◇ ◇ ◇
真島からの告白は、想像だにしていないことだった。
つかの間の晴れ間だった。
夕刻を過ぎて、すっきりとしていた空には雲が覆いやがて雨を降らせるようになった。
濡れ鼠になってせっかく買ったばかりの本を無駄にしない手前、早々にホテルへ戻ったが、策士――もとい首謀の男の予測を外したみたいだった。男はロッキングチェアでくつろぎ、部屋に入ってきた吟をみて、眉の片側だけをぴくりと持ち上げていつも通りに鼻先で笑った。
「ごくろうさん。……雨は避けてきたか。真島は部屋に? そうか。タイランは地下で買い物だ。……俺の予測では、あと数時間。外泊もあり得ると思ったんだが」
「悪趣味め」
「いい雰囲気だと聞いたが。それはアイツの主観だったかな」
男は机の上に転がっている葉巻を取って、手早くマッチを擦った。
ホテルの地下で買ったという。気に入った様子だった。
吟の行動履歴はすべて伝わっている。逐一動きがあれば報告するようになっているからだ。
客観的にみて、今日の二人は男と女に見えたのだろう。共に食事をし、レクリエーションをし、買い物を楽しみ、スイーツを食べた。そのあとすることといえば決まっている。
「真島に……スカウトかけたって、ホントなの」
「断った。盃は覆せんとな。……明日までに何もなければ方々に手を打つ」
「……たとえば?」
「大使館。……それから、東城会だ」
吟は噛みしめた。
昨日の、中国大使との邂逅を仕組んだ動機が、真島への間接的な働きかけだったということに気づいたのだった。
日本にいれば、すべての動向が監視されることになる。
車の運転手が全くの部外者であるはずがない。とすれば、本省は今後、藍華蓮の足跡をたどるにあたって真島に注意が向く。――ということは、非常に危険な立場となる。だからこそ、日本から連れ出すための揺さぶりの材料だったというわけだ。
つまり、王汀州は最初からオファーが成功することを見越していた。
しかし真島は断り、大誤算なのだろう。
「くそったれ。……あいつまで、狂わせる気か!」
「落ち着けよ。まだ決まったわけじゃないだろう。たしかに、このまま何もなければ、だ。何も、だ」
「大使館に睨まれていれば日本の警察庁が黙ってない。それも……外交上重要な国同士だ。……東城会だって迷惑千万、黙らない。……絶縁したって、おかしくない……」
真島は、半年ほど前にようやく極道に復帰したのだ。嶋野によって、徒に『穴倉』で折檻され、若い時間を浪費した。
絶縁はこの国の極道組織の中で最も重い処罰に値し、永久追放にあたる。
今回の接待も追求がなされるだろう。企てた嶋野とてそこまでの知恵は回らなかったはずだ。王汀州は最初からそのつもりだったが、藍華蓮は上流階層のパトロンを抱えている。最悪のシナリオが完成した暁には、知らぬ存ぜぬを突き通すだろう。
真島が嶋野のお気に入りだとしても、東城会の命令には違反できない。
それが縦社会のルールだからだ。
「……クソ野郎よ、あなたは」
「悪党には褒め言葉だな」
「真島には、最初から……選択肢なんてない。なにが! 『盃は覆せない』よ!」
吟は吠えた。
国家権力、国際政治の問題に発展すれば、個人間の『盃』など無意味だ。
「かっかするな。抑えろ。悪い癖だ」
「殺してやる!!」
吟は安楽椅子を蹴り上げた。
ほとんど衝動的だった。呪詛一つに意を介するわけもなく、男は安楽椅子に揺られながら、葉巻を深く吸い吐いた。
「お前には三つの道がある。一つは、真島をその気にさせること。二つに、バックアップフォローをお前自身がすること、だ。――三つめは、心中なんてどうだ? 俺も、お前も。みーんな仲良く東京湾に沈むのさ。そのあとのことは知らん。だが、真島は殺されるだろうな。……はは、ははははは!」
吟は、真島の『幸せ』を願っている。
本人の意思などではない。
だってもう、そんなものが尊重される局面ではないのだから。
好意を持ち合わせていた人間から、告白を受けて幸せだと思えなかった。純粋な愛を楽しめるほど、清純ではないのだ。
真島には、憐れな女に映るだろう。本当にそうだからだ。そして、そんな女を好きだと口説き落とす彼も、憐れに思えた。
王汀州の悍ましさを知れば、彼は諦めるだろうか。
立ち尽くしながら、吟は涙を流した。
真島を外に連れ出して、そのあとどうするかは王汀州の一存で決まる。それを回避するには、吟がなんとかしてやらねばなるまい。
国内に留まるのであれば、使える手段をすべて使って、対応せねばならないだろう。
「明日は何時に出港する」
「昼下がり、だな」
「何時、ときいている」
「一三時だ」
残すところ一六時間ほどしかない。内心では焦っているが、考えているうちに時間は過ぎる。
「テイシュウ。真島をどうする気だ」
「色々に使うな」
「質問に答えろ」
「わざわざオファーしたんだ。いくつか条件は呑めるだろう。金が欲しいならベットするし、女が欲しいなら呼べる。……望む限りはなんでもしてやれる。そこがマフィア体制のいいところだからな。対価はでかいさ」
吟は相変わらず、読めない思考に眉をひそめた。
通常の構成員や幹部以外では破格の待遇だろう。しかし、何をさせるかはっきりしない。
「対価?」
「ああ。利益が十分にある」
「はっきりしろ」
「せっつくな。……仕事は掟に則り、最低限のことは覚えさせる。あとはその都度だ。別にこれは真島だけじゃあない。エン・ジ―ハオたちだって同じだ。ホワイトカラーのデスクワークじゃないんだ。なんでも、してもらう」
真島をスカウトしたのは王汀州だ。だから契約上、吟の出る幕は一切ない。
吟は「わかった」と呟くと、ソファに蹲った。
しばらくの後、出ていた王泰然が部屋に戻ってきて王汀州は身支度をした。
「これから夕食だが、どうする。まともな晩餐会だぞ。横浜中華街だ。日本人好みの中華が食いたいなら来い。ほかは後継の組織への簡単な挨拶を少々。まあ、お前がいなくとも上手くできる」
「オイオイ、まタお前、拗ねルようなコトを言いやがっテ」
「いい。……いかない」
王泰然がからかうように言った。
そもそも、仕事における会食が苦手な吟には用向きではなかった。
「真島ハ?」
「ホテルに残るように。腹が減ったら二人で適当に済ませろ。……食事券のチケットが残ってるから使っていい」
礼服のチャンパオ姿の二人の男が部屋から出ていった。ソファの上で仰向けになると緊張が解ける。
重い息を吐いた。とても、『重要な選択』だ。
〈私は、……『幸せ』を願っている。〉