クロヴィス国葬から約数週間。
サイタマゲットーでの一掃作戦。――など、目新しい出来事を脇に置いても、副総督ユーフェミア・リ・ブリタニアの憂いは晴れそうにない。
――命を懸けて戦うからこそ、統治する資格がある。その理屈はわかります。お姉様、でも……。
「失礼いたします、ユーフェミア様。お電話でございます」
ユーフェミアが執務に熱中する室内に、厳かな声がかかる。別室で事務作業を執っていた事務官が規則正しい一礼とともに入室し、ユーフェミアの執務机に載る端末を指し示した。
「私宛てに……?」
「独自回線でございます。クロヴィス殿下の頃より使用されていたもので……」
手元を見下ろすと、たしかに端末には入電を示すランプがチカチカと点滅している。事務官は「メモをご確認ください」と一言付け添えた。端末の端には数行、番号の印刷されたシールが貼られている。専用回線ボタンを押下し頭番号に『四ー〇〇〇〇一』と打ち込むと、即座に回線が接続された。
『――ごきげんよう。副総督。お仕事中に失礼しますね』
電話口から響く声は見知った人物のもので、ユーフェミアの表情と声は麗らかな春の日射しのように明るくなった。
「ティラナお義姉さま!」
『お義姉さま、だなんて……ふふ、嬉しいけれど、今は副総督閣下とお呼びすべきかしら?』
「そんな、お戯れを……! 私になにかございましたか?」
『用件はね……ちょっとしたお使いがあるのよ。お使い』
「お使い……ですか?」
小首を傾げ戸惑うユーフェミアに、義姉――ティラナはわかりやすい言葉で説明を始めた。
『クロヴィスとは美術品を貸し借りする仲だったの。彼には私から貸した宝物がいくつかあって……それを返却願いたいのと、一部美術館の展示期間の延期交渉を貴女に頼もうと思っているのだけれど……いい? ユフィ』
「はっ……はい! 私に出来ることでしたら……、上手く出来るでしょうか?」
ユーフェミアの声がわずかに上擦る。事務官が副総督着任にあたりいくつか引き継ぎ業務の話を教えられた。クロヴィスはエリア十一で手がけた政策、公共事業開発、芸術支援を含めて今はユーフェミアの領分である。
『大丈夫よ。クロヴィスが好んで進めていた内政と引き継ぎは、ユフィ担当なはずだし……困ったら私に連絡して頂戴。さあて、メモの準備はいーい?』
「は、はいっ!」
ペンを握り直したユーフェミアは、ティラナが軽やかに読み上げる品名と貸出先の名称を、真剣な眼差しで紙に書き留めていった。
a.t.b.二〇一七 June
カストラリア王宮 リビングルーム
薄雲の下の白い頂。稜線を覆い隠す人工的な採掘の痕跡――サクラダイトの鎧を纏った霊峰富士。その麓に広がる湖畔のホテルでは、サクラダイト分配会議のメンバー、居合わせた観光客、そして従業員を人質に、日本解放戦線が立て籠もっていた。
国際報道に流れる緊迫した映像をモニターに映し出すカストラリアの王宮リビングルーム。政務宮殿より帰還したティラナは、羽織っていたシフォンのストールを解き、静かに侍女ルイーゼへ預けた。
「あっちでも大変な騒ぎになったわ。今日の会議が早仕舞いになったのは、あのテロリストもどきの人質事件のおかげよ。レアメタル・アーサック社からCEOが直々に参加していたでしょう? 首相と外相への配慮というわけ」
「CEOもこの人質の中に?」
傍らに立つルイーゼの問いに、ティラナは深く頷いた。
「当然よ。……エリア十一の新総督の腕の見せどころでしょうけれど、こうやって旧日本軍の残党をのさばらせているのも前任者の落ち度。最早ただの尻拭いね。これを国際報道で世界中に晒し上げられているのは、実に気に食わないわ」
ホテルジャックを敢行したのは、日本最大の反ブリタニア勢力である日本解放戦線。旧日本軍の将校を中心に組成された組織だ。映像の向こうにいるリポーターが、緊張した面持ちで現状を語り続けている。
『……ジェームス議長の他、観光客の中には若い学生の姿も見受けられます。犯行グループのリーダーは、草壁中佐と名乗る旧日本軍人です――』
高温超伝導体の製造に欠かすことの出来ないサクラダイトは、世界の安全保障を左右する最重要戦略物資である。エリア十一はその世界最大の産地であり、市場への供給量は実に七〇パーセントに達する。毎年河口湖で開催されるサクラダイト生産国会議は、国際分配レートと各国とのパワーバランスを決定する極めて重要な場であった。犯行グループの狙いは、まさにこの世界中が注視する注目度の高さを利用した政治的パフォーマンスに他ならなかった。
ティラナは視線を落とし、ガラス越しに中庭を見下ろした。
手入れの行き届いた碧い芝生の上では、息子のルークが白くしなやかな毛並みを持つボルゾイの子犬――クルーと戯れ、無邪気な歓声を上げている。あまりにも平和なその光景と、モニターの中の緊迫したな現場。
ティラナは眉をひそめた。ユーフェミアが視察としてあのホテルに滞在していたことを思い出したからだ。
「……何をもたついているの?」
「陛下……?」
苛立ちの籠もる呟きに、近くに控えていたルイーゼが顔を上げた。
「このサクラダイト分配会議には、ユーフェミアも視察で参加しているのよ。お忍びだから報道には載っていないけれど……河口湖へ行くついでに、貸し出している美術品の交渉も彼女にお願いしていたの。……少し罪悪感を抱くわね」
そこへ秘書官ランクスが控えめなノックとともに現れ、悲痛な持ち越し情報を口にした。
「先ほど、日本解放戦線が一名の人質を上層階から突き落としたとのことです」
多国籍の要人が囚われている現場での流血。犠牲者の出自によっては一気に国際的な外交問題へと発展しかねない。
「なんてこと……。……もう夜よ。交渉が難航しているのね。総督は妹の副総督がこのホテルで、人質になっていることを把握している。身内相手に強硬策が執れない。……それで、その人質の出自は?」
「ブリタニア人の観光客だそうです」
「……アーサックのCEOではない、か」
民間人であるという事実に、関係各所は胸を撫で下ろしただろう。だが、要人に手をかけるほどの気骨すらないとしても、民間人の命を粗末に扱う時点で日本解放戦線など到底信用に値しない。大義名分と同情票を集めるには、踏み越えてはいけないレッドラインを超えてしまっている。
「半日以上も膠着状態よ。ブリタニア側に打開策はあるの?」
「それは……現場の軍事機密でありますから」
「そうよね……」
中継やメディアで明らかとなる情報は、小指の先程度のものだ。
その時、開け放たれた扉から、中庭で遊んでいたルークがひょっこりと顔を覗かせた。
「ママ……?」
不穏な空気を察した息子の小さな声に、ティラナはふっと表情を和らげた。
「……落ち着かないけれど、早めのディナーにしましょうか」
主の一言で従者たちが速やかに動き出し、ダイニングルームへの準備を始めた。
だが、その夜、事態は劇的な決着を迎えることとなる。
人質たちが無事に救命ボートで湖上へと脱出する映像の背後で、仮面を纏った男の声が世界中に響き渡った。
『人々よ! 我らを恐れ、求めるがいい。我らの名は……“黒の騎士団”!』
――黒の騎士団……?
『我々黒の騎士団は、武器を持たないすべての者の味方である。イレヴンだろうと、ブリタニア人であろうと。日本解放戦線は卑劣にも、ブリタニアの民間人を人質に取り、無残に殺害した。無意味な行為だ。ゆえに我々が制裁を下した』
『クロヴィス前総督も同じだ。武器を持たぬイレヴンの虐殺を命じた。このような残虐行為を見過ごすわけにはいかない。ゆえに制裁を加えたのだ』
『私は戦いを否定しない。しかし、強い者が弱い者を一方的に殺すことは断じて許さない。撃っていいのは――撃たれる覚悟のある奴だけだ』
『力ある者よ、我を恐れよ。力なき者よ、我を求めよ。世界は――我々“黒の騎士団”が裁く!』
日がゆっくりと傾き、執務室の半分以上を濃い影が覆いはじめていた。
日本解放戦線の指導者・草壁中佐の自死と、突如現れた謎の組織の報道。端末の画面からは、鮮烈な白い光が闇の中に浮かび上がっている。
「……黒の騎士団ですって。ただのイロモノの道化師ではなかったようね。アジア地域の均衡がどう傾くのか、目が離せないわ。……私たちの余興だけでは、もう誤魔化しきれないのではないかしら?」
回線の向こうからは、静かな呼吸音だけが返ってくる。気を良くさせるような相槌や言葉はない。だが、この沈黙こそが彼の聡明な頭脳がよく働いている証拠だとティラナは知っていた。
今や世界のニュースのトップを飾るのは、あの仮面の英雄『ゼロ』だ。被占領エリアの民衆ほど、この男を熱狂的に持て囃している。正体不明の存在が、各地のアナキストたちに希望という毒と武器を与え、決起を促すだろう。エリア十一のみならず他国へ、果てはこのカストラリアにまでその波及効果は押し寄せてくる。国を預かる身として、到底看過できる存在ではない。
沈黙を破り、先に答えを出したのはティラナであった。
「特務機関をエリア十一に置くことにするわ。対中華連邦への防諜も兼ねて。表向きは、商工使節団の派遣ということにしておいて」
カストラリア独自の独自ルートを持つチームを常設し、ダイレクトに現地情報を収集させる――その決断にシュナイゼルは異論を挟まなかったが、愉しげに理由を促した。
「ふむ。……一応、君の口から理由を聞いておこうか」
「情報収集能力、組織力……どうやら正義の味方を名乗る組織のリーダーは、相当に頭が切れるみたい。今夜の件は、まさに彼の華々しいデビューショーといったところかしら。現地のコーネリア軍は、まんまと彼の引き立て役に利用されたようなものよ」
「ははは。なかなかに手厳しい評価だね」
新総督として着任したばかりのコーネリアは、ゼロに完膚なきまでに泥を塗られた形だ。彼女の政治手腕や威信への大打撃となる。
「帝国のメッキが剥がれるだけでも、他エリアの反ブリタニア分子の士気は大いに鼓舞されるでしょう。我が国とて、地下組織を完全に鎮圧できたわけではないわ。あれは反政府勢力への絶好のカンフル剤となり、治安悪化に貢献してくれるでしょうね。……つけ入る隙があると示された時、支配の効力は一気に失われる。……宰相閣下は、どのようにお考えかしら?」
挑戦的な瞳で問いかけてくる愛しい妻に、シュナイゼルは苦笑を漏らした。
「……ふふ。今日のような無様を晒すなと、妹へ叱咤激励でもした方がいいかい?」
「なさらないでしょう? 貴方はそんな無駄なことは。……けれど、初期対応こそが肝心よ。反乱が広がれば民族間の軋轢が深まり、将来的なブリタニア人の移住計画すら阻害する。ブリタニア人が被差別者と同等に零落れる未来なんて、私は望んでいないの」
「そうだね」
「コーネリアのやり方は力強いけれど、武力で踏み潰せば踏み潰すほど、踏まれた側は地下へ潜って根を張り、英雄という名の幻想に縋る導線を作るわ。それを断つには……彼らが掲げる『正義』のイメージを損なわせ、物流と兵力供給源を断つ必要がある。なにせ彼は、クロヴィス殺しの内通者や協力者を抱えているのだから。今回だってそう、みすみす逃げ道を与えているのよ。徹底的に裏のルートを洗うべきだわ。……クロヴィスは導線の切断ではなく、自分の身内作りに時間をかけていたけれど」
大局観ではなく目先の事情を優先する、あまりに拙い政治手腕。内政の安定という盤石な土台があってこそ政治力は機能する。侵攻から約七年が経過しても未だ泥沼化しているのは、日本人の気質もさることながら、ブリタニア側の甘さゆえだ。
「……名誉ブリタニア人制度にも構造的な不備があるし、あのエリアは他よりも問題が多すぎるわ。……理想を言えば、この身分制の根本から見直すべきなのだけれど……」
「おや、貴女がエリア十一の総督になってくれるのかな? コーネリアの次に」
「……出過ぎた発言をお詫びするわ。次が来てはいけないのよ? まあ、外野が野次を飛ばすのはいつだって簡単なことよね。お目こぼしいただいているだけのカストラリアが、偉そうに講釈を垂れるなんて」
少し自嘲気味に息を吐くティラナに、シュナイゼルは柔らかく声をかけた。
「まだ何か言いたそうだね」
「いい? これが一番大事なことよ。名誉ブリタニア人制度の戦略的活用による『ガス抜き』ね。虐げられていると感じるからこそ、仮面の道化に縋るのよ。適度な権利と生活の安寧を与えて、ブリタニアの統治下で従順に生きる方が得だと思わせる環境を作ること!」
飴と鞭の適切な使い分けこそが支配の要だと力説するティラナに、シュナイゼルは深く頷いた。
「特級衛生エリアの君主からそのような言葉をいただくとはね。非常に腑に落ちるよ」
「クラスリーダーらしいかしら?」
「……ふふ。実に、優秀な監督生にふさわしいね」
ティラナの指摘は概ね正論であった。だが問題は――総督であるコーネリア自身に根付く生真面目な性質が、その柔軟な策を阻むという点にあった。
シュナイゼルは手元の端末に送られてきたばかりの最新報告書に目を落とした。救出作戦の初期段階において、第七世代KMFを擁する特別派遣嚮導技術部が出撃を申請していたが、コーネリアはそれを一蹴している。サイタマでの作戦に続き、パイロットが『名誉ブリタニア人』であることが彼女の目を曇らせているのだ。
「彼女の誇りと純血主義が、名誉ブリタニア人というカードを有効な手札として扱うことを拒むだろうね。……先ほど上がってきた報告書でも、救出作戦の初期行動において第七世代のKMFを擁する特派が介入を申請していたが、コーネリアは一度それを捨て置いている。サイタマでの作戦に続き、パイロットが『名誉ブリタニア人』であることが彼女の目を曇らせているようだ」
「……道具の価値は性能と使い手で決まるものであって、生まれや身分で決まるものではないのに。使えば勝てる駒を、イデオロギーを盲信して盤上に置かないなんて」
呆れたように息を吐くティラナの言葉に、シュナイゼルは小さく肩を揺らして微笑んだ。
「だからこそ、貴女の言う通り『次』が来ないことを祈るばかりだよ。コーネリアがその偏見を捨てられない限り、あの仮面の男はエリア十一という沼地でどこまでも根を伸ばすことになる」
シュナイゼルは報告書の表示を閉じると、画面の向こうにいる愛しい監督生へと穏やかな視線を向けた。
「商工使節団の件、手配を承認しよう。カストラリアの特務機関が現地で何を拾い集めてくるか、楽しみにさせてもらうよ」
「ええ、期待しておいて頂戴、宰相閣下。……それじゃあ、夜更かしはこのくらいにしておくわ。明日は早朝から枢密院会議があるの。おじいさま方は早起きで困っちゃうわね。朝八時からよ? 五時半には起きているんですって! この間なんか、朝六時に礼拝堂の敷地内からうちの庭の方までお散歩しててびっくりしたもの。向こうもびっくりしていたけれど」
呆れつつも可憐に微笑む妻の様子に、シュナイゼルも笑みを深めた。そこで、「そういえば」と思い出したように声を引き留める。
「ああ……、待って。ティラナ。一つ大事なことが」
「ん? なあに?」
「例の、北ブリタニアの遺跡の件だよ」
その言葉に、ティラナの表情がわずかに引き締まった。
「それがどうかしたの?」
「クロだよ。裏を取るべく現地で見張らせていたが……父君は頻繁に訪問し、熱心な遺跡調査を続けられているようだ。……政務よりもね」
帝国の皇帝シャルル・ジ・ブリタニアの不審な動き。ティラナは小さく溜息をついた。
「そうなのね。なんだか耳が痛いわ。私もあっちこっち飛び回っていて、お小言を頂戴するもの。……外務省と、首相官邸からも」
「……ふふ」
「けれど、あなたは私が何をしているか知っているでしょう? ただ国と王室をほっぽり出して遊びに行っているわけではないわ。……同じように、主上にも重要な目的があるとしたら?」
「重要な目的、か。……こういった遺跡を含めた考古学には、クロヴィスが適任だったね」
「そうね。……私も、もう少し訊いておくべきだったわ。昔、うちの遺跡見学にも興味があるというから案内して差し上げたのだけれど」
はっと声をあげて、ティラナは何かに思い当たったようにポンと手を打った。
「うん?」
「ひとりいるわ! 詳しそうな方が、もう一人。……クロヴィスの側近よ。バトレー将軍。彼なら何か知っているんじゃないかしら? やけにコソコソして、私が暗殺の首謀者じゃないかって疑われたけれど……それに、何かを酷く恐れているようにも見えたの。なんでかしら」
ティラナの直感に、シュナイゼルは深く静かな追認を与えた。
「バトレーか。……バトレー・アスプリウスは本国へ強制送還となった報告を受けているよ」
「それって、ジェレミア代理執政官による更迭で?」
クロヴィス暗殺事件後の混乱による事実上の左遷だ。しかし、その代理執政官となったジェレミア自身も、例の『オレンジ騒動』以降は失態を重ね、立場を失いつつある。
「ああ。……中央法務局を通して、彼と接見を試みるよ」
「接見? そんなのフリーパスに決まっているわ。宰相閣下のお顔ひとつで会えない人なんていないもの」
クスクスと悪戯っぽく笑うティラナに、シュナイゼルは甘やかな音声を滲ませた。
「長引かせてしまって悪かったよ。おやすみのキスを贈ろう、マイレディ。良い夢を」
「ええ、あなたも。おやすみなさい、シュナイゼル」
通信が切れると、執務室には再び静かな暗寂が降り立った。
画面には、被占領民の喝采を浴びる仮面の英雄『ゼロ』の残像。
そして手元の端末に残された、コーネリアによって退けられたナンバーズの騎士のデータ。
――枢木スザク。
シュナイゼルは優雅な手つきでチェス盤の上のナイトを摘み上げると、静かな声で呟いた。
「……さて。妹の手腕と、現れた道化師の次の一手……どう転んでも、私の盤面が揺らぐことはないけれどね」
爪先に触れる冷たい木肌の感触を楽しんだ後、彼はナイトの駒を静かに、だが確かな意思を持って盤上へと押し進めた。
暗い部屋のなか、端末が発する淡いブルーライトが、ルルーシュの鋭く研ぎ澄まされた瞳を浮かび上がらせていた。
画面の上には、次々と浮かび上がっては消えていく膨大な情報群。先日、アッシュフォード理事長から極秘裏に持ちかけられた亡命プログラムの件を頭の隅で反芻しながらも、彼の指先は滑らかにキーボードを叩き続けていた。複雑な暗号化プロトコルと複数のVPN接続を経由し、帝国の厳重なメディアアーカイブスへと静かにアクセスを深めていく。
検索結果の最上層を埋め尽くしていたのは、あの完璧な笑みを湛えた次兄――シュナイゼル・エル・ブリタニアの姿であった。幼少期の面影を残す古い記録から、洗練された近影に至るまで。あれほどカストラリアという異国への肩入れを優先し、摂政として君臨していた男が、突如として帝国本国へと戻り、宰相の座に就いた。
戴冠した女王へ摂政権を無事返上し、次はいよいよ世紀の婚礼に移る――誰もがそう信疑を挟まなかった。ブリタニアとカストラリアの同盟を象徴する大祝祭。相手は、かつての幼き王女であり、現カストラリア女王ティラナ。かつて熱を帯びて世間を賑わせた報道の軌跡は、デジタルデータの海の狭間に今も数多く眠っている。カストラリア王室と王女に対する献身的な奉仕の記録。皇室支持紙『ブリタニアン・タイムズ』をはじめとするメディアは、競うように第二皇子を讃え、その正当性と高潔さを完璧な美談として仕立て上げ続けていた。
画面には、美しい古典のおとぎ話の一節を引用したゴシップ記事が表示されている。添えられているのは、幼少期のシュナイゼルと、無邪気に微笑む少女時代のティラナの写真。連綿と続く公務の痕跡、計算し尽くされた情景、あまりにも隙のない理想の物語。
『――私情を排し、帝国の未来へ――シュナイゼル殿下、本国凱旋と宰相ご就任――』
『――『まずは、我が帝国のために』――世紀の婚礼を越える、第二皇子殿下の決意――』
一方で、カストラリア側のメディアが届けるトーンは微妙に異なっていた。
『――『王女との絆は永遠に。婚礼の延期に込められた、第二皇子殿下の深謀遠慮』――』
結婚を凍結状態のまま、有耶無耶に引き延ばしている目下。両者のどちらに責任が生じるのかを押し付け合う論者も多い。反ブリタニア感情を持つカストラリア人も少なくないはずだが、表面上の均衡は保たれている。
「なんだ坊や。色恋沙汰には疎いかと思っていたが」
背後から掛けられた唐突な女の声に、ルルーシュは眉ひとつ動かさずに画面を切り替えた。
「――ふん。……情報収集だ。カストラリアは、各国との独自のパイプもある。これから組織を大きくするには、まず味方を知るところからだろう」
「味方? なってくれるのか? 小国とはいえ――親ブリタニア派の筆頭だろう」
「やけに詳しいんだな、お前」
「意外だったか?」
C.C.は艶やかな緑髪をさらりと揺らし、ベッドの金属柵にだるそうに身を預けていた。ルルーシュは鼻で鳴らし、冷徹な分析を口にする。
「……親ブリタニア派ということは、情報もリソースも他のエリアとは比べものにならないほどの共有関係にあるということだ。商業、工業、研究機関、軍事……挙げればキリが無い。味方に引き込み、敵の内情を窺うには手に入れておきたいカードだ。それに、あそこが親ブリタニア派だというのは『北部』に限った話に過ぎない。中部以降から南部にかけては、強い反ブリタニア感情を持つ人間がいくらでもいる」
かつて犯罪史にその名を刻むことになった、グレドール・ド・アルディック――サロニア公爵事件。その南部の領地を治めていた王族の身内だ。現在もカストラリア国内には、その残党が潜伏している。とくに南部には『サロニア公事件のアナキストの巣窟』という烙印が押されているが、かつてブリタニア上流階級にも協力者が多数存在していた背景から、王統支持派の中にさえ強烈な反ブリタニア姿勢の人間が潜んでいるのだ。
概して――第二皇子の摂政統治とは、事実上のカストラリア王室の乗っ取りであったという見方が一部で根強く存在する。
第二皇子とサロニア公が裏で結託し、傀儡国家を醸成した上で皇帝へ献上する予定だったのではないか――といった陰謀論すら、闇の中でまことしやかに囁かれていた。
そして、現在の婚姻凍結の維持が、皮肉にもその疑惑を裏付けている。
裏でどのような不条理を飲ませたのか。
ルルーシュの脳裏に、苦い記憶が苦く蘇る。かつて、シュナイゼルからカストラリアへの亡命を提案され、それを心の底から望んでいた時期があった。妹のナナリーが安全に暮らすため、不自由になった脚の治療を受けるため、中立国であったカストラリアで暮らす方が、ブリタニアで政治利用され続けるより遥かに幸福だと信じていたのだ。現にアッシュフォード家は亡命プログラムを利用し、貢献という形でエリア十一で教育事業を展開しつつ、カストラリアでは身分を維持して一部のKMF事業を継続している。
兄の言葉を信じていたのに――結果として自分たちは、日本へ政治的人質として売り払われてしまった。
「……お前に何があったかは詮索しないが、今からでも遅くはないはずだ」
勝手に自室へ転がり込んできた、出自も正体も不明の女。すべてを見透かしたように物言うその眼差しに、ルルーシュは強く言い返してやりたかったが、残念ながら反論不可能な急所を突かれていた。ボロを出さぬよう、唇をきゅっと硬く引き結ぶ。
「今からでも? とっくに事態は動き出している。覚悟は、できている……」
ゼロ。
この世界に誕生した、強き者を挫き、弱き者へ救いの手を差し伸べる正義の味方。
だが、たった一週間前の理事長の言葉が頭から離れない。『まだ間に合う』と、彼は何度も幸福の逃げ道である切符を握らせようとしてきた。この胸の内側に燻り続ける、重く冷たい怒りは何なのか。甘い話には、必ず惨酷な裏がある。
『――ルルーシュ殿下。亡命なさるかどうか、進退をご決断ください』
忘れることなど不可能な、あの若い軍曹の声。眉を顰めるほど不快な、あの焦げ臭い煙の記憶とともに脳裏に蘇る。
善良そうな男の優しさ。ルルーシュはその裏切りを、二人の人間から味わってきたのだ。シュナイゼルに至っては、クロヴィスから聞き出した情報によれば、母マリアンヌの死の真相にも深く関わっている可能性が高い。
「はっ……覚悟か。……今のは迂闊な言葉だったな。忘れてくれ」
去り際に自嘲気味に鼻で笑い飛ばすと、C.C.は鋭い針金のように冷ややかな声で釘を刺した。
「敵の味方を引き入れるということは、こちらも危険に晒すということだぞ」
「わかっている! 諸刃の剣だということは――」
振り返った時、すでにそこに女の姿はなく、静まり返った部屋にルルーシュは独り取り残されていた。
「くっ。好き放題言って……」
毒づきながら、PCの画面に視線を戻す。画面には、幸せそうに微笑む子供の頃の兄の顔。王女の公務である孤児院訪問に、親密そうに随行した際の記録写真が映し出されていた。
嘘つきの兄。
子供騙しの優しい嘘。
己の出世に必要なれば、女一人、果ては国家一つを騙すことすら、すべて計算のうちだったのだ。あの完璧な兄ならば、それくらい造作もないことだろう。
だが、これこそがブリタニアを内部から破壊するための巨大な綻びだ。かつて考えていた計画とは形が変わってしまったものの、またとない千載一遇の好機が巡ってきている。
不可能ではない。
――ギアス。新しい自分の組織――黒の騎士団が揃った。支援者も増えつつある。
予感がしている。この力のおかげで、世界が変えられそうだと。