北風と太陽V







 極東――エリア十一。
 特別派遣嚮導技術部のトレーラー内部には、重苦しい諦念と無機質な機器の駆動音が満ちていた。
 モニターに映し出されているのは、本国およびエリア十一全土へ向けて生中継されている軍事法廷への護送映像である。
「他にやることある? 君だって知ってるでしょ、こういうケース。サミットであの人とも連絡が取れないし、もう諦めるしかないよ」
 科学者ロイド・アスプルンドは椅子に腰掛け、護送映像を注視している。隣に立つセシル・クルーミー中尉に向けての言葉には、彼らにとって最悪な状況を好転させる唯一の切り札が手中になく、ただ為すがまま事態を見守ることしかできない。
 沿道を埋め尽くすブリタニア人。彼らの視線は一直線、彼方の方に集中している。
『まもなくです。まもなく時間となります。ご覧ください、沿道を埋め尽くしたこの人だかりを! クロヴィス殿下殺害の容疑者、名誉ブリタニア人の枢木スザクが通るのを! 元イレヴン、今か今かと待ち構えているのです!』
見せしめのために拘束されたスザクが、屋根のないオープンカーに乗せられて路上へと引き出される。両手を鎖で縛られ、冷ややかな視線を浴びながらも、その瞳にはどこか自虐的な静けさが宿っていた。
『枢木容疑者です。枢木スザクがまもなくこちらに――』
 軍事裁判の法廷へと続く、逃げ場のない一直線の道のり。
 だがその時、画面の端を揺らぐ影があった。群衆のどよめきを切り裂き、軍の車列の真中央――道の真ん中に、黒き異形の衣を纏った男が突如として立ちはだかる。
 

 幾千キロメートルも離れた、スイス・ベルンの郊外。
 薄闇の残る豪奢な私邸の寝室では、外界の喧騒など届かぬ静寂が横たわっていた。肌を重ね合わせた後の甘やかな香りと熱気が、乱れたシーツの上に重く漂っている。
「なにか思い出したかい?」
 耳元で囁くのは、穏やかで低く心地よい声。シュナイゼルはベッドの上で添い寝しながら、手繰り寄せた彼女のブルネットの髪にそっと指を滑らせた。
「……思い出したって、なんのこと?」
「先日倒れただろう。……私には言えないことかな」
 どこまでも優しく、けれどすべてを見透かすような青紫の瞳が、至近距離でティラナの顔を見つめている。彼女はわずかに視線を泳がせ、シュナイゼルの広い胸に小さく顔をうずめた。
「……怖くなったの」
「うん?」
「あなたが死んでしまったらと想像したら、怖くなってしまった」
 偽りのない本音だった。シュナイゼルは一瞬だけ瞳を和らげ、抱き寄せる腕に力を込めた。
「クロヴィスのことで、心が揺らいでしまったんだね。……大丈夫だよ。私は簡単に死んだりしないさ」
 シュナイゼルは彼女の首筋に顔を埋め、痛みを撫でるように、啄むキスを落としていく。ティラナの目尻からポロリと一筋の涙が零れ落ち、彼の柔らかく美しい金の毛束に吸着して消えた。
「……ティラナ」
 名前を呼ばれ、胸の苦しさに顔を持ち上げようとすると、すぐさま唇を塞がれ、呼吸を奪われた。
 深く、深く交わる熱。舌と唾液が混ざり、ぬめついたところに先ほどまで異物だった存在が、再び馴染もうと這入り込んでくる。白く華奢な彼女の喉が、ひくりと動いた。
「――すべて上手くいくよ。……そのための交渉。宥和政策と移住計画だ。見せかけの支配……貴女の計画通りに……、段階的に帝国を縮小していける」
 耳元で語られる言葉は、国家の命運を左右する政治の話でありながら、驚くほど平静そのものである。だが、それを紡ぐ肉体は、実態は泥濘み、爛れるように情熱が奔流している。
 言葉は平静そのものなのに、肉体は、実態は泥濘み、爛れている。
「……私がおばあちゃんになるまでには……終わるかしら?」
「終わるよ。私が終わらせる。……貴女のもとにたどり着けるように」
 シュナイゼルの背中が興奮で跳ねた。
 熱気は頂上まで駆け上り、全身が光そのものになったかのように、カッと熱くなる。
「……は、あぁ……!」
 耽溺の甘やかな吐息。媚肉を弾く淫らな音。掠れる力み。熱に震える腰と、腹の中に噴出す飛沫。打ち震える肩と背に伝う鼓動。
「……――は」
 お互いの存在のすべてに夢中になり、もはや言葉ではなく、筋肉の収縮や、滲む汗、身体が雄弁に愛を物語っている。
 ゆるゆると腰を引いて、最奥の内側にひっかかりを擦りつけるのが彼の癖である。癖を知り、癖を愛し、待ち遠しいと感じることこそが――セックスの醍醐味だろうとティラナは考える。
 クーデターで、父と母を喪った身でありながら、その夫たる男に帝国への裏切りとにクーデターを焚きつけるなんて。
 なんと卑しい毒婦だろうか。
「嫌な女だわ。……マクベス夫人のよう」
吐息まじりに漏れた自嘲。虚を衝かれたように、シュナイゼルは瞳を丸くした。
「ううん……。ごめんなさい。今のは忘れて」
「いいや……」
 シュナイゼルは表情を一旦消し、より深い笑みを浮かべた。そして彼女の身体へ、さらなる愛情と執心のキスを雨のように降らせていく。
「帝国が、帝国である限り……気が休まらないわね」
 王の絶対的な権力を削ぎ落とし、国家を安定させる。持続可能な国家、適正規模まで権力と領土を縮小し、立憲体制への移行を目指す。これこそがティラナの真の野望であり、無謀なまでに強大な帝国への反抗であった。
 助けられた恩を仇で返す行為。自覚はあった。だが、旧来の条約は踏みにじられ、大切なものは奪われ続けている。
 ――私が愛する夫は、私が解体しようとしている帝国の宰相である。
 これ以上、家族を奪われたくなかった。この男の命だけは、絶対に守り抜かなければ。

 気がつけば、明け方の空が薄っすらと白んでいた。その色は、すぐ隣にいるひとの瞳の色――澄んだ夜明けの色。ティラナが一睡もできずに見つめていると、やがてその美しい色は彼の穏やかな瞼の奥へと隠れていった。
 静寂を紛らわせるように、何気なく点けたテレビは、ある男の話題一色に染まっていた。
 クロヴィス殺しの犯人、枢木スザクの軍事法廷への護送中に起きた盛大な事件。
ジェレミア代理執政官と対峙する彼方――ブリタニア帝国旗が下がる車。クロヴィスの御料車である。
正体不明の漆黒のマント、頭部全体を覆い隠す不審な仮面の人物。彼は自身を『ゼロ』と名乗った。
 『私は、ゼロ』
 テロリストにしてはあまりにも大胆不敵。ショーにしてはあまりにも茶番すぎる登場。
 だが、その男は全世界を揺るがすさらなる衝撃的な告白を重ねてみせた。
 『クロヴィスを殺したのは……この私だ!』
 『ゼロ』は自らが、クロヴィスを手をかけたと、真犯人だと名乗り出たのだ。
 ゼロは枢木スザクの身柄を要求した。仮面の男『ゼロ』は怪しげな機械装置を公開してみせることで、対峙していたジェレミア代理執政官を狂乱に近い動揺へと追い込み、一切の反撃を許さずにスザクを連れ去ってみせたのだ。
 ――なぜ、『ゼロ』が男であると断定できるのか。
 テレビを食い入るように見つめながら、ティラナの頭脳は冷静に画像を分析していた。
 マントのなびき方、歩く際のスライド、何より骨盤の幅とウエストの位置。身体の極端な薄さ。解剖学に精通している彼女から見れば、あの仮面の下の人物が若い男性であることは、疑いようのない事実として自然と腑に落ちる。
『仮面の人物に攫われた枢木スザク容疑者の身柄が確保されました。繰り返します――』
 キャスターの緊張した声がニュースを繋ぐ。
『しかし、元々殺害容疑も根拠が曖昧になってきましたし――枢木一等兵、これは無罪放免の可能性が……』
 ニュース報道は、事件の結末とその裏にある不透明さを報じ続けている。
 クロヴィス殺害に関しては証拠不十分であり、彼は無罪となるだろう。だが――父・枢木ゲンブを殺害したのは、紛れもなくスザク本人なのだ。それは、彼が容疑者として連行される報道を視聴したときに思い出したことだ。
「……どうして、ブリタニア軍に入ったのかしら」
 画面に映る少年の姿を見つめ、ティラナはぽつりと呟いた。
 名誉ブリタニア人は公職にも就けるが、そういう意味ではない。
 同じ日本人を相手取って圧政を敷くブリタニア側へと就いた男。日本人の激しい反感を買っていることは言うまでもない。
 ある時期、枢木スザクは家出を決行し、かつて結ばれていた皇神楽耶との婚約も自然消滅に近い破棄となり、半ば勘当される形となり、少年の最終着地点が、ブリタニア軍への入隊だった。
 ――逃避……?
 覆せないほどの罪を背負ったとき、人が向かう先を――ティラナは知っている。
 自分の行いは正しかったのだと、正当化するために。屈辱的な扱いを受けると理解していても。
 耳に一際大きな音声が突き刺さり、思考が霧散する。
 態度を急変させたジェレミア代理執政官による、奇妙な逃亡幇助劇。
 彼は純血派だといわれているが――名誉ブリタニア人の一等兵でしかない枢木スザクに罪を着せることが却って、名誉ブリタニア人を軍に入れたことでその事件を引き起こしてしまったと、ブリタニア軍の警備や統制、セキュリティがいかに失格レベルでザルかを暴露してしまっている。
 つまりは、ナンバーズ制の穴を示していることになるが――純血派はそれで支持を得られると判断し、護送中継を行っている。自己矛盾に片腹痛い話である。
 報道映像から切り替わり、賑やかなワイドショーが続く。
 一時は致死性のガスが散布された、という情報もあったが、混乱に陥れる一時的なデマだと否定された。
 ――呵責……罪悪感が、駆り立てた?
 大柄の男が床に尻をつけ、刃物を腹に刺したまま事切れている姿が脳裏に過る。想像の画ではない。あの夏の、枢木の家で。この目でにしている。
 ――その後、『わたし』は少年に何をした?
 罪を引き受けようと、ナイフの柄についた指紋を拭った。
 ――それで、彼が救われるとでも?
 胸が疼く。罪悪感の種から芽が出て、心臓のまわりをぐるぐると蔓を巻き付けていく。
 慰めにもならない、自己憐憫を優しさにすり替えて、毒を流し込んで。
 自分を罰するように、死に場所を探すようにして牙を剥くブリタニアの懐へ飛び込んだ少年の歪な影に、ティラナはどこか冷ややかで、けれど深い哀切を含んだ溜息を漏らすのだった。



「枢木スザク――」
 寝覚めには耳にするのも忌避したい、件の少年の名前から始まった。
 彼女の視線の先にはテレビモニターがあり、煌々と白い画面の光がチラつく。衛星放送の中継はエリア十一の報道をそのまま伝えている。
 浅い眠りの合間に、なにが起きたのか。――報道はエリア十一のもので、ほんの数日前に起きた、謎の黒い覆面の人物の登場と、クロヴィス殺害容疑がかけられていた枢木スザクの拉致の一部始終が取り沙汰されている。
 ベッドの上。生まれたままの姿で膝を抱える妻の表情は、波打つ長い髪に隠れて見えない。
「ティラナ」
 呼びかけると、びくと肩が跳ねた。
「……起こしちゃった?」
「少しね」
 髪の隙間から覗く半面は、どこか苦しげな表情であり、シュナイゼルの関知しないものが由来だとすぐにわかった。
 もしも、『辛い』と一言でも彼女が言えば、すぐにでもそれを忘れさせよう。
 シュナイゼルは薄手のブランケットを除け、身を起こすと、冷たくなった身体を後ろからそっと抱きすくめた。
「……枢木スザクは、本当に殺していないと言い切れるかな」
 テレビモニターを見据えたまま静かに呟くティラナの耳元で、シュナイゼルは囁くように問いかける。
「……セオリー通りなら、スパイを疑うべきだけれど、それをみすみす許していたのはブリタニア軍よ。身から出た錆」
「……耳が痛いよ。その話は何度か本国の会議でも上った。名誉ブリタニア人制度が抜け穴となり、間諜者を招き入れるリスクをね。しかし、帝国のイデオロギーは人種や国家を規定せず、実力を肯定し、チャンスを与える」
「たとえ本人が公人でなくとも、元首相の子供よ。憎悪や復讐心を抱え込んでいる可能性だってある。早々に保護しなかったことに問題があるわ」
 シュナイゼルは抱きしめる腕に優しく力を込め、彼女のうなじに愛おしげに顔を寄せた。彼女がこれほどまでに特定の名誉ブリタニア人に固執し、その背景に心を痛めている理由は、表向きの政治的分析だけではないと彼は感覚的に見抜いている。だが、あえてその暗部に触れて追及することはせず、彼女の不安をひとつずつ紐解くように言葉を重ねた。
「彼は……たしか、家出をしてから消息が掴めなかったはずだ。貴女の話ではね」
「そう。それは、ブリタニアも日本側も原因をつくっている。だけど、ケースバイケースよ。水際対策を怠っていることを……世間に露見している」
「わかったよ。……では、監視をさせることにする」
 あまりにもあっけらかんとした、けれど絶対的な権力を感じさせる決定に、ティラナはシュナイゼルの腕の中でゆっくりと顔を上げた。
「監視……?」
 その琥珀色の瞳には、動揺とわずかな疑問が揺らめいている。シュナイゼルは微笑を絶やさず、彼女の華奢な背筋を指先で優しく撫で上げた。
「この新たに登場した覆面の者は、名誉ブリタニア人である枢木一等兵を拉致した。接触がある。枢木一等兵はその後すぐに軍事裁判に戻ってきているが……ゼロ≠ニ自称する人物が登場したからといって、殺害や内通者がいる疑惑を晴らしたことにはならないだろう。軍籍抹消――も考えつくが、野放しにする方が却って危険だ」
 彼の語り口はどこまでも穏やかだが、そこには帝国宰相としての冷徹な統制と、目の前の妻の不安を取り除こうとする甘やかな庇護欲が混ざり合っていた。
「監視って、どうするの?」
「私の直属部門がエリア十一に派遣してある。……そこに受け皿になるよう話を通しておく。これでいいかい?」
 ロイド・アスプルンド率いる特別派遣嚮導技術部――特派のことである。開発中の特殊兵器(ランスロット)のデータを収集するためのパイロットとしてスザクを組み込めば、彼の身柄は完全にシュナイゼルの直轄管理下に置かれる。軍からの嫌がらせや処刑の危険から遠ざけると同時に、ゼロとの接触の有無を常時監視できる完璧な手立てであった。
「ありがとう。シュナイゼル」
 胸の奥に渦巻いていた重い暗雲が少しだけ晴れたように、ティラナは満足そうに微笑むと、彼の胸元へとすり寄るように身を委ねた。彼女自身が過去に侵した罪と、スザクに対する複雑な情念の全てを消し去ることはできずとも、彼がシュナイゼルの庇護と監視の下に置かれることで、最悪の自爆行為は防げるのだというささやかな安堵を得る。
「もう少し眠ろう。ぐっすりとね」
 シュナイゼルは彼女の頭をそっと胸元に抱き込み、額に優しいキスを落とした。そのまま、ベッドに倒れ込むとふわりと髪が絡み合う。
 薄桃色に染まり始めたスイスの朝光が、カーテンの隙間から密室へと滑り込み、重なり合う二人の肌を暖かく照らし出していく。政治の泥沼と過去の傷痕から逃れるように、二人は再び静かな睡魔の底へと沈み込んでいった。





 ベルン郊外。その辺一帯が富裕層の別荘が建ち並び、小さな街一つ分を占めているエリアは、心なしか風のにおいも、どこか異なる気配がした。
 中産階級出身の男には別荘を持つのが精一杯の世界だが、彼らにとって別荘は習慣であり日常の延長線上にあるツールである。そう、彼らは初めから持っている≠フだ。父は弁護士。母は教職者。さらに家系図を遡れば手堅い家系である。そこから、異色の経歴を持つ政治家が誕生した。その男はやがて国を率いる首相となった。王政廃止を受け入れた国家の一つ――旧貴族出身が幅を利かせる議会で舌とペンが首相――ベルナルディの味方だった。

 重厚なオーク材のドアに閉ざされた瞬間、招かれた男は己の皮膚がしびれるような錯覚に襲われた。
 思わず身が竦み、胸の疼痛を抑える薬を飲み忘れていたのではないかと、一気に心配が駆け巡る。そしてつい先ほど摘まんだばかりの軽食を摂ったあとに服薬したことを思い出して、気のせいだと不安を打ち消す。
 スーツの襟を正し、ベストやカフスの状態を今一度確認すると、両開きの扉はふたりの侍従によって開け放たれた。
「失礼致します。シュナイゼル殿下。私にお話しというのは……」
一国の首相たる男の足が、絨毯の上で凍りついている。視線の先にいたのは、世界の三分の一を支配する帝国の最高権力者だけではなかったからだ。
「ヴィ、ヴィルヘルム皇太子殿下まで……。これはいったい……?」
 幼児に金髪の白人を描かせたとき、どんな子供であってもはっきりとそう描くほどの明るい金髪と碧い瞳の男が、煙草を灰を灰皿に落としたばかりであった。
 あっけにとられるベルナルディ首相に声をかけたのは、公の場で目にする礼装ではなく、いたってシンプルなシャツにサマーベスト、スラックスの装いの目的の人物。こざっぱりとした軽装であっても、長身と優れた容姿が人目を惹きつける。帝国宰相――シュナイゼル・エル・ブリタニアであった。一人がけソファに掛けて、彼は首相に着席を促した。
「どうぞ、そちらに掛けてください。今日は少し暑いですから、アイスティーを召し上がりますか?」
「ああ……その、お構いなく」
「ルイボスティーがいいかな」
 なにげの無い言葉ひとつ。まるですべてを見通しているかのように感じて、はっと息を吞んだ。
 何の用もなく呼び立てられるはずもなく。こういった場が、何を意味するのかを知らぬほど青二才はとうに通り越している。ベルナルディは勧めに従い、下座の位置にあるソファに腰掛けた。
 欧州の位置しながら独立を維持する国の皇太子。歴史を紐解けば、カストラリアの支援がなければE.U.に組み込まれていたであろう。そして、現在その国の女王との愛人を噂されている人物である。しかしどうして、その彼が、いわば敵対関係≠ノなりそうな男と同じ密室で寛いでいるのか。詮索を深める眼差しに、ヴィルヘルムは喉を鳴らして笑い、そのせいで吐き出される紫煙が不規則な形で立ち上った。
「失敬。こうして袋小路の鼠になった者は、一様に面白い顔をする」
 シュナイゼルが彼の代名詞といわれる微笑みを湛えて、ヴィルヘルムを一瞥し、男を安心させる言葉をかけた。
「そう怯えることはありません。幸先の良い話を提示するだけです。世界平和のために」
至極当然のことのように現れた言葉。
「世界平和?」
 おかしい話だ。なにせ、世界地図を塗り潰さんと領土拡大に余念がない帝国の宰相がこの場にいるではないか。
 どの口でそのような言葉を囁くのか。甘言に耳を貸すものか。唇は食いしばるように引かれ、目は鋭い。一刻も早くこの不気味な話を切り上げて、密室から立ち去りたいという本音が全身から漏れ出ていた。
「当件は私が発案者ではありません。……よく眠れたかい?」
 シュナイゼルがふと、ネイビースーツの肩の向こう。出入り口の扉の方に視線を向けた。「なっ……」と思わず声をあげ、振り返ると、そこにはマスタードカラーのカーディガンを羽織る、一人の女性が姿を現すなり、美丈夫に対して声を張り上げた。
「なんで起こしてくれなかったのよ!? もうお昼過ぎじゃない!」
「何度か声をかけたよ。ぐっすりと気持ちよさそうに眠っていたから、これ以上起こすのも可哀想だと思ってね。私なりの気遣いだよ」
「なにが気遣いよ。そういうときは特権を使ってでも起こすの」
「私に、妻に手を上げる夫であれというのかい?」
 軽妙で甘やかな夫婦の会話。目を白黒させる首相を前に、ティラナは「ごきげんよう、閣下」と挨拶をした。
 意表をつかれ二、三の間を開けて深い礼に恭じるベルナルディは、信じられないような目つきで三者を眺め見た。帝国の宰相、ドイツ皇太子、カストラリアの女王。この不可解で甘美な関係性はいったい何なのか。話題の三名。三拍子揃いだ。
「ゴシップをご覧になっていますか?」
「え?」
「人は皆、噂好きですからね。しかし、それらがすべて真実である保証はなく――作られた話だとしたら?」
 シュナイゼルは静かに指を組むと、毒を含んだ本論を切り出した。彼の左手薬指には、結婚指環がある。つまりは――世間を欺く嘘の裏側を、ベルナルディは知ってしまった。
「一定期間ブリタニアの支配を受け入れるかわり、時期が来次第、植民地から独立をする。簡単な順番です」
 耳を疑う計画だ。『一時的に支配を受け入れれば、後で独立させてあげる』などというが、甘い言葉で自国を無血開城させ、後で舌の根も乾かぬうちに傀儡化・奴隷化する罠に決まっている――といった疑いが真っ先に来る。
 また、その言葉が真に実であったとしても――、それを帝国の実務家が国家転覆を目的にしているということになる。
 では、なぜ、そうするに至ったのか――。
「それは――! シュナイゼル殿下、貴方という方は……、それを、売国奴というのですぞ!? 私の立場から申し上げることではございませぬが、あえて口にしたい。貴方様は、そこな女性に化かされておいでだ!」
「承知していますよ」
 うろたえもせず、微塵の動揺も見せずに肯定するシュナイゼルに、ベルナルディの背筋を冷や汗が伝う。
「多くの国民を、民衆を人質に晒している。こんなことが――許されてよいものか!?」
「では、ブリタニアの脅威に晒され、経済制裁で立ち行かぬまま、E.U.共々共倒れすることが貴殿の望みだと?」
 シュナイゼルの穏やかな声が、氷のように室内の熱を奪う。
「くっ……それは……」
 呻く首相に対して、「貴殿をお助けしたいだけですよ。かつて盟友であったあなたの国が、このまま泥船に沈みゆくのを見ていられないと……彼の熱い要望に私も応じなければと、思い立ちましてね」
 ちらりとヴィルヘルムに目線を配り、さらに愛国心を刺激する言葉が続く。
「それに――私一個人の意思で、帝国の指針と軍勢を止めることは不可能です。もし、仮に宰相である私の、私心を公にすればどうなるか。帝国内の内紛と、過激派の台頭を招き、世界をさらなる混沌に巻き込むでしょう。羽翼既成の情況です。貴公に退路はありません。――ご理解いただけますね?」
 宰相としての全権を背景にした、優雅で絶対的な脅迫。ベルナルディは息を詰まらせ、拳を握りしめた。
「そ、それは――殿下、ご自身がなにを仰っているか、今一度胸に手を当ててお考えください」
「事実上のクーデターだ、と言いたいんだろう?」ヴィルヘルムが煙草の煙を吐き出し、核心を衝いた。
ヴィルヘルムが紫煙をくゆらせ、苛立ちを隠さずに核心を衝いた。その鋭い視線に、ベルナルディは言葉を失う。
「首相。内政干渉をしたいのであれば、ご協力ください。さすれば、上申としてあなたの諫言にも耳を貸しましょう。それとも――この話を、中華連邦に売りますか?」
「私に、我が国に、国民に、そのクーデターを支持するようにとおっしゃるのですか」
 告発などできるはずがない。
「暴露なさいますか? おやりになるといい」
 ベルナルディ首相の脳裏には、たとえ特ダネとして他国やメディアに持ち込もうが、帝国の情報網によって即座にもみ消され、自らが消されるだけだという冷酷な現実が過る。
冷や汗を滲ませて、決して流れに足を掬われてはなるまいと必死に踏みとどまるベルナルディ首相に、ティラナは小突くように軽い声で言った。
「ですが閣下。四〇人委員会が『ブリタニア宰相およびカストラリア女王と密室で交渉を持ったあなた』を信じるかしら? すでにここへ足を運んだ時点で、あなたは本部から見れば寝返った内通者よ」
奸計の底知れなさに、首相の顔から血の気が引いた。自分がこの部屋に入った瞬間から、罠はすでに完成していたのだ。
「こんな話は……理想論です。殿下!」
 悲鳴に近い抵抗。それに対し、シュナイゼルは楽しそうに隣の妻へと視線を向けた。「こんな話は……理想論です。殿下!」
「……だ、そうだが。ここで陛下のお考えを聞こう」
「なんで私に振るのよ。……一朝一夕ですべてを遂行しようだなんて言ってないわ。長い期間を要する計画よ。我が国の特区を経由した優先的な資源供給と、自治権の段階的保障。これらを約束した上で、戦争をするよりは遙かにマシな最善策だと言っているの。――ご決断を、閣下」
 自国に落ちる利益と、確実に生き残るための解。提示された条件は、E.U.の理想主義よりも遥かに現実的で、魅惑的ですらあった。
 その時、沈黙の満ちる部屋に、不躾な電子音が響き渡った。ベルナルディ首相の上着のポケットで、携帯端末が激しく震えている。
「……出なさい。大事な電話のようだ」
 シュナイゼルが促すと、ベルナルディは「失礼します」と掠れた声で断り、震える手で端末を耳に当てた。
『――パパ!? パパなの!?』
 耳元のスピーカーから漏れたのは、半乱狂の、けれど歓喜に打ち震える娘の声だった。
『嘘みたい……本当だったのね! たった今、カストラリアの医療財団から極秘の医療チームが到着したの! あの子の難病に使える、開発されたばかり薬品の投与許可が下りたって……! ブリタニア本国の療養施設への移送手続きも、すべて全額無償で完了したのよ! ああ、神様……!』
『な……なんだと……?』
 愛娘のまるで高額の宝くじに当選したかのような、幸福に弾む声。病弱な孫の看病で長年働いた仕事を辞め、最近ではやつれきっていた。無邪気だった少女時代に立ち戻ったかのような声の明るさに、胸が熱く疼いた。
『あの子、助かるかもしれないの! 一体どんな手を使ったの!? ありがとう、パパ……っ!』
 涙ながらの感謝の言葉が続き、通信が切れた。
 ベルナルディの腕から力が抜け、端末が絨毯の上へ滑り落ちそうになる。
 自国を救うための政治的口実。E.U.本部からの孤立という絶望。そして、現代医学では不治とされ、諦めかけていた最愛の孫の命――。
 政治家としての理性、国家への責任、そして一人の人間としての情愛。そのすべてが、完璧な計算のもとに先回りされ、救済という名の鎖で縛り上げられていた。
 穏やかな笑みを崩さぬまま、シュナイゼルは静かに紅茶入りグラスを置いた。ティラナはただ静かに、全てを悟った男の顔を見つめている。
「……最初から……こうするおつもりだったのですね」
 絶望と、抗いがたい救済の熱に打たれ、ベルナルディは力なく膝を折るようにして椅子に深く沈み込んだ。
「さて、閣下。……仕切り直しの乾杯をしようか」
 シュナイゼルの心地よい低音が、完全なる降伏を受け入れるように、静かな室内に響き渡った。




 E.U.サミットの期間のうちに、極東ではゼロと名乗る男が現れてから、地下潜伏していたテログループが活発化していた。各地で大々的な戦闘や強盗行為が繰り広げられていた。ブリタニアは現地での統率力を喪失。組織と行政の連携は著しく滞り、事実上混乱状態に陥っていた。

 新緑の眩しい庭から、幼い子供の無邪気にはしゃぐ声がリビングルームの窓を揺らして届く。
このアルテスラントの別荘の敷地内を取り囲むように、幾人ものパパラッチが張り込んでいたが、つい一時間前、シュナイゼルが手を回した私服警察官によって綺麗に連れ去られたところだ。
 妨害者の消えた庭園で束の間の安息を得たというのに、ティラナはリビングルームのソファに腰掛けたまま、テレビに映し出される極東の報道ばかりを気にしていた。新たな亀裂になるかもしれない――と憂いを宿した眼差しで。


 a.t.b.二〇一七 May
 ドイツ アルテスラント


 ベルン、モントルーでの交渉を含めたサミット期間を終えたシュナイゼルが、旅路の最後に立ち寄ったのは、ヴィルヘルムからティラナに贈られた、ドイツのアルテスラントにある別荘であった。
庭でルークを抱き上げている。
 陽光が降り注ぐ、庭師の手入れの行き届いた芝生の上で、シュナイゼルは愛息のルークをそっと抱き上げて、庭園見物を楽しんでいた。
 夫と子の声につられて、リビングルームの窓から顔を覗かせたティラナの背後で、管理主であるセラフィナがおかわりの紅茶を淹れたところだった。「次はいつ会えるかわからないわね」とティラナが小さな声で呟く背後でセラフィナは、「知らない男の人には人見知りを発揮するけど、日頃の訓練の賜物でしょうかね」と呼びかけた。
「そうね。すぐにお父様だってわかったみたい」
 やがて、庭での父子水入らずの時間は終わりを告げた。
 シュナイゼルは手際よくルークを控えていたカノンへ預けると、優雅な足取りでテラスを上がり、リビングへ戻ってきた。それから、淹れられたばかりのティーカップを手に取り、ソファに腰を下ろしたのだった。
「早く戻ってきたけど、もういいの?」
「遊んでいたさ。段々とカノンの方ばかりに意識が向くんだよ」
 その言葉を聞いて、ティラナはちらと庭の方に目を遣り、カノンを追いかけ回すルークの後ろ姿を見た。
「親しみやすいのよ。カノンの方が。たぶんあの子は女性だと思ってるわ」
 カノンの細やかな気配りと柔らかい物腰は、幼い子供にとっても居心地が良いのだろう。
「それもあるだろうけど、社交辞令を覚えたんだよ。母親を喜ばせるために」
 裏を返せば、それだけ母親の気を引きたがっている証拠であった。日頃、公務と研究で多忙を極めるティラナの愛情を、幼いなりに感じ取り、健気に振る舞っているのだ。
 セラフィナはお茶の用意を終えると、ティラナに目で退室の合図をし、そのまま引き下がった。
「あなたの小さい頃もこうだったの?」
 窓辺に寄りかかったままティラナは尋ねた。
「どうだろうね。出会った頃のことを思い出してごらん」
「あら。四歳と九歳じゃ、だいぶお話が違うわ」
 ティラナは懐かしむように目を細めた。当時のシュナイゼルはすでに完成された子供≠ナあり、年相応の幼さなど欠片も見せていなかったのだから。
 一向にソファに座らないティラナを見かねて、シュナイゼルはゆっくりと窓辺に近づいた。
「私の母上に訊いてみるといい」
「ご遠慮願いたいところね。連絡を取ると、孫の教育方針にまで口を出してきそうな勢いだもの。あなたとルークの性格がまるっきり違うのは、半日過ごすだけでもわかるんだから」
 義母であるアーデリントには、数有る皇帝の子らのなかでも屈指の立身出世を果たした息子を持つ、母親としてのアドバンテージがある。カストラリアの王太子であるルークへ強い影響力を持ちたいと願うのは、彼女にとって当然の政治的野心であった。
 本来であれば、帝王学を授けるのは父親であるシュナイゼルか、あるいは母親としての仕事を全うできない女王に代わりその位置に就くティラナの母親の役目である。しかしその母が不在であるならば、これ幸いと『王太子の祖母』として何かと気にかけてくるのである。
 父親ではあるが日頃のコミュニケーション不足から、ほぼ他人同然のシュナイゼルが軽々に口を出すことも難しい状況であれば、さらにアーデリントの影響力は強まるだろう。
「……でもいいわ。さっきの件もあるし、お義母さまには可愛い孫のフォトムービーをプレゼントするわ」
 さっきの件とはパパラッチを連行したことだ。ルーヴェンフェルス家の力を頼りにするのは避けたいところだったが、背に腹はかえられない。
「ふふ。……母上に、メディア工作を手伝わせるのかい?」
「当然よ。社交界やメディアに強い影響力をお持ちですもの。義娘からのお願いは鼻につくでしょうけれど、可愛い初孫のためならどんなことだってするはずだもの」
「まったく恐ろしい人だね」
 言葉とは裏腹に、シュナイゼルはどこか満足そうに笑みを深めた。自らの実母の野心すらも手玉に取り、計算尽くで利用してみせるティラナの抜け目なさが、彼には心底愛おしい。
 しばしの静寂の後、ティラナは視線を静かにテレビの画面へと戻した。話題はどこも似たようなもので、相変わらず正体不明の人物についてのものばかりだ。和やかな家族の会話から、現実の問題点に話題が移ろいでいく。
「エリア十一の新総督の着任は明後日ね。次の総督はヘマが許されないわ」
「次期総督は適任者だと思うよ。」
「……待って。当ててみるわ……といっても、未成年と既に就任済みの皇族を除外すれば、当てずっぽうでも言い当てられるけれど」
 ティラナは細い顎に指を当て、帝国の血族たちの顔ぶれを脳内で素早く精査した。極東の混乱を力と威厳で抑え込める人物など、限られている。
「コーネリア?」
「はは。正解だ」
「ふふん。やっぱりね! 中東での活躍は恐れ入るわ」
「麗しき戦場の女神さ。それに、ユフィもね」
 ティラナは耳を疑った。
「……なんですって? ……あの娘はまだ学生でしょう。腕の立つコーネリアはともかく、ユーフェミアには時期尚早ではない?」
 あまりに不自然な人選に、ティラナの眉間に皺が寄せられた。未だ温室の温もりを知る少女を、あの混沌の渦中にあるエリア十一へ投げ込むなど、正気の沙汰とは思えなかったのだ。
「コーネリアは確かに優秀だよ。しかし、一人ではなかなか大変だろうから。……ユーフェミアにも了承を得ている。彼女にも、宗主国の皇族たる責務がある。彼女の仕事は総督の補佐だ。最初の仕事にはこれ以上無い配置だと考えているが」
 総督の補佐、つまりは副総督の任であり、補佐といえど手練れの秘書官がつく。よほどのヘマはしない見込みと設計を考案した上での人事配置だということだ。
「それに、彼女には留学経験がある。他の子らよりも柔軟だ。外国への関心と、現地人への配慮は統治精神の基礎を養う経験になったのではないかな。留学時のレポートを読んだことが決め手だった」
 武力と威圧的に押さえつけるコーネリアに対し、現地住民の民心掌握や緩衝材としてユーフェミアの『無垢な共感力』を利用する――シュナイゼルの計算を、ティラナは即座に理解した。
「素質があるのは認めているわ。父親の思想一辺倒に考え無しで従っている他の皇族よりも。……私たちの計画において、適任者よ」
 言葉では納得しているつもりだが、口をへの字に曲げ納得のいかない様子のティラナに、シュナイゼルはくすりと笑みを漏らした。
「ユフィのことになると、やけに肩を持つね。女王陛下のお気に入りなのかな。それとも……」
 シュナイゼルはそこで言葉を切り、琥珀色の瞳を悪戯っぽく覗き込んだ。
「若さに嫉妬しているっていいたいの? あなたもゴシップに踊らされるつもり?」
 不機嫌を隠さず、ティラナは言い放った。
「何も言っていないじゃないか」
「たった今言いかけたわ」
「話を最後まで聞いてから判断することだよ」
 ふいと顔を背けたティラナだったが、その胸中に渦巻く複雑な感情を隠しきれず、小さく息を吐き出した。
「若さに嫉妬しているんじゃないわ。若い時間に嫉妬しているのよ」
「おや」とシュナイゼルは目を丸くすると、面白そうに笑みを深めた。彼女の思わぬ告白に興味をそそられたようだ。
「……若いうちにしか出来ないこと、許されないことをみすみす逃して大人になるということは、負債を抱えるということなの。負債は他人に嘲笑される。一般人ならそれでも構わないわ。死んでしまえば忘れ去られるだけ。私はそれが引き継がれるのよ。百年も経てばさすがに諦めがつくけど、ルークが生きているうちに面白おかしく揶揄われ続けるのはイヤよ」
 かつて記憶を失い、自身の人生の正当な時間を奪われ、影武者や他人の仮面を被って生きることを強制されたティラナの過去。その空白と屈辱は、どれほど地位を取り戻そうとも消えることはない。
「親が他人の口で辱められているのは、イヤだったもの」
「ふうん」と、まるでまるで『そういうものか』と言いたげな相槌を打つ。どんなことであれ、他人に好き勝手に言わせておけば良いと割り切っているシュナイゼルにとって、彼女の未来の世評への懸念などは、路上に転がる石粒のようなものだ。
 シュナイゼルの様子から、然程のこととは思い至っていない、そう見切ったティラナは語気を強めた。
「まったくピンと来ていないようだけど、私の悪評をあの子が知ったらどうなると思う? 一〇〇パーセント、グレるに決まっているわ。社交界に出てみなさいな。隠し子だけでも問題だというのに、余計に傷つくのよ? 疑心暗鬼に陥って、よからぬ輩に甘言を信じるようになったら? ああもう最悪よ」
「悪い想像を膨らませすぎだよ」
 取り乱すティラナの肩を、シュナイゼルの静かな声がなだめる。しかしティラナの危惧は止まらない。
「大袈裟な話じゃないわ。隠し子を信じるか信じないか、まず初めに愛人との子供だって疑われるのよ?」
「親子関係の証明は十分可能だよ。私が認知すれば問題ない」
 シュナイゼルの提示する合理的な解決策すらも、ティラナの感情の棘を抜くことはできなかった。
「認知は重要だけれど、それ以前の話。普通は疑われないものよ。疑われることは、そのこと自体に傷つく。自信をなくすかもしれないわ。あの子は、未来の国王よ? 自分の問題ばかりに夢中になって、国のことを考えていける? あなたみたいに器用に割り切っていける子だと思えないわ。悪いところが母親に似ているんだもの」
『親と子ではあるが、他人だ』と口にしようとした言葉は、溢れ出す感情の渦の中、激しい熱が宿った彼女の瞳を見れば消え失せた。それは抑圧された過去と、奪われた己の青春に対する、根深い憤怒の残り火だった。
「……私は、あなたのお父様を恨んでいるわ。ご自身は好き勝手に生きて、私の人生の邪魔をしたんだから」
 シャルル・ジ・ブリタニアという絶対的な存在に対するストレートな呪詛。
 シュナイゼルは否定も肯定もしなかった。ただ、彼女の胸の奥で渦巻く反骨心に魅入られていた。焦げつくように熱く、強烈な感情の奔流。たとえシュナイゼル自身が、父親に対して同じような不満や冷ややかな諦観を抱いていたとしても、ここまでの生のエネルギーを放出することはできない。
 どこまでも合理的で無機質になりがちな自分の世界において、この激しさと脆さを併せ持つ女性の存在こそが、彼を繋ぎ止める最も鮮烈な熱源であった。シュナイゼルはただ穏やかに微笑みながら、胸中で激情を燃やすティラナの横顔を、深く愛おしむように見つめ続けていた。




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午前四時の異邦人
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