第二皇子と奨学生H






帝立コルチェスター学院・西棟

 西棟倉庫にKMFが突っ込んでいる――。衝突時に機体のどこかが破損もしくはショートしたのか焦げ臭い。
 ノエルが息を切らして大事件の張本人を前にすると、どうやらこのKMFは様々なジャンク部品をツギハギのように構成し組み合わせた制式KMFではなく、創意工夫の凝らされたオリジナルのKMFもどき作といったほうが良かった。
 KMFもどきはまだ稼働しておりエナジーフィラが尽きるのを待てばいいのだが――しかし、鉄扉にめり込んだところはどんどんと歪みが生じそのうち突き破ってしまう恐れがある。
 そしてこの西棟の倉庫は化学系・生物学系の備品用倉庫であり、つまり有害・有毒な薬品保管もされている危険地帯である。
 ノエルは背筋が凍りつくのがわかった。
 ――まずい。非常にまずい。薬瓶が割れ混合すれば大事故。後始末でも大事故を引き起こす……。
 特に、小瓶といえど保管されているジエチルエーテルやクロムホルルなどの有機溶媒は一般的に医療用麻酔に用いられる有機化合物だが、極めて引火点が低く微量の静電気であっても引火・爆発のリスクが高い。
 ノエルは頭を抱え唸った。このままでは学院の西側エリアが吹っ飛ぶかもしれない。
 「うぅぅ〜……!」
 顔を上げ周囲を見渡すと、倉庫と対峙するKMFのすぐ側、この辺りではひときわ高いイチョウの木が目についた。
 決断するよりも早く体は動いた。助走をつけイチョウの幹に抱きつき枝を足場に上へ上へとよじ登る。強い力で樹皮を掴んだことで手の皮が破けたがその苦痛さえも気にならなかった。
 
 スコープ越しに西側倉庫エリアを見つめるのは、ノーサンブリエ寮屋上の通信係に割り当てられた同寮生徒マイダネットだった。
 倉庫群の立ち並ぶある一つの倉庫の入口シャッターにKMFが機体ごと推進を続けようとランドスピナーの不快な摩擦音が距離のあるこの場所まで届いている。芝生の上には今しがた暴走KMFを追ってきた一人の生徒の影。彼は息を整えながら頭を抱えている様子。
 「誰かいるぞ」
 「なに?!」
 マイダネットの隣にいるダローウィンがスコープを横取りし覗き込んだ。
 「あ、あれは……! ノエル・アストリアス! あいつが主犯格か?!」
 「知るか。それ返せ。ダローウィン、お前は本部に連絡しろ。あの音のせいで校内放送を流してもわからないかもしれない」
 ダローウィンは不快な態度を隠さず舌打ちした。さっき彼に会った時からすでに不機嫌だったが、どうもアストリアスと一悶着あったらしい。
 再度、様子を追うためマイダネットはスコープを覗く。ノエル・アストリアスは一瞬悩んだようだがその足がKMF付近にある高いイチョウの木に向き、まるで俊敏な獣のように駆け登った。
 「あいつ工学にも強いのか?」
 ダローウィンのトランシーバーに対策本部から通信が入る。
 「知るか! ……ったく。……はい、こちら屋上のダローウィン。……たった今、西側倉庫エリアで問題機体が停留。まだエナジーフィラ切れではない模様。また付近に一名生徒が接近。これから……マイダネットどうなってる?」
 「イチョウの木に登ってます。どうもそこからKMFコックピットに飛び移ろうとしているものと考えられる」
 「イチョウの木に登り、KMFコックピットに移動行動前の模様」
 
 
 ノエルは倉庫に食い込むKMFよりわずかに高い位置まで登り詰めた。イチョウの枝の幹は細くあまり力をつけて飛ぶとへし折れてしまうほど頼りなくグラグラと上下に揺れた。イチョウの木の麓には、後追いで到着したレックス寮長がゼエハアと胸を押さえて息を整えていた。
 彼が次に何を口にするかは明らかだったが、ノエルは清々しく大声を張った。
 「寮長! 私がハッチを開けます!」
 「……はあ、はあ……くそ……アストリアス、待機せよ! 指示は緊急対策部が出す! アストリアス!」
 「それじゃ間に合いませんよ!」
 「馬鹿者! こんな時くらい規則に従え! 安全行動を取れ!」
 ランドスピナーの高音がレックス寮長の怒号を掻き消す。ノエルは親指を耳穴に突っ込んで腹の底から大声を出した。
 「レックス寮長! 本部に連絡を! 中には危険薬品が多々あります!」
 「なに!? そうか、あの倉庫は化学・生物学倉庫か……! わかった。わかったから待ちなさい!」
 レックス寮長は意図を聞き分け、携帯電話で本部に繋いだ。


 大会議室に構える緊急対策本部のモニターには屋上のマイダネットの使用するスコープと同期させた映像が映し出されていた。
 映像は画素が荒く不鮮明ながら一人生徒が大木に黒い影を載せている。シュナイゼルは身を乗り出し目を眇めた。
 「誰だい。木の上によじ登っている生徒は。退避命令は出したはずだが」
 「ノエル・アストリアスです、殿下。ハッチを開けて乗り込み操作解除を行おうとしているのではないかとのことで」
 「ふむ……そうか。ちょうどいいね。では彼に直接指示を出すとしようか」
 「は、はい。校内放送で?」
 「ああ。私が出すよ」
 「Yes, Your Highness」
 副議長を務めているフライセンが小さく頷いた。
 校内放送の回線をマイクに接続し機器調整をするその後ろ。ノーサンブリエ寮の生徒達がモニターの映像を目に入れるなり顔を顰めてヒソヒソと囁き合う。
 「またノエル・アストリアスか……」
 「……殿下が腹を抱えて笑いそうだな」
 「殿下が?」
 「知らないのか? 問題児と一緒に出てる授業でずっと笑ってるんだぞ」
 シュナイゼル殿下といえば常に穏やかな微笑みを湛えているが、感情の振り幅という点では常に静止しているようにも見える人。片割れの生徒はその授業の内容を殆ど知らずその話を全面的に信じるには立ち行かなかった。
 「幻覚だろ。……あの殿下が」
 「今朝はキスしたって」
 「あの問題児が? あいつ男色好みなのか」
 「違う、殿下がだ」
 「ありえん……」
 大袈裟に目を見開き、もう一人を食って掛かるように見つめる。それは誰しも信じがたいことだ。キスというものには挨拶の意味合いがブリタニア帝国の文化的土壌にある。そして同性愛者は宗教的原則から弱者男性を意味するもので、それを彼ほどの人物が自ら行うには醜態をさらす行為ともとれるからだ。
 だいいち、第二皇子殿下には正式に一国の主たる婚約者がいる。あえてその行動を不用意にとった理由が掴めなかった。
 「ありえんぞ……それは」
 「私を見て言うな」
 我らがノーサンブリエの王の奇妙な行動についての話の手前で校内放送のスイッチが入り、ピンポンと緊迫感に不似合いなほど軽やかな音色がコルチェスター学院の敷地内中に響き渡った。
 フライセンがマイクに呼びかける。
 「この放送は中央寮・緊急対策部からの放送です。西棟倉庫エリアでただいまKMFが一時停止中。周辺に残っている生徒は速やかに正門広場へ退避せよ。――繰り返す……」
 シュナイゼルの視線はモニターの映像に集中し、ほぼ同時刻に流している校内放送の内容をノエルが聞いているかどうかの挙動を確認していた。彼はまだイチョウの木の細い枝上でバランスを確かに保ち飛び移るタイミングを見計らっている。
 そこに下級生の連絡係の生徒が走ってきて伝言を口にした。
 「ケント寮・寮長レックスからです! 倉庫は化学・生物学倉庫で中に危険物が残留しているとのことで」
 「……そうだね。あそこは〇九番倉庫のようだ。……校内放送の音が聞こえていない可能性もある。同様の内容を彼に伝えて」
 「Yes, Your Highness」
 下級生は寮保管の固定電話に戻ると退避命令をレックス寮長に伝えた。
 ちょうどその時、ランドスピナーの摩擦音デシベルが下降傾向に向かっているのか、映像内の騒音計測の数値が小さくなっていく。
 シュナイゼルはフライセンと場所を交代し、マイクに声をのせた。

 〈庭園のイチョウの木からKMFに飛び移ろうとしているそこの生徒に呼びかける。私の声が聞こえているね? 只今より私の指示に従うこと。コックピットのハッチの解錠方法を伝える。繰り返す。只今より私の指示に従うこと。コックピットのハッチの解錠方法を伝える――〉 
 
 映像内のノエルは首を捻り、どこからかカメラで様子を見られている事に気づいた様子でノーサンブリエ寮のある方角――屋上から向けられるスコープと視線が交わった。
 シュナイゼルは一度マイクを切り、フライセンにその後の行動を指示した。
 「現場に検証班はついているのかい」
 「現在向かわせています」
 「さすがだね。指示が早くて助かるよ」
 それは一瞬のこと。大会議室中からあっ!と声があがった。シュナイゼルがわずかに目を離している隙にノエルはイチョウの木からまだ稼働するKMFに飛び乗った。
 「あっ……あのバカ!!」
 「飛び移りました!」
 「山猿かよ」
 それにはさすがのシュナイゼルもため息を禁じ得ぬ出来事で首を横に振った。
 「はぁ……やれやれ。本当に聞かない子だね。私の指示を通りにすれば上手くいくというのに」
 レックス寮長と通話を続ける下級生が状況を伝える。
 「コックピットのハッチ、解錠! 乗り込みました!」
 シュナイゼルはマイクをオンに切り替え、ノエルに呼びかけることにした。
 〈――アストリアス、君に呼びかける。搭乗完了後、パネル操作を行い主力電源をオフにさせよ。繰り返す――〉
 ノエルはそんなことはわかりきっている――とでも思っているだろう。指示直後すぐさま行動に移され速やかにランドスピナーの回転は止み、一気に静寂が立ち戻ってくるのが大会議室内であってもはっきりとわかった。
 水を打ったように静かになった屋外。そして人々は言葉のかわりに沈黙を守り――屋上のダローウィン達の通信からの音声がブツブツと無線から流れる。フライセンが映像を確認して言った。
 「KMF完全ダウン。熱反応も縮小。作業完了したとみられます」
 「手際が良かったね」
 シュナイゼルのひと言で生徒達の顔に安堵の表情が満ち、緊張感が解けていく。


 密閉空間の狭い四方一〇〇センチ未満の省スペースの中でがっくりと項垂れる。今しがたツギハギKMFもどきの動力源をスイッチオフし全身から力が抜けていく。額にも首にも制服のシャツの下の肌着さえも水に浸かったようにぐっしょりと汗まみれだ。
 詰まった呼吸をゆっくりと吐き出してブレる焦点が定まっていく。たまたまその位置にあり握った操縦桿は血と汗によりヌメッとしている。
 「……はぁ……焦った……演習機体と配置が全然違った……」
 演習で乗った機体の配置のままだと思い込んでいたので、あと何秒か手間取っていたら倉庫に押し入っていただろう。
 「アストリアス! 降りて来い! アストリアス!」
 コックピットの外でレックス寮長が叫んでいる。ノエルは長居も無用だと諦めて、一つずつ中のボタンを確認し、頭上にあるスイッチをカチッと押し降下ロープを垂らした。屋外に出て外気に触れると汗が一気に冷却され背筋がぞくぞくと粟立った。
 レックス寮長はノエルに駆け寄り、肩に手を置いた。そのままその場を離れ芝生の上に出るとポタッと雫がこぼれ落ちた。
 「……おまえ……鼻血出てるぞ」
 「え? 本当だ」
 「ハンカチで押さえてなさい。手も血まみれじゃないか!」
 レックス寮長が懐から高級そうな金の刺繍入りのハンカチをノエルに握らせ鼻にあてた。
 遠くから六名ほどの生徒が「緊急対策本部・検証班です!」と名乗った。レックス寮長は一部始終の証人であるため検証班に付き合わないといけないと考えたのか「私は同伴できないが――」と枕詞を置いてノエルの背中を押した。
 「……アストリアス、君は緊急対策部に行きなさい。現場の報告をした後、処遇を決定されるだろう」
 「このKMFは?」
 「対策部が回収し、主犯格に事情聴取だ」
 「主犯格……そういえばさっき、アスプルンドとかって人の名前を聞いたような」
 その名を耳にした途端――思い出したくなかったと言わんばかりの深い溜め息を吐き、ジロリとノエルを睨んだ。
 「はあ」
 「どうしたんですか。薄汚いものを見るような目で」
 「貴様と同類だよ」
 ノエルはにやっと笑った。

 ノーサンブリエ寮の緊急対策部となっている大会議室前の廊下は人払いが既に為されているのか限られた者しかいなかった。
 その限られた者達の一人に薄紫がかった銀髪に眼鏡をかけた少年が、ノエルの姿を捉えるなり眼鏡の端を指で持ち上げた。
 「あはぁ……君ぃ、たしか……今一番ホットな子だね〜? おもしろいねぇ〜? あの殿下に食らいつくなんて度胸があるよ〜」
 お調子者とはまた異なる、どこか気の抜けた、人を脱力させる声音から彼が変人であり今回の大騒動の原因を作ったロイド・アスプルンドであるのは容易に想像ついた。ロイドに近づくと彼はしげしげとノエルを粘っこく観察した。
 「貴方がロイド・アスプルンド?」
 「そうだよぉ。僕がね。そんな事はどうでもいいんだけどね〜。キミ、工学・科学は守備範囲内?」
 「そこまで万能じゃないですよ」
 「意外〜。興味があれば誘おうと思ったんだけどねぇ」
 「誘うって?」
 「試乗にさ。意見を聞かせて欲しいんだ。あ! さっき乗ったんだって? それも知りた――」
 ロイド・アスプルンドが続きを告げる前にドタドタと階段を駆け上がる煩い足音が廊下に伝わってくる。その音が三階に到着し――廊下の先からロイド・アスプルンドの影を見つけるなり、青緑髪の青年、マーシア寮監督生のジェレミア・ゴットバルトの剣幕と地響きかと思うほどの呼名が轟く。
 「ロイドぉぉぉぉ……アスプルンドおぉぉォオ――……!」
 「あっちゃ〜! ごめんね。じっくりお喋りはまた今度〜! いゃ〜!」
 ドタドタと獅子が獲物を狙う速度でロイドに飛びかかる。ロイドはひょいと軽やかに身をかわし取調室に割り当てられた小会議室に野兎の動きで飛び込んだ。
 「クソが――!」
 ジェレミアが吠えた。彼の顔は真っ赤に染まっている。監督生という責任を問われる立場を思えば同情を禁じえないものだった。
 ノエルからなんと声をかければよいか躊躇っていると、ジェレミアは佇まいを正した。
 「すまない。今回は助かった。アストリアス。……本当に助かった」
 「ゴットバルト監督生……お気になさらず。これは先日のお礼ということで構いません」
 「……その鼻は? 誰かにやられたのか?」
 「いえ、これは……興奮して……」
 「興奮?」
 ジェレミアは僅かに首を傾け勇ましい眉を片方だけ持ち上げた。
 大会議室内で話がまとまったのか、豪奢な扉がガチャンと音をたてて開いた。中から顔を出した美貌にノエルはとっさに顔を背けた。
 今日だけで何度顔を合わせる必要があるのか。舌打ちの代わりに唇を噛むと鼻血の味がした。
 「お待たせして悪かったね。お二人共どうぞ中へ。……ついさっきぶりだねアストリアス君、それは?」
 「興奮です」
 「手も傷だらけだ。それも興奮なのかな」
 ――そんなわけあるか。
 ふふ、とひそやかな微笑と美しい瞳を隠して、大会議室へ入るよう手招きした。
 ジェレミアが黙礼し先に入室したのでその後ろにくっついて入った。 
 「誰か氷嚢と包帯・鼻紙を用意して。……君はそこのソファで止血しなさい。ああそれと悪い君――食堂から軽食を調達して。飲み物も人数分を。よろしく頼むよ」
 矢継ぎ早に他の生徒達に的確な指示を下していくのは見ものだった。こうして彼は先ほども迅速かつ正確無比な判断を下していたのだろう。ノエルは指示通りにするのが億劫だったがすぐそこにあったソファのなんと座り心地の良さそうな具合であったから腰を落ち着かせることにした。
 シュナイゼルは両手を組み、部屋の中央に立った。
 「時間を有効に使いたいから進める。アストリアスは安静にしつつ聞いていなさい。――まずは事の発端と解決に至るまでの情報を共有しよう。そして、隣室で事情聴取を受けているアスプルンドの証言と合致するか検討し問題が無ければ、処罰について話し合う。この流れを覚えてくれたまえ」
 シュナイゼルの態度は温厚そのものだが、内容は余計なことを喋るな≠ニ言っている。
 「アストリアス君の足取りに関しては私が承知しているから簡易的説明に留めるよ。彼はつい一時間前まで私と代表室で話をしていた。その後、ケント寮に帰り……そこで事件に加わった……ということで構わないかな?」
 ノエルは鼻を鼻紙で圧迫しながらこくりと頷いた。
 「ではマーシア寮のゴットバルト君、君の話を聞こう。当件の主犯ロイド・アスプルンドの行動の把握をしていたかい? 過去にも彼は実験と称し問題行動をとっている。前科件数は八回。今回で九回目だ。小さいものも含めると三十五件ある。そして、君が正式に監督生になってまだ日が浅い。そのことを考慮し処遇を決定するよ」
 ――……前科件数多いな。
 ノエルは自分の規則破りが今のところ寛大に処されているのは、ひとえにこのアスプルンドの前科数に救われているのではないかと感じた。
 ゴットバルト監督生は感謝感激ここに極まれりと言わんばかりに地面に頭をつける勢いで深く頭を下げた。
 「温情をかけていただき、誠に感謝申し上げます殿下……!」
 その様子を見守り壁際に立つノーサンブリエ寮の生徒達は腕を組み、うんうんと誇らし気に鷹揚に頷いた。
 半開きの大会議室のドアから生徒が重そうなカートを押して入ってくる。誰もそれに視線を配ることなく、また生徒も気にする様子もなくノエルの傍らまで持ってくると「救急セットだ。食事はお好きにどうぞ」と一式を差し出した。ノエルは短く「ありがとう」と応じた。彼はやはり気に留めることなくそれをソファの上に置いて、その他の人のための軽食の載ったトレーを長テーブルの上に配置していく。
 ノエルは届いたばかりの氷嚢を鼻に宛てがい、トレーの上に載せられているグラスに入った水を口に含む。そのなめらかな喉越しにあっという間に空になった。
 木製のトレー上の白い皿にはチーズ、ハム、たまご、レタスが挟まったサンドイッチ。ミニカップにローストビーフ入りのサラダ、マグカップにはコーンスープまで付いている。腹を擦り空腹の音を隠すように手をつけた。
 ノエルの行動を咎めようと壁際に立って厳しい視線を向けていたダローウィンが口を開きかけて、シュナイゼルが手で制した。
 「いいよ。……水のおかわりを注いであげなさい」
 ロイド・アスプルンドについての話の合間にシュナイゼルは目敏くグラスの水の心配をしダローウィンの行動を抑制しようと指示を与えた。急に目立つことになったダローウィンは居心地の悪そうに顔を顰め、カートの上にある水差しからグラスに水を注いだ。氷がからりと音をたてた。
 「どうも、ありがとう」
 「……ああ」
 彼はぎこちなく返事をし、また壁に戻った。
 シュナイゼルは一連のその光景を眺めしばし考えた後、みんなに聞こえるように言った。
 「彼が食事を終えるまで私達もブレイクタイムにしようか。皆楽にしていいよ」
 生徒達は号令に従い各々の用事に出かけていった。隣室からは何があったのかロイド・アスプルンドの「あひゃ〜」という悲鳴が分厚い壁越しに聞こえた。

 大会議室にはカトラリーの慎ましやかな音と、それぞれの簡素なやり取りがあちこちで小さなグループを作りそれらが波打っていた。
 ジェレミアはノエルの座る隣で自分の分の軽食を膝の上に置いて、事件の英雄を盗み見た。げっ歯類の咀嚼速度のように細かく規則正しく顎が動いている。大きく動かすと押さえている鼻へ摩擦が伝わるのを避けるためだろう。
 「……おいしい」
 「良ければ私の分をやるぞ」
 「本当に?」
 「君の顔色が随分と悪いからな。ろくに食事していないんだろう」
 しばしばノエルの事を窺っているダローウィンはトレーを持ち壁の方から睨みを利かしている。ジェレミアが彼に視線を与えると、それが悟られて
は不快なのか「ふん」と鼻を鳴らした。
 ノエルはジェレミアのトレーにまだあるローストビーフ入りサラダが気になっていた。ジェレミアが自然に目線を正すと、長テーブルで書類の束を捲るのと同時並行で器用に軽食を摘むシュナイゼルがノエルの方を向くところだった。
 「……ここの大食堂のメニューはどれも絶品だ。だがたまの帰省時にしかありつけない食事のほうが恋しいな」
 「帰省か……。外出許可が貰える時はあるんですか?」
 「家族の危篤、冠婚葬祭、また生徒本人が重傷病の場合だな。学内の医療行為で診られない生徒は特別許可が下りる。それ以外は冬季、春季、夏季休暇があるが……規則を読んでいないのか?」
 「再確認しただけですよ」
 ノエルはジェレミアからローストビーフ入りサラダを譲ってもらった。サンドイッチの薄っぺらく粗末なハムばかりを食べていたせいか、ちゃんとした肉の味を長らく絶っていたからか、それはあり得ないほど美味に感じられた。
 ――新しい計画を実行するには残り一ヶ月程度しか残っていない。
 外出制限が厳しければ障壁になるのは間違いなかった。そして、監督生であるジェレミアの規則についての内容は正確であるのは間違いなく、秋季に休暇はないことが確実のものとなり――密かに口内の頬肉を噛んだ。

 隣室の小会議室から引きずられるように連れてこられたロイド・アスプルンドはノエルを見るなり機嫌よく「やあ」とひらひらと手を振って再び挨拶したが、その隣にいたジェレミアを見るなりわかりやすくそっぽを向いた。
 フライセンがロイドの一歩前に進み出て重い声で宣言した。
 「ロイド・アスプルンド、貴様今回の件は――かなり処遇が重くなるぞ」
 「やっちゃったねぇ〜」
 「被害状況は現在確認中だが、第二図書館の一部が損壊。西側倉庫エリアの化学・生物学の〇九番倉庫の扉の損壊……そして、軽傷者がそこに一名、その他けが人の報告は何件かあがっている」
 ノエルはサラダをつつきながらジェレミアに尋ねた。
 「彼って他になにやらかしたんですか?」
 「……知りたいか?」
 恐ろしい怪物が目の前に立ちはだかっているように慄いた様子でジェレミアは記憶を引っ張り出して、ロイドの犯罪歴を赤裸々に告白した。
 「無許可の化学実験爆発事故が七月に二回。その頃私は監督生に内定していたせいで責任を問われているんだ。ほかは後輩に作製した怪しいドリンクを飲ませ病院送りが夏季休暇中に一件。床下に脱走用シュート……これは先週の話だ。……はあ、他にもまだまだある。監督生は指名制だから私は嫌がったが将来の進路を思えば致し方なく……受諾したのだが……学期最初期の一月持たずこれだ。……はあ、先が思いやられる」
 ジェレミアは制服の上から胃の辺りを擦った。
 ノエルはジェレミアの口から出た床下に脱走用シュート≠ニいう言葉が気になった。
 「そこ! 私語を慎みなさい!」
 フライセンが声の調子を変えずロイドにくどくどと説教しているついでに矢印が飛んできてしまった。
 「申し訳ございません」
 ジェレミアは深い声で謝罪を述べた。
 その時、品のいい椅子を引いて立ち上がったシュナイゼルに誰しもがハッとして目を奪われた。トレーの上の食事を終えられ、書類はすべて読み終わったようだ。
 「食事の途中ですまないね。先にアストリアス君の処遇を決めようか」
 シュナイゼルはすらりとした長い脚を振り、座るノエルの前に距離を詰めた。
 「いくつか命令違反はあったが……弁明を今なら聞くよ」
 「レックス寮長から連絡が入っているかと思いますが、化学・生物学倉庫には引火点の低い有機溶媒等が保管されています」
 「たしかにそうだね。そこで君はなんとか機体を停止させようと努めたということかい?」
 「はい。あのままでは爆発性混合物の生成に寄与したかもしれません。たとえ少量であっても効果は絶大だったかと」
 「理解したよ。詳しい検証は追々行うけれど、君の行動と発言に矛盾はないし、大事に至るのを未然に防いだ。第二図書館と大倉庫。軽傷者の人数よりもさらに甚大な被害をもたらしていたことだろう。――よって彼の当件の処遇は不問に処す。異議はあるかな?」
 その場にいたノーサンブリエ寮の生徒達は互いに顔を見合わせ意見を探ったが異議は誰からもなかった。
 シュナイゼルはうんと頷くと「食事を続けていいよ」と柔らかな声でノエルを解放し――その続けざまにフライセンの方に首を回し彼に指示を出した。
 「マーシア寮の寮長を呼んで。寮予算からいくらか補償させるよ。ロイド・アスプルンドの処遇はマーシア寮・寮長とそちらのゴットバルト監督生と協議して決定する。わかったね」
 「Yes, Your Highness」
 フライセンは室内にある固定電話からマーシア寮・寮長を召喚した。



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午前四時の異邦人
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