Clovis la Britannia






 ロイド・アスプルンドが引き起こしたKMFもどき大暴走事件の後始末はしばらく尾を引きそうだ。
 窓の外はすっかり夜の帳が下り、光源皆無な陸の孤島は宵の静寂に満たされている。
 カノンは秘密裏にロイドと密協定を交わし、お使いをする代わりに彼が作製した脱走用シュートを使い、度々学院外の用事に出かけていた。このどさくさに紛れてほんの数時間の逃避。何事もなければ上手くいくが、今日は運が悪いようだ。ノーサンブリエ寮に入ろうとちょうど前庭に指し書かた時、綺麗な黒のシルエットが街灯の光に伸ばしていた。
 それが誰だか顔を確認するまでもなく、また遭遇すると最も都合の悪い相手であるのに仏頂面をこっそり作る。
 「こんばんは。殿下」
 「マルディーニ、今何時だかわかっているかい?」
 「八時」
 「どこに行っていたんだい。今日は課外活動を全停止し生徒は各自・自寮待機にしたはずだよ」
 「大食堂に行ってた。食事は別、だろ?」
 看板のように決まった微笑みを作るこの腹の探れぬ男は何においても完璧で、たとえ今ついた嘘も看過していようとその場では何もせず、遠い未来に溜め込んでいたツケを払わされるような予感がした。カノンは居心地の悪さを誤魔化すように、シュナイゼルが手に持つ紙袋に見遣った。
 「……これから理事長室に行かなければいけないんだろ」
 「報告は監督生の義務だからね」
 あまりに優秀で規格外であると任される仕事も正相関で増加する。シュナイゼルは史上最年少で国家間の政略結婚の条約文にサインした少年であるのは有名な話で、アジアの至宝。西欧の飛び地。名実ともにブリタニアの兄弟国であるカストラリア王国の伴侶で現「エリア四」からブリタニアに多大なリソースを貢ぐ外交的手腕に優れた類まれなる統治者だ。
 そんな人物がブリタニアの貴族学院でおままごとのような授業に律儀に出席し、ろくでもない生徒達の面倒をみている。人口約五四〇〇万人の国民の生殺与奪を握る手が今、書類の束を大量に詰め込んで底抜けそうなほど使い古した紙袋の紐を握っているのがちゃんちゃらおかしい。

 そしてこの学院にはもうひとり、ちゃんちゃらおかしい生徒がいる。
 こんな学校で燻っていないでさっさとどこか然るべき大学に行くなり、社会的貢献を行えば実を結ぶような編入生が。
 夕方頃、はじめてノエル・アストリアスに接触した。彼は有名人だが――その有名たらしめる要因はこの眼前の眉目秀麗のこの青年。またそのせいで今ではどこの授業でも水差しが必要なほどお喋りを期待されている。
 ノエルは演じているのがわかるほど、授業ごとにキャラクターを作って笑いを誘う。人々の歓心を得る才能が備わっているのか、あれほど敵意剥き出しの噂に惑わされるだけの風見鶏達の心象を変えていた。
 その変化を表立って主張すればエスケープゴートにされる恐怖と相互監視があったが今日までで終わりだろう。
 ――彼は、偶然かどうか自力で克服した。
 ロイドの起こした事件は偶然の産物ではあったものの、ノエルの機転と活躍が大事故を未然に防ぎ、この学院中の生命と平和を守った。そのことまで無視して悪意を手向けるには憎悪と情熱が必要だ。

 「アストリアスにあんたの事聞いたら、苦虫噛み潰したみたいな顔してた」
 カノンはそんなノエルに未だどうしてだかわからないほど嫌悪を表明されるシュナイゼルが哀れで面白いと思っていた。
 困ったように眉を下げシュナイゼルは笑った。彼の感情は判を押したようにいつも同じに見えた。
 「私が嫌われている話かい? 知っているよ」
 「いったいどんなことしでかしたんだか……」
 「さあ。なんだろうね。思いつかないよ」
 シュナイゼルは一言「急いでいるんだ。また明日」といって恵まれた長身を理事長室のある北棟方面へ向けた。カノンは薄暗い闇に溶けていく背中に向かって「おやすみ」と告げた。 
 遠ざかっていく気配と入れ替わるように生ぬるい風がカノンの長い髪を撫でた。
 ――理由について、それはカノンも思いつかなかった。なぜならノエル・アストリアスは口先や態度で拒絶を示すが会話を放棄するほどでもなく――実際は慇懃無礼であるもののシュナイゼルとの対話を諦めているわけでもなさそうだった。今朝の不敬発言後。ノーサンブリエへの招待を無視せず代表室に顔を出しているほどだ。妙な律義さがカノンには好意≠フ裏返しではないか――と思いついたのだ。鏡のようだとも喩えた。シュナイゼルとノエルが授業で鉢合わせると、息のあったコンビネーションを見せる。
 シュナイゼルには全くつまらないレベルの内容であるものが、たった一滴のノエルの指摘が火を点け、水を得た魚のように補足を付け加える。すると授業のレベルが底上げされ、一部の落第スレスレの生徒には顰蹙を買っているが優秀層から支持を得ている。
 なにより、誰に対しても無関心そうな微笑みが色彩を帯びる瞬間に気づいたカノンは俄然、このシュナイゼルとノエルへの興味を持ち始めていた。
 ノエルは好意≠否定したが。シュナイゼルは満更でもなさそうなのが奇妙な関係性を結んでいた。

 
 ◆ ◆ ◆


 大食堂に来るのは初めてだった。
 夕方に軽食を摘んだが、この若い育ち盛りの肉体はまだまだ栄養を欲しているのか、はたまたエネルギー消費が激しいのか、腹の虫の収まりは程遠く、七時過ぎからぐうぐう音が鳴りっぱなしだった。人の多い時間帯を避け二〇時――八時過ぎに大食堂でしこたま胃袋に詰め込んで満足してみたいと思ったのはローストビーフ入りのサラダに味を占めたからだった。
 
 大食堂は北棟にあり、荘厳なチャーチの近くにある。長く広い途中の路上には数メートル間隔に街灯が煌き足元を安全に目的地まで照らしてくれる。日中の騒動の熱気もどこへやら。勢いのある夏の終焉にも似た切なさが漂っている。
 食堂は入口から入って最奥にバイキング形式に長テーブルにいくつか大皿に盛られた料理が積まれ並んでいる。夕方頃、代表室でシュナイゼルの言ったように利用生徒数は疎らで、互いに関心を寄せるほどでもない距離感に落ち着けそうだ。
 ノエルの一番のお目当てのローストビーフはなかったが、フライドチキンやバゲット、何種類かの果物、マッシュポテト、サラダ、豆スープなどが揃っていた。トレーに大皿二つを載せ、さらにその上に料理を敷き詰ていく。カップにスープ、バゲットを一本贅沢に取ると、目立たない端の席に向かった。
 ――ん?
 たまたま目線の先には馴染みある金色が見えて、踏み出した足を衝動的に一歩引いた。
 ――待ってくれ。晩餐くらいは一人にさせてくれ。今日はもう一言も口を聞かないぞ。
 相手に悟られる前に姿勢を低く、こそこそと別の席を陣取る。
 黙々と背中を丸め食事に齧りついていると、シャッシャッと何かを擦る音が気になった。音の方に顔を向ければ、つい先程までは真後ろのテーブルに座っていたはずの彼がなぜか数席隣に移動していた。金色の髪の豊かな量を持つ美貌の少年はなにやら熱心に鉛筆でスケッチブックに絵を描きこんでいる。よくよく見ると想定していた人物と異なる人物で胸を撫で下ろした。
 ――なんだスケッチか……。たしかにこんなに美味しそうな料理は描き甲斐があるというものか?
 ノエルは椅子を少し引き、テーブルと距離を開け対象の料理に集中しやすくしてやると、気に食わなかったのかすかさず少年から「動くな」と鋭い命令を受けてしまった。
 「あ。はい」
 「横を向いて。食事を続けたまえ」
 「……こうですか?」
 「そうだ」
 「恐れ多くも食べづらいのですが、ああ……それとこの後おかわりも行きたくて」
 「あと五分待って」
 集中しているからか突き放した言い方だ。
 どうしていいかわからず、とりあえず食事をゆっくりと続け、彼の言う五分を待つことにした。その合間、横目に少年を観察すると彼も柔らかく波打つ金髪、湖底の光芒のような青い眼。通った鼻筋に尖った顎――貴族的な顔立ちがシュナイゼルを彷彿とさせる。約束の五分が経つと、それまで結ばれていた口がぱっと開いた。
 「……どうぞ」
 「ありがとう。……あの、何を描いたか見せていただいてもよろしいですか?」
 「構わないよ」
 誇るように差し出されたスケッチブックには食事をするノエルが見事な筆致で描画されている。想像以上の出来栄えに思わず顔が綻びるのがわかった。
 「素晴らしいですね。描いてくれてありがとう。――芸術は自然を模倣する=c…あ……いえ貶めているのではなくアリストテレスの引用ですが……」
 仕草や表情にあどけなさを残す少年は、かっと目を見開き立ち上がると勢いよくノエルに詰め寄った。
 「失礼しました。いまのは……」
 「あなた、お名前は?」
 「え?」
 「お名前です」
 「あ……はい……ノエル・アストリアスです」
 「芸術への造詣が?」
 「言うほどではありません」
 鼻先がくっつきそうなほどの至近距離で少年の大きな優れた宝石が見つめている。
 彼はおかわりに立とうと中腰でいたノエルの両肩に手を置いて椅子に座らせた。その隣の椅子をみっちりと詰めて持ってきていた画板の入っていた大きな袋からあれやこれやと彼の作品がテーブルに並べ置かれていく。それからもう一度ノエルをじっと睨んだかと思えば高速マシンガントークが炸裂した。
 芸術シーンの批評から始まり、彼自身の創作の美学・哲学について、その筋から貰った評価と目指す世界観。ブリタニアにおける美術界の画一的な退屈さその愚痴。
 ――とんでもない熱量だ。迂闊に話しかけるべきではなかったか。
 額に汗を浮かべてノエルは後悔した。
 「……それで……それで……あなたはどう思う?」
 「……二大潮流はまだ失われておらず、傾向は残るでしょう。前衛的な挑戦もやぶさかではありませんがたとえ新規開拓したとてその二つの派閥の文脈が歴史の軸を構築し今日まで土壌を育ててきました」
 「――! お、おお……! そう! そうですよね!」
 ――なんだか嬉しそう。
 手をぎゅっと両手で握られてしまってはおかわりにさえ行けないのだけれど。
 そこからさらに十分間、彼のマシンガントークが続いた。
 「おやおや。クロヴィス、新しい友達が出来たのかい?」
 「……あー」
 「兄上!」
 ――おいおいおい……。なんでこうなるんだ。
 がっくしと項垂れたくなった。頭の端でそんな事だったらどうしようと過ったことが現実になるなんて。
 この少年がシュナイゼルの兄弟だったらどうしよう――などと。
 クロヴィス――という名のシュナイゼルの弟はつまり皇族であり、この熱心で専門的な用語ばかりを用いるのも高等教育の品質の高さを物語る伏線だったわけだ。
 そのクロヴィスは椅子を立ち、その兄シュナイゼルを出迎えた。
 「遅かったじゃないですか兄上! ずっと待っていたんですよ?! 初日だから食事を一緒にしようってお約束いただいじゃありませんか!」
 「本当に悪かったよ。今日は忙しかったんだ、本当に」
 むくれる弟・クロヴィスの背中を撫で彼を少しノエルから引き離した。その動きを目で追った先に美貌の青年から微笑みかけられると、意図せず顔がぎこちなく引き攣った。本日何回目かの顔合わせに露骨に嫌な顔をするのを見て、シュナイゼルは続けて崩すように苦笑した。
 「夕食はもう済んだかい?」
 「私は終わっています、いまこの人の絵を描いていたら話が盛り上がってしまって」
 ――喋っていたのは殆ど君の方だけど。
 という胸中の言葉を押し留め、ノエルは椅子を後ろに下げ、トレーを両手で持ち上げた。
 「そろそろ、おかわりに行っても?」
 「アストリアス君は意外と大食漢だったんだね」
 「……兄上、ご友人でいらっしゃる……?」
 ――誰が友達だ。誰が。
 「目が狐になっているよ。――紹介しようか、クロヴィス、彼はアストリアス公爵子息アーバンド伯爵だよ。遠い縁戚だから覚えておいて」 
 「は……はい! お名前は先ほど伺いました」
 シュナイゼルが目でノエルの自己紹介を促した。せっかく手に持ったトレーをテーブルに戻し、クロヴィスに向かって恭順の礼をとった。
 「ご紹介に預かりました。お初にお目にかかります。ノエル・アストリアスです。……あなたはクロヴィス皇子殿下であらせられますね?」
 「いかにも」とクロヴィスは頷いた。シュナイゼルはそれで満足したのか、通過儀礼を終えたのを見届けてクロヴィスの肩に手を置いた。
 「アストリアス君は閉館ギリギリまで食事をするのかい」
 「そうします」
 「そうか。それじゃ今日はこの辺で、また明日」
 そのまま異母兄に導かれて出入り口へ歩まされるクロヴィスは縋るようにノエルとシュナイゼルを交互に見つめた。
 「えっ? 兄上、私まだ話したいことが……」
 「今日しか会えないというわけではないだろう? それに入寮の支度と説明が残っているし、十時には消灯の時間だよ。さあ、ノーサンブリエに行こう」
 クロヴィスは首を傾げ尋ねた。
 「……? 一緒の寮ではないんですか?」
 「そうだよ。彼はケント寮の奨学生でね」
 「ケント寮の? なぜうちじゃないんです」
 「強いこだわりがあるみたいでね。惜しい逸材とは思うよ」
 まるで言い聞かせるようにシュナイゼルはノエルの方に目を凝らした。クロヴィスも同様にそうするものだから――よく似た風貌の異母兄弟の視線を受けてノエルは居心地の悪さからうっと唸った。
 「アストリアスを転寮させられないのですか?」
 「試みてはいるんだよ。でもそれはどうして、クロヴィス?」
 「さっきずっと待っていた時、……私の話を聞いてくれて……プラトン派とアリストテレス派の構造対立と芸術における相関との話で……現代の主流論争も止揚(アウフヘーベン)を用いて三次元的見解を一緒に考えてくださって……」 
 クロヴィスを相手した時の内容を知ったシュナイゼルは肩を震わせくっくっと喉を鳴らした。異母兄の思いがけない様子のおかしさからクロヴィスは驚愕のあまり声がひっくり返った。
 「あ……あ、兄上……!? どこか痛いのですか」
 「いや……ふふ、あははは……!」
 「兄上ぇ!」
 切なくも悲痛な叫びが滑稽さを生んでいる。
 「もう洗礼を受けたんだね。……彼は編入生だから、一年生の授業と被るものがあれば一緒に受けてみるといい。今度こそおもしろいものが見られるよ」
 「そんなに……!?」
 「早めに授業申請しないとね。……これから人気者になってしまうから」
 大食堂の出入り口まで歩いて、そこからでも彼の髪は滑らかに光った。ノエルを再度みたので、せっかくトングで持ち上げたフライドチキンが一つ皿に不時着した。
 ――早く寮に帰ってくれないかな。 
 「おやすみ」
 「……おやすみなさい」
 そうして満足したように彼は異母弟を連れ立って大食堂を去っていった。今日これ以上の遭遇をしませんようにと祈り、朝方キスされた頬の感触が、共に食べたクッキーの食感や、彼にしては面白がる微笑みの微量な変化が、今になって蘇ってくる。その形容詞し難い心地の悪さが食事の関心の芽を摘む前に残された料理を余すところなく皿に盛り込んだ。



 ノーサンブリエ寮へ向かって歩く二人の異母兄弟は大食堂を出てしばらく他愛のない形式的な再会の言葉をやり取りしていた。
 クロヴィスは後ろ髪を引かれる思いで二度、三度、背後にある荘厳なゴシック建築を盗み見た。今後彼と会うには如何様にすればいいか考えていたし、片やその隣で正面を見据えて進むシュナイゼルは異母弟の入寮手続きの段取りを思い返して今日はまだ一時間、自分の時間を切り売りしなくてはいけないと考えていた。そして急に訪れた沈黙に弟を驚かせてしまったことを詫びた。
 「すまなかったね。私らしくなかったかな」
 「いいえ……兄上がそのように笑って過ごされていると知って嬉しく思ったのです」
 「そうかい?」
 クロヴィスは夏風邪を拗らせて、入学が他の同級生に比べて出遅れてしまった。彼ははじめから芸術ごとへの才覚と関心の特性から適した寮に振り分けることも考えていたが、皇族として過ごしやすいのは異母兄であるシュナイゼルのいるノーサンブリエが良いだろうと理事長が修正を求めた。
 シュナイゼルは同意し、入寮許可の書類にサインを記した。
 クロヴィスは彼にとってたくさんの作品の詰まった画板袋を後ろ手に持ち「よかった」と安堵の声を漏らした。彼の心配は自身のことではなくシュナイゼルに向いていた。
 「……義姉上……ティラナ王女殿下のお姿が見えぬようになって、元気が少なくなったように感じていたのです」
 「そうか、心配してくれていたんだね。クロヴィスは。私はこうみえて平気だよ。……なに、彼女は元気さ。少し時間がかかるだろうけど、人前に出られるようになるまで力を尽くす所存だよ」
 「兄上は……義姉上のかわりの公務さえ引き継がれているとか。そんなにお忙しい身の上でどうして……?」
 シュナイゼルはクロヴィスの心配がその他の多くの者にも共有されている疑問点であるだろうと思った。
 「なぜ学院に通っているのか、という話だね?」
 クロヴィスは首肯し豊かで落ち着きのある色味の金糸を揺らした。
 「……私が学院にいるのは彼女が勧めてくれたからだ。時期が来れば、永遠に自由とはお別れをしなくてはいけないから」 
 「兄上……」
 「それに……あの子は学校に通ったことがないから、どうか行ってきて私にその話を聞かせて欲しいとね。おっしゃったんだよ」
 クロヴィスはお労しいというように肩を竦めた。王宮火災の一件で塞ぎ込んでしまった少女は瑞々しい時間のすべてを灰色の泥水の中に横たわっている――と彼は感じているのだろう。クロヴィスの指摘は決して的外れではなく、シュナイゼル本人でさえ知り得なかったスイッチのボタンを押す彼女を希求している。――ところが最近になって、その錆びついていたボタンは引っかかりを減らし頻繁に押下されるようになってきている。
 「……ではアストリアスに感謝しなければいけませんね」
 「……ふふ。そうだね。……もしも、彼女が学校に通っていたら彼のように教師泣かせだったろうね」
 「義姉上はなんでも勉強が得意だとか?」
 シュナイゼルは思わずむず痒くなった。彼女のは得意≠ネんて生易しいものではなかった。
 「うん、論文を書いていたよ」
 「論文を?!」
 クロヴィスの変声期途中の声が裏返った。
 「……教えていなかったかな。薬学・生理学・医学の博士号を取得しているよ。基礎理論の立役者だからその筋では有名なドクターだ。すでに応用・実用化されていて――そうだね……軍では医療用に創傷を数時間で再生化させる止血・治癒促進シートに役立てられているし、人工血液も彼女の理論で成り立っている」
 さすがの軍事・政治方面に疎いクロヴィスであっても科学やニュースを知らないわけでない。
 クロヴィスは「まるで、シェイクスピア別人説だ」と驚いた。複数人が共同の名前を使って作品を発表していたのではないかと思わせるほど、年齢に対しての功績が太陽の如く眩しい。シュナイゼルもかつてクロヴィスと同じように考えた事があったが、真剣に物事を考え抜く姿をシュナイゼルは何度も目撃していたし、手記や論文のメモ・草稿の筆跡は紛れもなく同一人物によるものだった。正真正銘、彼女は天才だった。
 数十年分の時代を推し進めた功績から、神の気まぐれに愛されている乙女≠ニ言わしめる。時を止めていなければ、どれほどの功績をあげこの世界にさらなる革新と幸福をもたらしたことだろう。
 彼女のいない医学・生命科学界は燃料切れのライターのようなものだ。いくら弾いて摩擦を起こしても、火花さえ散らず、炎も煙も上がらない。 
 察しよくクロヴィスは「兄上が婚約なさったのはもしかして……」と呟いた。
 「それ以外にも理由はあるよ」
 クロヴィスは優秀なブレインを結婚という契約で獲得したのだと考えたようだ。
 「そ……そのお話もっと聞きたいです!」
 彼の瞳には熱が入り根掘り葉掘り聞きたがったが、シュナイゼルは両手を打ち鳴らした。
 「……お話ししてあげたいけれど、今日はもうおやすみ。入寮のサインと説明が終わってないから、それを終えてから」
 ノーサンブリエ寮に到着し、シュナイゼルは扉を開けて「ようこそ、クロヴィス。歓迎するよ」と言った。
 



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午前四時の異邦人
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