a.t.b.二〇一七 May
エリア11 トウキョウ租界
――枢木スザク一等兵。第十一方面軍域充用一〇七号。クロヴィス殿下殺害容疑については証拠不十分につき釈放とする――
租界の均一的なガラス張りには、晴れ渡る青空を眩しく映し出している。逮捕された頃に着ていた服は、今では少し暑い。汗ばむ陽気の中、少年――枢木スザクの視界はサングラスの暗色に遮られていた。帰り着く場所など、限られている。
名誉ブリタニア人。総督殺しの容疑者。証拠不十分の誤認逮捕。世間はスザクを強奪した正体不明のゼロの話題で持ちきりだ。街頭モニターには、ゼロと枢木スザクの画が並べてコメントをするワイドショーが賑やかだ。
宿舎に戻る道は、スザクの置かれた状況や、これから先のことを思えば何もかもが幸せそうに見える。そう思ったとき。
「どいてくださ――い!」
建物の上からスカートの裾を押さえて落ちてくる少女。慌てて荷物を地面に置き、受け止めるスザク。ふわりと広がる春を彷彿とさせる桃色の髪からは、楚々とした甘い香りがふわりと漂った。
「ごめんなさい。下に人がいるとは思わなくて」
「ああ、いえ。僕も上から女の人が落ちてくるとは思いませんでしたから」
「あら?」
「ん? どうかしました?」
不思議な淡い色。その少女の藤色の瞳がスザクの全身を眺め回すと、なにかを確信して、はっきりと笑いかけた。
「はい、どうかしたんです」
「へ?」
頭上の窓からは、脱走に使用したカーテンが外に出て風に揺られている。
「私、実は悪い人に追われていて。だから、助けてくださいませんか?」
悪い人というと悪党を思い浮かべる。
開け放たれた窓に、力こぶを持つ鬼のような顔をした追っ手はいない。手入れの行き届いた肌や髪。肌の露出の少ないワンピース。どこかの貴族の令嬢だろうか。浮世離れした雰囲気を纏う少女の、小さく可愛らしい嘘。
彼女は『ユフィ』と名乗り、スザクの正体を枢木スザクだと看破した。世間の情報に疎いというほどでもないらしい。
一台のトレーラーが租界の道路を停まったところだった。
「遅れちゃったなぁ〜。待ってくれてるといいけど」
セシル・クルーミー中尉が隣のシートでどこか呑気な様子の上司、主任のロイド・アスプルンドを見遣る。
「でも、本当に釈放なんですか?」
釈放は午後のことが多い。保釈許可の手続きがすべて完了し、昼時が狙い目だと時間を見合わせていたが、煩雑な事務作業に出発時間が押していった。
枢木スザクの所属先には、配置換え申請をしようとした矢先、とうに手が回っており口添え≠ニいう名の令旨を賜っていたようだ。それは予てより持て余していたロイドの願望を上手く叶えた。意外なところに渡りに船である。
「証拠不十分でね! まあ、ゼロの件ではたっぷり調べられたみたいだけど」
「その……あの方のご命令だって、伺いましたけど。そのおかげで手続きも通常よりも早く終わらせられそうですし、助かりましたね」
「まぁね〜。内通者の疑い≠チてこと。僕らには、見張ってろってことなんじゃないかな。証拠はない。だけど、クロヴィス殿下が薨御された出来事が消えることはない。ま、僕にしちゃ、これ以上ないくらいラッキーな話なんだけどねぇ」
そうして、何気なく目線を窓の外に向けたとき、歩道にはまさにこれから引き受ける少年と、私服姿ではあるものの貴族階級以上では、まず見間違えるはずのない人物が仲良く歩いていた。
「あれ? なんで!?」
「は?」
寝耳に水。
突如として湧き上がる驚きにつられて、セシルも窓の外の人物に釘付けとなった。
a.t.b.二〇一七 May
エジプト カイロ
その異名は、ブリタニアの魔女。
砂漠の中、業火を背負うのは、畏怖の象徴――紫の鉄兜。
神聖ブリタニア帝国第二皇女――コーネリア・リ・ブリタニアの電光石火のような進撃によって、荒廃と絶望の淵に立たされた中東の指導者たち。
国が果て、国賓への然る扱いさえもままならぬ体たらくを見かねて、会談の場となったのは両国の仲介を行う入り江の国であった。同じその対談の席で、カストラリア女王ティラナは波一つ無い水面の微笑みを湛え、洗練された動作でサッと右手を差し出した。
――その瞬間、砂漠の国の気候によく適した白い麻布の民族衣装に身を包んだ部族長の身体が、石のように硬直した。
両者を取り囲む、数え切れないほど構えられたカメラが、シャッターを切るのを躊躇っている。
厳格な戒律において、血縁ならざる異性と肌を重ねることは許されない。――そういった外交上のマナーを知らぬ女ではないことは、サレハも理解している。だがしかし、これ以上、女に翻弄されようというのか。まったく酷く、屈辱的な場だ。
は――と誰かが迂闊にも漏らした呼吸を責め立てるように、脇に控える大臣や事務次官が目で示し合っている。
「……あ?」
腹立たしさを噛み殺していると、ブリタニアに媚びを売る国の女が小さく囁いた。
「私に合わせてください。そうすれば、事が良い方に働きます」
なんと流暢なアラビア語だろうか。
会談場のどよめきが静寂を取り戻していき、サレハのリアクション次第でその後の、この国の、エリア十八と成り果ててしまった自国への、救済と同情の視線を集めることができるだろう。
圧倒的な覇権国ブリタニアの影を背負い、この復興という、一大事業の命運を握るカストラリアの女王である。
拒絶すれば、この若き女王の機嫌を損ね、一族が根絶やしにされるかもしれない。しかし、手を握れば神への裏切りとなる。
しばしの沈黙の後、部族長のサレハは覚悟を決めたように目を閉じると、ゆっくりと右手を自らの左胸――心臓の上に当て、深く、深く頭を下げた。
「尊き女王陛下。愚かな我が身の不敬をお許しください。この手は、神への誓いゆえにお取りできませんが……この胸を打つ鼓動のすべてをもって、陛下のご慈悲に深く感謝申し上げます」
固唾を吞んで見守る側近たちの緊張を破ったのは、落ち着きを払った笑い声だった。ティラナは、差し出していた手を自然な動作で引っ込めると、自らも優雅に右手を胸に当て、礼節を返してみせた。
「剣によって誇りを奪われた地に、なお神への誇りを失わぬ人がいると知り、安心いたしました。……さあ、顔をあげてください。信仰を捨てぬあなた方となら、よき友人として手を取り合えるでしょう」
言葉を言い終わるとき、強烈なカメラのフラッシュが焚かれ、やがてそれは小さな爆竹のごとき小刻みに破裂した。なんと鮮やかな手並みか。サレハは弾かれたように顔を上げ、その女の顔をまじまじと見て、心の底からの恐怖と敬服を抱く。
戦場の業火も、砂嵐もそこにはない。地上を凌ぐ、世界最高峰の山を背負う者の、超然とした俯瞰的な眼差しであった。
『エル・アラメイン戦線へのバックアップを?』
カイロでの政治交渉を終えた夜。市街とナイル川を一望できる五つ星ホテルのスイートルームで、ティラナはソファに深く身を沈めていた。
暗号化された極秘回線のモニターの向こうには、遠く離れた帝都の執務室にいるシュナイゼルの姿がある。外交の張り詰めた空気から解放されたティラナは、テーブルに並べられた中東の伝統的菓子や果汁ジュースを気ままに口へ運びながら、リラックスした様子で会話を交わしていた。
「ええ。取りつけることにしたわ。といっても……救援要請を受けて初めて衛生兵の派遣を行えるから、専らの後方支援よ」
『十分心強いよ。コーネリアの武力による圧力も必要だが、その後に残る荒廃を治癒する温情があってこそ、エリア十八の安定は得られるのだからね』
「……異教徒の国で、どこまでのことが出来るか不安だったけれど」
絞りたてのレモンの果汁に砂糖水、フレッシュミントがトッピングされたジュースを一口。爽やかな甘みとミントの清涼感が鼻腔を流れていく。ティラナは満足そうに目を細めると、今度は深紅のザクロジュースのグラスに手を伸ばした。
「……ん、こっちも美味しいわね」
さらに、薄いパイ生地を何層にも重ね、ピスタチオと刻んだナッツを贅沢に挟んで甘いシロップをかけた伝統菓子――
薄いパイ生地にピスタチオとナッツを挟んで焼いたお菓子バクラヴァをフォークで一口大に切り、口へ運ぶ。濃厚な甘みとナッツの香ばしさが口いっぱいに広がった。
「缶詰めでやれることが他にないの。目と鼻の先で軍事作戦が進行していて、……研究のアイデアでもしたためるか、ホテルのなかのプールで水遊びをするか、こうして部屋でお菓子を摘まんでいるか。……クレオパトラ気分ね!」
『よく似合っているよ。それにしても、今回は随分と思い切ったパフォーマンスをしたね』
「自作自演のショーはお笑い種ね! あはは!」
ティラナは豪快に可笑しく笑ったあと、ナプキンで口元を軽く拭い、ふっと溜息をついた。砂漠の街で繰り広げられた裏交渉の疲労が、今になってじんわりと肩に圧し掛かってくる。
「想定より早くにエリア制度に応じたスペインに比べると、ここは本当に交渉に難航したわ」
スペインは、遥か遠いものの親戚筋の国であり長年付き合いのある王室がある。さらに、その国出身の王女がドイツのヴィルヘルム皇太子の妃であることが交渉を助けてくれた。しかし、このカイロ会談は、残念ながらコーネリアの出征がなければ実現も、交渉も上手く纏まらなかっただろう。暴力と恐喝の裏で、差し出された、救済の蜘蛛の糸。
その糸を引く役割を、完璧な演技で全うした。
「これから帰国して、経済特区関連でのイベント訪問でしょ、学会に、公務に……それで、エリア九から招待を受けているからまた外遊よ。……想像していたほど引きこもりじゃないわ。……そのせいか、各地に愛人がいる噂がでっちあげられてるけど……、あなた信じてないわよね?」
ティラナは少し恨めしそうな目つきで、画面の中の夫をジロリと睨んだ。多忙を極めるあまり、移動先ごとにあらぬ噂を立てられるのは、女王としての日常茶飯事であったが、彼にどう思われているかは別問題だ。
『どうかな?』
シュナイゼルはふ――と軽やかな笑みをこぼし、小さく首を傾げてみせた。
「そこは信じているよ≠チて言うところ!」
『……クレオパトラには、愛人が二人いた』
エジプトといえば――と、シュナイゼルはナイルの女王こと、古代エジプト最後の女王を引用した。
「同時期に二人を相手していたわけではないわ」
即座に言い返すティラナに対し、シュナイゼルは穏やかな笑みを崩さないまま、古典の教養を巧みに織り交ぜて言葉を重ねた。
『カエサルの妻たる者は、疑われるべきではない=x
クレオパトラの愛人であった、ユリウス・カエサルが遺した有名な言葉である。――『公の立場にある者は、自身だけでなくその周囲にも一切の疑念を抱かせてはならない』という意味の痛烈な皮肉。
「うー……耳が痛いわ」
ティラナは両耳を両手で塞ぎ、困ったように唸ってみせた。反論の余地がない。降参だ。
「でも、ほら、シュナイゼルだって、噂があるわ。……ラブレターに、出待ちに、迎賓館の部屋にまで押しかけてきたっていうじゃない」
『他愛のない悪戯だよ。ところで、随分と詳しいのだね……? 嫉妬してくれるなんて、嬉しいよ、とても』
「べっべつに……、たまたま、……たまたまよ! 新聞と一緒に三流紙や週刊誌が届けられるんだもの。私たちが世間でどんな風に評価されているか、正確に知っておくことがこの作戦には重要だからよ!」
情報収集の一環だと言い張るティラナだが、毎週のように更新される際どいスクープには一喜一憂している。男の噂の絶えぬ三十路の女は痛々しいが、男は脂がのりはじめる頃。世間評価は女よりもずっと甘く、表で貶されど裏では好評価される。
――なんて不公平!
醜聞の落差に腹を立て、匿名で新聞社に苦情を訴える投書でもしてやろうかと思うほどである。ティラナの内心に気づいていながら、さらにシュナイゼルは事件≠愉快そうに振り返った。
『迎賓館の客室でストリップショーが始まったときは、さすがに驚いたよ』
「ほ〜ら、見たことですか! ハニー・トラップを仕掛けられてる!」
『ショーが終わったら追い出したさ。相場より高レートのチップを払ってね』
シュナイゼルは、まるで午後のティータイムで天気の噂でもするように、あまりにも淡々と、かつ優雅に事もなげに語ってみせる。面白くない。半眼でひと睨みし、ティラナはグラスに手を伸ばした。
「ふーん。そんなに簡単に出て行ってくれるものなの……?」
『簡単だよ。勃たなかったんだから、どうしようもないよね』
「ンフ――ッ!?」
まさにその瞬間、喉に流し込もうとしていたザクロジュースが派手に気管に入り、盛大に咳き込んだ。
噎せ返りながら激しく胸を叩き、テーブルのナプキンを引っ掴んで口元を押さえる。『大丈夫かい?』と心配する声は、心配半分、面白半分といった調子だ。
なんと慎みのない直球な表現か。
「な、なんてことを言うの――! プライベート回線の話とはいえ、……一国の宰相が口にしていい言葉じゃないわ!」
『あはは。事実を言ったまでだよ。私が彼女たちに何の興味も示さなかったのだから、罠を仕掛けた側も諦めるしかない』
「それは――そうだけど……」
それはそれで気の毒な話だ。なんて薄情な物言いだろう。彼の温顔が余計に冷情を際立たせる。雇われた工作員はチップを貰えて満足しただろうか。――いいや、それよりも若盛りの年齢の成人男性が、性を喚起させるショーをみて反応を示さないというのも気がかりだ。
「あなたの健康状態が心配よ。働き過ぎなの」
『おや。心配してくれるのかい?』
「死活問題よ。……枯れるくらいなら、バレないように適当に楽しんでくれる方がマシなんだから」
父セイルは、不妊の傾向があった。もとより病弱な性質だったからなにも不思議な話ではない。シュナイゼルは健康な成人男性であるが、今日までの計画に至るまでの、無自覚なストレスは計り知れないはずだ。――悪計を提案した側であるだけに、ティラナには巻き込んだ負い目が少なからず燻っていた。
軽はずみのちょっとした言葉が真剣に捉えられ、その神妙な顔つきにシュナイゼルはやや苦笑を滲ませた。
『機能については問題ないよ。貴女が一番、よく知っている』
話の風向きを読み、シュナイゼルは逸れた話題を元に正した。
『ゴシップには手を打つつもりだよ。スパイは返り討ちにしたし、有力貴族の買収も済んだ。それ以上、世間を賑わせておく必要はないからね』
シュナイゼルの物言いからは『計画的に愛人の噂を利用している。貴女と違って』という本音が見えてくる。
「む、むむ……癪に障るわ。……私にはハニー・トラップはおろか、ラブレターの一通だって来ないんだから。あなたに比べたらよっぽど健全で、平和で、マシよ!」
得意顔で胸を張るティラナに対して、シュナイゼルはすうっと瞳を眇めた。
「……? なあに? なにか言いたそうね」
『いいや?』
そう言って、シュナイゼルは手元に視線を落とす。ちょうど手書きの手紙を一枚書き終えたところだった。
「変なの。なにか隠しているんじゃない?」
『そう思えるなら、勘繰りすぎというものだよ』
疑惑の眼差しと追及を躱すように『そうだ」と話題を切り替えた。
『エリア十一の神根島の件だけれど。……新総督着任後、時期を見計らって、再調査が出来るよう手を回すよ』
「……ほんとう?」
最も気がかりであった遺跡調査の件を持ち出して、乗せられているとティラナはわかりつつも、その手回しのはやさと希望が叶えられそうだと飛びつかないわけにはいかない。
「期待してもいいのね?」
『もちろんだよ』
「……感謝するわ。でも、あの島は危険も潜んでいるわ。用心は怠ってはいけない。……さっきエリア九訪問の予定を話したでしょう? トンガリロ国立公園の視察を設定したんだけど、そこで奇妙なことがわかりそうなの」
ティラナは、バスローブの裾を手繰り寄せて、脚を組み替えた。
『奇妙、とは?』
インクの切れの悪さを紙の上で確認したあと、上部のノブを回し、インク瓶に漬込んではペン先からインクを吸い上げる。ゆっくりと管を満たす上質な黒は、この真夜中よりも密度が濃い。
「その公園の近辺には、洞窟があって……古代の祈祷所があるそうよ。問題は――そこが、天領扱いで無断で立ち入れないの」
再びシュナイゼルは視線を上げ、画面越しの妻に目を凝らした。
ある仮説が立証されようとしている――とシュナイゼルは感じた。
『天領……とすると、権限は皇帝陛下のものだね』
「ええ。もう少し調べてみたの。エリア一〇にも。旧王室所有地のあった地域が今、天領として扱われている。……他のエリアもだいたい似たようなものよ。……あなたのお父様は、相当な古代史マニアみたいね」
ティラナはこれでまで、神殿やそれに準ずる場所が世界各地にあると溢していた。世界各地――それは、ブリタニアが制覇した国家が多くを占める。ロシア、中東、南アフリカ、ヨーロッパ、北ブリタニア、旧西インド諸島、南極――極東。
万年筆にキャップを被せ、シュナイゼルは暫くのあいだ考え込んだ。
『――父上は、政務から席を外されることがままある。理由も側近の中でも、知る者、知らぬ者がいるようだ』
いつも唐突に空白が始まり、その仕事の余波が宰相府に降りかかってくる。皇帝に近しい者はさもありなんと居丈高に、下に属する者は密かな不服を宰相に申し立てる。現在、カノンを通じて密偵を送り込ませ、父シャルルには足繁く通う場所があることがわかってきた。
『だが、度々北ブリタニアの方へ視察と称して通っていらっしゃる』
「新しい皇妃の候補でも見つけたのではないの? ……と、普通の人なら思うわね。北ブリタニアには先史都市カホキアがあった。そこには遺跡が……無論そこも天領以内の場所に指定されている」
ティラナはとうに推測済みだったようだ。シュナイゼルの顔に笑みが咲きこぼれる。
「ここで一つの仮説が立つ。占領制度を敷く各国に必ず一つ天領が存在するの。例外は――うちの国と、エリア十一は天領指定されていない」
『……天領の要件を満たしていないと考えられるね』
そこで何かに気づいて、はっとしたティラナの瞳の瞳孔が見開かれる。
「……ひょっとすると、私たちの政略結婚も、……初めからそのつもりだった可能性があるわ」
『そのつもり……つまり、結婚を通じて神殿を獲得する狙いが?』
「一〇〇パーセントそうとは、言い切れない。……だけど、そうだとしたら、なぜこの結婚を認めないことにしたの? それれがわからないの。手に入れる目前まできて、辞めるだなんて、ブリタニア皇帝らしくないでしょう?」
世界を蹂躙する覇者。迷うことなく欲しいものは奪い取るだろう。――それをしなかった≠フだ。
『……いいや。……政略結婚を敢行させてまで手に入れなくとも、問題ないと判断したのでは?』
問題ない――、ティラナはその意図に気づき、あからさまに頬を膨らませた。
「なによそれ。私が大したことない扱いということ? 相手が相手といえど不敬よ! 失礼しちゃうわね! どのみち……エリア十一に行けばなにかわかるはずよ。同じ天領指定を免れている地、きっとヒントがある。以前は――」
『……ティラナ?』
言葉を見失うティラナにシュナイゼルは名を呼んだ。
記憶の復元を試みて、額に指をあて肘をつく。灰色の靄がこびりついた記憶は相変わらずだったが、何度も同じ経験をしていると、作為的かどうか判るようになってくる。不自然な記憶と意識の散逸。――式根島から神根島へ移動したあと。そのあとから、いつも不鮮明に途切れ途切れの残像が浮かぶ。鮮やかな海、浜辺の白。洞窟。真っ暗な洞窟の――奥。
「記憶がおかしくなったのは、その神根島のあたり……。……ねえ、もしもの話よ。もし……その場所に、あなたのお父様の腹心が待ち構えていたとして、私におかしなことを仕掛けたとしたら……?」
『……記憶を消された、ということかい?』
「はじめてではないでしょう。私は。何度も同じ目に遭ってきた……本当に学習しないわよね。……あの男が、催眠術を……繰り返し、何度もかけて、私の人生を狂わせてきた」
あの男は死んだ。
一年前、絞首台にぶら下がって。償いもなしに。あの男の――ひとりぶんの命が消えるだけで、取り返されるものなど皆無だ。
「あの男と同じ、不思議な力を持つ人物がいて、私に力を行使した?」
指先に触れたグラスの冷たさが、急激に全身を駆け巡る。かつて叔父アルディックがその身に宿し、己の精神を自在に侵した『ギアス』という名を持つ、不吉な超常の力。
もしや神根島で出会った何者かもまた、シャルル皇帝の意の下で己の記憶を書き換えたのではないか。悪寒が、砂漠の熱気を吹き飛ばすように背骨を駆け抜けた。
「……その数ヶ月後でしょう。通知が届いたのは」
ティラナの声は不吉な予感から、次第に暗く冷たくなっていく。
「――力を行使した者と、あなたのお父様が仲間の可能性はある? 疑いすぎ?」
画面の向こうで、シュナイゼルは表情一つ変えずに静寂を守っていた。
未明の空色の奥に蠢くのは、父シャルルという存在に対する底知れぬ疑惑と『天領』に対する異常な執着、そして自分たちの結婚の延期――点が繋がり、線となって一つの恐ろしい図形を描き出そうとしている。
「神根島にいけば、思い出せるはずなの」
声が微かに掠れた。
奪われた記憶の水底には、触れてはならない神聖にして禁忌の領域が存在する。そこへ踏み込むことは、皇帝シャルルとの全面対決を意味し、ブリタニアとカストラリアの危うい均衡を根底から破壊しかねない。
「……怖い?」
『怖い?』
「あなたは、私に思い出して欲しくなさそうだもの」
『そんなことはない。心配しているだけだよ』
――心配。
何度も、シュナイゼルが口にしてきた言葉だ。ティラナ以上に、ティラナ自身のことを熟知していると誇るように。もはや――正常な関係値ではない。彼を喪失すれば、ティラナの知らない、思い出すこともかなわない、ティラナの存在も消失する。
鼻腔の奥で涙の香を拾う。胸の中心でドクリと嫌な音と共に脈打つ鼓動。
「神根島の調査は、危険かしら? 引き下がるべき?」
『私に任せて。護衛を出すよ。それなら大丈夫だろう?』
一度決めたことを曲げないのをシュナイゼルは知っている。
それに――そのまま黙り込むことは、義父の目論見通りで気に食わなかった。
いくつかの推測が、束となって行き着く先の、ひとつの仮定された真実。
「……やっぱり、……結婚のお許しが出なかったのは、私のせいってことになるわよね? 秘密の場所に立ち入ったから、怒らせてしまったのだわ。それとも、やっぱり、……長年の……堪忍袋の緒が切れたから?」
はくり、と。喉全体が震える。
過ちを、認めなければ。失敗を。自らの選択の敗北を。
『気に病むことは無い。大人気が無いのは父上の方さ』
まだ取り返せる――。
優しい言葉が胸に沁みる。冷気を振払い、肩から肌触りのよい毛皮のコートを掛けられたかのような安心感。希望を見出すための勇気を促す特効薬。しかし――これまでに得るはずだった未来が、この両手にない絶望感を癒やすには足りない。
ティラナは、やんわりとはにかむのが精一杯だった。
遺跡の調査など、結婚に比べれてみれば、どれほど重要なことだっただろうか。大掛かりな野心と反抗心を燻らせ、望んでもいないバッシングや、満たされぬ寂しさに、枕を濡らす夜を数えることもなかった。
――寂しい。
そう口にすれば、彼は計画の完遂を思い出せて、一時的な混乱と衝動からくる気持ちを慰めるだろう。
――寂しい。戻ってきて。
そこまで明らかにすれば、念押しの確認をし、さらなる嘆願を引き出す。
――そばにいて。
そうすると、彼は無言の微笑を傾け、通信を切り、十時間後にはこの部屋の扉を叩くだろう。
駆け引きなどを捨てて、悔恨への慰撫を求めて縋りつく。
子供の泣き声が耳奥でこだまする。それは、息子の泣き声ではなかった。
中東の一部エリアの陥落に貢献した帝国第二皇女コーネリアが、エリア十一の地に足を着けた。
前総督第三皇子の死から約半月を過ぎ、連日地下に潜伏していた反政府勢力が各地で活発化している。ブリタニア帝国のエリア拡大における最前線――ともに、戦争の大本命であり、長年睨み合うE.U.との攻防が繰り広げられている、中東から北アフリカにかけての第一線での活躍の最中。やむを得ず尾の方向に後退する羽目となったコーネリアは、承服したものの些か腹の据わりが悪かった。
前線から引き戻されたことではない。――着任に至るまでの連日の報道。軍部と行政の混乱。組織内での衝突。宗主国としての威厳も、統率力も、何もかもが二流、三流である。成熟した経済国家を取りまとめることに胡座をかき、私腹を肥やす者までいるときく。
――クロヴィスには、向かない仕事だったようだ。
政治にはもっとも程遠い才覚を持っていた。芸術や商業の方に秀でていた。なによりも、兄弟想いの優しい子であった。
――『私がエリア十一に……? ――拝命いたします。兄上』
――『即答だね。いいのかい?』
――『……私以外に適任者はいないでしょう。……なにより、兄上の采配です』
――『私の采配で、クロヴィスは結果的に死んでしまった』
優しげな声のなかにある、ひやりとした無機質な感触に、コーネリアは一日違いで生まれた兄の悲しみを見出した。
――『しかし、長とはそういうものだ。同じ父の血をひく兄弟であっても。帝国を支えること、益をもたらすことが、私たちの仕事だ』
――『はい。兄上』
シュナイゼルの言葉の端々に、決して底を見せぬ何かを秘めている――。帝国の安寧と発展という大義のもと、私≠犠牲に邁進する兄の背を頼りにする弟妹は数多くいる。無論、コーネリアもその一人であった。
――『頼めるかな。コーネリア』
――『私は、私の職責を全うします。そして、後任に我が妹、ユーフェミアを推挙します』
――『そうだね。上手くいけば。彼女の方がこのエリアに向いているだろう』
まだ無垢な蕾のままであるユーフェミアを政略の最前線に引き出すことへの逡巡。だが、過酷な極東の地で己の手元に置くことこそが、最も確実な保護にもなる。コーネリアは己の胸に宿る情を押し殺し、武人としての顔を固めた。
政庁のヘリポート。着艦した航空艦から降りた先には、一足先にエリア十一入りを果たしていた妹のユーフェミアが佇んでいる。
日中に護衛を撒き、租界中を散策し、危険区域であるシンジュクゲットーにも立ち入ったと報告を受けていた。その矢先、純血派のナイトメアを駆動した内ゲバを収めたとも。
「聞いたぞ、ユーフェミア。あまり無茶はするな」
「申し訳ありません。お姉様。しかし……」
「ここでは総督と呼べ、ユーフェミア副総督! 実の兄弟であればこそ、けじめが必要だ」
「はい。わかりました」
つい先日までは学生生活を満喫していた少女である。コーネリアのように士官学校の経験もなく、上下関係や公私の分別も曖昧では、示しがつかない。
「うん。で、そちの話だが」
「はっ、政庁にて皇女殿下の歓迎の準備が整っておりますので……」
事務官が居直り、コーネリアにその後の予定を告げる否や、ブリタニアの魔女は、装飾的な護身銃をまっすぐに突きつけた。まさか銃口を向けられるとは思わず「なっ」と声をあげた。
なんと悠長な戯れか。
「抜けている、呆けている、堕落している。……ゼロはどうした!? 帝国臣民の敵を捕まえろ! ゼロを!」