそれに、吟は窮した。
 難しい解答だ。あの時の吟は、吟であって吟ではない。また、吟という存在自体が、元々の『涼』という人格を保護するための殻だった。それを理解してもらおうなどとは考えていない。その頃の吟は最後の力を振り絞って抗っていた。善良な少女に戻れるように、人を殺すことを避けた。

 『涼』の意識が覚醒したことでその役目を終えて、彼は消えていった。吟はすでに多くの罪を犯し記憶を一部隠匿していた。『涼』は自らの意思決定に従って、この組織に残ることを決めた。それが今日に至るまでのすべてだった。そして、明日一人の人間を殺すことが決まっている。

 真島の純粋な疑問にもっともふさわしい答えは一体なんだろう。
 隣にいる男は宣告を待つように黙っている。吟であり続けることを選んだ『涼』はただ、嘘をつけばよかった。だが、そうはできなかった。イノセントな愛の対象者に偽証することはより罪深いことだからだ。この男の求める答えには、せめて嘘をついてはいけないと思った。


 「――殺したくなかったから」
 
 真島の右目が吟を射抜いた。目を見開き「吟!」と強く呼んだ。彼は賢いからその一言で察したのである。
 吟は「なにも言わないで!」と叫んだ。悲痛な叫びだった。最も重い罪を告げたのだ。もしこの言葉が王汀州に知れたら、間違いなく吟は死ぬ。『殺したくない』ということは、心を持っている証明であり――、意思に反する殺人教唆を強制されているという証明でもある。

 今さら、なにもかも手遅れなのだ。
 真島にできることは何もない。何もさせてはならない。穏便にこの一週間を終えてほしいからだ。吟は息を乱しながらもう一度言った。


 「なにも、言わないで。……なにもしないで。お前は、……案山子なんだから」
 「そ、そやけど。………そんなん」
 「王汀州に知れたら、確実に死ぬ。私も、お前も。……その周りの人間だって消される。あるいはそれ以上のことが起こる」
 「……吟」

 真島は額に手をつくと重い溜息を溢した。
 吟は努めて平常心と良心をもって「忘れろ」と口にした。真島はちらりと吟のほうを窺った。哀れみが籠もった眼差しをしている。いらぬ同情を招いたことを後悔した。この男が、王汀州と真逆の価値観を持っていることくらい、とっくの昔にわかっていたはずなのに。


 「忘れろ」


 念を押すようにもう一度言った。
 甘さが出た。純粋に――喋りたいと思ったのが失敗だった。当たり前に、フランクに誰とでも会話をするこの男と話したいなどと。受け入れられるということがなんと心地よいか。甘さゆえだった。


 「……立ち去れ。今すぐに」
 「吟」
 「今すぐに!」


 不本意な拒絶を口にすると、胸の奥が裂けるような痛みが迸る。
 吟は立ち上がった。座っている真島の胸ぐらを掴んで無理やり立たせた。そのまま二つの部屋の境界線の向こう側へ突き飛ばし、扉を乱暴に閉めた。

 激しい自己嫌悪と虚無感から髪を掻きむしる。ただ痛いだけだった。
 ふらふらとした足取りでテーブルに向かった。ジーハオが持ってきた薬瓶がある。それを開けると錠剤を二つ口の中へ放り込んだ。


 「こんな世界、もう嫌だ……」


 薬を噛み砕き唾液で飲み込めば、舌の上に苦い味が広がる。
 金庫のダイヤルを適当に合わせた。シルバーの銃身がやけに輝いている。


 「……真島」


 乾いた唇がその名を呼ぶ。
 もし仮に今、拳銃自殺を図れば責任追及は真島にあるだろう。理性は正しく、吟の衝動を押し留めた。


 「あと、たった数日……すうじつ、じゃないか」
 

 数日を経て、後腐れのない他人になる。
 彼は彼の日常に戻り、吟は傀儡として生きていく。そのために出来ることはなにか。
 対話を避け、無視に徹する。昨日まで、そうだったように。

 真島も思い知った事だろう。触れてはならない、開けてはならない箱があることを。手出ししない方が幸せでいられることを。



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List午前四時の異邦人