a.t.b.二〇一三
カストラリア中部 第十二経済特別区 先端生命科学総合研究所
「女王サマの研究って、ずいぶん優しいのねぇ」
清潔なガラスで隔てられた応接室の中、ラクシャータ・チャウラーはパラパラと科学雑誌のページを捲りながら、どこか面白がるような声を上げた。緩やかに波打つ金髪のミディアムヘアから覗く褐色肌の輪郭が、西日の光を浴びて艶やかに浮かび上がっている。
「そうかしら?」
対面の深く沈み込む革張りソファに腰を下ろしていたティラナは、短く応えた。ゆったりとした上質なシルクのワンピースの上に、視察用の白い衣を羽織っている。そのお腹の中には、すでに新しい生命――ルークが静かに息づいていた。
「血液を作り出し、傷を塞ぎ、失われた身体を取り戻そうとしている。……まるで現代のアルケミストじゃないか」
「反キリスト的?」
ティラナの口端から零れたのは、どこか刺のある自嘲だった。
かつて教皇の教令によって禁じられた中世の思想。それ以降も幾度となく、生命創出や領域侵犯は「神への冒涜」として扱われてきた。時代が下り科学が高度に発達した現代であっても、その古く不自由な倫理観は風化することなく、前進しようとする人間の足下に重石のように括り付けられている。
褐色肌の才媛は「ふふ」と喉を鳴らして笑った。
「いつもそう言われてるんだねぇ」
歴史の深層にこびりついた錆のような拒絶反応。ラクシャータはそれを無闇に茶化すでも拭い去ろうとするでもなく、「お互い様さ」と一言だけ添えた。
「私が貴女の立場なら、とっくに改宗しているわ。何をやってもお小言がついてまわるんだもの。赤ん坊の頃、何一つ自分で選べない不可抗力な時代に特別な水を浴びせられ、聖女の名前を勲章みたいに飾り付けられて。はじめから熱心な信徒であることを決められている。……可笑しい話よね? 言葉すら話せず、ただ母親の愛とミルク、それと温かい毛布だけを欲しがっていた頃の話なのに」
「くっくっくっ」
ラクシャータは喉の奥で愉快そうに笑った。読み終えた最新号の学術誌を静かな音でテーブルへ置く。遠巻きに様子を窺う従者や研究員たちの視線などどこ吹く風で、彼女のしなやかな指先が白衣のポケットへと潜り込み、電子キセルを取り出そうとした。
その瞬間、ティラナの背後に控えていた厳めしい気配の女官が一歩前へ踏み出さざるを得なかった。
「失礼いたします。お控えください」
ティラナの懐妊は、まだ限られた側近にしか明かされていない国家機密であった。
「……ありゃ? ……悪かったよ」
無駄な肉のない指先はすんなりと空を掴み、大人しく下がる。不快感を示すでもなく、ラクシャータは肩をすくめた。
「けれど、研究なんてそういうものでしょう? 欲望が強く無ければ、意欲も執念も生まれやしない」
「私の知っている科学者は、もう少し欲張りよ」
「それじゃあ、私はもっと欲張りね!」
ティラナは弾むように可憐な笑声を上げた。
「へえ?」
髪と同じ黄金色の曲眉がしなやかに持ち上がり、ラクシャータの瞳に鋭い知性の光が宿る。前のめりになった彼女の体重を受け止め、ソファの金属スプリングと革が軋む小さな音が響いた。才媛ラクシャータ・チャウラーの雰囲気が一変する。
「アカデミー帰りの貴女を招聘したのは、その欲望を買ってのことだもの」
サイバネティクス分野で目覚ましい功績を挙げた才女が故郷へ凱旋すると聞きつけ、正式な帰国手続きが完了する前に、この特別区の研究施設へ招いたのは他でもないティラナ自身だった。
「私はね、女王サマの研究からヒントを貰って、いい感じの義肢を作っただけさ。それが留学のパスポートになった。とっても感謝しているよ」
「あら、嬉しい。……その義肢は、戦場から生還した兵士の社会復帰にも、先天的な障害を抱える人々の医療にも大いに役立てられているわ」
「私たちの努力が、ちゃんと社会を巡っているってわけだ。……それで、お次の野望ってのは何だい?」
ラクシャータの問いにしばし考え込んでふさわしい答えを探る。
「――戦争に利用されるようになった技術を、戦争の犠牲者へ返すこと」
「女王サマらしいね」
ティラナは肩を竦めた。
「でも、ただ返すだけじゃ足りないの」
「へえ?」
「研究を維持し続けるには、膨大なお金がいるでしょう?」
宙に視線を漂わせ、「なるほどねぇ」とラクシャータは深く頷いた。
「一人や二人を助けるためなら、私財を投げ打てばなんとでもなるわ。けれど、何十年も途切れずに維持し続けるなら『制度』が必要よ。優秀な研究者も、先進的な施設も、それを支える企業群もね」
「つまり?」
「巨大な『産業』にするのよ。誰も止められないくらいにね」
密閉された応接室の空気が、シンと静まり返った。
「……慈善事業じゃないってわけだ」
「ええ。慈善事業なら、私が死んだらそこで途絶えてしまうもの」
「……女王サマ、結構な欲張りじゃないか」
ティラナは片側の口角だけをキュッと持ち上げ、不敵に微笑んだ。
「最初からそう言っているでしょう?」
この経済特別区に数々の研究機関を集積させ、新たな雇用を生み出し、企業を呼び寄せ、世界中から頭脳を集める。そしてその成果を医療・軍事・産業の各分野へと幅広く波及させる。
だが、ティラナの真の狙いはその裏側にあった。
公には決して明かせない闇の事件――人体改造事件の被害者を救済するための超長期プロジェクト。その莫大な予算と研究リソースを永続的に確保するための、壮大な迷彩こそが、この経済特区なのだ。
個人的な資産で賄おうとすれば、必ずや鼻の利くジャーナリストや政敵に真相を嗅ぎ付けられる。だからこそ、国家規模の大義名分という巨大な隠れ蓑が必要だった。そしてその盤石な基盤を維持するためには、ラクシャータのような異能の天才が不可欠であった。
a.t.b.二〇一七 July
カストラリア中部 第十二経済特別区 先端生命科学総合研究所
四年の歳月を経て、同じ応接室で二人は再び固い握手を交わした。
「お久しぶりですね、ラクシャータ博士」
親交の握手を交わしながらも、口元から一向にキセルを外そうとしないラクシャータの態度に、同行していた若い研究員が慌てて声を潜めた。
「ラクシャータ! 無礼ですよ!」
「ああ、いいのよ。楽にして。彼女がこういう人柄なのはいつものことでしょう? 変人同士、馬が合うのよ。……それに、ここは敷居の高い王宮ではなく研究所の中だもの。肩書きなんて不要よ。……それより、ラクシャータ。近年はナイトメアフレームの開発にも手を広げているそうね?」
「あの頃は義肢止まりだったけどねぇ。……そうさ。やっと女王サマの理論を使えるところまで、機械の側が追いついてきたのよ」
『生存の可能性の拡張』――インド軍区から出向してきたラクシャータのKMF設計哲学は、根底においてティラナの目指す理念と完璧に合致していた。
操縦者の主体性を損なうことなく、生命の尊厳を守り、人間の可能性を極限まで押し広げる技術。
「調子が良さそうだね、おたくらも」
「ええ。万事順順調よ」
ソファに腰を下ろしたティラナは、最近世界を揺るがしている最大の関心事――『ゼロ』の名を念頭に置きながら、静かに言葉を継いだ。
「これから、ますます活況を迎えることになりそうね」
「ゼロ。一昨日は南部でブリタニア船籍の貿易船が爆破されて、即座に鎮圧されたとか。……少しずつ、きな臭くなってきたねぇ。今後、カストラリアの研究成果が兵器開発へ強力応用されることになる」
ラクシャータは電子キセルを口から外し、煙を細く吐き出すと、再び唇の端にくわえ直した。
「女王サマは、それが嫌かい?」
「いいえ」
ティラナは応接室の磨りガラスの向こう、ラボで黙々と作業を続ける下級研究員たちの姿へと視線を向けた。
「技術そのものに善悪はないもの。それをどう使うかは、使う側の人間の問題でしょう?」
「……ふうん」
「ただし」
ティラナの琥珀色の瞳が、まっすぐにラクシャータを射抜いた。
「研究者が自らの生み出した成果に対して、どこまでも無責任であっていいとは思わないわ」
「厳しいわねぇ。……けど、正論だ」
a.t.b.二〇一七 July
ブリタニア本国 中央法務局管轄・特別拘留センター
岩盤をくり抜いて作られた冷酷な地下洞窟の中に、最新の電子鉄格子が不気味な列をなしていた。湿った冷気と鉄の錆びた匂いが充満する通路を、寸分の狂いもない足取りで歩む男が一人。
「やあ。ここでの暮らしは、随分と窮屈そうだね。バトレー将軍……だったね?」
優雅で澄んだ声が暗闇に響く。囚人服に身を包み、床の冷たい石畳に丸まっていた男――バトレー・アスプリウスは、弾かれたように顔を上げた。
「こっ……これは! シュナイゼル殿下……!? このような無様極まりない姿でお目にかかりますこと、おぉお……お許しを……!」
バトレーは犬のように這いつくばり、床に激しく額を擦りつけた。クロヴィス亡き後、更迭されタンブル島への永久投獄を待つばかりだった男の全身が、屈辱と恐怖で激しく震えている。
シュナイゼルは静かな眼差しで見下ろしながら、甘やかな声音で語りかけた。
「君の長年にわたるクロヴィスへの忠義心と、積み重ねてきた功績に免じてね。……私のもとで、あの研究を引き続き頑張ってはくれないだろうか?」
「……っ! シュナイゼル殿下……!」
バトレーは大きく目を見開いた。絶望の淵に差し伸べられた思いがけない救済の手。溢れ出す随喜の涙が、ポタポタと囚人服の袖を濡らしていく。
「な、なんという……ありがたきお言葉……! その温情に、我がバトレー、この命を粉骨砕身捧げる覚悟でつかまつります……!」
シュナイゼルは看守に向けて、短く顎をしゃくった。電子音が鳴り響き、重厚な鉄格子が静かに上へとスライドしていく。暗がりの中で、第二皇子の唇が美しい弧を描いていた。
河口湖での鮮烈な人質救出劇以来、世間の話題は『黒の騎士団』と『ゼロ』の一色に染まりつつあった。
ゼロが世界に向けて宣言した通り、彼らは徹底して「弱者の味方」として振る舞った。民間人を無差別に巻き込むテロリスト、力に任せて横暴を極めるブリタニア軍、利権に群がる汚職政治家、営利主義の巨大企業、そして地下の犯罪組織――法の手が届かぬあらゆる「悪」を、彼らは一方的に断罪し続けたのだ。民衆はその暴力的なまでに鮮やかな正義に、熱狂的な喝采を送っていた。
a.t.b.二〇一七 July
カストラリア王宮・ダイニングルーム
光の差し込むダイニングルームで、ティラナは一人、静かな昼食をとっていた。
手元の端末には目まぐるしく変化する世界情勢のデータが流れ、傍らに置かれたタブロイド紙の見出しが躍っている。ポーチドエッグの黄身をナイフで割る指先が、微かに止まった。
各種薬品の増産要請、各国との裏外交、補給ルートの確保――計画そのものは極めて順調であった。しかし、エリア十一で急速に拡大するこの熱狂は、遠からずアジア全域の均衡を崩す波浪となるだろう。
「武器を持たない者のために、自らが武器を持つ……。単なる暴力の再生産だわ」
小さく呟いた時、ダイニングルームの重厚な扉が控えめにノックされた。
「お食事中失礼いたします、陛下。ロンハード首相がお見えです」
「こちらこそお待たせしてごめんなさいね。閣下、どうぞお掛けになって。報告を聞かせて頂戴」
席を立つことなく促すティラナへ、高級なスーツを隙なく着こなしたロンハード首相が深々と一礼し、歩み寄ってきた。
「すでにお耳に入っていることと存じますが、製薬各社への増産要請を受け、全ラインの体制移行が完了いたしました。需要の急増に伴い、関連企業の株価も総じて著しい上昇傾向にございます」
「この新聞に書いてある通りね。まさに追い風……。けれど、これは特需を喜ぶべきなのかしら? 私、死の商人になった覚えはなくてよ」
「……陛下。我が国が目指しているのは、生の商人≠ナはございませんか?」
眼鏡の奥の目を細め、ロンハードが静かに言った。ティラナはフォークを置き、自嘲気味に微笑んだ。
「あら、優しいのねロンハード。……けれど、戦場から生きて戻った兵士の誰もが、ただ『生き続けること』を切に願っているわけではないこと……貴方もよくご存知でしょう?」
「ええ……もちろんでございます。だからこそ我が国は、傷病兵や退役軍人に対して他国に類を見ないほど手厚い支援と生活保障を制度化しているのです」
「戦場で死ねば、その責任は国家にあるわ。けれど完璧に復元しなかった兵士は、癒えない心の傷を抱えたまま生き直さなければならない。そしてその責め苦は『命を救った医療』へと転嫁される……。完璧に元通りになると我が国の先進医療に夢と希望を託すけれど、医学は心の傷まで綺麗に洗い流せるわけではないもの」
ティラナは切なく澄んだ瞳で、窓の外の青空を見つめた。
「人々が精神の死を完全に克服することができたなら、ノーベル平和賞でも貰えるかしらね。でも、そんなことは不可能なのよ。誰にも、他人の絶望の本当の深さなんて分からないのだから」
「……なんともまあ、哲学的な領域でございますな」
壁際に佇んでいた侍従長ハーゲンが、痛ましそうな心配の眼差しでティラナの横顔を窺っていた。
「……ふふ、ごめんなさい。ロンハード、報告を続けて?」
首相は指先で静かに眼鏡の位置を直し、「ええ」と深く頷いた。
滑らかかな革張りのシートが微かに揺れるリムジンの車内。遮音性の高い複層ガラスの向こうには、どこまでも静けさを湛えた白樺の樹海が広がっていた。細く伸びた白い幹が規則正しく建ち並び、その足下には深緑のシダや苔が湿った黒土を覆い尽くしている。木漏れ日が斑模様となって車内をかすめては消えていった。
「陛下。……無理にご訪問される必要はないと、私は思うのです」
向かい合うボックスシートの斜め前に座るハーゲンが、重い口を開いた。その眼差しには、主に対する深い心配の色が滲む。
「……さっきの話のこと?」
「はい。……陛下はすでに、十分に尽くしてこられました」
ティラナは窓の外へ視線を向けたまま、短く吐息を漏らした。
「そうかしら。……ハーゲン、ねえみて! いい天気ね。こんな日にはみんなで日向ぼっこをしたら楽しいわね」
彼女の明るい声とは裏腹に、車窓の向こうの景色は人里離れた静謐の奥へ奥へと深く潜っていく。白樺の隙間に時折混じるハシバミやもみの枝葉が、冷たい風にそよそよと揺れ、やがて樹木が途切れると、石灰岩を精緻に切り出して作られた無骨な石造りの屋敷が見えてくる。
『ハイマート・ハウス』。
人体改造事件の被害者たちが身を寄せる療養施設である。カストラリア国内に散在する三カ所のうち、この日ティラナが足を運んだのは、中部最北の原生林に抱かれた場所だった。
ハイマート・ハウスの広々とした食堂では、十数人の元被験者たちが午後のお茶を楽しんでいるはずだった。しかし、その平静は一瞬にして打ち砕かれる。
「出て行け!!」
甲高い叫び声とともに、ガラスが砕け散る激しい音が響き渡った。床に叩きつけられた瓶入りジャムから、べっとりとした甘く赤いとろみのある液体が、血飛沫のように飛び散る。
「俺たちを……モルモットにして楽しいんだろッ!?」
和やかな午後の時間は途端に凍りつき、頭上から鋭い雹が降り落ちてきたかのような刺々しい緊張感が空間を支配した。車椅子に乗った男――カインが、胸を大きく上下させながら狂乱の瞳で出入り口に立つティラナを睨みつけている。慌てた職員たちが、制止のために駆け寄った。
「陛下……」
今日はもうお暇いたしましょう≠ニハーゲンは前に立つ若い女王の耳元に囁きかけた。
その囁き声すらも、過敏になった彼らの神経を刺激してしまうのではないか。ティラナは短く首を横に振った。
「大丈夫よ。……今日が初めてじゃないんだから」
その時。騒ぎを聞きつけて食堂にやってきたのは、ハイマート・ハウスの所長を務めるクリスティン・ハーロットであった。かつてシュミーダー姓を名乗り、ティラナの指導教官でもあった彼女は落ち着いた佇まいで深く首を垂れた。ティラナは乱れた食堂の光景から目を逸らし、クリスティンに語りかける。
「……彼女は元気?」
「はい。外でピクニックをしたいというので、職員と一緒に庭の方へ向かわれました」
「ありがとう。クリスも元気そうね」
「おかげさまで。陛下」
短く膝を折り、クリスティンは穏やかに微笑んだ。旧姓のハーロットに戻した彼女の瞳には、包み込むような慈愛が宿っていた。
「……今日は、彼女に会ってから帰るわ」
庭へと続く廊下を並んで歩きながら、ティラナは思い出したように尋ねた。
「ヴァラヌマブの新規改良型がもうすぐ完成するそうよ。ご存知?」
「はい。……個人的に辛いことでも、人類社会への貢献は絶やされるものではありませんから」
「承諾をしてくれて感謝しているわ。クリス」
「老いさらばえた私はここで終わっても、若い方たちが継承する。その功罪さえも」
「……そうね。そのとおり」
自分の研究の産物によって生じた被害者たちのために、終の住処をつくりその生活を保障する。クリスティンは残りの人生をそうすると決めたひとりだった。
「……ありがとう。クリス。提案を受け入れてくれて。ハイマート・ハウスのことも……」
「なんなりと仰せください。お役に立てるのであれば」
クリスティンは言葉を切り、そして「陛下は……私たちの希望の光でございますから」と続けた。
苦々しい思いで、どうにかティラナはその言葉を受け止める。二人は静かに囁き合い、木漏れ日の差し込むテラスの扉を開けた。
手入れの行き届いた芝生の広がる庭園の一角に、色鮮やかな敷物が拡げられていた。そこにぽつんと腰を下ろしている女性の元へ歩み寄る。
「ごきげんよう。ミレーヌ。美味しそうなクッキーね」
「……ごきげんよう。プリンセス」
プリンセス=\―そう呼ぶ彼女、ミレーヌ・ド・サンジェルマンの時間は止まっている。正確には、何度新しい時事に関する情報を教え直しても、古い時の世界の情報に止まってしまうのだ。だから、彼女のなかではティラナは女王ではなく、プリンセスだった。記憶だけではなく言動も、最も新しい過去の年齢のまま。成人女性にしては年頃の少女のようで、ワンピースも十年前に流行したデザインのものを着ている。
もはやミレーヌに何かを言い聞かせたり、新しいことを教え込むひとはいなくなった。なにかが切っ掛けで、自殺のトリガーになるからだと医師が判断したからだ。数え切れないほどの回数、彼女は天の国の扉から追い出されている。
不意に声をかけられたミレーヌは、ゆっくりと顔を上げた。小さく開いた口端からぽろっと焼き菓子のくずが零れ落ちる。彼女は「あ」と声をあげて指先でそっと拭った。
「今のは……なかったことにして?」
「ええ。なんのこと? 美味しそうなクッキーね。私にも一枚いただける?」
「はい、どうぞ」
銀盆の上に敷かれた白い敷紙には、さくさくとしたショートブレッド、綺麗に絞り出されたプレーン、ココアの丸型や星型、中央に艶やかなジャムが乗ったものなど、趣向を凝らした焼き菓子が並んでいた。ミレーヌはその中から、一番大きなジャムクッキーを指先で摘まみ、ティラナへと差し出した。
「ありがとう。ジャムは……ブルーベリーね。手作りしたの?」
「ええ。他にすることがないから」
ハイマート・ハウスに足を踏み入れた者が、再び外の実社会へと復帰できた例はない。誰もが一生をこの閉ざされた森で終えるのだ。奇跡的に家族に引き取られたとしても、二次障害を引き起こしてやむを得ず戻ってくる者、著しい記憶障害と離人症から部屋の一角から頑なに動こうとしない者、突発的に脱走を試みる者、他者への激しい加害衝動を抑えられず隔離部屋で過ごす者。そして――このミレーヌのように、帰るべき身寄りすら失った者がいた。
ティラナは可憐なワンピースの裾を丁寧に押さえ、彼女の隣に腰を下ろした。
「お邪魔するわね」
熱の失われた、どこか力のない微笑だけを返し、ミレーヌは再び庭の緑一面へと視線を投げた。風にそよぐ森のささめき、白い蝶の淡い羽ばたき。口の中に広がる香ばしい甘さと、紅茶の深い香りが五感を優しく満たしていく。まるで、この場所だけ世界中の時計の針が止まってしまったかのような錯覚を覚える。
「――――」
「どれも同じ」
「え?」
静寂を破ったミレーヌの呟きに、ティラナは首を傾げた。
「味の違うクッキーも、茶葉の異なる紅茶も。何を食べても、全部同じだから」
「ミレーヌ……」
「毎日同じなの。私にとって、この場所にいることと同じ。……私のなかに、私の人生に、彼がいなくなってしまってから。私は、水に濡れてしまった薪。燃えない古い炭。火のない暖炉。煙を出さない煙突なのよ」
「……ミレーヌ」
ミレーヌには、かつて命を捧げた想い人がいた。自分自身は家族に利用され、家族は自分を利用し、そして愛した彼さえも実験によって別の存在へと変えられてしまったのだ。
「……私は、待っているの。彼は……やるべきことがあると言って……せっかく再会できたのに、私を置いてどこかへ行ってしまった」
「情熱的なキスだったわ」と付け足して、ミレーヌの虚無的だった瞳に、淡い感情の揺らめきが滲む。震える睫毛を伝い、反対側の頬を筋となって一筋の涙が濡らした。その瞬間の記憶を慈しむように、ほっそりとした指先が自身の唇を優しくなぞる。
「雨が降っていたわ。彼はずぶ濡れで、私を迎えに来て……それからバイクの後ろに乗って、夜のデートをしたの。山荘まで、手を引いて歩いた」
一月の腐葉土が流れ出した林道の暗い道。泥濘んだ足下。木の葉から落ちる大きな水滴が、髪を重く湿らせていく。ベアトリーチェという別の女性の身体を与えられたミレーヌの白い手は、あの夜、寒さで凍えるようにかじかんでいた。
「彼の名前は……?」
山荘にミレーヌを匿った後、追い縋る彼女を引き離すために彼の望みを叶えた。ティラナはその記憶の糸を手繰り寄せるように問いかける。
「ノエル」
一瞬、閃光がパッと曇天を突き破り、世界を昼のように白く染め上げた。遅れて重い雷鳴が地響きを立てる。
「ノエル・アストリアス」
その名を聞いた瞬間、ティラナの背筋をぞわりと正体不明の粟立ちが駆け抜けた。理由のわからない寒気と、なぜだかその名を遠い昔に何度も呼ばれたことがあるような、恐ろしいほど奇妙な既視感が脳裏を支配する。
「ねえ、ノエルはどこ? 必ず戻ってくるって言ってたわ。私、彼に会いたい。もうそれだけでいいの。私が望むことは……」
助けてあげたい――とティラナは強く思った。彼を探し出して、ミレーヌに引き合わせてあげよう、と。しかし、そう決意した己の心根に対して、ぬぐい去れない違和感と胸騒ぎが泥のように残った。
ミレーヌとの談話を終え、ハイマート・ハウスの薄暗い廊下へと戻ってきたティラナの足取りは重かった。壁際で待機していたハーゲンが、手帳を手に歩み寄る。
「陛下。本日の残りの予定でございますが……、陛下?」
「……ハーゲン……あの……、私、訊きたいことがあるの」
「はい。なんなりと」
ティラナが喉まで出かかった問いを口にしようとしたその時――。
「出てけ!!」
地響きのような男の叫び声が、廊下の防音壁を突き破って反響した。ティラナはハッと息を呑み、声の発生源である開いた扉の部屋へと吸い寄せられるように近づいていく。
部屋の中では、一人の患者が姿見の鏡に向かって恐ろしい相貌で怒声を浴びせていた。
ダン、ダン、ダダン、と男は全身鏡の前で地団駄を踏み、硬い拳で何度も何度も自分自身の頭部を殴りつけている。
「出てけ!! クソッタレがッ!」
鏡に映っているのは、大きな腫瘍のようなたん瘤、赤紫色の不気味な斑点が浮かぶ皮膚、ミミズ腫れの傷跡が連なる頬、そして自ら掻きむしったことで地肌が痛々しく露出した頭頂部であった。
激しい自傷行為。彼は、鏡に映る自分とは異なる『他者の皮』を被せられたことへの強烈な嫌悪と違和感から、鏡の中の自分に向かって「出て行け」と叫び続けているのだ。自己破壊への衝動、底なしの虚脱感、無気力。そして薄く長くつきまとう希死念慮。それらはすべて、人体改造という人道に悖る処置の末に生じた、悪魔のような副作用であった。
背後から様子を窺っていたティラナに、診療録を手にした専属医師が静かに声をかけた。
「……陛下。あちらの部屋も……」
医師が指し示した隣の居室の扉。その僅かな隙間から、ティラナは部屋の中を覗き込んだ。ベッドの縁に腰掛け、力なく膝を折った男が、狂人のようにブツブツと呟き続けている。
「おしまいだ。……もう、おしまいなんだ……」
医師が声を潜めて説明を付け加えた。
「彼はアンソニーといって……先日亡くなったクレインの弟です。……兄の方は、数日前にこの隣室で……縊死を遂げました」
「……クレインが……? ……そんな……とても悲しいわ。お悔やみを……」
「は……」
この施設にいる者たちに共通しているのは、捻じ曲げられてしまった人生に対する深い悲観であった。取り返しのつかない時間。奪われた健康。手に入るはずのなかった、逃してしまった数々の希望。生きることへの情熱や、ささやかな日々の幸せ。息をすることすら苦しい時間の最中でさえ、彼らはそれらを指の隙間からこぼし続けている。
ちょうどそこへ、足音を荒立てて廊下をやってくる人影があった。亡くなった兄弟の親族――面会に訪れた身内であった。
「どうして!? 助かったのに、なんで死んじゃったのよ〜ッ!」
老いた母親だろうか、それとも年の離れた姉だろうか。――しかし、彼らには血族が殆どいないことを知っていた。衰えた身体で職員の服に縋りつき、石造りの廊下に響き渡る声で泣き叫ぶ姿に、ティラナは圧倒され、言葉を失ってその場に立ち尽くした。
壊れたまま生き続けなければならないことへの、絶望の悲鳴。それが耳鳴りのような不快な高音となって、冷たい空気の中を伝わっていく。
耐えがたい空気から逃れるように、ティラナはハイマート・ハウスの正面玄関を出て、待機していたリムジンへと向かった。
その時だった。
「死ねッ!」
二階の窓枠から、ずっしりと重いジャムの瓶が勢いよく投げつけられた。パリンと甲高い音を立てて石畳の上に砕け散り、粘着質な赤い液体と鋭いガラス片がティラナの靴の目と鼻の先に飛び散る。
「きゃっ……!」
「陛下!」
ハーゲンをはじめとする護衛兵が一斉に庇い立ち、ティラナの身体を抱えるようにして安全な車陰へと移動させた。見上げると、二階の窓から身を乗り出したカインが、血走った目で叫んでいた。
「人殺し! 人殺し! 二度と来るな! この、悪魔めッ! 地獄へ落ちろ!」
駆けつけた職員たちによって、カインの身体が力任せに室内へと引き戻されていく。
車内に押し込まれたティラナの頭の中を、亡くなったクレインの面影が駆け巡っていた。
彼は、このハイマート・ハウスの中で誰よりも皮肉屋な青年だった。本を読むことが好きで、天気の良い日はいつもテラスの隅で、分厚く日に焼けた古書を一日中開いていた。文字を追い、インクの香りの向こう側にある世界へ逃避することだけが、彼をこの現実繋ぎ止める唯一の鎖であったかのように。
以前、ティラナが彼の元を訪れた際、クレインは本から目を切らさぬまま、ぽつり、ぽつりと語り出したのだった。感情の削ぎ落とされた声。しかし、その言葉の裏には、生き地獄に喘ぐ悲痛な叫びが込められていた。
『――これが、俺の戻るべき現実だったのか? 魔法が解けたら、貧乏で学のない、ろくに生きる手立てのないガキが、不幸な現実に目覚めただけだよ。……俺が死んだら、あんたは人殺しだ。――全部知ってるよ。この身体を替える手術には、あんたの研究の成果がなかったら実現できなかったってハナシ。ここにいる奴は、みんな知ってるんだ』
黄ばんだ紙面からほんの少しだけ視線が外れ、あの時初めて、クレインと目が合った。
『……あんたが心底羨ましいよ。賢くて、人を従えて、可哀想な人を助けて、感謝されて。さぞかし気分がいいだろうね。美味いもんを食って、人になんでもやってもらえて……人に、必要とされてさ』
その冷ややかな言葉が、今になって何度も、何度も大波のように押し寄せてくる。止めようとすればするほど、胸の奥で波紋は大きく広がっていく。
クレインの投げつけた冷ややかな言の葉が、いまや逃れようのない濁流となって脳腔を打ち叩き、胸の奥で恐ろしいほどの渦を巻いていた。
「……人殺し」
か細い呟きが、密閉された車内に虚しく響く。
自分の着ている上質なシルクの衣類も、爪先まで磨き上げられた靴も、すべては踏みつけにされた誰かの犠牲と流血の上に成り立っている。自分は彼らに救いを差し伸べる『優しき女王』などではなく、ただの略奪者に過ぎなかったのではないか。逃げ場のない自己嫌悪と罪悪感が、毒となって体内をめぐっていく。
王宮の執務室へと戻ったティラナは、誰の差し伸べる手も拒み、たった一人で机に向かった。
ノートを開き、手に馴染んだ万年筆を握りしめる。だが、抑えようのない震えが手首から指先へと伝わり、走らせたペン先は波打つどころか、紙を無残に引き裂くだけだった。黒いインクが、まるで吐血のように白い紙面へ不吉に滲んでいく。
まともな文字すら書けない。書き直そうと試みるたび、脳裏でカインの叫びと、命を絶ったクレインの冷ややかな眼差しが嘲笑う。
「くっ……あぁっ……!」
苛立ちと絶望に任せて紙をむしり取り、ぐしゃぐしゃに丸めて床へ投げ捨てた。握りしめていた万年筆を絨毯へ叩きつけると、細い軸は鈍い音を立てて跳ね、高価なインクが美しいペルシャ絨毯を汚した。
静まり返った部屋のなか、ティラナの瞳から涙が溢れ出した。だが、それは悲劇のヒロインに浸るための涙などではない。自らの偽善と無力さを痛感させられる、灼熱の酸のような涙だった。ポロポロと床を濡らす雫を拭うことすら、今の己には許されない免罪符のように思えた。
彼女は机に伏し、息も絶え絶えに身をよじらせた。
「私は……間違っているの……? ねえ、お父様……っ……」
嗚咽はいつしか掠れた息遣いへと変わり、執務室の広い静寂の中へと消えていった。
だが、涙が枯れ果てたあとに訪れたのは、穏やかな諦念などではなかった。脳内で何度も何度も再生されるクレインの冷ややかな眼差しと、カインの血吐くような叫び――『人殺し』『悪魔』。それらの言葉が、容赦なく彼女の精神のタガを外していく。
――私が彼らを救った? いいえ、私は私の『綺麗で慈悲深い女王』という仮面を守るために、あの地獄を維持していたのではないの?
思考の輪郭がぐにゃりと歪み始める。過剰な自責の炎は、すでに正気と狂気の境目を焼き切りつつあった。
不意に、呼吸の仕方を忘れたかのように胸が激しく上下し始めた。酸素が上手く肺に届かない。喉の奥が引き攣り、胃の底からせり上がる強い悪心に襲われる。
「はっ……ぁ……っ、く……」
床に散らばった、破れかけた紙片と黒いインクの染み。ティラナは這うようにしてそれへ膝を滑らせた。高価なシルクのナイトドレスの裾が、ドロリと湿ったインクを吸い上げて汚れていく。だが、そんなことすら今の彼女には認識できない。
汚れた紙片を拾い上げようと伸ばした己の手元を凝視した瞬間、強烈な非現実感が彼女を襲った。
――これは……誰の手……?
自分の指先なのに、まるで無機質な蝋人形のパーツを見ているかのような感覚。触覚が遠のき、視界の端から色彩がすうっと削ぎ落とされていく。世界が急速に音を失い、分厚い氷の蓋の下。深い水底へと沈んでいくようだった。
「……あふ、ふ……っ」
乾いた唇から漏れたのは、嗚咽ではなく、壊れた玩具のような引き攣った歪な笑い声だった。
自分が差し伸べていた手は、救済の蜘蛛の糸などではなく、彼らの頸を絞める絞首縄だったのだ。そう理解した途端、これまで積み上げてきた理想も、正義も、カストラリアの女王としての尊厳も、すべてがカラカラと音を立てて砕け散っていく。
ティラナはインクで黒く汚れた指先で、床の絨毯を無心でガリガリと引っ掻き始めた。爪が剥がれそうなほどの力で、何度も、何度も。
「……私がいなくなれば……私が、死ねば……、死ねたらいいのに……」
クレインが羨ましいと思った。彼が自分自身に呪った身軽さを、ティラナが羨ましがる番だった。
空虚な琥珀色の瞳には、もう光など宿っていなかった。焦点の合わない視線が、暗い天井の隅を虚ろに彷徨う。自分が何者で、ここで何をしているのかすら、薄い霧の向こう側へと溶けて消えていく。
――ここに、モルヒネはいない。
いますぐに欲しいのに、電話をかけるにはこの長大な、エベレストのようにそびえる執務机によじ登らなければならない。
――彼がいれば、この危機的な夜を乗り越えられるはずなのに。
膨張しぐにゃりと歪んだ腕が、上手く持ち上がらない。
崩落した思考の底で、ただ一つだけ確かなのは、自分という存在が撒き散らしてきた『偽善の毒』に対する恐ろしいほどの拒絶反応だけだった。
「ごめんなさい……ごめんなさい……っ、ごめんなさい……ごめんなさい……」
誰に届くでもない謝罪を狂ったように呟きながら、ティラナは自らの腕を抱きしめ、冷たくなった床の上で小さく丸まった。まるで、世界そのものから自分の存在を消し去ってしまいたいと願うように。