傾いた秤



「万事休すかと思われたが、……やってのけたか」

 吟を出迎えたのは、軽やかな一人分の拍手と、ニヒルな男の鼻につく賛辞だった。
 いつもの部屋で優雅に葉巻を吹かしていた王汀州は、仏頂面の吟に近づくと片手を左肩に添えた。

 「ご苦労。王吟」
 「どうも」

 愛想のない返事に、気を悪くするどころか笑みを深め、――その後ろにたった今入ってきたばかりの真島を視野に入れ、上機嫌な挨拶を述べた。

 「歓迎するぞ、真島。ようこそ、極楽へ。きっといい旅になる」

 半ば強引な握手を求められて、流れるまま応じる真島に同情したくなった。
 籠もった皮肉のエッセンスに吐き気がしたが、吟は諦めてソファに座った。夏の夜の一幕の上演はこれにて終わる。気疲れと怠さ、それからわずかな空腹を覚えて、置き時計をみた。ホテルのレストランの営業時間はとっくに過ぎている。
 
 帰り際、どこかで買ってくればよかった。
 ふう、と息をついたとき、傍らにエン・ジーハオが立ちそっと声をかけた。

 「顔色が悪い。大姐、……今月は来ていますか」
 「……いいえ」

 健康管理はジーハオの仕事の一つである。羞恥心はおろか、モルモットのような管理と調整にうんざりしているが、もはややっかみの一つも出ない。携帯しているボディバッグから薬がいくつか入った包みを出して、吟に手渡した。

 「わかりました。では、こちらを飲んでください。……絶対に指示以外の薬を服用しないことをお約束いただけますか」
 「わかったわ」 
 「夕食のあとですよ。……どうぞお二人でお楽しみください」
 「……用意があるの?」

 吟の言葉に、まあと頷いてジーハオははにかんだ。

 「チャン大小姐の見立てでは、まだだろうとおっしゃっていたので。……スマイルバーガーで買ってきたのをお部屋に用意してありますから、どうぞ」
 「……ホンファ。……ジーハオありがとう。彼女には私からお礼を言っておく」


 日本ではほとんどホンファの世話になりっぱなしだ。
 どうしてそこまで世話を焼くのか、彼女ほどの優秀な人物が、下心があったとしても力を尽くすのか吟には納得できない。それが彼女の性質なら、それ相応に報いるのが通例だろう。

 吟はソファから起き上がると、真島に声をかけた。
 最後の晩餐になった、ジャンクフードに舌鼓をうつために。 








 巨大なクジラのような大型船。『海宝大運』という船名。

 本籍地は香港。白地に墨字で彩られた、どこにでもあるような貿易船。
 快晴を映す鮮やかな青の下、夏の気持ちのいい風に吹かれて、護岸に小波を打ち付けて白い泡をたてている。甲板の上を乗組員と護衛を数人引き連れて歩く三名の人影が射し、陽の真下で一人の女が此方を向いている。

 光の反射で揺らめく水影が、顔にゆらゆらと淡く投影され、その表情が微かながら笑んでいるものと知ると、男も静かに微笑みかえした。


 



 船内にある私室となった小さな船室には、寝台とトイレ、洗面台といった独房のような設え方をした部屋がある。
 クルーズ船のように宿泊目的の船ではないがゆえに、最低限の設備だ。円形をくり抜いた丸窓からは、晴天を映した海が青々と波打っている。日差しと、籠もった熱が煩わしいが、長年過ごしてきた暗渠に比べればずっとまともだ。

 
 まとめた荷物から、昨日買ったばかりの本を一冊引っ張って広げると、それだけで幸福だった。黒く印字された文字を追っているだけで、現実の痛々しさからは逃避できる。ささやかな娯楽への逃避行の歩みを阻むように、ノックが鳴った。


 「……誰?」
 「エン・クゥシンです。簡単な報告です」
 「どうぞ」

 
 クゥシンを部屋に入れ、その通りに簡単な報告を始めた。
 到着までの余暇、消灯時間、食事の時間。到着後の簡単な流れ。元軍人らしく簡潔にそれは終わったが、一番最後に「真島さんはどうします」と、預かり知らぬことを訊ねてきた。

 「……というと?」
 「猶予は一週間あります。来週の今日には、到着するかと」
 「そう。なら、その通りに。クゥシン。真島の迎えは、よろしく頼む」
 「わかりました。チャン・ホンファと繋いでおきます。……ほかには?」

 吟は首を傾げた。「ほか?」と思わず口にして、思考を巡らせるも何も思い浮かばない。

 「伝言です」
 「……免許証は使えるように、手続きをするように……?」
 「……国際免許……。まあ、使いますが。もっと言うこととかないんですか」

 もっとひねり出せ、とせっつかれて、吟はお手上げ状態になった。
 なぜなら、直接の命令権と行使は、王汀州にある。真島の諸々経費はすべて吟が賄うが、自分は一切痛手を負わず手中に収める……という魂胆だからだ。

 「とくには」
 「そうですか。現地の配属に関しては?」
 「テイシュウが決めるんじゃないの。……え?」

 どうも、なにかがおかしい。
 クゥシンの鋭い視線によってはっきりと理解した。

 「もしかして、大哥はなにも? 直接交渉を行ったのは大姐ですから、彼の処遇は任せると――」
 「そ、そう」

 吟は内心、たじろいだ。
 だとすれば、こうやってゆっくり構えていられる余裕はない。クゥシンは詰めるように眉間に力を入れた。行動計画が白紙であるのは、クゥシンには大失態に映るだろう。しかしそこへ助け舟を出したのは、新たな来訪者のノックだった。

 クゥシンは鼻を鳴らし、一歩退いた。

 「この件はもう一度伺います。……あと、しっかり連絡をとってください。我々が混乱しますから」
 「わかった」

 ゴツゴツとエンジンブーツの踵を鳴らし、女軍人は部屋を去った。
 入れ違いにするりと入ってきた王汀州の顔を見るなり、吟は大きなため息を付いた。

 「フン。ま、およそ想像はつくので控える。……さて、入れ違いで忙しないが、現地到着後の行動計画だ」
 「どうぞ」
 「報道連中はすべて無視して構わない。余計な写真も撮らせないよう配備してある。リムジンを横付けするので速やかに乗るように。三合会の会合は夜だ。その手前で組織の簡易的な会議を挟む。二四枚の書類にサインをしてくれ。会合に関しては、野次が飛ぶだろうが決定したことだ。金を持ってるやつが一番強い。マフィアの鉄則だからな。そういう輩には、―――札束を咥えさせれば尻の穴さえ晒す」


 機関銃のように素早く淀みない予定を聞いて、うんと唸った。
 公の仕事の嵐で、気の休まるところはなさそうだ。そして、王汀州のことだから、まだまだ大量の仕事を隠しているだろうことは想像に易しい。

 「それで、向こうでも仕事漬けってこと」
 「いいや。休暇を取れ。そう疑うな。正真正銘のバカンスだ。お前のダミーも用意してある。好きに使っていい」

 『休暇』という言葉がこの悪党の辞書にはあるらしい。
 憎たらしい顔をまじまじと見つめた挙げ句、吟の唇は「嘘よ」と象っていた。悪党は得意げに鼻を鳴らし、「悪いが、本当だ。珍しくだな」といって肩をすくめてみせた。

 そこまで聞いて、動揺もあったが『休暇』になにをすればいいのか困惑した。

 「休暇って、なにもすることがないわ」
 「玩具なら、あるだろう」

 玩具など、ない。
 ――悪党の目にはそれが浮かんでいた。


 「真島のこと。……悪趣味野郎」
 「なんだ。そのつもりで俺から交渉権を奪ったんじゃあないのか」
 「交渉権もなにも、断られたくせに」
 「たしかに。それは正しい。……ということは、お前があいつの責任を負う道理がある。選ばれたんだからな」

 
 本当に、王汀州は真島から手を引くらしい。
 最も彼に興味を示していたのは間違いないだろう。それが、たった一週間前からなのか。はたまた、あの暗渠――『穴倉』からだったのか、知りたくもないことだ。しかし、一つ誤りがある。


 「違う。……私が、選んだんだ」


 紛れもなく、昨夜に、選んだのだ。吟が、吟自身の秤によって、彼の人生は傾いた。
 その調べの訪れは未だ聴こえないが確実に。


 「それでは。また食事の時間に呼びに来る。よい船旅を」

 
 悪党は一層笑みを深くすると、挨拶を述べながら、風のように速さで部屋を出ていった。
 あとに残された女は一人、丸窓のガラスに額をくっつける。


 「……伝言」

 困った。
 真島の権利を握るということは、責任の連続が続くのだ。
 それが、ほとんどなんの情動すらもなければ無問題だったが。――彼は、何度も好意を告げた。

 『好き』と。

 船は波を切り分けて、速度をあげていく。
 何度目かのため息も、轟音によってかき消えていった。




 1989年 7月10日 fin.





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