故郷の海




 空を映す海が煌めき、潮風が漂う白昼。


 揺れる意識の刹那にもたらされる回顧。静寂を打ち破ったのは、運転席に座っている女の気を遣った声だった。

 「……ジェ、……大姐。到着しました」
 「……そう。ありがとう」
 「降りられませんか」

 エン・クゥシンの色を伴わない硬質な声音が耳朶に触れる。
 吟は後部座席に深く座って、ちらりと窓の外をみた。住宅街の立ち並ぶ坂道の上にいる。夏の銀色の光を反射して、アスファルトが輝いている。吟が最後に一度立ち寄りたい、とクゥシンに申し出て出発の手前にやってきたのだ。

 坂道には、母と手を繋いだ幼い少女が登っていく姿がある。
 「帰ったらシャーベット食べようねえ」という母親と、嬉しそうにはしゃぐ娘の背中を見送って、吟は瞼を伏せた。

 「いいえ。もう、大丈夫」
 「大姐」 
 「エン・クゥシン。もう出して構わないわ」
 「そうですか」

 切っていたエンジンがかかる。
 わずかな揺れとともに、クゥシンはさっくりと吟に尋ねた。

 「ここは、馴染みの場所でしたか」
 「そう、ね」

 バックミラー越しにクゥシンが吟をみた。強い女戦士は余計な詮索をしない性質だが、運転手はジーハオにも務まる。わざわざクゥシンを選んだあたりで、彼女が何かを語りたがっている、そう経験から察したのだ。

 「ミラーに映ってるでしょう。あの古い家。……私の家だった」

 過去の話だ。吟はそれ以上なにも言わない。クゥシンはスピードを上げずにゆっくりと坂を下った。一部瓦が剥がれた屋敷が、少しずつ遠ざかっていく。クゥシンは、吟について詳しいことを殆ど知らない。王汀州は内情を知っているだろうが、もちろん口にしたことがない。重要なことはすべて知る必要も権利もない。クゥシンにとっての長は、王汀州で、その男の命令が絶対である。吟は、あくまでも男のお気に入りで、組織の執行役員に昇格したから命令を受け入れるのだ。

 クゥシンは、『帰りたい』とでも言うだろうかと期待した。
 仮にそうなれば、クゥシンには射殺許可の権利を王汀州から委譲されている。射殺後、速やかに遺体を回収するまでのマニュアル、周囲に目撃者がいる場合の対処法マニュアルなどもある。

 「出られませんか」
 「いいの。もう、決めてしまったから。……クゥシン。貴女のいうように、私は子供よ。もう、泣き叫ぶことは、やめるわ」

 ミラーを介して、吟とクゥシンの視線が交じる。
 クゥシンは懐に収めている、銃のグリップから指を離した。

 「そうですか。……大姐。私からは一つ、感謝を。……リ・チュンイェンの交渉の日です。貴女はルール違反を起こしましたが、そのお陰で私は銃創を負いませんでした。ですから、感謝します。……しかし、もうあのようなことは止めてください。……残念な話ですが、組織において、命は不平等、ですから。これは、ジーハオのためでもあります」

 吟は「ええ」と頷いた。
 代わりの利かない人間は、本来はいない。しかし世は不平等だ。吟はその宿命を背負っている。被検体であり、責任者であり、護衛人たちには『守られ』なければならない。それが彼らの仕事であり、契約になっている。






 横浜の港には、貿易船が護岸に寄せて停まっていた。
 数十台ほどの黒い車が勢力図のように散らばって、一台の車の進入によって緊張感が高まった。吟が車を降りると王汀州が鷹揚な態度で出迎えた。

 「待ちくたびれたぞ。……冗談だ。定刻までに余裕がある。どうぞ、女王陛下」
 「気色悪い。……さっさと船に乗りなさい」
 「そうも行かんのさ」

 男は、周囲を見渡すように顎を傾ける仕草をして、鼻先で笑った。見送りに集まった面々が、顔を揃えている。その中で、ジーハオと最後の挨拶を交わしている真島の姿が視界に入った。

 「真島」
 「……数分の猶予ならある」

 時計もない腕をみて、王汀州は教えた。聞き終わる前に吟の足は真島のほうへ向いていた。

 「封筒は持ってるの」
 「ああ。ある……ウー・シュンメイ? に渡せばええんやろ」

 チャン・ホンファの指示通り、封筒を事前に渡した。それが如何なる効力を持つのか、吟は知らない。しかし、吟が今の所頼りにできるのは彼女しかいない。だから信じることに賭けていた。

 「そうよ。ちゃんと渡して……」
 「……吟」

 念を押して、吟はその先の言葉を失った。
 猶予の数分を無駄にできないが、真島の顔を前にしてみて、定型文のような挨拶すらもふさわしくないと思った。

 「………こういう時、なんて言えばいいかわからないけれど、………お疲れさま?」
 「せやな。……ひひ。なぁんや、意外やけど悪うない一週間やったのぅ」
 「お世辞はよして」
 「いーや。こないな経験は、なかなかあらへん」

 たった七日。しかし、とてつもなく長く感じた。
 疲れを感じさせない朗らかな物言いに、吟は助けられた。思い返せば、酷い態度をとってきた。罪悪感と安堵の両方が胸の中にある。

 はっきりいえば、根っから真島とは相性が悪いのだろう。一緒にいればまた酷い態度をとる。裏を返せば甘えてしまう。それは、真島が優しい心を持っているからだ。これ以上、彼の信念を捻じ曲げるのは御免だ。

 『もう、会うことはないだろうから』……言いそうになった言葉を呑み込んだ。

 「それは、……そうかもね」

 吟は小さく笑った。
 
 「……真島、お願いがある。……その、だから、そう、いつか、……優しいお前にふさわしい人が、いつか現れる。……もし、そうなったら、その人を幸せにしてほしい。……そうすれば、世界がすこし平和になると思うから」
 「……ああ。………ほんなら指切りや。……吟も幸せになるんやで」

 真島が手を差し出した。小指が組み合わさって数回弾んでから離れた。
 針を千本飲まずとも、地獄行きなことは決まっている。胸の奥がズシンと重くなり痺れた。

 「なんや?」
 「あれは、英国大使館……」

 車のドアが閉まる音に意識が引き戻される。ナンバープレートには英国大使館ナンバー。スーツを着用した男たち数名が出てきて、王汀州のほうへ詰め寄った。彼は流暢な英語を操った。内容は、『国際法に抵触する恐れがあること、また香港には中国側から交渉が入ったこと、……そして我々にはそれを助ける準備があること』だった。

 王汀州は口角をあげたまま、彼らの交渉を聞いていた。そして手で押し返すと「ノー・プロブレム」と断った。
 吟に近寄るといつもの早口を披露した。

 「吟、出航時刻を早める。どうも向こうの情報屋どもに嗅ぎつかれたらしい。こうしてリークを教えてくるのは恩着せがましいところだが、おとなしく退散だ。おっと……! 血腥い連中のお出ましだぞ」


 黒塗りの車が増えた。中国大使館だった。
 中からは先日の秩父で顔を合わせた、中国大使。またそのSPに部下数名を引き連れている。
 傍らにいる真島があっと声を上げたが、押し黙った。

 「これはこれは、大使どの。ごあいにく、少々急いでおりまして。込み入った話ならば、お電話か、書状を送りますので……今日のところは」
 「ああ、ああ。わかっとる。邪魔はせんよ、ただ見送ることはできるだろう。同胞のよしみ、仲良くしようじゃありませんか」
 「それは、ええ。もちろん」

 王汀州が目を細めた。中国大使は屈託なく笑い、次に吟に声をかけた。

 「Ms.王」
 「恐れ入ります大使。正式な手続きは、香港ですから。でないと、この場にいらっしゃる皆様全員と握手しなくてはなりません。それも構いませんが、日が暮れてしまいますわ。とっぷりと、ね。……わたくしは、公平にと、考えております。……ですからどうかこのまま、温かく見送ってください」
 「ははは。それは、……そうだね? ははは」

 英国、中国、そしてもうすぐ日本がやってくる。出資者たちは遠巻きに見ており、吟の言葉一つ、行動一つですら波紋に変わってしまう。

 中立を保つ。そうすることで、吟の握る利権に対してアプローチが水面下で激化する。王汀州の狙いはそこにある。出資者から金を募り、本省からは譲歩を、支配国からは甚大な支援を賜われる。いずれ、すべてに報わなければならないが、今は求心力を高める戦略が重要だった。


 「それでは、我々はこれで。またお会いしましょう」

 吟の肩に、王汀州の手が乗った。
 潮が熱い風に乗って、目の前を吹き抜けた。
 



 巨大なクジラのような大型船。『海宝大運』という船名。本籍地は香港。
 白地に墨字で彩られた、どこにでもあるような貿易船。

 快晴を映す鮮やかな青の下、夏の気持ちのいい風に吹かれて、護岸に小波を打ち付けて白い泡をたてている。甲板の上を乗組員と護衛を数人引き連れて歩く三名の人影が射し、陽の真下で一人の女が護岸の上にいる男を、見下ろしている。


 光の反射で揺らめく水影が、顔にゆらゆらと淡く投影され、その表情が微かながら笑んでいるものと知ると、女も静かに微笑みかえした。




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