喜劇王と獣


  ◆ ◆ ◆



 昼食を終えホテルへ戻った。
 蕎麦を食べたあとに飲んだ薬によって、吟は熟睡に入りその後目覚めることはなかった。


 
 「真島、ヒマか」
 「……ヒマ、やけど」


 受話器の向こうで王汀州がほくそ笑んだような顔が思い浮かんだ。
 静かな時間の流れに煙草の一服を挟みながら、ソファで眠りこけていると内線のベルが鳴ったのだ。



 「そりゃあいい。下のバーに来い。『PASSIONE』とかいう名前のな。一杯奢る」
 「なにが狙いや」
 「はは。疑り深いな。吟のが感染ったのか? 構わん。とりあえず来い。話はそれからだ」


 訝しむことをやめられない男。
 最初の印象から、少しずつ融解と変化を遂げつつあるこの恐ろしい男のことである。
 ましてや、向こうから酒を一緒に呑まないかという誘いは青天の霹靂ともいえる。声の雰囲気から二人で一対一を望んでいる様子。真島は答えに窮したが、断れば部屋にまでやってくるかもしれない想像に渋々承諾した。


 バーはホテルの地下にある。
 時刻はまだ一八時手前とあって貸切状態になっている。カウンターに一足先に下りてきていた男がいた。
 真島の到着を知ると軽く手をあげた。



 「来たな。座れ。……ミスター。キングスバレイを。……お前はどうする」


 『マスター』ではなく、すんなりと『ミスター』と呼ぶあたり、王汀州はやはり日本人にない感覚を持つ男なのだと真島は思った。


 「……オススメは?」
 「そうですね。……チャーリー・チャップリンはいかがでしょう?」

 
 ニヒルな男はにやっと笑うと「たしかに。このホテルらしい洒落だ」と言った。この歴史を持つ五つ星ホテルらしい冗句だった。
 三人はそれぞれ静かに笑うと、真島はオススメされた喜劇王の名を頂く酒を頼んだ。
 王汀州は手元にある葉巻の煙をくゆらせている。


 「そこに葉巻屋があった」


 地下街はブランドショップが軒を連ね、化粧品や美術品、雑貨屋、美容院などまでがある。
 立ち昇る煙が、暖色の光にゆらゆらと揺らめきながら解けていく。宵の雰囲気に半年前まで身近にあった、キャバレーやキャバクラにあった煌めきの世界の香りである。

 オーダーしたカクテルがテーブルに供され、男は軽い声で「乾杯」と言った。


 「吟は起きたか」
 「いいや。ずっと寝とる。静かや。………王はん、話っちゅうのは」
 「急くな。……きっぱり言えば、お前へのオファーの話だ」


 「オファー」と、オウム返しをした。それは真島にとって、意外な提案だった。
 ふと数日前の、吟の部屋の作戦会議中にきいた、エン夫妻の話が蘇った。彼らは王汀州の審美眼によって今の役職に就いた。どうもこの男はここ何日かで真島を見定めた結果、能力があることを認めたらしい。

 

 「トラブルへの対処、コミュニケーション能力、フィジカル・メンタルの強さ。申し分ない。どこの組織でもやっていけるほどの逸材だ」
 「買いかぶり過ぎや。……今ここにいるんかて、嶋野組の仕事や。なんやかんやいうて、親父のことは尊敬しとる」
 「なるほどな。いい志だ。……では、たとえばここが日本でなければ? お前はどうしていた」


 王汀州は、いかに真島が優れているかについて語った。それほどの評価がなされていることに驚き、また戸惑いが生まれた。さらなる説得を試みようと語調に勢いをつけた。
 

 「我々に特定のノルマはない。明確にはあるが、あくまで資金を提供し、その金で運用してもらう仕事だ。日本のやり方では、いずれ潰れるぞ。沈み始めた船、お前はそこに残ると言っているが……将来は見込めるのか?」


 雄弁を振るう男は真島を食い入るように見ている。正真正銘のあの悪人が。惨い仕打ちを行った拷問人が。必死に訴えかけている。真島は今に始まったことではない、その不思議な感覚をまた味わった。中国マフィア――正しくは、台湾系マフィアの将来有望な大幹部が、日本の極道者一人に対して熱くなっている。

 真島は、努めて冷静に口を開いた。
 

 「王はん。……あんたは、賢い。残酷な世界の生き方を知っとる。けど、俺は、俺の生き方がある」
 「その顔は、枷がついてるな。………そうだ、思い出した。『共犯者』か。名前は、……冴島、だったか」


 真島の答えに切れる頭で、冴島の名前を探し当てた。だがその言い草は『失言』にもほど近い。


 「兄弟は、枷なんかとちゃう。……あんたらかて、兄弟おるやろ。ようわかるはずや」
 「ハハ、そいつは一本やられた。失敬。――あいつとは乳母の乳房を取り合った仲だ。――つまらん冗談だ、忘れろ」

 

 王汀州はそう言ってしまうと、葉巻を吸った。
 頬にそのなめらかな煙が触れる。ドライシガーの甘い匂いが漂う。


 「気が変わったらいつでも言ってくれ」


 真島は手元にある果実カクテルを口に含んだ。



 「……なあ、……いや、なんでもないわ」
 「言いかけるな。吟についてだろう。どうしてだかわからんが、お前は気にかける―――同情しているのか」
 「そうかもしれへん。……けど、俺では救えん事もようわかっとる」
 「ずいぶん弱腰だな」



 感情の窺えない声音。真島は横にいる男に目だけを動かして見れば視線が合わさった。一つ笑うと手持ちのシガレットケースから葉巻を一本抜いた。『吸うか?』と尋ね、返事を聞かずしてマッチを擦った。そうなってしまえば吸わないほうが勿体ない。
 手ずから葉巻を頂くと、すでに見た吸い方を見様見真似でやってみせると、男は比較的柔い笑みを見せた。
 



 「お前にオファーをかけようと思った動機に、最後にもう一つある。……吟を変えることだ」
 「変える……? どうやろな。なかなか強情や。ヒヒヒ、……あない、我が強い娘ォとは思わんかった。自分を必死に守っとるんや。あんたも世界も嫌っとる。……当然や。……解放してやる気概はないんか?」



 吟。彼女は言葉数が少ないが、悲痛な嘆きが聞こえてくる。言葉の節々に、視線に、強ばる筋肉の動きに。過敏になった神経を常に尖らせている。どうして、そんな風なのか。尋ねるまでもなく、この傍らで葉巻を燻らせる男が元凶なことくらい想像に容易だ。

 真島とて、考えたことがある。
 もし、彼女がこの組織やこの男の柵から抜け出そうというならば。また、それを手伝って欲しいというならば。自身は助太刀をするだろうかと。無論そうしただろう。真島にしては非常に侠気のないやり方に思える。

 もしも、吟を助けようと思うのであれば。たった一人の味方になろうと思うのであれば。
 日本にはいられない。他の国に逃げたところで捕まるだろう。逃走幇助、あるいは重い罰を課せられる。二人でどこか知らない国に、国ともつかない奥地へ行くのか。 



 「解放。――たとえば、あの娘を解放してやる代わりに、お前の信念を曲げる気概はないのか、真島」
 「やろうな。ヒヒ、そう言うと思ったわ」
 「……一つ、昔話をしてやろう。かつて、吟に近寄った中で『救おう』とした人間がいた。……医者見習いのその男は事あるごとに接触を試みて、ある日プロポーズをした。花を渡してやってな。だが、そいつは組織の金を横領し、吟を拐ってスナッフムービーでバラしたあと中身を売り飛ばす予定だった」



 スナッフムービーとは、殺人を行っているものを撮影した映像のことで、主に娯楽として消費される。真島も裏社会に属する人間ゆえに、どこからか、一人女を捕まえてきて薬漬けにした挙げ句、東南アジアや大陸の市場に売り払い、その殺人動画の材料になったと大仰な噂を耳にしたことがある。

 真偽は不明とはいえ、殺人動画を嗜好とする一部の金持ちのマニアはいる。純粋な日本人が外に流れることは少ないため、市場では特に好まれるといったことも噂程度に知っていたが、王汀州のその話が事実ならば、実際のことなのだろう。



 「あんたが言えることか?」
 「躾と殺人は違う。……俺が本気なら、お前のその額にはとっくに風穴があいてる」
 「………」


 脅しでもなく、真実だった。
 王汀州と実際にやり合ったことはない。実戦では確実に人を『殺す』ために小さなナイフを忍ばせていることも、銃を携帯していることも知っている。肉弾戦では真島が力量を上回るだろうが、拷問王の名は伊達ではない。そんな男の前で葉巻を吸わされ、酒を呑んでいるわけなのだから人心掌握術ではとっくに敗けている。



 「今はそれなりの、償いをしているつもりなのさ」
 「あの娘に伝えへんのか」
 「組織の均衡が崩れる。……俺が言ったところでな」
 「……あぁ」

 真島は息をついた。
 これが、『悲愛』というやつか。
 キングス・バレイ。エメラルドの深いブルー越しに見る男はひどく、人間らしい顔をしている。



 「つまらん話が多くなった。酒の悪戯だな。……真島、これを。吟が起きたら飲ませろ。部屋にある薬の回収を忘れずに。……鎮静作用がある。なにか食わせて飲まろ。地獄の糞みたいなくだらん話をしてくるかもしれんが、病人だ。落ち着いて聞き流せば問題ない」
 「饒舌になるんか? そら、オモロいのう」


 王汀州が懐から取り出したのは小さな処方箋だった。
 ジーハオが出した新しい薬だ。副作用によってあの口数の少ない吟が、喋り続ける光景を思い浮かべると実におもしろいものだったが、その想像を打ち破るかのように王汀州は鼻先で笑い飛ばした。



 「期待するな。『ブッダの遺体の分割と弟子の話』、『麒麟の鱗の枚数を数えろ』、『地球上のカルシウムの質量とすべてを集めると何が作れるか考えろ』とかだ。――な、くだらん話だろう。酒場の猥談よりもたちが悪い。これが薬効時間が切れるまで続くと思うとゾッとする」
 「ヒヒヒッ。…………めんどくさ」
 「明後日までさ。……とっておきのプレゼントを用意してある。楽しみにしとけ」


  
 今日はお開きだと、残った酒を一気に呷り、王汀州が立ち上がった。
 それに倣い、真島も酒を呑み切るとカウンターの向こうでグラスを拭いているバーテンダーに挨拶を言った。





  ◆ ◆ ◆




 隣室は静かだった。
 薬を飲ませるために必要な軽食の入った紙袋をテーブルの上に置いた。喫茶店のテイクアウトでサンドイッチと、アイスティー。
 首をくるりと巡らせ時計をみれば、時刻は二一時過ぎ。半分ほどに減ったペットボトルの水を飲み干した。まだ眠りの世界から帰ってこない隣人を待つのも退屈だ。真島は入浴することに決めた。

 

 「……気ィついたら、あの人のペースや……」


 浴槽に身を沈めながら呟いた声が反響する。


 「……冴島」


 二人の間には、覆らぬ盃がある。
 また、それが決まっているからという意味ではなく、義理を貫くことが掟への誠意ある態度なのである。裏切った、という事実を消せないまでにせよ、冴島が戻ってくるまで。拳を交わすまで、二度の裏切りを重ねてはならない。

 
 「俺は……」


 かけてはならない義兄弟と、出会って間もない女とを天秤にかけている。
 あってはならない図式だ。男同士の約束の中に、女が入ってくることだけはありえない。

 女がただの女じゃないのが問題だった。『穴倉』でもっとも味方に近かった存在。まるで、ストックホルム症候群のようだ。
 ――地獄を生み出した蝿の王の言葉に従うことはなきにしも、寝食と排泄の面倒をみた年下の女への義理立ては必要だと、真島はその信念に従って考えていた。
 
 殺人ビデオで死んでいたかもしれない少女が、『人を殺したくなかった』と言った。組織にいることも、不本意な人生の積み重ねであり、あまりにも巨きい。王汀州は『義理立て』すらも込みで、誘いをかけたのだろう。人を使う立場の人間らしい考え方だ。




 「………吟か?」


 浴室の外で物音がした。浴室の壁の真後ろは隣室であるために生活音が聞こえた。

 「あ、そうや。……吟、腹空いたやろ。薬あたらしいの貰てきたさかい………おい、なにしてんねん」

 真島が入浴を終え、用意した軽食の入った袋を持ってコネクティングの扉を開けると、ザラッと音をたてて絨毯の上に飛び散る白い粒が見えた。足元にまで転がってきたもの。それが薬であることを認識するのに時間はかからなかった。

 吟は絨毯の上に両膝をついていた。
 部屋は薄暗く、窓の外のネオンの光源に、ビルにある航空障害灯の赤いランプがチカチカと点滅を繰り返し、窓ガラスを染めている。
 フットレストに寄りかかり、糸の切れた人形のように項垂れている。部屋のライトを点けようと真島が探っているうちに、また音がした。


 「どアホ!! そないな飲み方するヤツがあるか……!」
 「……うっ、うううぅ……!」
 「吐けや。死んでまうやろが」


 手の中にある薬瓶を天地逆に、白い錠剤が濁流のように流れ込んでいる。
 目を瞠るほどの異常行動。真島は払い除けるようになぎ倒した。丸太を転がすようごろりとあっけなく仰向けになった吟は顔を覆った。地を這う呻き声。つるりとした額に滲む脂汗。上体を引き起こすと、彼女は泣いていた。


 「ウウ、う……こっ、ち、くる……! っう」
 「あぁ?! なんも、おらん! ……なんやァ? ……メチル、フェニデートォ? 完全なシャブや、アカン。アカンわ」


 吟は真島の肩越しに何かをみて、悲鳴をあげた。ひどく怯えた
 当然ながら向こうの部屋に何もない。薬の副作用という予想に、彼女の手が弱々しく握っていた、薬瓶を拾い上げてみるとその通りだった。

 
 『メチルフェニデート』


 向精神薬の一種で、一般的に知られるMDMAと同じで中枢興奮作用がある。医療用で使用しているそれから、重度の薬物依存が起きている。――すぐさま真島はそう思った。

 吟のみぞおちに拳を入れると、ソファに沈み込んだ。天井を向いてぐったりとのび、大きく息を弾ませている。

 その時点で彼女はほぼ再起不能だった。
 だからこそ、油断していた。普通でないことを。彼女は『獣』だということを。


 「吟、水飲めや」


 一旦、これで落ち着いたと踏んだ真島は、用意した水を与えようと試みた。
 彼女は恐怖に顔を引きつらせ、髪を振り乱し、子供のように嫌がった。
 逃れられぬように肩を抱こうとすれば、「さわるな!」と噛みつくように拒む。癇癪によってはね退けられたコップの水は波打ち、絨毯に暗い染みを垂らした。


 「エエから飲め」
 「っぐ、う……うう! ぐ、う、やっ! ……や!」


 単純な力比べでは匹敵すらしないはずの女の力が、真島の腕をきしりと軋ませる。
 ねじ伏せることは簡単だ。力ずくで、それこそ骨を折ってしまうことなど造作なくできる。しかし、真島の心の中で葛藤の旋風が巻き起こる。

 命の危機に、女であるとか男であるとかではない。
 そんな優しさは捨て置かなければならない。そう奮い立たせるほかなかった。

 目元を赤く染め泣き腫らし、唇をきつく噛み締めて、必死に抗う。痛ましい姿だ。
 やりきれぬ焦慮のなかで、真島は一旦コップを置いた。それから押さえ込むように体重をかけてのしかかった。
 想像通りに吟は暴れた。脇からすり抜けようとする体に袈裟固をかける。首の後ろに腕を通し締めあげれば、手負いの獣の如く唸った。



 「堪忍や、ホンマ。……辛抱してくれ」
 「……あ、あ、あああああー―――!」


 左頬に掻き切られる痛みが走り、真島は低く呻いた。


 「ブッ! あ、暴れんな! 吟!」
 「……ッガウ!」


 憑き物に支配されている。物静かな吟からかけ離れた凶暴なそれ、それは『獣』。
 犬歯を剥き、目尻を釣り上げている『獣』。
 文字通りの、獣のように威嚇すると、顎下に向けて左拳を突き差した。


 「っく……!」


 かけていた体重が浮いて、『獣』は脛で股間を押し退け真島をひるませた。
 拘束からするりと抜けた吟はテーブルとソファの間にずり落ちた。


 「はあ、ハア、ハア、ハァッ……ハァ、ハァ、ハア……!」


 荒い呼吸。獣の視線は真島にある。ハイエナの不気味な目つきにも似た、獰猛な眼が薄暗闇の中で幻のように光を帯びている。
 真島は一切の憐れみを捨てることにした。

 なぜだか、彼女はそこにいないような気がしたからだ。では、目の前の女は何者か。やはり獣といったほうがいい。そんな風に決めてしまえば、幾ばくか気が楽になった。そして、この獣がどこまで人間を超えているのか知りたくなった。なまじ王汀州の言った『獣』が真実味を帯びてきたところに、本当の意味で『狂った』者がどれほど強いのか。顔を出した好奇心に、真島は笑った。

 強い者が好きだ。
 真島の本能は、本物の狂人を知りたがっている。

 急所の痛みを忘れて体勢を立て直すと獣は身構えた。

 
 「来いや」


 獣は低い姿勢のまま窺っている。
 身体的な差を考えてみれば、真島のほうが遥かに有利だ。女に対して『平等』にやり合う機会はこの先一度もないだろう。
 気絶させれば十分だ。頬に滲む血を拭い、右足を出す。――吟の皮を被った獣は飛び出した。


 「ヒヒヒッ……! やるやん、ジブン、……初日とは、大違いや、のお!」


 右。左。右。
 交互に手が突き出る。それを弾きだし、隙を見計らい急所を攻めよる算段のところに、獣は一度身を引いた。

 跳躍。惚れ惚れするほどの舞いは中国雑技の芸の一つのようだ。
 獣というよりは、狐が雪山を駆ける軽やかさにも似ている。しなやかで俊敏、投げ出された脚がナイフのように素早く、鮮烈に、真島の目と鼻の先を掠める。


 チェンソーの先端じみた延々と止まぬ足技を克服するには、その体を押さえ込む方法が有効だと思われたが、壁際まで追い詰められたことでタイムリミットを超過してしまった。吟の体は疲労を一切感じていない。脚は軸を替えると、下から下腹部を蹴り上げた。それだけでは止まず、顎下を持ち上げ、喉仏に鎖骨の間の窪みを抉った。


 「ぐぅ――!」

 真島は激痛に呻くが、女に終わりはない。

 どんな武術の達人であろうが、強靭な肉体を持つ戦士であろうとも、『技』と『技』の間には文字通り空白という『間』ができあがる。吟にはそれがない。機械的で、接続部分がなく――ある意味、人間の動きではない。銃にはリロードがある。あるいは、オートマチック以外には排莢をする手間がある。拳、刀、体術、扱うものに差はあってもそれを使うのは人間であり、次へのコマンドを進める際に生まれる『間』、この女に際して使うならば『隙』がないのだ。


 「くそ」


 埒が明かない。
 想定外。だから『獣』なのだろう。
 対象が絶命するまで無限に『獣』は動き続けるのだ。機械仕掛けのように。

 真島はその隙間を狙っていたが、押さえ込むに至らなかった。
 容赦のない一撃が繰り出せれ、意識が天井を見上げる頃―――幾度となく夢見た、あの『穴倉』の景色が蘇る。『彼』はそこにいて、冷たく見下ろしている。言葉を持たない『彼』であり、『彼女』は、殺人兵器だった。












 異様だ。

 その景色を形容するなら異様だった。
 ぼんやりとした視界に浮かぶのは、白くきめ細かな肌。細い首に鎖骨の淡い窪み。
 次に訪れるのは若い女に近づいた時に利く、甘酸っぱい、得も言われぬほどのいい匂い。

 「あ、……?」

 空っぽの頭は目の前にある、柔らかな乳房の揺らめきを追う。
 ソファの背もたれの上を枕に、華奢な女の上肢が上下に揺れ動く。混濁する意識の中で、夢精時にみる夢だと思った。自ずと性の夢の世界に迷い込んだことを確信し、たまらず白くまろやかな実に赤子のようにむしゃぶりつく。

 汗すらも甘く感じる。それはそうだ。夢なのだから、と頭が理解する。
 弾力のある感触を手のひらで楽しみ、瑞々しい果実を舐めとるように吸えば、悩ましい女の吐息に重なる甘い声が聴覚を刺激する。

 
 「あ、……あぁ、はあ、ぁ……!」

 欲望というものがある。
 男にとって抗いようのない生殖本能のロジック。社会の副産物である倫理や情緒といった手前にある、生物としての強い願望。
 女の嬌声をもっと聞いてみたい。この肉体を支配し、種を宿したい。むき出しの強烈な願いに、この女の肉体も求めている気がした。受け入れてくれるとも。


 「んっ、んんっ、あ、……あ!」


 ぐずぐずに泥濘んだ熱い女の中がぎゅっと窄まる。どうにか出さなくてはならない興奮と先走りに、絶頂の気配を読み取って、細い腰を抱き込み、激しく突き上げる。弾け合う腿と尻の肉の感触。顔面へのふっくらとした乳房の圧迫。迸り、循環し、噴出する。思考は理性を忘れ、我を忘れ、夢に耽っていく。

 ただ、ひたすらに、気持ちがいい。



 「う、ぐっ、……いく……ッ!」

 
 強い快感に吹き飛ぶ。
 そこにはただの男しかいない。名前も、肩書きも、今置かれている境遇も、抑圧された感情も関係なく、夢の中のみにある自由に翔けていく。

 

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