じわじわと背中に迫りくる熱。
日向の下、濃い影がひまわりを庇い立つ。
いつも隣で、黄色い太陽とにらめっこをする君を好きでいた。
彼と再会したのは、日舞の発表会のあとだった。
三味線も鼓の音もこの身に馴染んで久しく。されど、彼とは昨日別れたばかりのように、昔の記憶が色鮮やかに蘇った。
「お久しぶりです」
「あっ。ああ……えっと……」
真ん中から分けた艷やかな黒髪。ワンレングスの長髪が野暮にならず、整った目鼻立ちが一層華やかに映る男。
周囲にいる他の大人を気遣って、あいさつもままならない。水琴は寂しさを包み隠して「ごめんなさい。困らせちゃった」と謝った。彼は軽く会釈し、何度も視線を寄越し、記憶の照合を行っているみたいだった。
「しっかり挨拶しろ、錦山」
「はい。すんません」
ぴっちりと両手を身に合わせて深々と腰を折ると、錦山彰は顔をあげた。
「すみませんね。うちの錦山が。悪気はないんです。どうか大目に見てやってください。あ、そうだ。親父の方から言伝がありましてね――」
着流し姿の父が笑って、堂島組の中堅組員と談笑に花を咲かせている。
いつもの手持ち無沙汰でも、彼は借りてきた猫のように大人しく時折、ちらり、水琴の方をみた。
「どうしても……思い出せない?」
「……すみません。俺、は――」
「ひまわり観察記録。最長開花期間、二十日」
「えっ?」
ボールが弾むような驚き方をして錦山は水琴をまじまじとみた。
日本舞踊の発表会明け、白粉と紅の顔、結われた髪。鮮やかな色合いの着物。一度首を傾げ、ぐっとその顔が近づいて、目と鼻の先ほどの距離。息を詰めて押し黙っていると、ついに錦山が手を打ち声をあげた。水琴はほっと胸を撫で下ろし、はにかんだ。
「あ、……もしかして、ぁあ!」
「……やっと思い出した?」
「おう、水琴。久しぶり。……一瞬誰だかわかんなくて、いや。あっててよかった」
黒シャツに白スーツをキメる錦山は、照れくさそうに鼻の下を軽く指で擦ると「舞台よかった」と褒めた。
「ありがとうございます」
「……実を言うとこういうのあんまり馴染みなくってよ。取ってつけたようなお世辞に聞こえるかもしれねえけど、よかった」
「どうも。また足を運んでくれると嬉しいな」
「………十五年くらいか。ざっと数えて」
水琴は軽く頷いた。
例の、『ひまわり観察記録』も十五年前の昔話になってしまった。
何気ない、施設にいた頃の日常。あの頃はまさか、こんな風な別々の生き方があるなんて考えもしなかった。
▽ ▽ ▽
養護施設「ヒマワリ」は大所帯の血の繋がらない兄弟がたくさんいた。
錦山には実妹の優子がいたが、朝も昼も夜も。食卓を囲む年下、同学年、年上の子供に囲まれ、学校でもほとんど顔なじみであるから、錦山少年にとって人見知りという言葉はまったくもって縁遠い存在だった。
親の居る子供やその親たちからは軽い同情を受けることもあった。人は親がいないことを不幸と呼ぶ。その頃はとくに、気にしていなかった。なぜなら毎日がそこそこ楽しかったし、仲の良い幼馴染に恵まれていたからだ。
施設育ちでよかったことは、特に夏休みの頃に発揮された。
「あー。宿題ダルいって」
少年、錦山は叫んだ。
宿題の多さに、煩雑さに。読書感想文に、一学期の復習が束になったプリントの国語と算数。とくに錦山が文句をつけたくなったのは、植物の観察記録だった。錦山の向かい側に座る下学年の由美は、真面目に取り組んでいた。
「錦山くん。観察日記、全然進んでないね」
「観察はしてる。毎朝ラジオ体操が終わったらな。でも全然咲かねえでやんの。由美ンとこは、朝顔の観察か。いいよなぁ。いい感じに咲いてやがる」
学習室、という名前の札がかかった畳部屋には、長テーブルがいくつか用意されている。
しばしば子どもたちはそこで頭を突っつき合わせて、学校の宿題に取り組んだ。
自分一人でいたら進めようがない夏休みの宿題も、楽勝である。というのも、生真面目な性格の子の進捗具合をみて、追い込みがかかるからである。
錦山はひょいと身を伸ばして、一人分空けて隣に座る、桐生の手元を覗き込んだ。
「お。桐生、お前ちゃんとやってるじゃねえか」
「……水琴に写してもいいかって聞いたら。いいって言ったんだ」
「水琴が? じゃあ俺もそうしよう。おい、今どこにいるんだ?」
水琴、は桐生をはじめ錦山と同学年の女子だ。
学校のクラスは別々だが、同じ施設育ちということもあり喋らない日はない。ひまわり観察記録を熱心につけているらしい。桐生がいいなら、きっと自分にも融通がきくだろう。その恩恵に与りにいこう、と錦山は足を立てた。
「入り口の、ひまわりんとこだ」
「恩に着るぜ」
「錦。テレビのドラマの見過ぎじゃないか?」
「なにがだよ。言い方が臭いって?」
桐生の指摘は野暮だ。クラスの女子にはウケるのだから間違いはない。
もしかしてからかわれているだけか?
なんてつまらないことを考えながら、施設の入り口にある花壇まで歩くと、お望み通りの相手がいた。
帽子も被らずに、地面に濃い影を作っている。
「よう。水琴」
「よう、錦」
「真似すんなよ。女が男言葉なんてよ」
「なにそれ。……ハイ」
水琴とはお決まりのやり取りだった。
半袖半ズボン。髪は一つにまとめて、しっかり日焼けした少女を、どこか少年っぽいところがあると思っていた。
水琴は理由も聞かずに、持っていた観察記録の紙の束を錦山に差し出した。
「おっ。いいのか?」
「いいもなにも。ここに来る同学年はだいたい、これ目当てだし。さっさと写しちゃえば」
「サンキュー。……おお、すっげ。お前、夏休み入ってからずっとこれやってるのか?」
「まあね。……ねえ、錦。写すのはいいけど、ちょっとだけ自分用に変えてね」
「アレンジだな。任せろ。それくらいはする」
水琴の作った観察記録は、絵と文章で構成された分かりやすい記録に仕上がっている。
――ただ、現実に即しているせいもあって、一向にひまわりの花が咲かず、緑色の茎と葉の図になってしまっている事以外は完璧だった。
代わり映えしない図をしたためていく作業を写すとは、模倣のうちにも入らない気がしたが、錦山は漠然と思い浮かんだ疑問を問いかけた。
「ひまわりっていつ咲くんだ?」
「……んー。品種によるけど、直植えで……二週間くらい? 植えてそれくらい経ってるから、いつ咲いてもおかしくないんだけど」
「おー。お花博士だな」
水琴の目測ではもうそろそろ咲くらしい。
お花博士はひまわりの前で屈んで、つけた葉をぺらりと捲っている。錦山が水琴の記録を熱心に読み込んでいると、不意になにかの羽音が横切った。
「わっハチ!」
「ハチだぁ? んなもん放っておけって。うわ! こっち来んな!」
水琴の小さな拒絶の悲鳴。
楽観視する間もなく、錦山は飛び退いてその場を駆け出した。
夏の一幕。
振り返れば随分と懐かしく、胸が疼く子供時代。
昔語りをするために入った喫茶店で、水琴はため息をついた。
「あぁ。懐かしい。……あのときの錦、そのまま走っちゃって。園の中戻って中で大騒ぎしたね」
「よくそんなもん覚えてんな。桐生が箒持ってきて打ちのめすのかと思ったけど、窓から逃がすって言いやがって」
「そうそう……!」
食い気味に頷く。あの日々が記憶とともに色彩を帯びて帰ってくる感覚に水琴は嬉しくなった。
それは錦山も同じで、くしゃりと皺をつくって笑っている。
「あいつ、変なトコで優しいってか……そこが良いんだけどよ」
「桐生くんとは、今でも仲いいの?」
「……あ、そっか。しばらく疎遠だったもんな。――実はよ。アイツも同じ道にいるんだ」
桐生くんと呼べば錦山が返事をし、錦山くんと呼べば桐生くんが振り返る。親友といえる間柄は、どうやら人生の帰路すらも隔てなかったようだ。彼はみてわかるように、侠気の道の最中にいるのだろう。
「同じ道……、錦と? そうなの。……風間さんは、反対しなかった?」
「したさ。当然。でも――アイツは諦めなかったし、俺もそうだ。ずっと憧れてる」
「そう、なんだ」
テーブルの向こうで頼んだ珈琲に口をつける錦山を眺めながら、過る新たな質問に戸惑った。
「あの」と言いかけたとき、ちょうど錦山も水琴に呼びかけた。
「なあ――……あ、いや。そっちから」
「う、ううん。大したことじゃないから。錦が言って」
言わなくてよかった。そんな気持ちが後味に残る。
笑顔で錦山の質問を受けようと譲ると、彼は一瞬だけ表情を曇らせた。
「聞いてもいいか。今んとこの親父さんに、引き取られてからさ」
「……お父さんは、元々の家の随分遠い親戚の人。跡継ぎの子が死んじゃって。家業だから養女を迎えて継がせようってなってたみたい。素養ある子を見繕って迎えたらいいのにね。うるさい人達っているじゃない――? 伝統とか、血筋とか」
「……大変だったな。水琴」
「ちょびっとよ。――大切にしてもらえてるし、たくさんお世話になってるし。悪いことばっかりじゃない」
ある日、水琴に親が見つかった。
父方の遠い筋の親戚で、養女として迎えると言ってくれた大人たちだった。
大人の世界の利害というものの多くをそこで学んだように思う。――彼らは血の保存のために。水琴は、家族を。錦山に語る言葉に嘘はない。けれど、『ヒマワリ』にいた時間が寂しかったわけでも、不幸であったわけでもない。幸せだった。
「でも、ありがとう」
「ああ。……そのうち、また四人で集まりてぇよな」
「由美ちゃん、元気?」
「元気だよ」
錦山が屈託なく笑う。
嬉しさと切なさが胸の中で広がった。
『まだ、由美ちゃんのこと好きなの?』――――という問いかけは、「よかった」と安堵にすり替わる。
最初に、悪魔がそっと囁きかけたのは、その年の晩秋だった。
「このたびは、お悔やみ申し上げます」
白黒の幕の下がる広大な葬儀会館。黒一色の参列者の中に水琴も立っていた。養父に伴って参列したのは堂島組組長、堂島宗兵の葬儀。東城会直系の組ともあって規模は大きい。粛々と進行する式のなか、水琴の耳に届いたのは桐生一馬による『親殺し』の話題だった。
半年前、再会した錦山によれば、堂島宗兵は彼と桐生二人にとって渡世の親と聞かされていた。
まったくもって胸中穏やかではない。錦山のことが気になったからだ。
水琴は挨拶もそこそこに、お手洗いといって式場を探し回った。弔問に訪れる組員の数は、関東最大規模の組織に比例して多い。人混みの中からくまなく探し当てるには骨が折れる。
錦山は会場の外にいた。
石でできた白い花壇の縁に腰掛けて、背中をエビのよう丸めていた。表情には影があり、じっと俯いたまま。心ここにあらずの様子で、水琴が声をかけると心底驚いたような顔をみせた。
「……水琴か。お前も、来てたのか。……そうだよな。親父さんの興行繋がりだもんな」
「錦、……あの。大丈夫……なわけ、ないよね」
「……聞いたのか。桐生のこと。……もっと早く、集まれたらよかったな。悪い、お前にも」
「ううん。私は、平気。……桐生くんが、そんなことするわけないって思うけど……さ」
錦山ははっとした顔で、水琴を見上げた。
女性的な釣った目尻から生える睫毛が印象的だった。何かを言いかけて、それから唇を結んだ。
水琴は言葉を失った。昔なじみとはいいながら、どこまで慰めの言葉をかければいいのか。しかし、今の錦山は憔悴しきっているようにも見える。このまま放っておけば間違いなく。そんな危うい気配すらも感じ取れて、所詮は赤の他人であるなら引き際なのだろう――とも思ったが、まだ残る錦山への憧憬のような淡い気持ちが足を竦ませた。
水琴は錦山の顔を覗き込むように膝を折った。
見上げた彼は青白く、目の下には青い隈ができていた。
「錦……、錦山くん。ねえ――気をしっかり持って。ね?」
「――水琴、……俺」
「うん」
「……やっぱ、なんでもねえ」
錦山は躊躇った。言葉を選んだが、彼の中で口にすることを憚ったなにか。
水琴には、それが埋まらない十五年の年月の溝なのだとわかった。それでも、口を閉ざせば、永久に会話が失われる。そんな気がして、当たり障りのない――上辺をなぞるだけの言葉が唇を震わせる。
「なんでも相談してね。力になるから」
「……ありがとよ」
苦しげに、錦山は礼をいった。
「これ、名刺。……なにかあったら、いつでも」
「水琴。……待ってろ、今出す」
差し出した名刺を受け取って、錦山は内ポケットを探った。
名刺入れから出てきたのは墨で太く書かれた礼儀正しい、彼の名刺だった。他のポケットには、彼が広げているシノギの方面での肩書きが垣間見えたが真っ先に、『本来』の彼らしい名刺を貰えたことが何よりも嬉しいと感じた。
「ありがと。錦」
どうして、そんなことをしたのか。
したたかな悪魔はぺろりと舌を出して満足そうに笑う。――きっと、逃げ出したかったのだろう。
いつか、自分の身に訪れる将来を悲観して、彼に奪われる未来を期待していたのだ。