「遅くなってしまったわね」
独り言ともに薄いコートを羽織り、送迎用の馬車から降り立つと、草木と夜露が混じり合う田舎独特の夜の匂いが鼻腔を突いた。
通常業務を捌いたあとでも帝国宰相に仕える副官の仕事に終わりはない。特にカノン・マルディーニは、その主人を公私双方で支え続けている。さらりとした淡いブラウンの髪を軽く手で整え、カノンは手提げのトランクを握り直すと、宮殿の裏門へと続く静かな草原の道を歩み進めた。月明かりのない、影ばかりが主役を気取る漆黒の夜だった。
コートの内ポケットで、ブブッと端末が震えた。取り出して液晶画面を一瞥し、カノンはすぐさま緊急性はなさそうだと判断を下した。
側近としての職務のなかには、カストラリア王室との綿密な連絡と調整を担うことも含まれている。端末宛てに暗号通信は日に四度。それぞれの主人の行動記録や緻密な情報の共有が主だ。時に起床し、何を口にし、どこで誰と会い、何を決定したのか。彼らの私生活に秘密など存在しない。特に、カストラリア女王に関しては、微細な健康状態の報告項目までが義務づけられている。――なにより、その詳細な情報を誰よりも欲しているのは、他ならぬカノンの主人、シュナイゼルその人であった。
北ブリタニア、イリノイ。
別件の防諜捜査から戻り、主人の滞在するこの地へと到着した夜。短く甘やかな休息への道のりは遠く、カノンの前には依然として山のような仕事が残されていた。
不在中の時間別報告書をすべて読み終えた頃、滞在地であるグェンドリン宮殿の庭園では、夜の静けさの中で薔薇が満開の時を迎えていた。
明日の最初の公務に向けたの準備を整えたあと、カノンは執務室の窓辺に立ち、仄かなライトアップ光を受けて幻想的な輝きを放つ茨のアーチを、束の間の息抜きとして見下ろした。
その時、執務机の上から通信端末の電子アラームが静かに鳴り響いた。
――またか。
無機質なアラーム音を指先で切り、モニター画面に表示されている時刻を確認する。午前零時を回ったところだ。
呆れるよりも先に、長年の経験から身体が勝手に動き出す。カノンは手持ちの携帯から即座に別所にいる衛兵へと連絡を入れると、その夜、シュナイゼルが滞在している離宮の給仕人の制服に着替えた。
主人の呼び出しに応じて向かったのは、離宮の最奥にあるプライベートルーム。宮殿内の従者は既に夜勤へと交代しており、階段や廊下を固める警備人数は日中に比べて格段に少ない。
「失礼いたしますわ。ルームサービスでございます」
分厚いホワイトオークの扉を、控えめにトントンと叩く。
大抵の不審者はこの声に泡を食って慌てふためき、ゲストルームを飛び出していくものだ。しかし、今宵罠にかかった鼠の正体は、どうやら度し難い女狐のようであった。
すかさずマスターキーを読み取り部に翳し、重厚な扉のロックが外れる音がした。
クレア女帝時代に建てられた宮殿のその部屋は、あまりに豪勢な設えで、内装の随所に繁栄を象徴する金が惜しみなく用いられていた。しかし室内は暗く、一見すると人の気配すら感じられないような静寂が横たわっている。給仕人の格好で主人のピンチ――あるいは戯れに乗り込んだカノンは、迷いのない足取りでズカズカと奥の寝室へと進んだ。
大窓を隠すための重厚なカーテンは開け放たれており、ささやかな灯りさえもない新月の夜は、地上と深海を真っ逆さまに反転させたように暗い。
十分な広さを誇る豪奢な寝台の上。シュナイゼルの首筋に顔を埋めていたのは、見知らぬ女であった。
さらりと伸びた芯のあるブルネットの髪。体臭に混ざりこむ甘い薔薇の香。シュナイゼルはぼんやりと真上にある天蓋の幕を眺め、不動のまま退屈で無情に流れる時間に身を任せていた。その無関心さを取り払い、少しでも関心を引きつけようと、唇で首筋に愛撫を施す女が「殿下」と、人を陥れるために身につけた、婀娜っぽい声色でシュナイゼルを呼びかけた。
そこでシュナイゼルは薄らと笑みを取り戻した。日常の社交の場と寸分も変わらぬ穏やかな態度で、女を無理に振り払うことも、非難することもしない。
「とても上手だね」
美しい双眸が女を捉える。
この世界に生まれついた者の殆どは、写真や、データから印刷されるか電気信号の色彩で調整された、人工的な色味による再現でしか、窺い知れないペールカラーの青紫色。本物の瞳の色は、明るく、淡く、女が侵入する際に見掛けた庭園に咲いていた花のようだ。
――仕事とはいえ、虹彩の紋様を知るほどの距離にいる。またとない幸運。間諜の女は己の雇用主に少なからず感謝した。
「子供扱いなさるの? キスなんて――乳飲み子でもできますわ」
平等に与する微笑を深め、シュナイゼルは無言の返事をした。女は指先を彼の頬に滑らせると、身体の上に覆い被さり、その唇を強引に奪った。痕跡をその記憶に押し留めるべく。刻みつけるように。深々と。
その気になれば、男の力で容易に振り払えるはずなのに、シュナイゼルはそうしない。遠慮や親切からではない。女の魅力に溺れたからでもない。ただ助けが来るまでの無駄のない時間稼ぎだ。だからこそ、いずれこの甘美な時間にも終わりが訪れる。――女はそれまでの僅かな間、無防備を装う高貴な男を心ゆくまで味わい尽くそうとしていた。
「それとも。……稚拙な唇の戯れほどしか、ご経験がなくていらっしゃる……?」
女はシュナイゼルの手を掴むと、大きく襟ぐりの開いたところ、自身の丸い胸へと導いた。柔らかさ。芯の残る弾力。瑞々しい若さ。硬い蕾を解きほぐす期待と甘美な予感。興奮を駆り立てるには十分なはずだった――普通の男であったならば。
「殿下のお噂は耳にしておりますわ。……素っ裸になって踊る女を、一顧だにしなかったとか。……実は男色好みだと、専らの噂でしてよ」
おもしろい噂話だとでも言いたげに、微かにシュナイゼルの口角が上がり、その窪みの影が濃くなった。
「真実が知りたいかい?」
「ええ、殿下。とても。……学生時代はなんでも男子の寄宿舎で学ばれたとか。……そこで――ある少年と運命的な出会いを果たし……、恋に堕ちた」
女はうっとりと物語を紡ぐように囁き続ける。
「驚きました? 私、抜け目がありませんの。……わざわざ足で調査までした甲斐がありましたわ。その少年は殿下のお眼鏡に適ったとか。賢く、とびきり優秀で、雲のように掴み所が無く――彼を、心の拠り所にされていたのではありませんか?」
偽物の月の色が、反応を探るために覗き込んでいる。
「しかし、彼は煙のように消えてしまった。――男に焦がれる心身に生まれ変わってしまった。……結婚を有耶無耶にされているのは、その秘密が、あのカストラリアの女王陛下に露見してしまったから……?」
三文芝居の筋書きならば、大衆を賑わせる喜劇になっただろう。
シュナイゼルはくすりと笑い、胸を小さく揺らした。
「ふふふ。……面白い推理だね」
「面白いということは、当たり?」
自信ありげに女は尋ねるが、男は小首を傾げ否定した。
「……はは、……いいや? 及第点以下だよ」
評価を言い渡された女の顔から、さっと表情が打ち消される。それもすぐに元通りに、貼り付けた笑みが蘇る。
「己の浅薄な空想を事実と錯覚するのは、間諜として致命的な失策だよ。……物語を創るのは君の自由だが、その劇の幕引きを決めるのは君ではないんだ」
ほぼ酷評といっていいだろう。
楽しい会話を続けたいと思ったところで時間切れ。闇の向こうから気配が接近するのを察知した女は、退くために身を浮かせたところだった。
「そこな方。通報済みよ。ただちに退かなければ、そこで第一級規定により射殺する。両手を挙げ、投降しなさい」
背後に数十人以上の重武装した衛兵を従え、寝室に駆けつけたカノンが、軍制式拳銃を隙なく構えて鋭い警告を発した。
女は一瞬で形勢を悟り、シュナイゼルの上から身を引いた。「……お別れの時間が来た。それじゃあ。……名残惜しいけど。バーイ」
「お待ちなさい!」
カノンの叫びと同時に寝室の照明がパッと灯り、室内が白日に晒される。
その瞬間――窓の外に生えるマロニエの大木から、猿のように様子を窺う人影が、室内の光を受けて朧気に浮かび上がった。どこからでも沸いてくる悪質なパパラッチである。
シュナイゼルが自然とその方向へ視線を向けたのを、絶好の好機とばかりにカメラのフラッシュが数回焚かれた。男は身軽に木の上から飛び降り、夜の闇へと逃走する。
「追え!」と衛兵たちが廊下へ走り去る女と、外のカメラマンを捕縛すべく散っていった。
シュナイゼルの口元や白い首筋には、鮮やかな赤いリップ痕がこれみよがしに残されていた。カノンは用意していたクレンジングオイルをコットンに染み込ませ、手際よく拭き取っていく。当の本人は軽やかな吐息とともに、どこか楽しそうに笑った。
「うーん、撮られてしまったね」
一大事というには、彼らにとってあまりに日常茶飯事な出来事。シュナイゼルに緊張感など微塵もない。乱れた金髪、はだけたバスローブの胸元から覗く白い肌には、擦れた朱色が残っている。
「呑気なことを仰っている場合ではございませんわ」
「……セックスはしていないよ」
「仰らずとも承知していますわ」
もし本当に抱いていたならば、こんな程度の乱れで済むはずがないことを、カノンは誰よりも熟知していた。
「殿下、先ほどの間諜の女、無事に拘束いたしました」
部下からの報告を受け、「ありがとう。ご苦労さま」と返すシュナイゼルの声はどこか味気なく、彼の関心は既に次の課題へと移っていた。
完全に肌の汚れを拭き取り、カウチに腰を下ろしたシュナイゼルは、サイドテーブルに置かれたブランデーの瓶を持ち上げ、空のグラスへと琥珀色の液体を注いだ。
「今日の相手は……少々深入りして調べまでつけていたね。それ自体は問題ないのだが、コルチェスター時代の話が蒸し返されるのは避けたいな」
「……コルチェスター……? まさか、ノエルのことを?」
「ノエルには学友が多かったからね。当事者全員の口を封じ込めるのは不可能だ。予見していたリスクだが、いよいよその時が来たようだ。……カノン、手筈通りに。頼んだよ」
遠き日々を懐かしむようにシュナイゼル目を細め、芳醇なブランデーの香りを味わった。
「Yes, Your Highness」
カノンは優雅に一礼を捧げると、裏で予め決められていた処理手順へと素早く着手した。
カストラリア王宮 主寝室
「ティラナ様、お時間でございますよ。お目覚めの時間でございます」
厚いカーテンが一気に開かれると、主寝室の重厚な絨毯には燦々と黄金の陽光が降り注いだ。
ベッドの上で固く丸まり、不貞寝を決め込むティラナを、侍女長ルイーゼが宥めるように何度も揺り動かし起床を促す。
「……んーもうちょっと……あと一時間……」
「……いけません。昨夜も殆どお休みになられておりませんね? さ、起きてご入浴の時間ですよ」
「矛盾しているわー……それだったら、もう少し眠らせて……」
支えられるようにして身体を起こしたティラナの顔は青白く、その滑らかな頬には、昨夜遅くまで徹夜で読み漁っていた書類の紙跡が、くっきりと赤く残っていた。
帝国のゴシップ紙を片っ端から読み漁っては不機嫌になり、その苛立ちから気を紛らわせるために小難しい医学論文を読んで不貞寝する――そんな一連の悪循環を繰り返していたのだ。
バスタイムの最中も、ティラナの機嫌が直る兆しは一切なかった。それどころか、湯船の中で不満を募らせていくばかりである。
「いくらなんでも撮られすぎじゃない!? 脇が甘いわ! まるで撮ってくれと差し出しているようなものよ!」
憤慨を隠さぬ主に、濡れたブルネットの髪を優しく洗い流しながら、ルイーゼはどうしたものかと困り顔で苦笑を漏らした。
ゴシップ紙に掲載されているのは、帝国宰相シュナイゼル・エル・ブリタニアのスキャンダル――ではあるものの市井の反応は、何度目かのスクープに反応は薄く、やや飽きられている。
巷では二人をモデルにしたロマンスドラマが大ヒット中であったが、当然このカストラリア王宮内では、その作品名を口にすることも内容に触れることも固く禁じられている。ルイーゼも実写化の第一報以来、王家の尊厳とふたりの秘密を守るために口噤み、王室は法的措置を進めていた。
だが、噂と噂を繋ぎ合わせたキメラのような仕上がりの物語とはいえ――幼くして結ばれた婚約者同士、波乱のクーデター、そして気高き女王とそれを支える美貌の皇子。これほどロマンスの傑作要素が詰め込まれていて、面白くないわけがなかった。
一言もの申したくなるものの――物語自体は非常によく出来ており、来年の映像作品賞でノミネートされるのは確実とまで言われている。
今現在、世間を白熱させているのは食傷気味な男女の色恋ではなく、極東に現れた謎の仮面の人物――『ゼロ』であった。このスクープも、制作会社が視聴率を落としたくないがゆえの情報工作ではないか――とシュナイゼル及びブリタニア側の見方を示している。
「始末をつけるって……シュナイゼルは言っていたけれど、本当に上手くいくのかしら」
社交界に轟く浮名。政治と市場操作を兼ねた戦略的交際を理解しつつも、加熱するスクープに、女王の気持ちはいつも晴れないでいた。その様子を眺めていることしかできず――募る不満と自身の器の小ささに嫌気がさしてのことだろう、ティラナはぽつりと漏らした。
「……ねえ、ルイーゼ。私ってちょっと、大人げないかしら?」
「……はい?」
「正直に言って!」
縋る眼差し。強い命令によりルイーゼは手元を止め、深々と溜め息をついた。
「そうですねぇ……。僭越ながら、少々どころか、かなり大人げなくあらせられますわ」
「……やっぱり!?」
「ええ。一流の君主たる者。そして真に愛されている妻、王子の母たる者。夫の身の回りの有象無象など『まあ、お盛んですこと』と微笑んで受け流す余裕こそが、大人の女性の嗜みでございます。そんなにキーキーと猿のようにお怒りになっては、ゴシップ狙いのハイエナ共や愛人候補たちの思うツボですわ」
ルイーゼの容赦のない完璧な正論が、ティラナの胸にグサリと突き刺さる。
「ぐぬ……!」
「子供や年頃の娘ならば愛らしいものでも、貴婦人の癇癪ほど見苦しいものはありません」
「うぅぅ……!」
ティラナは頭を抱え、身をぐっと弓形に仰け反らせた。
今秋で三十を数える、一端の大人である。痛々しさは自覚していたつもりだが、シュナイゼルの前となるとつい甘え癖と独占欲が前面に出てしまう。相手を束縛するような感情が、真の愛と呼べるだろうか?
シュナイゼルとて、いつまでもその状態を維持するわけではない。時の経過とともに洗練されていく。今は良くとも、将来的に精神の成長曲線が合わなくなっていけば、いつか呆れられてしまうかもしれない。
「……そうね。大人の女の嗜み……。余裕……。分かったわ、私、大人になるわ!」
「え?」
「いつまでも感情的に嫉妬して、手の上で転がされるのは終わりよ。これからは何が起きても、慎ましく、寛大で、完璧な大人の妻として振る舞ってみせるわ!」
毅然と宣言するティラナを見て、ルイーゼは『これで陛下も少しは落ち着かれるだろう』と安堵し胸を撫で下ろしていた。
――この時の彼女は、自らの言葉が端を発し、その後どれほど恐ろしい裏目に出ることなど知る由もなかったのである。
画面の向こうに映し出されたシュナイゼルは、どこか様子を探る深い眼差しをティラナに向けていた。
夜の帳が下がる窓を背後に、長きにわたる不埒な工作の終わりを告げた。
『――というわけで、帝都の貴族たちが立てていたゴシップ誌のパトロンはすべて押さえたよ。これで変な噂が君の耳に届くこともなくなるはずだ』
ティラナは優雅に微笑み、ブルネットの髪を背へ流した。
「あら。とっても早い対応をありがとう。けれどシュナイゼル、私のことはもう気にしなくて大丈夫よ」
『……そうかい?』
シュナイゼルが微かに眉を顰める。ティラナは朝に吹く涼やかな風のように取り澄ました態度で「そういえば」と次のイタリア訪問の話題へと切り替えた。スイス・モントルーでの裏会談に引き続き、ベルナルディ首相への念押しを兼ねて、国際医療支援機構の視察の予定が組まれていたのだ。
「あ、そうそう。我が家で犬を飼いはじめたわ」
『犬を? それはまた唐突だね』
「ルークもイタリアへ一緒に連れて行ってあげたいけれど、そういうわけにはいかないでしょう? だからお留守番のご褒美にと考えたの。あなたにそっくりな犬種にしたの。ボルゾイよ」
『私にかい?』
ティラナは手元の端末を操作し、子犬のボルゾイと顔を初めて合わせるルークの画像をシュナイゼルに共有した。
光の加減では淡い金に染まる、白く長い毛並み。体高の高さ、すらりと長く伸びるしなやかな四肢、そしてシュッと通った長細いマズル。まさにボルゾイであった。
『たしかに――よく似ているね』
「子犬から育てているから、いきなり踏み潰されるということはないわ。万全を期して専属のトレーナーも雇ったもの」
『名前は決めたのかい?』
「それはルークに任せることにしたの。クルヴスよ。クルーと呼んでる」
クルヴスはラテン語で曲がった∞しなやかな≠フ意味を持つ。
『クルヴスか……。身体的特徴から名付けたのだね』
「そう、ご明察!」
『ふふ、あの子らしい愛らしい命名だ。……私に似ているというのなら、私がいない間、私だと思って存分に可愛がってくれるかい?』
「……まあ、気が向いたらね。それじゃあシュナイゼル、お仕事に戻るわ。おやすみなさい」
素っ気なく通信を切ると同時に、ティラナは「ふぅ……」と大きな溜息を吐き、高級な執務椅子の背もたれに深く体を預けた。大人の余裕を演出するために張っていた肩の力が一気に抜け落ち、そのまま天井を見上げる。
「……うまくいったと思う? 本当は昨日出たばかりのゴシップについて問い詰めてやりたかったけれど、ぐっと抑えて我慢したわ!」
傍らに控えていた侍女長ルイーゼは、どこか表情を固くさせていた。声もどこか暗く、ぎこちない。
「はい。いつになく落ち着いていらっしゃって……」
「……どうしたの? ルイーゼ。浮かない顔をして」
「いっ、いえ! なんでもありません!」
ルイーゼは慌てて首を横に振ったが、その背中には嫌な汗が伝っていた。通信が切れる直前、画面の奥でシュナイゼルが見せたあの青紫の瞳――一切の温度を失った瞬間をルイーゼは見逃さなかったのだ。
――もしや……陛下に『大人の嗜み』などと余計な助言をしたのが私だと、あのお方に感づかれたのでは……?
恐ろしい裏目の予感に、ルイーゼの胃は痛むばかりであった。
宰相府の執務室に静寂が落ち込む。通信を終えたばかりのシュナイゼルは指を顎に当てて、思考に没頭していた。
「……殿下?」
傍に控えるカノンが声をかけると、テーブルに置かれたグラスを手に持ち、シュナイゼルは違和感に言及した。
「今日はあっさりとしていたね」
「……あっさりでございますか」
「以前なら、真っ先に私に関する――取るに足らない噂について詰問してきた。……カノン、君は妻が夫にまったく嫉妬しなくなる心理をどう分析する?」
「陛下からの嫉妬を、お喜びになっていらっしゃるのですか?」
「ふふ……。喜ばない男がどこにいるんだい?」
カノンへの切り返しは愉しげではあるが、続けて酷く冷ややかな熱を帯びた吐息を漏らした。
「それに……目新しいことといえば、そうだね。あの新入りの犬≠フせいかな?」
カノンはほんの僅かな間に、その含みある言葉が、カストラリアで飼い始めたという子犬のことではなく、人間≠喩えたものだと察した。
「まさか。女王陛下が……」
王室側と連絡をまめに取っているなかに、そのような不誠実な行為は見当たらない。かの女王を庇おうと思ったカノンだったが、シュナイゼルが犬と呼ばうものの存在は――残念ながら、女王に惹きつけられる者の数に限りがなく、皆目見当もつかない。
一方シュナイゼルはとうに看破しているのか、「しつこいようだけれど、計算のない人たらしは厄介だよ。――やはり、彼のことを気にかけていたからね」と呆れてみせた。その瞳の奥で、妻の関心が自分に向くことを許容していない厳しい色を秘めている。
「新入りの彼だよ。特派の」
「枢木スザクですか? 近々、准尉に昇進したようですわ」
ロイド・アスプルンド率いる特別派遣嚮導技術部に、最新鋭の第七世代KMFランスロットに搭乗する優秀なパイロットが加わった。主任であるロイドは既に目をつけていたようだ。何の巡り合わせか、シュナイゼルが手を回し監視名目で直属に置いたことが相当嬉しかったのか、これまでにあの放蕩貴族からラブコールが三度届いている。
シュナイゼルは新しく上がってきたばかりの報告書に手をやると、感情の乗らない声で「ああ。ベッドの中で、その名を聞くとは思わなかった」と静かに呟いた。
カノンは思わず目を丸めて、恐れ多くも主人の顔を斜め上から見下ろした。
「あら。――すでに一杯食わされていましたか」
「……おもしろいかい?」
口角が上がるのを意識的に抑えて、カノンは僅かに視線を逸らした。
おもしろくない――というと嘘になる。完璧無欠のはずの宰相殿下が、妻の無自覚な言動にこれほど煮やされている姿は、最高級の娯楽にも匹敵する。――当人にはまったく、面白みのない出来事かもしれないが。
「彼女は私に嫉妬をするけれど、私ほどではないよ」
「ご自覚がありますのね」
「それで、カノン。知っているかい? どうも彼女の周りに群がる野良犬は一匹だけではなさそうだ」
「え……ああ……そうですわね」
カノンの脳裏に、外遊のたびにティラナへ群がってきた男たちの報告と、それから連想される顔が浮かぶ。学者から政治家、王侯貴族の男たちまで。ティラナの飾り気のない高潔さ、懐に入り込む計算を気取らせぬ無邪気さ。自覚のないまま男たちの好奇心と狩猟本能を刺激する。
「イタリア会談には日程が合わない。私は行けそうにないから……。そうだ、君に休暇をプレゼントしよう」
「え」と薄くリップが塗られたカノンの唇から、短な声が溢れる。
自分への特別休暇――それが意味する真図を、カノンは瞬時に察した。『イタリアへ行き、群がる野良犬どもを追い払って女王を見張ってこい』という、最高に手厳しい命である。
「そんなに驚くことかな?」
「い、いえ。滅相もございませんわ。……ちょうど、新作コフレの売れ行きが気になっていたところで」
「うん。なら、ちょうどいい小旅行になるのではないかな」
「承知いたしましたわ、殿下。完璧に務めてまいります」
カノンは隙のない所作で恭しく一礼をとると、主人の密令を完遂すべく、静かに執務室を後にした。
イタリア フレモンド・リゾーツ・ローマ
ローマ市内最高峰の名門五つ星ホテル。フレモンド・リゾーツ・ローマは、歴史地区の静謐な一角に佇む十九世紀末の貴族の屋敷を改装した、まさに宮殿そのものの贅を尽くした高級リゾートである。カストラリア王宮の手配により一棟丸々貸し切り状態となっており、六月のローマ特有の爽やかな日差しが、重厚なトラバーチン石の回廊やオリーブとレモンの青々とした葉を優しく照らしていた。
中庭には透き通る水面を湛えたプールが備えられており、そのプールサイドでティラナは退屈そうにサマーベッドへ寝そべっていた。手にした現地新聞を大きく広げて目を通しているものの、すでに内容は頭に入っていない。
そこへ、軽やかな足音が近づいてきた。
現れたのは、淡いシフォン生地の爽やかなワンピースに身を包んだ人物――カノン・マルディーニであった。女装を嗜みとするカノンではあるが、その身のこなし、立ち姿、肌の艶やかに至るまで隙がなく、初対面であれば誰もが美しい貴婦人と見紛うほど自然であった。
「か……カノン……!? 驚いたわ。どうしてここに? ……早めのバカンス?」
「はい。そんなものでございますわ。こちらに滞在されていると伺っておりましたので、ご挨拶にと」
驚きに瞳を丸くしたティラナだったが、すぐに表情を引き締めた。カノンがシュナイゼルの最側近であることを思えば、単なる挨拶で終わるはずがない。
「そうなのね。……何か私にご用かしら?」
「お耳に入れたいことが一点。お嬢様、街歩きにご興味はありませんか?」
「……街歩き? 急な話ね。それはもう、退屈で退屈でしょうがない時間を過ごしているけれど。はっ……!」
ティラナは慌てて両手で口を押さえた。街歩きという言葉に反応して飛び出してくるであろう、地獄耳を持つ侍女の存在を思い出したからである。
案の定、物陰から勢いよく飛び出してきたのは侍女長のルイーゼであった。
「わわわわ……! ダメです、ダメですー! 勝手に外へお出かけになるなんて!」
「勝手に独りで出かけるんじゃないわ。カノンも一緒よ?」
「カノン様がご一緒なのは大変心強いですが、そういう問題ではなく――!」
必死に両手を振るルイーゼを余所に、ティラナはサマーベッドから身を起こして朗らかに笑った。
「なによう、それならルイーゼも一緒に来ればいいじゃない。ジェラートを食べましょ! スペイン広場で! なんでも最近、爆発的に流行っているらしいじゃない それからヴァチカンに行って芸術ツアーに洒落込むとするわ!」
自由奔放な王女が市井に飛び出し、ローマの街で外国人の男と知り合い、共に行動するうちに恋が芽生えていく――という、巷で大ヒット中の映画のあらすじそのままである。エンタメ方面に疎いティラナは思いのほかあっさりとそのロケーションを口にしているが、モデルとなった王女の元ネタには当然ティラナ自身も数え上げられていた。カノンとルイーゼはまったく同じ作品を思い浮かべたのか、お互いの顔を見合わせながらクスリと忍び笑いを交わした。
パッと完璧な侍女の顔に切り替えたルイーゼは、妹に言い聞かせるように呼びかけた。
「陛下? ルイーゼも当然お供いたしますが……予定外行動はレルヒ様に叱られます」
「叱られはするけれど、命までは取られないわよ。……それに、せっかくローマに来たのにカイロと同じで何もしないなんて我慢ならないわ! それに――レルヒだって昨日『ベネデッティ・エ・フィーリ』でお買い物をしたって聞いたわよ? どうして主人の私だけ、ホテルで静物画と睨めっこしていなくちゃいけないの。もう七、八回は絵の中の葡萄を食べる妄想をしたわ!」
「お申し付けくだされば本物をご用意いたします! 退屈とおっしゃいますが、こちらにはレストラン、図書室やギャラリー、庭園にプール、スパ施設まで揃っております。……予定外の外出には警備も厳重にしなくてはなりませんし、現地当局への申告もあります。ここはブリタニア領でもございませんし、一般的なセレブのお忍びとは参りません」
「分かっているわよ……でも! ローマに来たならローマを歩くのが一番の贅沢なのよ! ――ん? どうしたのカノン?」
カノンは何度もその名を頭の中で咀嚼し、わなわなと小刻みに両手を震わせて叫んだ。
「ベネデッティ・エ・フィーリ……!?」
創業一八〇年。老舗のブティックだが、その前身は宝飾商であり、セレブ系雑誌の広告を担当する名門ブランドである。ローマには旗艦店、フィレンツェに本店を構え、王侯貴族を顧客に持つ。あのお堅い女官長レルヒに対して抱いていたイメージとのギャップに、カノンはいたく恐れ入っていた。
――さすが女官長職ね。非貴族階級出身の実験的登用と期待に応える彼女の、ほんのささやかな贅沢というわけね。
カッと勢いよく目を見開いては深く頷くカノンに、ティラナは目を眇めた。
「ほーら。その筋では一流のカノンだって恐れ戦くくらいの高級ブティックよ。私だって遊びに行きたかった〜!」
ボスボスとサマーベッドを叩く鈍い音が響く。両足をバタつかせて不満を漏らすティラナを余所に、カノンは小声でルイーゼに尋ねた。
「ルイーゼ嬢、会談の日程はすべて終えられたの?」
「あ、はい。昨日に終わったところでして、明後日まで滞在するのですが……この通りでございます」
「南北に分断されたイタリアの統制がネックだから、一肌脱いだ私にとびっきりのご褒美が必要よ! ベルナルディ首相もこれで安心ね!」
仁王立ちになり、ふふんと誇らしげにするティラナを横目に、ルイーゼはさらに声を潜める。
「カノン様……もしや、シュナイゼル殿下から何かお言伝が……?」
「殿下は陛下を放っておきたくないだけよ。本当はイタリアにもお越しになりたかったようだけど……外せない先約があって、代わりに私を派遣なさったの。甘い言葉で女を誘惑するパスタ野郎どもに負けたくないのね」
「殿下ともあろう御方が……?」
信じられないと驚くルイーゼに、カノンは可憐な笑みをこぼす。
「ルイーゼ嬢もそう思うでしょう? 意外と狭量……いいえ! 『グルメな女王陛下が、つまみ食いをしないように見張ってほしい』とおっしゃっていたわ」
「……ティラナ様が召し上がる方なのですね?」
ルイーゼは思い当たる節があったのか、サマーベッドで能天気に口笛を吹きながら端末を操作するティラナを振り返り、深く頷いた。
「陛下が何度か殿方よりお誘いをいただいているのは、先日の連絡でもお伝えした通りでございます。……陛下にご興味はないようでありますが、ここだけの話、今回も何件かディナーの誘いが。ティラナ様にはお誘いがあった事実を伏せた上で、も、もちろんです皆様にお断りの旨をお伝えしております!」
「ありがとう、ルイーゼ嬢。……快く応じて悲惨なパーティー会場にならなくて済みそうね」
「はっ……はい! 以前のようなことにはならぬよう、肝に銘じておりますゆえ」
以前のようなこと――。それは、ティラナが外遊先で男たちからディナーの誘いを受け続けた結果、『みんなで食べれば楽しいじゃない!』と全員を同じディナー会場に招き入れ、大集団でのパーティーを催してしまった事件である。個別のお誘いだと思っていた男たちは指定のレストランで鉢合わせし、花束やプレゼントを手にした男たちが大勢佇むという異様な光景が広がったのだった。幸い男たちの社会的地位が高く乱闘にはならなかったものの、従者経由で噂が漏れ、『女王が大勢の男を侍らせている』というメディアの格好の標的となってしまったのだ。
「陛下は――どれも真剣なアプローチとは思っておられぬようで……」
ルイーゼが気苦労の絶えない吐息をつく。それ以来、王室側は外遊時の誘いを全て断り、女王の外出制限を厳しく敷くこととなった。当の本人は原因が自分にあるとは全く気づいていないが。
「殿下がいらっしゃれば……こういったこともありませんでしたのに」
カノンは心の中で深く同意した。ゆえにシュナイゼルは野良犬避け≠ニしてカノンに臨時の休暇を与えたのだ。『そろそろ退屈に飽いている頃だろうから、楽しませてあげておくれ』という、遠回しな機嫌取りを添えて。
「ルイーゼ、お着替え手伝って〜!」
「はい、ただいまお伺いいたします!」
自室の部屋へと向かうティラナの背を追いかけて、ルイーゼの透き通る声がプールサイドに響き渡った。
白地にローズピンクの大きな花柄。太いリボンの結び目と、両肩を出したシンプルながら大胆なワンピース姿で、ティラナがくるりと一回転するとふわりと裾が広がった。足元は歩きやすいスポーツメーカーの白い厚底スニーカーで、見事に安全志向が反映されている。
「これで私も一般人Aよ!」
「陛下、サングラスをどうぞ」
肩周りに日焼け止めを塗り広げるルイーゼに向かって、サングラスをかけたティラナは人差し指を立てた。
「ノンノン! 陛下≠ネんて街中で使ったらダメよ? 今からは名前で呼んでね、ルイーゼ!」
「そんな、恐れ多いことをおっしゃらないでくださいませ……!」
「ふーん……そう。それじゃあ、お嬢様でいい?」
「はい! お嬢様!」
快晴の空の下。
スペイン広場のバロック様式の大階段下で、四段重ねのジェラートを頬張る目的を叶え、まさしく黄金の檻から解き放たれたティラナは朗らかな声を響かせた。
「こうしてみると三人姉妹のようね!」
ルイーゼは女装の違和感を一切感じさせないカノンと自分、そしてティラナを見比べた。
「長女、次女、三女……といったところでございますか?」
「なっ……なんで一番年上の私が末妹なのよ!?」
「そういう子供っぽいところでございますよ」
ルイーゼがムキになる態度を指摘すると、ティラナは年甲斐もなく唇を尖らせた。社交場では大人の鎧を纏う彼女の、子供のような素の仕草。ルイーゼの主の扱い方にどこか雑味があるのを感じ取り、カノンは密かに微笑みを浮かべていた。
ブリタニア セント・ダーウィン・ウィルゴ宮
夜更けのウィルゴ宮。久々に戻ったこの城でも、シュナイゼルは相変わらず積み上がった書類仕事に忙殺されていた。執務机の上には、琥珀色のブランデーが注がれたグラスが静かに佇んでいる。
ペンドラゴンに帰還したカノンからの報告を受け、サインを走らせていたシュナイゼルは万年筆の動きを止めた。
「――と、仲良く三人でローマ市内とヴァチカン市国を散策したんだね」
「はい、殿下。……それから、ルイーゼ嬢が……」
カノンは、ルイーゼがティラナへ大人の嗜み≠ニして送ったアドバイスのせいで、シュナイゼルの様子が一変したことに気づき、『余計なことをしてしまったのではないか』と酷く胃を痛めていた様子をそのまま報告した。
「ほう……なるほど。それで、ルイーゼ嬢は?」
「悪気はなく、ごく適当なアドバイスのつもりだったようですわ」
「ふむ」
「それから……『シュナイゼルが一緒なら、もっと楽しかったのに』――と陛下が仰せでした」
「ティラナがかい?」
カノンが頷いてみせると、シュナイゼルは「素直に、嬉しいね」と呟き、ふっと目元を和らげた。
――ああ、ほら、まただ。
カノンは心の中で苦笑した。表舞台で見せる完璧な宰相の仮面が剥がれ、ただ一人の女性の言葉に一喜一憂する、少年のような甘い顔つき。置き去りにされていた二人の時間を、慈しむように取り戻そうとする男の顔。
「私も行けばよかったかな? 今になって、君に任せたことを少し後悔しているよ」
シュナイゼルはブランデーグラスを傾け、愛おしい妻の待つ方角の空を仰いだ。
「早くすべてを終わらせて、遅くなったハネムーンを叶えてあげたいね」
ふと、カノンは部屋の一角に視線を向けた。かつて遊戯室として使われていた空間はすっきりと片付けられ、そこには大量のダンボール箱が積み上げられていた。カストラリア王宮宛ての荷物だそうだ。
「殿下。こちらをお渡しすればよろしいのですね?」
「ここに置いていても寂しいだろう? ウィルゴに戻ってくるのも二ヶ月ぶりだよ」
「箱の中身はいったい……?」
「テディベアだよ。ヴォール社のね。母君があちらへ贈るというから……」
「……対抗心ですか?」
カノンの鋭い追及に、シュナイゼルは困ったような、しかしどこか楽しげな笑みを浮かべた。
「いいや? チャリティーで役に立つと思ってね。全部送ってしまおうと――」
「それは……厄介払いというのでは?」
「あはは。そう思うかい? 私には一体だけで十分だからね」
シュナイゼルが視線を向けた先、上質なレザーソファの中央には、ポツンと一体のテディベアが座らされていた。
「あれですか?」
「そう、ノエル≠セよ」
カノンは思わず絶句した。愛着を込めて彼の名前まで与えて手元に置き続けているという事実。その背後に透けて見えるあまりに深く重い愛慕に、側近として言葉を失うしかなかった。
「ちょっと、これどういうことなの……!?」
カストラリア王宮の大広間に、小山のように積み上げられた大量のヴォール社製高級テディベア。その真ん中で、幼いルークと子犬のクルーが歓声を上げて駆け回っていた。クルーは自分よりも大きなテディベアの耳をガッシリと咥え、ぶんぶんと首を振りながら室内を猛ダッシュしている。
「クルー、待って! ぼくのクマさんだよー!」
楽しそうに追いかけるルークと、無邪気に走り回るボルゾイ。勢いあまって解けたリボンや散乱する綿を前に、ティラナは額を押さえて絶叫した。
「うちはテディベアのリサイクルショップじゃないのよ! お義母さまといいあの人といい、絶対に楽しんで送りつけてきたわね……!」
双方から送りつけられてきた、そのあまりの量の多さに呆れ果てつつも、ティラナは散らばったテディベアを一体ずつ手に取り、確かめるように見ていった。ふと、首に巻かれたシルクリボンの裏側に、小さな金属製のネームプレートがくりつけられていることに気づく。
「……え? アルフレッド……? こっちはベアトリクス……? ヴィクターに、クロード……?」
ティラナは目を瞠る。リボンの裏の銀色のネームプレートを次々と読み上げた。
「名前までついてる……! チャリティーにでも役立てて欲しいって言っていたけれど、こんな風に一つひとつお名前がついているものを、易々人に譲ったり処分できるわけがないじゃない……! 一体どういう神経をしているのかしら!」
まんまとシュナイゼルの意図――譲渡させずに手元に留めさせ、嫌でも自分の存在を意識させるという企み――にはめられたことに気づき、ティラナは悔しそうに唇を引き結んだ。しかし、名付けられたテディベアたちを雑に扱うこともできず、ブツブツと文句を呟きながら控えていた従者たちを振り返る。
「……ルイーゼ、すぐに日当たりの良い空き部屋を一つ片付けて頂戴! この子たち専用の『テディベアの間』を作るわ! 湿気対策も完璧にするように指示して!」
「かしこまりました、陛下」
呆れつつもどこか嬉しそうなティラナの背中を見送りながら、ルイーゼは「結局、殿下の手のひらの上ですわね」と静かに微笑むのだった。