(私は、…………幸せを願っている)






 「……幸せを」


 重要な決断を下したところで、なにか特別なことが始まるわけでも、選択を肯定するものが現れるわけでもない。
 
 吟の次にとるべき行動は、心変わりしないうち、今すぐでも、次の行動に移すことだった。


 吟の進む道なき道は、悪道だ。
 それでは地獄へ赴くというところにふさわしい、最初の洗礼を与えるべきだ。



 隣室へつながる扉を開ける。
 真島の部屋は玄関の方だけ灯りがついていた。部屋の外に行ったのかと考えていると、浴室の方から水音がした。
 シャワーを浴びているようだった。

 磨ガラスの向こうで、肌色と身に彫られた刺青の、赤と黒がぼんやりと浮かびあがっている。たった一枚のガラス越しに吟が立っていることに気がついていない。くるりと身を反転させこちらに表を向けたので、吟は浴室の扉へ伸ばしかけた手を止めた。

 「吟?」

 中で真島の声が反響する。
 シャワーのレバーを締め、水音が止んだ。扉はギイっと音をたてて開かれ、真島は首だけを出して何用かと尋ねた。


 「どないしたん」
 「……あ」
 「……答え、出た? ……すまんの。今出るさかい、……外で待っといてや」


 真島の声は静かで穏やかだった。
 意を決しての予定行動をさっそく変更することに決めて、吟はおとなしく頷いた。洗面所から退散すると、一度隣の自室へ戻った。
 テーブルの上にパッケージングされた錠剤が転がっている。今日、真島が手渡したものだった。

 一錠を押し出すとコロンとテーブルに転がった。それを指先に取り、犬歯でカリッと齧ると半分に割れた。

 「―――テイシュウたちは外に出た。最後の仕事にいくって」
 「今から? ご苦労さんやのぅ」

 出てきた真島はガウンを羽織り髪の毛を拭いている。ボディソープのいい匂いが、離れていてもわかるほど香った。
 そのままソファに腰を落としたのを見計らって、吟は声をかけた。

 「水、飲む?」
 「ん? おお。飲む」
 「わかった」

 冷蔵庫に入っているペットボトルを取り出し、コップに水を注いだ。薬の半分を落とし込むと、吟はもう一度隣室のソファに座る真島の後ろ姿を眺めた。迷いがないわけではないが、これ以上予定を変更するわけにはいかなかった。

 「出かけたんは、二人だけか?」
 「……ジーハオたちも行ってる。だから、夕飯は二人で食べろって。……なにが、食べたい」
 「決めてエエの?」

 吟は何も考えぬようにしてソファに寄り、コップを差し出した。真島は疑うことなく受け取ったものに口をつけた。水に溶けた錠剤は吸収されやすく、効果は簡単に出る。

 「さっきは、……私の要望で食べたから」
 「ケーキなぁ。……美味かったのぅ。……なにがええやろ」

 風呂上がりの一杯を飲みきった真島は、ソファの上で長いため息をついた。睡眠薬ではない。だが、普通の人間が飲めば軽い眠剤代わりになる。吟はソファの反対側にあるフットレストの上に足を組んで座った。薄暗い部屋。真島は一つ欠伸をした。

 「……吟」

 真島は、吟を呼んだ。
 急激な眠気に悟ったのだろうか。微動だにせず瞼が下がっていくのを見守り、やがて絨毯の上に空のコップが転がった。


 「……おやすみ。真島」

 
 すうすう、と寝息をたてはじめた男を見下ろした。大人びて見えるが寝顔は十分に若い青年だった。コップをテーブルに立たせると、吟は自室の鍵と小銭の入った財布を持って部屋を出た。







 雨がやんでいる。


 ホテル近くにある公衆電話から連絡を入れ、数十分後。公園にて、チャン・ホンファは姿を現した。街灯の下に立つ吟に近寄ると身を屈めて笑った。

 「あらら。迷子かしら? 交番わかります?」
 「茶番はよして。……時間がない。手短に話す」
 「ふふ。じゃあ、交番まで」

 めかしこんだ軽い冗談を、煩わしそうに吟はふり払った。
 仕事帰りのホンファはいつもより化粧が華やかだ。カツカツとヒールの音をたて、吟のすこし前を歩いた。

 「……真島サン連れてこなかったの。王大哥らは横浜でしょ。危険だわ。大使館のトップシークレットに上がってる。本党はカンカンよ。……今、内部で『嘘つき狼』を探してる。こっちもね。いずれ私もダメになるでしょうし、今日以降、接触は控えないと。……大姐」

 チャン・ホンファは中国大使館内部にて、監視及びスパイ業務にあたっている。先日の秘密裏に行われた調印式は、昨日の大使との接触があったように知れ渡っており、証拠がしっかり挙がれば、粛清の対象になるまで秒を読んでいる状況だった。そんな中、たった一人で外にいることに違和感を覚え、ホンファは形の良い眉を顰めた。ここは本拠地ではなく『外国』である。もはや故郷ではなく、組織にとっての『外国』となった身の上で、一人きりで外出することは危険極まりない行動だ。

 吟は重要な話をさっそく始めた。

 「大使と接触したとき。真島の顔を見られた。……真島は……、預かってる状態に過ぎない」
 「東城会の?」
 「ああ」

 チャン・ホンファは、たったそれだけで概ね理解に達したようだった。
 吟は街中に散らばる同胞たちに向けてサインを使い、人払いをし、秘密会議に使う店の扉を開けた。

 「厳しいわね」

 無人のバーのスツールに腰掛けるとホンファは結論を出した。
 
 「……だから、一人で出てきた」
 「大哥の考えは?」
 「……そもそも、大使との接見もテイシュウの考え。真島を、こっちに来るように囲うつもりで。……だから」
 「真島サンにオファーを? まあ、そうよね。答えは?」

 王汀州の計画に逆らっているのは吟の意思だ。
 真島は、日本に残るべきであるし、そうするほうが自然である。だから、昼間にどちらでも構わないと吟に選択を委ねたのだ。

 「……真島は、どちらでもいいと言った……」

 吟は事実を告げたが、すぐさま否定が入った。

 「嘘よ。大姐。……好きと、言われたでしょ」
 「ホン、ファ」
 「どっちでもいいは、建前よ。……大哥は昨日のうちに『断った』って言ったわ」

 ホンファに向いていた視線が外れ、泳いだ。監視員による傍受していた話の内容も、報告を受けたということだ。厳しい目付きで真島の本心の在り処を説き、薄々勘づいていた真理を突きつけられたことで、吟はたじろいで反射的に声を荒げた。

 「な……! ホンファ、……鎌をかけたの」
 「一度断ってるのを簡単に覆すほど、甘い人には見えないわ。だから相当考えて答えをだした。七〇パーセントは本気じゃないかしら。……だから、大姐。あなたは、彼には来てほしくないのね」


 チャン・ホンファは鮮やかに、ひた隠しにしようとしているモノの、鎧の隙間を突いた。何もかも、手にとるように知っている。そう言わんばかりの、冷静な声。吟は、居心地が悪そうに下を向いた。その態度が余計に彼女の導火線に火をつけたようだった。

 「あなたじゃなかったら、殴ってるわ。……人の好意を無碍にするなんて許せないから。……でも、そうした理由もあるんでしょうね?」
 「ある。……真島は『穴倉』の折檻部屋を出た。極道を続けるために戻ってきたばかり……」
 「違うわね。それは事実。でも、理由じゃない。だって彼は、あなたの傍にいたいと言ってるのよ。……その答えを言って」

 
 ホンファがどうして怒りを口にするかを理解している。
 なぜだか、彼女は吟に好意を寄せていた。それに能わぬものと思いながら、彼女は本当の心を露わにしたことがある。チャン・ホンファにしてみれば、相変わらず好意をぞんざいな扱いにした事から納得がいかないのだ。


 「……幸せを、願ってる。でも、……傍にいることが、本当の幸せとは……限らない」
 「大姐……。擁護できない。さすがに、ムカムカする」

 チャン・ホンファは一見、静かだがその怒りは頂点に達している。
 偽り、人を欺くことを生業とする女だが、愛に対しては誠実に尽くしていることを、とうに知っている。だから情けなく、厚かましくも、こんな夜に呼び出して助けてもらおうとしている。いわば、ホンファの愛を利用している。
 
 チャン・ホンファはスツールから下り、ヒールのかかとを鳴らしながら吟に迫った。
 壁際まで追い詰められれば、恐怖と混乱によって吟は草食動物のように叫んだ。

 「こ、こわいの!……もう、嫌だからっ……、死ぬのは、耐えられない……! あ、あいつが、一緒にき、て……向こうで死んだら、わ、わたし……」
 「……責任が、持てないって?」

 冷気を帯びた声音に、喉がひくりと鳴った。

 「……リ・チュンイェンが生前、言ってたわ。『甘えた子供だ』って。その通りよ。……男たちに乱暴にされた傷があっても、過去を乗り越えられなくても構わない。……自分を可愛がってもいいわ。だけど、責任だけは、私たちじゃどうにもならない」
 「……っく」

 傷口から強引に手が突っ込まれ、中身を掻き回されているような強烈な痛み。反論の余地はなく、ただ自分の選択によって、真島の不幸を抱えきれない未熟さが露見した、だけなのである。ホンファはなおも囁く。
 
 「傷つくのが嫌でしょ。わかってる。普通の女の子ならそれでよかったの。逃げても構わない。………だけど、組織の執行役員なのよ、吟。――たくさん、死ぬわ。あなたが決めたことで人が死ぬ。その中に、好きだって言ってくれる人も、嫌ってる人も、みんな等しく死ぬリスクがある。もちろん私もね」

 吟は、覚悟を決めたと何度も思っていたが、結局いつもの振り出しに戻っている気がした。
 穴倉で、調印式で、ついさっきにも。決断しても、傷つきたくない心が、逃げる選択肢を選び取ろうとする。しかし、同時に、そうしなければまた、もう一度……今度こそ、心がバラバラになってしまうだろう。

 好きと言われるよりも、嫌いだと言われる方がずっとマシなのだ。
 関心を抱き、その期待を裏切った結果であり、期待を裏切り続けるだけでいいからだ。好きと言われてしまえば、果てしなく、望みが懸かっている。己を好いてくれる人間に対して報いきれない。弱りきった吟の心では、誰かに愛を返すことができない。

 どこまで読み取ったのか、ホンファは一つため息を吐いた。


 「……あなたは、真面目なのね。………それでもね、彼が日本にいたほうが……、傍にいないほうが幸せだと、思ってるのなら。……手伝ってあげる」
 「ホンファ……」

 女を見上げる目から、涙がボロボロと零れ落ちていく。
 折れたのは、チャン・ホンファのほうだった。どうしようもなく、この可哀想な少女が好きだった。どうして、なぜ。
 常々、疑問を浮かび上がらせては、いつも理屈で説明できないところまでいって、考えることをやめる。残ったのは、この人に選ばれなかった事実だ。それは何もかもを偽り続ける女に対する罰だと思った。吟にとて選ぶ権利がある。愛する権利があり、それで幸福になるのであれば良いと考えていた。

 諜報部門の監視員の人間から伝え聞いているように、彼らの雰囲気は決して悪くない。だから、吟も本心では真島へ好意を抱いているか、あるいはその種子のような初期微動があると思っていた。もしも、お互いが、お互いへの同じ気持ちであれば、それが彼女を救う手立てになるのではないか。そんなふうに考えていたのは、ホンファだけではなかった。

 「はあ。やんなっちゃう。王大哥はわかっててスカウトしたんだわ」

 何度目かわからない息を吐いて、ホンファは瞼を閉じた。
 吟に必要なのは、誠実な愛だ。今朝の王大哥への報告に際して、薬物依存・及び、乱用の痕跡が認められ、よって”ケースE”の進行が告げられた。護衛と主治医も兼ねて務めるエン・ジーハオは、数ヶ月間にわたる静養の診断を出した。とはいえ、香港に凱旋帰国し、最初の仕事である三合会総会議の出席は免れない。

 組織の総本部である台湾へは、王兄弟が代理出席すれば問題ないが、海路の覇王とされる世界最大規模の貿易会社。その筆頭株主である。たった一夜にして世界が変わったのだ。実感はまだ薄いが、各局は一斉に警戒を強めている。明日の出港式も、穏便に済むか不安要素が残る。
 王汀州が真島を利用しようとしているのは、偽装工作のためだ。CIAが海を超えて捜査に乗り出したときいている。

 邦人の女を擁立し、企てが暴かれ、米国に持ち帰られては問題があるからだ。
 薬物乱用をし、気分障害を併発している。スキャンダル材料は潤沢にある。また米国側にとって有利に働くよう、日本政府へ通達されれば、日米、英国と中国を交えた、複雑な貿易戦争に発展する可能性があるからだ。

 王汀州の目下の目標は、波風を立てず、吟を療養させることで。比較的一緒にいてマシな人間を、そばに置く必要があると考えているのだろう。


 だが、吟は申し出を断った。
 真島をどうにかして、日常に帰してやりたいのだろうが、このままでは間違いなく消される。あるいは拉致される。情報戦において日本はスタートすら切っていない。日本政府が早々に保護しなければならない人間であるが、至っていない。彼を寄越したヤクザ――嶋野太とて、水面下の戦争を知らなかっただろう。

 「けど、どうしましょ。……大哥には真島サンのことは伝えた?」
 「……いや」
 「そうよねぇ。そうなってたら今頃、連絡が来るはずだもの。……このままだと彼、東城会から抜けないといけないわ」
 「………」

 吟は口を噤んだ。
 裏目に出るとは考えつかなかったのだろう。東城会は最後の砦だ。もし絶縁になればどうなるか、火を見るよりも明らかだ。藍華蓮としても、日本の暴力団と繋がりのあった事実を抹消する。そうなれば、何もかもが消える。この七日間も、真島吾朗の存在そのものも、何もかもが歴史から抹消されるのだ。死、という事実すらも無い結末に辿り着く。チャン・ホンファとしても避けたいことだった。

 吟は間違いなく責める。そうして、たちまち死を選ぶだろう。
 彼を想ってそうしたことで、結果として喪うことになるのだ。
 そうなれば、今度こそ、耐えきれない。そうホンファは確信している。

 今からその選択を覆すことも遅くはない。

 「吟。……やっぱり、どうしてもだめ?」
 「………」

 沈黙を守った。頑固で融通の利かない性格がこんなところで災いした。彼女はもう一歩も動けない。十分に疲弊しきっていて、切り立った崖の上に立っている。チャン・ホンファがやるべき事は、二人を殺さず守り抜くことだ。……助けられる人間はむしろ、ホンファしかいないとさえ思う。その役に選ばれたからには、尽くすだけだ。惚れたほうが負けなのだ。

 「ん〜。………あっ。そう、そうだわ」
 「なにか思いついた?」

 眉間を押さえ頭をうんと振る。はっとしたのは、何気なく吟の着ている白いシャツの色をみてからだった。

 「簡単よ。フフ! 私、天才かも。天才なんですけどね! ……大姐。このあとまっすぐホテルに帰って。車を呼ぶわ」
 「……わかった」

 吟の華奢な両肩に手を添えて、くるりと扉の方へと向けさせる。
 ホンファは安心させるように、穏やかな声を出した。

 「明朝、ホテルに封筒を預けておくから。それを吟が受け取って。……真島さんは見送りに来るの?」
 「……それは」
 「じゃあ来てもらって。見送りに来てもらう前、彼に封筒を渡すのよ。それで、中国大使館・二等書記官の『ウー・シュンメイに渡して』と言ってくれるだけでいいの」

 吟はこくりと頷いた。
 『ウー・シュンメイ』は、偽名である。たくさんの顔を持つ、ホンファにとっては二番目の名前である。一番は、チャン・ホンファだが、二番目以降のナンバーネームがある。
 
 「明日は、大使も行く気満々だった。……私はその同伴。ちゃんとお仕事するだけだから、気にしないで」
 「……ホンファ、もしかして」
 「んふふ。……できれば、私の演技に合わせるように、って言ってくれたら最高なんだけど。言わない方がいいかしら。そのほうが自然体だものね?」

 吟はなにかに気付いた様子だった。追及は避け、また唇を結んだ。

 ホンファは十二歳の頃、『お前は女だが、医者でも法曹・士業でもなんにでもなれる』と孤児院の先生から預言を頂戴した。ツテで東欧の片田舎に溜まっていたレジスタンスに潜入し、中国政府と民間企業を相手に情報商品を売りつけ、最初に食らいついた方に人生の指針を向けようと決めたのだ。いち早くその才能を見抜いたのが、当時、その会社の役員にいた若き秀才である王汀州だった。彼の裏の顔が秘密結社の有名人で、ホンファは十六歳の頃に推薦され組織入りを果たした。

 ある日、王汀州が島を買い取り、商材研究に乗り出した。その矢先、連れてこられたのが、小さな少女だった。
 王吟だった。先生から預言を聞いた年齢と同じ年の頃の、日本人の孤児。ホンファは、運命を感じた。王汀州は『小猫』と呼び、研究対象である『獣』は、彼女のことだと一瞬でわかった。――それから日本に行き、再び香港で会ったとき彼女は、『吟』になっていた。

 王汀州は彼女の才能の開花を喜んだ。吟は見事に組織入りを果たした。血盟状に名を連ね、血判を押印し、一年と経たぬうちに大姐になった。華やかな経歴・出世とは裏腹に彼女は満身創痍で、とても幸せそうにはみえない。ホンファとの決定的な違いはそれだった。

 ホンファは幸せだ。なぜなら、自分の才能に気づく人間がいて適切な評価をし、居場所を与えてくれる。『天才』とは聞こえはいいが、社会では鼻つまみ者だった。『天才』は万能の人間ではない。強く期待をされることも、忌避されることもない。ちょうどいい湯加減の場所が、王汀州のところにある。だから、幸せだった。――だから、吟には居心地のいい場所と、思えなくとも、もう少し心を預けて欲しい。そう考えている。
 
 扉を開けてやり、宵闇に埋もれる世界へ押し出してやる。
 ただ、最後に一つだけ確認しようと、ホンファはそっと呼びかけた。


 「ねえ。最後に。……真島サンのことは、けっきょくのところ――好きなの?」





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