白線、ショートケーキ



  ◇ ◇ ◇





 彼が、あの日に会った少年と知った最初の朝。
 

 「おはようございます、小姐」
 「……え、ジーハオ? クゥシンは?」
 「はい、え?」

 シーツの海から起き上がり、部屋の壁に凭れかかって書類を捲っている男は、驚きのあまり口を開けた。
 髪を整髪料で固め、愛らしさを覚える整った青年は明るいブラウンの瞳で、じっと吟を見つめていた。女は自然と呼吸が浅くなっていく感覚に、ベッドから飛び出し、ベッドサイドにある荷物に手を付けた。

 「あ、あの、小姐それは!」
 「あ、……あ」

 ジーハオの制止も遠くに、吟は黒いバッグの中から手にしたものによって、たった今この部屋の”新しい”主を知る。
 吟は、陵辱によって持ち合わせる異性への恐怖症よりも、その事実に震えた。免許証には、若い青年の顔がある。青い背景を背に、短い黒髪。面長のなかに、切れ長の目尻、黒い双眸、繊細な雰囲気も同居し、野性味あふれる青年は睨んでいるようにも見える。

 少女だった頃、たった一度の恩を記憶し、頑なに崇拝していたヒーロー。
 
 「……ま、真島、吾朗」

 そして、地底の檻の中で世話した隻眼の男と同姓同名――その字が顔のそばにある。

 「小姐。あの、クゥシンから聞いてませんでしたか」
 「……クゥシン」
 「ええ。昨日に伝えたと聞いています。ルームチェンジの……、嶋野様がお帰りになられて、代わりに……あ、すみません。クゥシンでしょう。部屋に入れます」

 
 クゥシンを出迎えにジーハオが扉を開け、再度確認をとっているようだった。クゥシンは状況を聞き、無遠慮にもため息をつくと、カツカツとヒールの音を響かせて、床の上にぺたりと座り込む吟の傍らにそびえ立った。


 「何度も、言いましたよ。私は」


 怒りというよりは、混乱であり、恐怖というよりは、哀しみによって吟は叫んだ。
 






   ◆ ◆ ◆ 





 午後一時。


 平日の昼間の喫茶店のなかは、ワイシャツのホワイトワーカーが商談を兼ねて昼食にナポリタンを啜り、主婦の平穏なランチタイムにコーヒーとサンドイッチが並び、暇な老人が新聞を広げていたりと様々である。
 
 「少々混み合っておりまして。お時間いただきますがよろしいですか?」

 年頃は大学生の女の子。空いた時間のバイトだろう。
 外は本降りの雨に変わり、今からまた別のところへ行くというのも、閉じた傘を巻いたあとでは億劫な話である。吟は店の中をきょろきょろと興味深そうに見渡したあと、女子高校生のウェイトレスが手渡したメニューを見ていた。

 ハンバーグ、ナポリタン、エビフライカレー、グラタン、オムライス。
 それらを筆頭にグルメな名前と写真が並んでいる。ぱらぱらとそのページを簡単にめくっていって、最後の方にあるドリンクとデザートの項目に釘付けになっている。

 大量の薬を服用し、暴れていたが今は落ち着いている。
 まるでそれすらも夢であったかのような、静かな態度に窺ってしまうのも仕方ない。
 二重人格、別人。幻。

 「吟」
 「食べることくらい、好きにしたい」

 名前を呼んだことが戒めに聞こえたようだった。
 すっぱりとそれだけは断るので、真島は虚を突かれたような顔をした。

 「ホンマ、頑固やのぅ。――せや、半分こしようや。中華ちゃうけどな、ちょっとずつ色んなもん食べたらええ。そのほうが、残さへんやろ」
 「ケーキ」
 「飯食うてからや」

 吟は不服そうな顔つきに唇を結んだ。真島はその時になって、実はこの女の喜怒哀楽がしっかり存在していることに気がついた。目の前に精算を済ませた数名の客が横切ると、もう一度ウェイトレスがやってきて、席へと導かれる。
 
 「ご注文はお決まりでしょうか」
 「ハンバーグ、オムライス………吟、どないする」
 「………」
 「……食後にケーキ持ってきてもらったらエエやろ。あぁ、食後にデザート頼んでええ?」

 ウェイトレスは、真島に声をかけられて、ぎこちなく「はい」と応えた。
 ほら、と肩をすくめたところで、おそるおそるウェイトレスは「あのう」と続けた。

 「申し訳ございません。当店は、そこの入り口にあるショーケースに出てる分が本日の分でして……。ケーキ類は、さきほど売り切れてしまいまして。すみません」
 「――さよか。ケーキは、アカンて」
 「残っているのはプリンなどでして。パフェは、お作りできますが」
 「どないする?」

 吟はその顔で落雷を受けたかのように呆然としている。意外な態度だった。
 それ以上ウェイトレスを引き止めるのをやめて、真島はハンバーグとオムライスに、サラダを頼んだ。


 「落ち込むほど食いたかったんか……。ホテル戻るまでに買えばエエやろ。中に売っとるトコあるし、……一昨日、ガトーショコラ食うたやん。アレはホンファの好物やろ? あん時、他にもいっぱい美味そうなのあったし、今度はそれ食おうや」
 「……うん」
 「……なんのケーキ好きなん?」


 開きかけて、結ばれ、数秒ほど迷って、「ショートケーキ」と小さく呟いた。
 真島は溜息が出そうになるのを堪えた。

 嶋野から投げ出された仕事を、拒否することなく引き継いで、最終的に落ち着いたのが、女の子守である。
 もっとも、吟はただの女ではなく、その齢にして中国秘密結社の大幹部に昇格を果たした。一見華々しい肩書きに思えるが、実態は幸福から最も遠い境遇に置かれている。――ケーキを買いに行くという小さな望みすらも叶えられないのは良心が痛む。


 「ふー……。わかった。あとで買いにいこか」


 小さいテーブルの向かい側におとなしく座る女は、冷水の入ったコップを一口含んだ。
 「お待たせしました」とウェイトレスが注文の料理を持ってくると、吟は一度、真島の方を見た。

 「いただきます」と初日と同じように唱える彼女はやっぱり日本人だった。
 オムライスのひと口がスプーンに運ばれて、小さな口の中へ消えていく。丁寧な動きで黙々と食べ進める所作は、元々の育ちの良さが表れている。


 「なに」
 「ん? ……上野になんか思い出でもあったんか、思て」
 「……どこまで、聞いたの。テイシュウから」
 「日本が、故郷……言うとったわ」
 「そう」

 物憂げに不思議な色を湛えた瞳が、潤んでいるように見えた。
 日本人だが純粋な日本人ではなく、海外にいたような気配に感じていた理由がそれだった。ヘーゼルともグレーともつかない。黒蝶真珠みたいな虹彩の神秘的な風合い。『獣』となった彼女の肉体。後天的な遺伝変異。通常の遺伝子配列と異なっているのかもしれない。

 ポケットに入れていた錠剤を、吟のコップの側に差し出した。
 

 「これ。渡しとくわ。新しいやつ」
 「……。昨日のこと……、思い出せないの。まだ」
 「ああ」

 左頬の傷をみて眉をひそめたのを見逃さなかった。


 「たぶん、ひどいことをした。謝るわ。……できれば、忘れて欲しい、けど。……無理なら、いい」
 「……わかった」

 拙く選びながら紡がれる彼女の言葉は、真にそれが等身大の『彼女の言葉』だ。
 ほんの数日前。吟が『人を殺したくなかった』と吐露した時のように。あの時、もう少しだけ歩み寄れそうだった。あんな質問をしたのが不味かったのか、それでいて真島自身に後悔は少ない。

 吟のことを、知れた。彼女に近づけた。
 素直に嬉しいと思う。この感情を正しく表すものはあるだろうか。

 吟がハンバーグに手を付け始めてもなお、真島は考えを巡らせる。


 (……生きてほしい)

 (……もっと、自分を大切にしてほしい)

 (…………) 
 

 心象を形作ることに没頭していると、不思議そうな眼がそこにある。


 「……食べないの」
 「あ、あぁ……食べる食べる。ひひ、どや? 美味い?」
 「おいしい」
 「おぉ! ホンマや。美味い」
 



 雨は上がり、ちょうど薄青の空に虹の橋が架かっているのが見えた。
 あっと声をあげたのは真島のほうで、吟は足元に溜まった水たまりの景色を見下ろしていた。

 「虹やで、虹!」
 「……」
 「なんか、エエことあるかもしれんのぉ。……ほかどっか行くん?」
 「……散歩する」
 「歩くん好きやのう」


 野球場近くを通りかかったとき、草野球のホームランボールが、ネットを超えて目の前に転がってきた。
 活気のある子供の歓声に紛れて駆けてくる少年が一人、二人を呼び止めた。

 「すみませーん!」
 「あ?」
 「そこのボールとってもらっていいですかぁー?」
 「おう。今拾ったる!」

 ボールを拾い上げる。すると次の打者が軽快なホームランを打ち上げた。
 ネットの向こうに立つ少年が「あちゃ〜」と呻いた。

 「あ! すみません、へへ。もう一球お願いします……!」
 「ホームランラッシュやのお? 勝ってんの?」
 「んーと、俺らんトコが敗けてるっす。……すんません! 交代なんで、ちょっと!」
 「おお。頑張りや〜」

 年頃からして小学生高学年、あるいは中学生くらいだろう。
 拾った球を返してやり、散歩の続きを再開するものだと吟が動き出すのを待っていたが、ちっとも気配がない。草野球で汗を流す少年たちのほうを、じっと石のように固まって見つめている。

 「……見てく?」
 「野球は知らない」
 「女の子やなぁ。点取りゲームなんはわかるやろ?」
 「それはわかる」

 真剣な顔でうんと頷くのが珍妙なもので。娯楽の薄い生活を送っているだろうし、元々の性格を全く知らないが運動は苦手そうだと思った。美術館や博物館で余暇を過ごすほうが似合っている。普通に生きていれば縁のない二人だ。


 「おっ、倒れとる。死球やわ。……ん?」
 「ハァ、ハァ……まって! す、すんません! あのお、ちょっとだけ代理で出られないスか?」
 「代理? 草野球に大人が出たらアカンやろ」
 「え? そっちの人、中学生じゃないスか?」
 「あン?」

 ぴくりと吟が反応した。
 表情に出ていないが不愉快に思っただろう。
 化粧っ気もなく、短い髪に白いシャツ、黒スラックス姿は男子中学生に見間違えるのも無理ない。


 「お願いします! うち人数ギリギリで回してて……助っ人呼びに行くったってゲーム止めちゃあ不味くって。この後は別のチームが使うし……お願い!」

 パチンと両手を合わせ懇願する少年に、わずかに吟がたじろいだ。
 頼み込まれれば断れないのは当然予想通りだった。

 「……どうする?」
 「ルールわかんない」
 「それは、もう! わかんなくっても大丈夫ッス。打ったら走るだけッス! 守備は飛んできた球を取ってくれたら……!」
 
 後ろで数人のチームメイトが、帽子を脱いで頭を下げている。

 「わ、わかった……。棒を振ればいいの?」

 吟は困った顔で真島を見上げた。道具の名前すらも知らない超がつく素人。
 わけもわからずスポーツをさせるくらいなら教えたほうが楽しめるだろう。

 「よっしゃ。のう坊主。この子にちぃっとだけ教えるさかい、二分だけ時間くれや」
 「は、はい! よろしくおねがいします!」

 吟の承諾を受けて「あざーす!」と男臭い挨拶が球場に響き渡る。
 用意された硬式の鉄バットを手渡され、後ろから握り方から抱きすくめるようにして吟に握らせた。


 「これが、バットや。それを両手でこう、……せや。持って。右のほうが打ちやすいか? んなら、右手が上や。……重い? ちょい上にして短く握ろか。……んで、縦から横に流して、飛んでくるボールを打つ」
 「あ、え、……もう、真島が出た方がいいんじゃ」
 「さすがに俺はアカンで」

 『経験者なら、真島が出たほうが勝利に貢献できる』と吟は言いたいようだった。
 少年の草野球に大人が出るのはアンフェアである。そう言い返してもよかったが、吟の見かけが中学生に見えるという話を蒸し返すのも面倒だった。

 「ボールは最初から打たんで、一球様子見したらエエ。バットのここ、先端から拳一つ……吟の手ェはちっちゃいし、一個半かのぅ。空けて、太いトコで打つんやで」
 「う、うん」
 「ボールは全部で三つ飛んでくる。全部打てへんかったら三振で、アウトが一個つく。アウトが三つになったら攻守交代や。で、あっこにいる子ぉらみたいに立って、打者がボール打ったら落とす前にキャッチする。落ちたら急いで拾って、向こうの右端の白いとこにおるヤツに投げる」

 指差し確認に乗せながら簡単なルール説明をすると、吟の表情はますます曇った。

 「………真島」
 「できるできる。ダイジョーブや」
 
 やんわりとバットを振ってすがるようにもう一度、真島を仰ぎ見た。

 「ボールは当てに行かんと振り切ったほうがエエで。外してもかまへん」
 「あ、あぁ」
 「あっちのピッチャーデカいのぉ。……高さはこのヘンくらいやろ。よっしゃ、いっぺん振ってみ」

 ブンと音をたててバットが振られる。

 「ええスイングや。……おう! おおきに。……ひひ。ヘルメット被り。頭に当たったら大怪我じゃ済まへん。……おっしゃ、気張りや!」
 

 ゲームは五回表から参加し、吟はそれぞれの回でヒット、七回にホームランを一本出した。
 飛び入り参加で活躍をみせた彼女に勇気づけられたチームは、ホームランまでとはいかなくともヒットを出し、点を繋げて三対四で無事勝利を収めた。

 「……ヒヒヒ! 大活躍やったのぅ! よかったわ。あの子ら喜んどったし」
 「……教え方が上手かったから勝てた」
 「ホンマに打って取ったんは吟の力や」

 熱気の孕む並木道。蝉の鳴き声が聞こえてきそうな夏の雲がもくもくと浮かんでいる。
 八回の表に場外へ飛ばした球は、木の陰となる茂みの中に落ちていた。

 「いる?」
 「いらない」
 「ヒヒヒ……ッ! そやったら俺が貰うわ。吟のホームランボールはレアやしのぅ」

 人の中に入っていくのが苦手そうな吟が、戦況に一喜一憂していた。

 「オモロかった?」
 「……うん」

 吟は気づいていないだろうが、とてもいい顔をしている。
 力が適度に抜けた緊張の和らいだ微笑み。若い年頃相応の顔つき。しがらみも何もなければ、いつまでもそうしていられるだろう。
 特別な扱いではなく、率直に、自然に。優しい友情のような感覚が繋がって、吟との言葉が重なっていく。

 腕時計を見れば時刻は一六時半。
 あともう少し、もう少しずつ時間が長くなればいいのに。そう思うことが不思議で、想定外のことで、あれほど早く終わってしまえばいいと願った最後の日が明日に迫っている。

 「……お腹すいた」
 「よう動いたし腹減ったんやのぅ。……ケーキ、食うて帰ろか」
 
 吟は目尻を下げて小さく頷いた。




 東京駅方面へ下る途中、見つけた洋菓子店に入った。

 日の長くなった七月の夕方はまだまだ明るい。
 テラス席の白いパラソルの下。ブラックコーヒーとアイスミルクティー。なめらかな生クリームのホイップの波。その上を塔のようにたつ苺のショートケーキ。白と赤の鮮やかなコントラスト。いたく満足した様子に、真島は一つだけの目を細めた。
 
 日本生まれのショートケーキ。彼女もまた同じだ。

 「おいしい」

 先端から食べ進める吟は、ルビーを皿の端に置いた。
 それがいじらしくも彼女の性格の一端を知るきっかけになり、思わず破顔した。

 「ヒヒ、なんや。好きなモン最後に残しとくタイプなん?」
 「……からかわないで」
 「バカにしてへん。いや、オモロいなぁ思たんや。バカにしてへんで、ホンマに」
 「一番、好きだから。……残すの」

 フォークで端に寄せられた苺。彼女の儀式に則って一番最後に食される、一番好物ということらしい。


 「本屋なんか久しぶりに入ったわ」


 真島はちらりと空いた椅子の方を見た。
 四人分の椅子のうち、空いた一つに置かれた大きな紙袋には、たくさんの本が詰め込まれている。
 花や木と植物の本、学術書である医学、数学、美術に加え文庫本など、フィクション・ノンフィクションを問わずジャンルは様々ある。

 「ふーん。植物いうても色々あるのぅ。家庭菜園に、絶景写真集、図鑑……」

 今後、母国語の本の入手は容易でなくなることは想像に易い。詰まれた本から花の写真集を拝借しめくっていると、ピンク色の花のページが目に入った。花の名前や概説、育成環境・育て方。花言葉にこれまた流行なのか誕生日花まで載っている。

 「そういえば、さっき、王はんが……蓮がなんか、どうのこうの言うとったけど。あれなに?」
 「……え?」
 「知らんの」
 「そういうわけじゃ、ない。……けど」

 アイスティーを吸っていた吟が不思議そうに目を丸めた。氷が音をたてて鳴る。すらすらと口に出ないようで、もごもごと何かを呟き、やがて諦めたように息を吐いた。

 「……仲のいい男と女って意味」
 「仲がエエって?」
 「……からかってるだけ、だから。忘れて」

 愛情や恋を意味するリイエンは、物事の連続と音の発音と蓮の姿形のから転じてそのようになった所以がある。
 また、日本の恋の詩歌には桜や梅が多く登場するが、大陸方面でその類の象徴は蓮となっている。つがった男女へ贈る花でもあるのだが、それをわざわざ教えるのも心恥かしいので吟は口を噤んだのだった。

 「ひひ……!」
 「なに」
 「意外やのぉ。あの人が花見てそないなコト考えるんかと」
 「驚くのも無理ない。日本人よりも詩吟を詠むのが好きよ、あの人達は」

 「あぁ」と真島は得心がいく。バーで冗句を、初日の夕食には皮肉のきいた『貴族』の話をした。男所帯で暑苦しく、猥談の一つや二つが飛び出ても不思議でないのだが、品性というものだろう。

 過去や事実は消せない。
 その証明がこの本の山だと真島は思う。今ある場所に居続ける。そうするしかないと決まったのなら、その色に染まる。品性を持つ悪人になる。言葉数の少ない彼女の哲学ではないか。

 教養の充実。知的な散策。ささやかなこだわりを持ち、実は表情に富み、最後の自由日に本来の人となりを知った。
 作り上げられた凶暴な殺人キメラでも、無情の傀儡でもない。

 生きてほしい。
 
 幸せに、できるだけ、長く生きてほしい。

 もっと、自分を大切にしてほしい。

 ――愛おしい。


 真島は己の口角が上がっていることに気がついた。
 『答え』に気づきたくなかったのだ。そして、二度目の裏切りを許そうとしている。やはり吟の答えに委ねること。それが二度目の裏切りだった。男同士の盃の中に、女の。この際、一人の認めた人間の判断を招き入れること。『不可侵』の領域の侵入を許すことを。


 「なあ、吟。……話がある」
 

 静謐な瞳が向けられる。見栄も情けもなく、心臓の音が大きくなった。
 屈強な男でも、尊敬できる親でもない。そこにいるのは二十歳前後の、平穏と幸福とは真逆の人生を送る若い娘だ。

 「……王はんから、オファー受けた。こっちに来ぇへんかってな。俺は、断った。……けどな、らしくないくらい、実は悩んどる」
 「……」
 「吟は、どない思う」
 「………記憶違いじゃないのなら、あなたには盃を交わした相手がいるはず」
 「ああ、……そうや」

 理性的な模範解答だった。しかし真島の中で十分な自己問答が行われた末、尋ねているのだ。堂々巡りを続ける気はない。
 もっとも欲しい言葉というのは、真島が『必要』か『必要でない』かのどちらかの答えだった。

 「なら……裏切ってはだめ。あなたは、待ってないと」
 「そら、もちろん、わかっとる」
 「ええ。だから、それが、答えよ」

 この話は終わりというように、吟は止まっていたフォークでケーキをつつき始めた。

 「いや、ちゃうねん」
 「………」
 「好きなんや。……吟のことが」
 「んっ……ゲホ、ゲホッ」
 「だ、大丈夫か……!」
 
 激しく咳き込みながら吟はきっと真島を睨んだ。
 『馬鹿じゃないの』と罵られているような気分になったが、嘘偽りのない感情に言い訳の余地がなかった。
 再度確認するように「好き、や」と呟いた。感情論を動機にすり替えることは、もっとも悪手に等しい。だが、金がほしい、強いやつと戦いたいといった理由よりもまず先にきたのは、吟への形容し難い感情だった。

 「あなたは、憐れんでる」
 「………」
 「憐れな女に同情している。……少ない時間を共有して感化してしまっているだけ。そんなものは、悪い夢。明日が終わればわかる。次の七日目が来た頃には忘れている。……気の迷いなのよ」


 彼女は鋭くその正体を詳らかにしようと言った。
 昨日まではあれほど制御のつかない癇癪に悶えていた女が、薬の効果なのかはっきりとした口調で戒めるので、もしこれが本当に見栄を張るだけの男なら萎縮して逃げ出していた頃だろう。


 「俺が、おかしいヤツやと思っとるんか。……ひひひ」
 「……ちがう。そういう意味じゃない。今は……特殊な状況だから……いつもどおりに、戻れば……」
 「いつも通りってなんや? お前は俺のいつもを知っとるんか?」
 「……それは、言葉の文よ。冷静じゃないだけ」
 「あぁ? それは吟がそう思っとるだけや。……俺は、ずうっと……冷静やでぇ?」


 粘りのある応酬に、内心彼女は憤っているだろう。声調に乱れはなく表情も固いままだが、真島を見つめる目の奥だけは隠せない。
 真島は狭いテーブルの上に頬杖をつく。逆なでするような物言いだが、真島が出会ってきたなかで、最も融通がきかない女だからそう言うよりほかがなかった。


 「……俺は、吟が必要なら、……かまへん思てる」
 「あなた自身が決めることよ。他人に委ねることじゃ、ない」
 「せやな」
 「それに……、日本にいたほうが、幸せよ」

 堅牢な彼女のほころびが出た。
 透明な心根の優しさが見えた気がした。好意を告げた時点ではっきりするが、彼女はそれについて返事をしていない。優柔不断で断れないか、何かしらの感情を持っているかのどちらかだ。

 「……それはちゃうのう」
 「は?」
 「幸せかどうかっちゅうのも、自分で決めることや。俺は幸せや。な? 忖度抜きで考えてくれや。俺が……必要か。必要とちゃうのか」
 「……卑怯な人」
 「ひひっ。せやで。吟が知らんだけや。……ホンマはこないな固ァい話かてイヤや。息が詰まるし、煙草かて吸いたなる。勝手にやってるだけやけどな。ここの礼儀ならそれに従っとる。……あ、ちゃうで。それと幸せは別や」

 幸せは相手の幸せを願うものだ。だが、どう考えても彼女は違う。一人で幸せになれるなら薬を乱用しない。
 驕っていると言われたとて構わなかった。

 「意味がわからない」
 「……好きな子ぉのことは、知りたい思うもんやろ?」
 「………」
 
 吟には、傍に人が必要だ。
 ただいるだけじゃなく、くだらないことを、楽しいことを、時には難しい話を共有できる相手が必要だ。癪な話だが、王汀州はその役割は自分にはできないといい、おそらくその周囲の人間も同様だと考えている。

 結果として、その意を汲む形になるのもまったく、ほんとうに癪なことだが、真島は、やはり恩義を感じている。
 あの暗闇の世界で、彼女こそが光だった。

 吟は言葉を継がず、顔を俯かせた。
 二日前の美容院にて、整えられたばかりの髪の綺麗な影が頬に落ちている。

 「すこし、考えさせて」
 「おう」

 アイスティーの氷が溶け、水かさを増やしていく。
 じっと固く考えるのが吟の癖のようだった。真島は近くの空いたテーブルを拭くウェイターを呼んだ。

 「……え?」
 「ひひ。……ケーキ見とったら自分も食いたァなってきてのぅ」
 「………」
 「イチゴいる?」

 吟は困った顔をした。
 単純な問いにすらこんな反応なのだから、それほど真剣に考えているのだと真島は受け取った。
 
 「どーぞ。これで出し惜しみせず一個食えるで」
 「……ありがとう」
 「答えは、今すぐやなくてもエエわ。……明日までやろ? こっちにおんのは」

 吟が頷いた。
 時間としては実に短い。
 いつだってそうだ。人生を変える瞬間はあっという間に訪れる。二人の男たちから狂気と冷徹さを。では、この女からは何を得るだろう。脆くとも毅然とする力か、清貧の心か。

 吟は『憐れみ』だと言った。嘘ではない。憐れんでいる。
 裏社会でしか生きていけない女が憐れで仕方がない。それ以外の選択肢はすべて死なのだから。若気の至りでこの世界を目指す若者とは訳が違うのだ。頭の先から足のつま先まで浸かっていて、救いきれない。

 幸せになるのが難しくとも、地獄の道には灯明が必要だ。
 だから、真島は驕っているし、憐れんでもいる。それに愛おしいと気づいてしまったから申し出たのだ。




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List午前四時の異邦人