交渉



 夏の夜。黒い礼装姿で女は、先に降りていた男の手を借りて、黒塗りの車から足を揃えて地につけた。
 異様な気配を感じ取ってか、門前には早くも野次馬のごとく、わらわらと人だかりができている。その多くは嶋野組の者たちだった。場には重い沈黙と殺気が満ち、想像以上の出迎えに真島は目を眇めてから、吟に耳打ちした。

 「すまん。人払いは頼んだつもりや」
 「こうなることは想定内だから。……チャン・ホンファ」

 吟の低い呼名に黒い車の中で女が返事した。
 ホテルからホンファを呼び立てたとき、彼女はおおよその顛末を呑み込んだ上で、嶋野組への挨拶に大いに賛同した。そのほうがいいと頷いたことが心強かった。

 「横浜の桃楼亭に伝言をよろしく。アイスクリームを買ってきてって」
 「わかりました。すぐ伝えます」
 「伝えたら、あなたは……そのまま明日の準備へ。面が割れないように」
 「感謝します」

 殆どの指示は車内で済ませてある。ホンファには諜報員として表向きの顔がある。一刻も早くこの場から退避させた上で、出迎えに来るように合図を伝えた。踵を返し、嶋野組の門を潜った。

 「……行きましょう」

  

 真島の先導に従って、畳の敷き詰められた広間に出た。自信に満ちた巨躯。堂々たる様の着流し姿の男が一人、奥に座している。二人は一礼して敷居を跨いだ。嶋野太は遠目からでも薄く笑っているように見えた。


 「お一人でわざわざご足労いただきまして。なんや、ワシにご用ですかいな」


 ずっしりと重たく腹に響く声音だった。室内は熱い外気を一切遮断しているかのように、ひんやりと冷たい。「むう」と唸って、嶋野は手元の扇子を軽く扇いだ。吟は緊張していることを自覚した。自覚の次にやってきたのは、目眩だ。嶋野と会うのは初めてではない。しかし、『初めて』だった。こうして一対一で、代わりに盾になる者がいない状況において、もっとも相手にしたくない一人だった。


 「手短に。交渉の話です。嶋野さま」
 「はん、交渉……、のう」

 パチンと、扇子を打って嶋野は笑みを深めた。その視線は吟にではなく、傍らに正座する真島に向けられている。嶋野の嗅覚は決して悪くない。愚かでもなければ、先見の明がないわけでもない。王汀州は相手の鼻を明かすことが好きだから、小馬鹿にする性悪だが、天賦の才能がなければ真っ当にやりあえる相手ではない。

 経験、場数、実力。どれも吟のほうが劣っている上で、この場でしっかりと筋を通しておくことで、今後波風を立てずに済む。その末に、安全牌を切ることを選んだのだ。


 「貴方がもっとも願っていることです。悪くない話かと。……担保として、この真島さんを頂戴したいと考えております」
 「……真島を?」
 「彼には了承を得ています。……この世界でいうところの、預かりでしょうか。こちらは給与制ですから、毎月支給させていただきます。年俸制をご希望でしたら承ります。ボーナスももちろん、年に数回、支給いたします。………いかがでしょう」

 抑揚のない声で条件を提示する吟に対して、嶋野は鼻を鳴らした。


 「ようできた、ウマい話には、裏があるもんや。おい、真島ァ……おとなしゅうしとったと思たら、いきなり電話かけてきて、どういうことやぁ!」
 「嶋野さま」
 「なんや。ワシは、真島に聞いとんのや。棚からぼた餅みたいなコト、そうあるわけあらへん。……モノには表と裏がある。いつの間にか不利になとったら、手遅れや。で……、いつまでもお地蔵さんしてんと説明しいやぁ。あない、極道に戻るいうて気張っとった奴が、いきなりマフィアの端くれなろういうんは筋通らんで」

 嶋野は大声を発する。

 想定の範囲内の内容だ。
 真島には、聞かれた事にのみ返答をするようにと伝えてある。ひとえに、後ろめたさゆえでもあった。真島との間にある不思議な因縁は、誰の理解にも及ばないものだからだ。いくら弁解しようとも誤解を招く。そして真実である。

 真島は一つ間を置いて、はっきりと宣言した。

 「親父。これは、俺が決めたことです」
 「……穴倉おったときは男や思とったけど、よう見たら女や。そいつに絆されたんとちゃうかぁ。せやったらマヤカシや。……飴ちゃんと同じ。甘い甘い、飴ちゃん。おどれのせいで、うちの子ォが虫歯になってしもたわ。どないしてくれるんや」


 誘い水だ、と吟はすぐにわかった。
 嶋野の口にすることは、偽ることなく真実にもっとも近い。しかし、その男の目論見はその次だ。大義名分を欲している。ならば、敗けて勝つほうがいいだろう。

 
 「金額はそちらの言い値で構いません」
 「はっ。金かいな。そら、簡単に譲れんのお!」
 「親父!」


 乾いた音が広間に響き渡った。
 数日ぶりの硝煙の臭い、噴煙とともに転がる薬莢。扉の周囲の気配が騒がしい。吟の体は畳の上に転がっており、庇うように真島に抱えられている。這わせた視線の端で、柱にくっきりとした弾痕を見つけた。


 「わざとや。わざと外したったんや。王の妹はん。………コイツは今、タマ張って盾になったわ。ホンマにアンタには、その価値あるんかいな。……ワシはな、ガキの頃から面倒みたった親や。せやさかい、親心いうもんがある。けど、アンタはぽっと出のどこの馬の骨かもわからん女や」

 嶋野の道理は尊重に値する。彼からすれば吟はさしずめ、女狐というべきか、泥棒猫というべきか。巨額の担保金をふっかけるための巧みな交渉術の一環でもあるのか。もしくは、小娘が金を用意できるとは思ってもみないのだろう。
 情を誘う言葉に、吟は提言した。


 「親であるなら、私刑が許されるとでも?」
 「私刑やと?」
 「貴方は彼を『穴倉』に一年も幽閉した。身内の私刑は組織に不和をもたらす。しかしそれを行った。貴方とて、綺麗事を重ねないほうが懸命ではないですか」
 「その生意気な口の利き方。せっかく拾ったタマ、もっぺん取ったってもかまへんで」


 黒い銃口が、カチャリと音をたてて吟を狙っている。脅しにも動じず真島を退かせた。
 真島が「吟」と短く呼んだ。挑発に乗るなとでも言いたげだった。しかし、その通りに退くことこそ敗けだ。吟は負けじと口を開いた。


 「真島さんは必要です。ですから、私がすべての責任をもって保証します。……どうぞ。これが、証明です」


 すっと佇まいを正し、嶋野の面前に進み出て、吟は懐から新調したばかりの名刺を差し出した。
 嶋野からは懐疑的な視線が向けられる。


 「フン。……本物っちゅう保証は?」
 「今すぐご確認下さっても結構です」


 納得したように嶋野は笑みを深めた。裏社会一帯に署名式の情報が出回っているのだろう。
 嶋野は「おい」と部屋の外にいる付き人を呼び出して、名刺の裏取りを命じた。ものの二分足らずで戻ってきた付き人が嶋野へ耳打ちした。


 「値はこっちが決める」
 「どうぞ。小切手です」
 「これで、エエな」
 「はい。たしかに。……最初の入金は、来月末になります」


 日本円の桁にして億。
 嶋野にとっても、真島にとっても理想的な状態となるように調整を進めてある。

 仮に真島がいずれ帰国することになっても、組に対する貢献は大きいため除籍処分にはなるまい。冴島の件に関してはチャン・ホンファに申し送りし、真島が現段階まで進めていた調査を引き継ぎ、別途ルートで調べさせる。まさか有り余る富の最初の使いみちが、真島を通じて嶋野組へのアガリになるとは想像だにしなかった。

 小切手を嶋野から受け取ると、また広間の外が騒がしくなった。

 「……お迎えが来ましたで」
 「交渉成立で、構いませんね。………これにて、失礼させていただきます。……真島に関しては、一週間ほど準備期間を与えます。それでは」


 一つ頭を下げ、吟は立ち上がった。真島のほうは何か言いたげだったが無言を貫いた。
 応接室の革張りの椅子に、我が物顔で座っている男がいる。吟と真島の姿を認めるとサッと立ち上がった。
 王泰然だった。言付け通りに、アイスクリームの入った袋を掲げてみせた。

 「オウ。早くシないと溶ケルぞ」
 「ホテルに戻るわ。明日の準備をする」
 「邪魔ダ。道を開けロ。……汀州は先戻ッタ」

 人だかりが海を割るように開けていった。嶋野組の構成員たちは『侵入者』とその『同胞だった者』に対して厳しい目つきを湛えている。そんななか、王泰然は我関せず、袋を真島に授けて呑気な声をだした。

 「プレゼント」
 「おう、おおきに……て、溶けとる」
 「ハハハ。そうだロうな」
 
 黒いセダンの扉を開け、吟を奥へ詰めた。運転席にいるジーハオがにゅっと顔を出して挨拶した。

 「お疲れさまです、大姐。発砲したんですか? 警察がじきに着ます。早く乗ってください」
 「撃ったのは私じゃない」
 「なるほど。とんだ命知らずですね」

 王泰然が最後に乗って、いよいよ発車した。遠くでパトカーのサイレンの気配がする。
 しばらくしてから、王泰然がおもしろそうに笑った。

 「そういヤ、アイスクリームが食いタイとハ、妙なオツカイだ」
 「予防線を張っただけ」

 嶋野は真島を折檻した男だ。虐げながら、此度のように自分の仕事の後始末も命じたわけで、期待をかけている一面もある。要するに執着心がある。そんな男にいきなり『真島をくれ』と頼んだところで快諾するとは思えない。
 最低限殴られるだろうという予想から、保冷剤代わりの、吟にしてはユーモアを込めた注文だった。

 窓ガラスにはネオンの光がキラキラと宝石のように反射している。そのついで、真島が吟を見つめていることを知りながら、二人の間に言葉はなかった。





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