雨だれと蓮



  ◇ ◇ ◇




 『明日、雨降るんかのぅ』


 運転席で待ち呆ける男のつぶやきが、張り出した窓をたたく雨音にまじって耳奥に響いた。
 ツバメが低い姿勢で風を切り、翻って空高く昇っては急降下する。たった昨日の出来事が、遥か彼方の遠い残響のように感ぜられる。

 吟は投げ出され、ひしゃげた身体をわずかに崩し、絨毯の上からソファに腰掛け、天井を見上げたままの男をぼうっと見つめていた。
 女は素っ裸で、男は備えのガウンを羽織っていたがぐしゃぐしゃに皺が寄っている。長い脚を力なく投げうち、下着が片足にひっかかったまま残っている。
 
 意識は覚醒したが、何も考えられない。頭の中に昔どこかで聞いたはずの、甘やかなピアノの音色がある。
 のっそりと時間をかけて起き上がると、ぺたりと尻餅をつき、不自由な赤子のようにまた仰向けに横たわる。

 床に散乱した錠剤、自分が着ていたはずのガウンとスリッパ、ひっくり返った洗面器にコップ。なぜか湿った絨毯の一部。ソファでこんこんと眠る男に目立った外傷はないが、下着を履いていない。


 「ここ、どこ……」

 無意味な音が唇から伝う。この女がなんという名前で、何をしていたのか、なにに抑圧されているのかを漠然と理解している。だが、うまくまとまらない。そこにいる男のことも知っていて、どう扱えばいいか悩んでいるくせに、なにもわからない。 

 ただ、雨が降っている。
 窓越しに見える空は濁っていて、昨日みかけたツバメは飛んでいない。








  ◆ ◆ ◆





 しとしとと降る雨音から次第に目が覚めていった。



 「……あ、朝……、か? はあ、首イタ……」


 ベッドの上でうつ伏せに転がっている。


 「あん? ……ウソやろ」


 下着が足首にひっかかったまま。
 夢精したと思っていたがその痕跡はない。


 「……夢、か」


 生々しい夢だ。
 落ち着く暇がなく、抜くことを疎かにしていたからだろう。

 吟は部屋にいなかった。部屋に薬瓶や錠剤は散らかり、洗面器やコップもひっくり返ったまま。昨晩の惨状はそのままに、彼女の姿だけがそこにない。新しい鎮静作用のある薬の入った瓶に手を付けた様子はなく、ついでにその横にはルームキーが置かれたまま。またしても行方不明という状況。真島はその日最初のため息をついた。


 「またか」


 そのとき、吟の部屋の内線が鳴った。部屋の番号から王汀州のモーニングコールだろう。
 

 「はい」
 「……おっと、なんだ、真島か。いい朝だな。吟はどうした、一人か?」
 「おはようございます。……吟は部屋におらんのや」
 「いない? はは、そうか。じゃあ一人か」


 どこに行っているのか、と尋ねようとしたが真島は「ああ」と声をだした。
 チャン・ホンファが吟の居場所を把握している。その報告が王汀州に伝わったのだろう。その確認に内線をかけている、という状況だ。


 「あの娘、どこに行っとるん」
 「……上野だ。アー、上野の美術館か、博物館あたりだろう。すくなくとも風俗街じゃあない、安心しろ」
 「なんでそないなトコ……」
 「故郷の見納めだからな。俺たちは何も言わないさ」
 「故郷?」



 思わず聞き返す真島に電話の向こうの男はふっと笑った。



 「なんだ、同じ日本人らしく通じ合うものがあると思ったが、違うのか?」
 「……あぁ、……俺は、もうなんも言わへん。………いや、一言だけ言わせてくれ。アンタ、ほんまに、鬼やな」
 「なんとでも。とっくの昔からそうさ。………十分後部屋に来い。乗せていってやる」


 真島は二度目の重いため息をついた。
 吟が重大な事件の被害者であることについて、解き明かす事も愚かなように思う。根深い闇に対して、自分一人でなにか出来るなどとは思っていない。だから、その件に関してはここまでなのだ。引き返せないところまで彼女は来ている。だからもはや進むしかないのだろう。



 「わかった。十分後、やな」

 真島はふと、自身の両親のことが頭を掠めた。
 二人の男と女、どちらもこちら側の世界にどっぷり浸かっていたと聞いている。影も姿もない、自分に真島という姓と、吾朗という名前を与えた彼らに、このような葛藤があっただろうかと考えるのだった。



 「……真島。オファーの件はいつでも。気が変わったら言ってくれ」
 「………ああ」

 昨日のオファーの話に対しての迷いは、まだ残っていた。そこに王汀州の言動が燻ぶらせている。
 もし、可能性として、――彼女自身がそう望むのであれば、義理を果たすことも吝かではない。しかし、そうしてしまえば、盃を交わした兄弟を、永遠に裏切り続けることになる。


 吟を選べば、永久追放に加え――二度と日本の地を踏むことはかなわない。

 いっそ、あの嶋野であれば日中の間のパイプ役を命じるだろうか。ありえなくはない話だ。――そもそも、この七日間の預かりとて、嶋野組の太客を切らさないための交渉期間だったのだから。







  ◇ ◇ ◇


 

 ネオ・ルネサンス様式の建築物。
 ――科学博物館を前に、吟はその荘厳な建物を見上げた。



 東京・上野公園。



 そこは、かつて少女時代の時分に馴染みのある場所だった。
 日曜日の公園は朝早くから賑やかだった。雨の合間のわずかな晴天。散歩にジョギング。犬の散歩と観光客。通り過ぎていく老若男女を横目に吟は文化会館の前で足を止めた。


 月に一度、日曜のミサが終わった午後のことだ。
 母に連れられて鑑賞したものだった。あれほど退屈で窮屈だった場所が、『懐かしい』と思えるほど、遠くにきてしまった。

 日本を離れれば、もう二度と戻ってこられない場所だ。外にある掲示板に張り出された、近日中に行われる演目が書かれたポスターに目を向けると、鼻の奥がツンと痛くなった。
 

 ――池の中には、所狭しと葉を広げ、蕾をそろえた蓮が一面に浮いている。



 コンサートの演目は、新人のピアニストたちがそれぞれの課題曲を弾くというものだった。
 あまり有名でない技巧的な曲をいくつか聴いたあと、一番最後にはショパンの『雨だれ』が演奏された。

 梅雨を引きずる七月の最初には丁度いい。
 恋人の帰りを待つ夜に作られた曲。詩的な夢心地に陥るも、束の間。余韻を味わいながら、小雨のなか紫陽花のある通りを抜けて、蓮の池まで戻ってくると、綺麗な白とピンク色の溶け合う色がそこかしこに並んでいた。
 
 木でできた長椅子に腰かけ、遠くをぼんやりと眺めると、視界の端の、天に捧げるように咲くピンク色が淡く滲む。
 混濁した記憶と意識が昨夜の惨状を連れて、吟を深い絶望に陥らせた。


 「……あぁ……」


 禁断症状が出た。
 抗うつ剤を飲むと、見たくないものが見える。
 昨日の夜は、リ・チュンイェンの亡霊がベッドの枕元にいた。昼間に確認した通り、彼女は死んだ。吟の手によって絶命した。あの寝袋に入れられて。千葉の倉庫のほうに明日まで安置されている死体が動き出すはずがない。

 錯乱の断片的な記憶の中で、隣の部屋にいた男が必死に止めようとしていた。
 いっそ殺してくれれば楽になっただろう。薬物中毒の女を誤って殺してしまった。殺されそうだったから骨の一本や二本を折った。頭蓋をかち割った。そうしたところで正当防衛のうちに入るのだから。
 


 不意に影が射した。
 斜め上を見上げると、透明なビニールの生地越しに白いシャツに黒いズボンが映った。
 独特な髪型に隻眼の、奇抜な男が静かに見下ろしていた。そのさらに向こうには、二人の長身の男が傘をさして、黙ったまま女を眺めている。


 「まさに、蓮だな」
 「よせよ。あれハ、美女と野獣ダ」
 「はあ?」


 チャンパオの裾の中で組んでいた手を外し、後ろ手に組み直すと王汀州は息をついた。
 王泰然は喉の奥でくつくつと音を立てながら笑っている。真島は彼らの比喩も揶揄もわからず、訝しげな顔をしている。吟にはその意図がわかったが、なんと言えばいいか言葉に窮した。


 「知りたければ、大姐に聞けばいいさ。――ああ、腹が空いたな、なあ兄弟」
 「ああ。飯の時間ダ。アレがいい、ピザがいい」
 「一昨日食っただろ。……真島、財布は持ってるな。――あとは任せる。俺たちは四人で仲良くピザと、パスタでも食うさ」



 野次馬の兄弟たちは冗句の延長線のようだった。
 


 「門限は、七時だ。それではホテルで。――拜拜」
 「拜拜」


 手を噛ませるように振って、二人の兄弟は砂地の路の上を去っていく。
 「なんやねん、アイツら」と嘆息する真島を見上げて、吟は笑った。つられて真島が破顔する。


 「自分、笑えるやん」
 「――、ん」


 真島が覗き込むようにして吟の表情を指摘すると、彼女は茶化されたあとのような、一滴の羞恥によって口角の位置が戻った。


 「なんで元に戻るねん。せっかくのカワイイ顔が台無しやんか」
 「………」
 「あ、待ちィや。濡れるやろが」 


 吟は思わず声が上擦った。自分の隙を見せたことは、弱さをみせたことと同じだからだ。動揺が広がるのを、押さえつけるように黙った。
 ――ずっと昔から気にしている男の、言い慣れた褒め言葉に、ささやかに喜んでは、傷つく。


 長椅子から飛ぶようにして降りると、雨のもとに晒される。
 追い縋るようにして、男は一本の傘の下に女を入れて歩くと尋ねた。


 「音楽、聞きに行っとったんか?」
 「…………」
 「……怒ってんの?」


 真島は相変わらずよく喋る男だ。今日もよく話す。

 『穴倉』の頃も、吟が返事をしなくとも、諦めずに話しかけてきた。
 もう何度も同じことを考えるが、この男はそういった性格なんだろう。

 くすりと笑うとそれを真島は見逃さなかった。なにも知らぬふりをして、明るい声で吟はもう一度尋ねた。
 

 「どないしたん?」
 「――お腹がすいた」


 今までの沈黙を破って、吟は右側に立つ男に空腹を訴えた。
 男はわずかに驚いた顔をみせて、楽しそうな笑みを浮かべた。


 「ひひ――。何食うん?」
 「ケーキ」
 「ケーキぃ? 昼飯やで? あ、せや。朝は食べたんか? 勝手に出ていったやろ」
 「――どうして?」


 きょとんとした顔を向けると、真島は「あ?」と首を傾げた。
 吟が朝食を抜いていることに、異論があるようだった。

 「飯は三食食うもんやろが」
 「――ふうん」
 「ふうんって。……昨日の夜食うてへんやろ。――あいつらなんか、ピザとパスタ言うとったやないか。そない、ほっそい体で飯食わんで、甘いもん食っとったら死んでまうで」
 「うるさい」

 不健康極まりない食生活。事実とはいえ指摘されて不愉快である。吟は不機嫌な声で一蹴した。
 また傘のそとへと抜けると、真島が呆れた声をあげた。




前へ  140 次へ
List午前四時の異邦人