七月八日、埼玉県・秩父




 1989年

 七月八日、埼玉県・秩父。




 ホテルから車で二時間。群馬を目の前に控えた標高・約497メートルの山。
 春先には梅や桜が咲き、観光地として名高いその場所が、指定された待ち合わせ場所だった。およそ五分間のロープウェイのゴンドラの中には、護衛人の二人と吟しかいない。静かな鉄の箱の中で沈黙を先に破ったのはクゥシンだった。



 「大姐、喧嘩でもしたんですか」



 シンプルな問いかけの意味するところは当然、この場にいない男、――真島との関係だった。
 すくなくとも昨晩――チャン・ホンファがセッティングした『祝杯』の席においてはまだ二、三言の会話があり、それこそ打ち解けたような和やかな空気が流れていた。ところが朝になってみて、再び緊張が戻った。
 吟はともかく、口数の多い真島すらも言葉を失う違和感に、勘の鋭い護衛人が気づかないわけがない。

 唯一その悪化した関係をおもしろおかしく揶揄する者がいた。
 彼はご満悦――といえるほど、二人をせせら笑った。真島が気に食わない発言をしたのだと勝手に納得した。当たらずといえども遠からずだったが、謝罪も関係性の修復も不要だと吟は決めていた。



 「まあまあ。――大姐、作戦はどうします?」
 「ジーハオ、そうやって……!」
 「今は仕事さ。いい兵士は、いい仕事をしなきゃあね」


 二人の間をとりなすジーハオにクゥシンは声を張り上げた。
 落ち着きを払うジーハオは、ゆったりとした口調でなだめた。真島がいないことだけを除けば、いつも通りの光景である。
 

 「一人で行く。周囲には見張りがいるはず。時間を稼ぐから、早く仕留めて」
 「わかりました。……六〇秒です。その時間さえあれば確実です。作戦終了後、直ちに遺体を回収。十五分後に次のロープウェイが出ます。下で一般客に紛れて、処理班と連絡。――よろしいですね」
 「構わない。作戦開始」


 ゴンドラが頂上である展望台に停まった。吟は降りる。歩きながら、プラスチックケースに持ってきた薬を口に含んだ。
 山々を背に柵に手をつく一人の女がいた。リ・チュンイェンだ。
 空を仰ぎ研ぎ澄まされていく感覚に、自然と口元が綻んでいた。


 「いらっしゃい。指示通り、『一人』で来たのね。待ってたわ。小姐――いえ、昇格おめでとうございます、大姐」
 「どうも。リ・チュンイェン」
 「……相変わらず、生意気ねえ。……命乞いをするとでも、思っているのかしら。――わかるでしょう。そこかしこから狙われている『気配』が。王吟。あなたは自ら敵陣に乗り込んできたマヌケ。いつまでも王大哥におんぶに抱っことはいかないでしょうから? こうして約束を果たしたのでしょうけど。ひとりで――私を殺せるかしら……?」


 リ・チュンイェンは豊かな髪をかき上げて、真紅の唇を持ち上げるとくすくすと笑った。
 長髪に対し、短髪。ブラックのタイトスカートに対し、スラックス。女に対し、少年のような出で立ちである。
 ジャスミンの香りが鼻先を掠めた。


 「私が死んだ瞬間――オマエの首は刎ねられる。さっくり、とね」
 「組織のことはどうでもいいのね」
 「ふふ。そうよ。言ったでしょ。意趣返しだって」
 「……リ・チュンイェン。伝言を預かっている」
 「王大哥からかしら。ふふふ。なにかしら」



 長い御託が始まる、女はそう思っただろう。もっともな誤算は、吟が銃しか扱えないであろう――という先入観であった。
 身体的に恵まれているとは言い難く、身長も中国人の集団のなかでは低い。軍人ほどの実戦経験もない。リ・チュンイェンは『獣』の存在を子どもたちをネバーランドへ誘うような夢物語の類と信じる方だった。――その段階で、王汀州は彼女を捨て置いた。理解者であると誇る女が、その男の夢を信じられなかった。


 「ぐ―――ゥッ!」


 親指がボタンロックを外し、手首のしなりによって折りたたまれたナイフが飛び出る。女は腹に突き刺されるという想定を甘く見ていただろう。なんにせよ銃が標準装備である思い込みが、彼らの中のトリガーだった。『吟が銃を構えれば、狙撃する』そういう作戦だ。うかつにも彼女は、それを教えてしまっていた。


 「!―――ひぎ」
 「『リ・チュンイェン。お前はよく尽くしてくれた。いかなる時も忠節を忘れず、手となり足となり、私の野望のためあらんと――奔走した』」
 「ぎ、いい」


 女の肩の向こうには、穏やかな緑の山と、雲ひとつ無い空の青さが続いている。そよ吹く風は頬を撫で、傍らで苦しみ悶える女のことなど意に介さず、吟は景色を美しいと思った。近くでサイレンサーの消音効果の効いた銃声が数発鳴った。吟に向けられたものではない。護衛人たちがそれぞれ仕事をした成果だった。


 「まだ話は終わってない。リ・チュンイェン」
 「日本、鬼子――!!」


 リ・チュンイェンは蔑称を叫んだ。日本人への憎悪と皮肉。文字通り、今の吟は『鬼』であったし『死者』でもあった。殺した感情がまた蘇らないうちに、女の腹を突き刺したスピアポイントを逆手に持ち替えると、次は太腿を切った。これでもう女は死んだも同然である。


 「『過ぎたるはなお及ばざるが如し――』」
 

 地面を朱く濡らし、女は吟の脇を体を引きずりながら駆け抜けていく。ロープウェイはしばらく動かない。山の中の雑木林に降りていくようだ。吟は急ぐこともせず、ゆったりとした足取りでその背中を追った。土曜日の朝十時ならば観光客がいても不思議でない。だが、途中の道に人影はひとつもなかった。

 鳥のさえずり、セミの鳴き声、草木を踏む音、逃亡者の荒い息遣い。
 女には死に場所を選ぶ権利がある。吟のささやかな優しさは、狩りの時間の猶予として気分を昂ぶらせた。
 

 「こっち来んなよォ―――!」


 中国語を叫び、振り向きざまに最後の抵抗をみせるも、吟の手から放れたナイフが額の中心を貫くほうが早かった。リ・チュンイェンはばったりと茂みに沈み込むように倒れ、虚空を見上げている。やわらかな木漏れ日のなかで、銃に手をかけると女の胸の真ん中に押し当てた。





 「終わりましたか。……回収させます。大姐は下へどうぞ。――大姐? ロープウェイはあと五分後に出ますが」
 「散歩だ」


 当初の予定と違うコースで帰るという宣言に、クゥシンはため息をついた。しかし、それ以上の追求はなかった。
 林を抜け下っていくだけの道。
 山間の途中に、緑の装いの蝋梅園がある。かすかな芳しい匂いは血腥さを忘れさせるにはいい気分転換になった。

 薬を飴のようにちろちろと舐めれば、いくらか気が紛れたが、それだけでは不十分だった。
 リ・チュンイェンによって辱めを与えられたからこそ――彼女をこの手で葬ることで溜飲が下がると直前までは思っていた。だが間違いだった。肌に残る忌々しさを永遠に消し去ることは不可能であり、女の死相が脳裏に焼き付いたまま、むしろ、ますます、吟の精神を蝕んだ。


 憂鬱で重たいドイツ文学の登場人物のような、暗澹たる気持ちで山の斜面を歩く吟に相反し、太陽の匂いであたためられた草花の匂いはどこまでも甘く、もし夏の精霊がいるならば、透明な薄い翅を広げて舞い踊っているに違いない。穏やかな妄想の隙間さえも奪う男によって、顔色を再び悪く変えた吟は不機嫌な態度で出迎えた。


 「なかなかいい場所じゃないか」
 「……王汀州」


 真っ黒なコウモリみたいな男が白昼の下に立っている。昼間がこんなにも似合わない者も珍しいほどどこまでも不気味な男は、そもそも今日この場所に訪れる計画にない。吟の初仕事の機会を譲っておきながら、もう一台のセンチュリーを使ってわざわざお出ましになった。吟を心配してついてきたのかと思いきや、男が別に呼んだであろう『処理班』の姿にやはりこの男自身の目的がある、ということだ。


 「不細工な顔だ。リ・チュンイェンの死体の確認にきただけさ。お前はそのまま車で戻っていい。遊びに行くならそれでも構わん」
 「遊びに?」
 「明後日に出港式がある。日本も見納めだ。――仕事は一段落。残りは余暇として使うがいい」



 駐車場近くにある売店からは男の弟が、半開きの磨りガラスからにゅっと首を生やして吟を待ち構えていた。
 両手には花ではなく、ワッフルコーンの上に形よく盛られた、白いバニラアイスクリームがある。王泰然はニヤニヤと兄にそっくりな気持ちの悪い笑みを浮かべながら差し出した。


 「アイスクリーム、食うカ?」
 「いいや。……あの、二つもいらないんだけど」
 「真島の分ダ。……ハハハハッ! ホントに喧嘩チュウか!」


 不快指数が高まるなか、口に出た『真島』という名前にいよいよ眉間に皺が寄った。どういうわけか、二人の兄弟は巷に流布されるゴシップを消費するかのように楽しんでいる。性根が腐り果てた者たちのらしさ、といえばそれまでなのだが、繊細な性格をしている吟にはあまり触れて欲しいことではなかった。

 といいながらも、左右の手に預けられた二つのアイスクリームをそのまま鳥の餌にすることも出来ず。渋々、車内で案内役と留守番役をやらされている男の元へ向かった。黒のセンチュリー。右側の運転席で節約のためにエンジンを切り、ガラスを開け自然の風で暑さをしのいでいる男はハンドルに凭れ、その視線の先には低空でヒラヒラと飛び回る親ツバメがいた。


 「明日、雨降るんかのぅ」
 「………」
 「………くれんの」


 シックな色の似合う男だからなのか、運転主役であっても様になっている。いつもは感心するところだが、今日に至っては虫の居所が悪い。真島は吟の不機嫌さに怯むことなく、無言のままに伸びた手からアイスクリームを受け取った。


 「なぁ、おい。ちょお待てや」


 吟はその場から逃げるように歩き始めた。クリームを一舐め、二舐めすれば冷たくコクのあるミルクの味。背後で車の扉が閉まる音に追いかけてくる気配を悟り、歩調を強め、駐車場から出て林の道を進んだ。しかし、軽やかにアスファルトを叩く靴音はあっという間に吟に追いついた。――それが腹立たしく、プラスチックケースの中から出した錠剤をゴリゴリと噛み砕くとクリームで流し込んだ。

 吟の速度にあわせて歩く真島の呼吸は一切乱れていない。
 

 「怒ってんのやろ。……昨日の。すまんかった。ほんまに……、せやから……」
 

 それだけ聞くなら、二人は仲の悪い恋人同士に見えるだろう。
 真島に非はない。謝罪も必要ない。むしろ非礼を詫びないといけないのは吟のほうだ。気分に波があり感情的な態度で振り回している。もちろん、自覚している。『いけないことである』と、薬によって辛うじて落ち着きを保っている理性がまた窘めた。


 「お前は、悪くない」


 唇を震わせた。
 擁護、謝罪、それぞれの意味を伴う響きだが、真島には冷たく聞こえただろう。
 吟の心中では当然、葛藤が起きていた。これに限らず、常に、何時も、欠かさず、彼女は真島に対して感情と理性と、彼女を取り巻く世界と、期待とすべてに葛藤があった。

 「……吟」


 真島は昨晩のように、寂しそうに名前を呼んだ。
 見た目からは到底考えつかない、優しさと明るさを兼ね備えた青年である。――理性はいう。
 こんな『ろくでもない女』を心配してしまうほど優しい男、だと。――――さらに理性は告げる。
 『ろくでもない女』に優しい男を幸せにできない、と。いずれ別れが辛くなるならば、相手にしないほうがマシなのだ、と。


 「だから、……もう話しかけるな」
 「あ? そんなん」
 「………」
 「そんなん、できるわけないやろが。……俺は、……俺は諦めへんで。なんべんでも話しかけたる。イヤや言うても、嫌いや言うても……諦めへんからな」


 決別の合図。そのつもりだった。
 真島は拒んだ。説き伏せるほどの力も、情熱も、臆病な女にない。


 「目ェ逸らすなや」
 「………」
 「俺はアホやし、口にして言うてくれな……わからへん」
 「話しかけるな、って……、言ってる」
 「それは譲らん」
 「真島」
 「譲らへん!」


 真島は強い男でもあった。肉体的にも、精神的にも。揺るぎのない自信はどこから生まれるのだろう。

 彼の熱い、熱い、情熱が生まれ変わったかのような言葉は、焼き尽くされた焦土に滴り落ちる水のようだ。
 また我が身の甘さに嘆くことをわかっているのに、強く拒めない。それはたとえば、彼の吸う煙草、女がしばしば口にする薬と同じで、次第に依存していく。わかっていながら、やめることができない。渇きを癒そうとして――また欲しがってしまうもの。


 「なぁ、……なあて!」


 真島は追い縋るように呼びかけた。
 振り払うようにまた足を前へ振る。一拍置いて、呼応するように靴音が鳴り、きっとこの平行線は続いていくような気がした。
 柔らかく溶けてきたクリームの海に錠剤をふりかけると、真島は神妙な顔で「それ、ラムネか?」と的外れなことを言った。

 常緑樹の林の道を目的もなく歩き続ける。荒唐無稽な吟の人生のようだった。

 真島は宣言通り、声をかけつづけた。何度も、何度も、他愛のない無駄にも思える言葉を。
 いつか諦めてしまって、興味も失せて、元鞘に収まるのではないかという、淡い期待と願望も虚しく、彼はずっと傍にいた。

 彼は様々な話を繰り出した。それが、あまりにも健気な姿勢であるので、吟は耳を貸さずにはいられなかった。
 山の方には動物園があり、近くには美味しい蕎麦屋に温泉があることなどを調子よく紹介した。以前この周辺に足を運んだことがあるような口ぶりに、吟の介在しないこの男の人生の片鱗を垣間見た。

 たとえば友人、たとえば同じ組織の人間、たとえば恋人と。
 この一週間にも満たぬ交流と、豊かで充溢した他の時間を秤にかけることすら無謀な話だが、彼にはその時間があって、経験があって、楽しいと感じたからこそ話題に上っている感動を吟に与えようとしている。
 

 「あ、せや。蕎麦好きなん?」
 「………。……なんで」


 無視をしてもよかった。
 それを選ばなかったのは、この後何度も同じ質問が続きそうだったからだ。挙げ句、本心でないことも勝手な解釈に至ることが許せなかった。わざわざ自分への言い訳を作らなければまともな会話さえも煩わしい。――そこへ行き着くといかに不毛な戦いをしているのか馬鹿らしくなる。そうと気づいていながら、独り相撲を続けるのだ。


 真島は吟の事情などお構いなく、気持ちよく笑う。
 夏の熱気を心地よいものへ変える、年頃の青年らしい爽やかなものだった。


 「なんでって。一緒に食うたやん、最初の日。そば食べたいいうて……せやから」
 「……べつに」
 「ほんなら、天ぷらのほうかのぅ」


 蕎麦を食べたい、と言ったのに特別な理由はない。
 蒸し暑い日だったからに過ぎず、おそらくは真島もそうだったに違いない。おろし蕎麦を食べるわけと同じだ。


 「昼メシ。蕎麦食わへん? ……美味いで。こっちのが水綺麗やし。アイス食うてるやないかって? ひひ……! それ食べ終わったらな。もうちっと歩いてったトコに店あるし、エエ運動になるやろ」
 

 吟はやはり困惑していた。勝手に喋って、喜んでいるこの男を。
 今に始まったことではないとはいえ、ただどうして自分に関心を寄せるのかが理解できなかった。穴倉の頃の関係はとっくに終わっていてる。明後日には赤の他人に戻る。永久に会うことのなくなる人間だということを、わかっていないようだった。


 「なあ、……吟? 気分悪いんか? こっち、日陰のほう入り」
 

 吟の顔色の悪さに、真島は日射病を気にして場所を入れ替わった。
 舗装された道のうえには陽炎が短く波打っている。道の向こうまでずっと続く熱気の中に、黒い人影がぼんやりと浮かび上がって、それが吟に手を振って呼んでいる気がした。


 「あ……」
 「は? ちょ、戻んのかいな。ま、待てや……! なあ、蕎麦いやなんか?」
 「……そんなの、そんなの……ありえない」


 身を来た道のほうへ反転させて歩調が強まる。吟の急激な態度の変化に真島は顔を顰めた。 
 駐車場へ戻ってくると、先程にはなかった黒い車がいくつか増えていて、吟はそこに向かって走った。一般人に扮装した藍華蓮の処理班は吟に気づき「大姐」と呼んだが彼女の耳にそれは届いていない。


 「なんだ、吟。戻ってきたのか。昼飯はどうする。フン――、おい真島。近くにめし処があるだろう」
 「王はん、どういうことや。吟がおかしい」
 「おかしいのはいつも通りさ。それより、喧嘩は収まったのか」
 「あ? それは……。なあ、アレはなにしとるん」


 車のトランクを見下ろしている吟に王汀州は至極当然に「リ・チュンイェンだ」と口にした。真島は表情を硬くしたままそっと吟に近づいた。寝袋に特殊な細工が施された納体袋の中には、眠っているようにみえる穏やかな女の顔がある。

 二人の後ろで処理班の男が王汀州を呼んだ。こればかりは中国語だった。
 

 「明後日、船で持って帰る。それの準備を。アイツに似せた女の骨でも作っておけ。傷は浅い。脳みそは使える。……エン・ジーハオ!」
 「はい。……どうしましたか、王大哥」
 「防腐剤は」
 「先程打ちました。四日は持つでしょう」
 「上出来だ。お前は祖国のご両親に宛てた手紙の用意を。参照する手紙はあとで渡す」


 リ・チュンイェンの遺体工作、表向きには自殺に仕立て上げる段取りである。
 これから彼女の死体は、王汀州の私設団体の手に渡る。彼の野望の手助けをするのだから、リ・チュンイェンは死してその本懐を遂げたことになる。吟は色の白い女の顔をじっと見つめていたが、やがてその寝袋を閉じた。

 吟は息をこらえて脂汗を腕で拭った。

 ありえないのだ。
 彼女はもう死んだ。だから、死体が独りでに立ち上がることなど――ありえないのだ。
 ポケットに入れてある薬を探ったが、見つからなかった。


 「吟。昼飯はどうする」
 「……そば」
 「啊? 真島、説明しろ」


 吟のそれは言葉というよりも音だった。
 肩をすくめる男に真島は億劫になったが説明をした。
 

 「日本のソバか。ホンファが麻布近くで食ったと言っていたな。茶色い『柳麺』だと嘆いていたが」
 「駅そばのは小麦粉が入っとる。この辺にあるんは十割そばやし、美味いはずやけど」
 「十割?」
 「全部蕎麦の味のする蕎麦や」
 「啊? 日本語は難しいな。まあそれで構わん。そのソバとやらを食う。……戻ってきたな」


 二人分の寝袋を背負ったクゥシンが山から下りてきた。
 その様子に、彼らにも声をかけるつもりだろう。ただ一つの懸念に真島は呆れながら尋ねる。


 「何人呼ぼうが構わへんけど。あんたらアレルギーないんか?」
 「アレルギー反応が出るのか。そんなものは知らん。食ったことがないからな。……エン・クゥシン。最後だな? そいつらを車に詰めろ。昼食の時間だ。――処理班は反対側に迂回し千葉に行け」
 「わかりました」


 クゥシンは空いたトランクに二つの遺体を放り込んだ。
 きょろきょろと辺りを見回し「王堂主は?」と訊いた。


 「売店で菓子を漁ってるんじゃないか」
 「悪イ、遅くナッタ」
 「……めっちゃ買っとるやないか」


 パンパンに膨れ上がった袋を四つ。その全てが菓子類である。
 修学旅行でお土産を買いすぎたクラスメイトを眺めるような気分で、真島は何度目かわからないため息を吐くと、吟の肩に触れた。


 「車に乗り。水買うてきたる」


 黒のセンチュリーに彼女は乗った。王汀州はおもしろそうにクツクツと喉を鳴らした。真島が自動販売機まで歩いていく背中を一瞥すると、演技がかった声で「板についてきたじゃないか」と大仰に褒めた。
 吟は後部座席に腰掛けると、ドアを閉めようとしない王汀州を睨みつけた。まったく意に介さず抑揚のない声で一つの確認を行った。


 「アイツと何を話した」
 「あいつって?」
 「リ・チュンイェン」
 「……伝言。あなたの伝言だけ。……これで満足でしょう。王大哥。―――けっきょく、あなたにとっての人間はこの世界にはいないのよ。なにもかも、駒に過ぎない……、死んだ、あとすら……道具になる……っ」
 「悲観的な意見だ。感傷的になり過ぎだな。……律しろ。いや、違うな。―――お前、薬飲んでるのか?」


 訝しんだ王汀州は、少しばかり腰を屈め女の顔を覗き込んだ。
 相当な顔の白さになにか納得した様子でうんと頷いた。


 「昨日から。……寝不足だから、クゥシンからジーハオに用意させた」
 「……ジーハオ! ……軽い眠剤ならあるな? 持ってこい。……一旦抜けるのを待つ方がいいだろうが、それではいかんだろう。飯を食ったらそいつを飲め。いい昼寝になる。部屋にストックがあるな? 帰ったら回収する」
 「……わかった」
 「前の生理はいつだ」
 「は? あ、いっ、……今話すことじゃないでしょう!?」


 デリケートな話題をさらりと呈する男に不快感を募らせた。
 吟はヒステリックな声で騒いだことで、その話題を聞かれてやいないかと、自動販売機から戻ってくる真島の姿に焦った。

 このニヒルな男の、生物的な管理下に置かれていることは分かっている。生理周期の把握はしょせん実験の一つであり、リ・チュンイェンの遺体を弄ぶ行為と同列である。そこに情緒や配慮、羞恥心に対するデリカシーなどはない。

 吟は、男のそういうところも含めて、すべてが嫌いだった。


 「知りたければ、ジーハオに聞けばいいでしょ! 欲しいなら子宮さえくれてやる!」
 「冷静になれ。お前の場合、それが健康指標だ。――真島、ご苦労だった。数分後、案内してくれ。ああ、そうだ。途中――向かい側からセンチュリーが来るだろう。そうなったら一旦停めてくれ」
 「センチュリー?」


 吟は開いたままのドアで、王汀州をはね除けると乱暴に閉めた。
 ガラスの向こうで二人は軽い打ち合わせをしている。みっともない会話を聞かれたのかと思うと反吐が出る。吟は結んだ唇の奥で歯を鳴らした。



 「ご相伴に預かります、大姐」
 「なんで、こっちに……」


 数分後、外にいた真島が運転席に乗り込み、また隣の席に座るだろうと思っていた王汀州はもう一つの車へ行き、代わりにジーハオがやってきたのだった。彼が乗ったことを確認すると、車は先頭を切って走り出した。


 「王大哥が替われと仰るので。あはは。……薬はお持ちですか? ないなら結構です。――真島さん、水をください。ええ、二つとも。ありがとうございます。どうぞ、大姐。できるだけたくさん飲んで。……食後にマイスリーを出しますから、それを飲んでください」
 「……ありがとう」


 人好きのする青年と交代する機転が働いたようだった。
 ジーハオは白い歯を見せて笑った。


 「副作用が出た場合はすぐに報告してください。……緊張する場合、アロマがおすすめです。薬浴なんかも。あぁ、入浴は血行を良くするので、ぜひ。好きな音楽を聴くのもいいですよ」
 「どうも」
 

 人当たりのいいジーハオは会話を切らさぬよう、次に真島に話しかけた。
 

 「その眼で運転なさるんですね。あ、これは別に貶しているわけでもなんでもありません。すごいと思って。どうか誤解しないで」
 「ひひ、――みーんな同じこと言いよるわ。免許更新してあるさかい、問題ないで。案外うまくできるもんや」
 「さすがです。……眼は休めてくださいね」
 「おおきにな。……お。向こうから黒いやつ来たで。停めるわ」


 真島はハザードランプを出して車を停めた。


 「青プレート、外ナンバー……大使館やないか。―――よう、ごくろうさんです。王さんは後ろの車におりますんで」
 「Ms.王は?」
 「……後部座席です」


 吟は苦虫を噛み潰したくなるのをぐっと堪え、バックミラー越しに視線の交わる真島に合図を送った。
 後部座席の窓ガラスを下げれば、中国大使館の護衛人が頭を一つ下げた。その脇から現れた、背広姿の恰幅のいい男が愛想よく笑った。
 吟は声を1オクターブ高い声を出して挨拶に出た。


 「どうも。こんな状態で申し訳ございません、大使。連絡を下されば正式な場をお借りしてお会いしましたのに」
 「いえいえ。当方こそ昨晩の式に参列できず申し訳ない。今日は個人的に、貴女にお会いしたいと思って、朝にMr.王に連絡を差し上げました。なんにせよ――目立ってしまうのでね?」
 「……感謝いたします、大使。……彼は後ろの車にいますので。ああ、いずれ落ち着きましたら、またご連絡を」
 「どうもありがとう。いつでも、お待ちしておりますよ、Ms.……それでは」


 中国大使と握手を交わした。間を読んでもう一度バックミラーに合図を投げた。
 閉じられた窓の外を尻目に、しばらくの沈黙を経てジーハオが口を切った。比較的穏やかな性格の彼が緊張した面持ちでいるのには、状況が芳しくないことを意味している。


 「非公式の挨拶、ですね」
 「そうね。……本国は監視を命じてるはず。だから日本から撤退するほうが都合がいい。……懸念すべきは……」
 「……あ? 俺か?」


 まさか自分に話題が回ってくることを、予想していなかった真島は呆けた声をあげた。


 「今さっきので顔は覚えられたわ。こんな、リスクのあることを……なに考えてるんだか」
 「………」
 「……あー、ま、まあ、大姐。チャン大小姐に連絡を回してみます。王大哥も、なにか考えがあってのことです」
 「そうかしら」


 肝心な作戦を共有しないこと。王汀州の最大の悪癖である。すべてが終わってから策略だったことを知らされる。
 秘密主義者であり、その本心も未だ掴めない男の考えることだ。きっと、ろくでもないものだ――吟はそう考えていた。
 王汀州のほうで軽い挨拶が終わったのか、大使は手を上げて吟に微笑んでいた。作り笑顔で手を振り返す。大使を乗せた車はUターンすることなく、林道をまっすぐ進むようだ。


 「入れ違い。……きっと仕事をするわ。『死体探し』のね」
 「……でしょうね。遺体の入った車は逃しましたし、証拠は可能な限り消しました。しかし、ルミノール反応に引っかかれば厄介です。一般人には、映画の撮影と説明してありますから、目撃者はカバーできるかもしれませんが……時間の問題です」
 「そうなればまた、屍を増やすでしょうね」 


 吟はサイドミラーを睨み、そして眇めた。
 中国大使を乗せた車の列が、盛夏の銀色の光を帯びた濃密な緑の中へ遠ざかっていく。




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