アルケミストの失明U








 a.t.b. 二〇一七  July
 エリア十一 ブリタニア政庁


 姉の出立の日は、雲の多い日だった。
 広大な軍用輸送プラットホームの中央では、作戦に向けて輸送が始まっていた。
「エル・アラメイン戦線ではE.U.が攻勢に出ている。……カストラリア軍より衛生部隊のバックアップを受けて、持ち堪えている状況だ。我々としては、いつまでもこのエリア十一ごときに足止めされているわけにはいかんのだ。早急に内政を固め、衛生エリアにまで昇格させねばならん」
 振り返ったコーネリアの瞳には、凛とした主将としての威厳と、目の前に立つ幼き妹への溢れんばかりの親愛が同居していた。
「そのためにもテロ組織の撲滅は急務だが、それ以上にイレヴンの間に蔓延している薬物――『リフレイン』の問題が深刻だ。おかげで生産性が落ちている。……ここで中華連邦のキュウシュウルートを叩いておかねばならん。わかるな?」
「はい……。どうか、お気をつけて」
妹ユーフェミアの気遣わしげな声に、コーネリアはか弱い小鳥の羽を撫でるかのように優しくその肩へ手を置いた。
「お前こそ、もう租界からは出るなよ?」
「……お姉様。黒の騎士団のことは……」
「もう少し泳がせてやるさ。……お前を人質から無事に救い出してくれた借りもある。だが、ナリタから戻ってきたら……このエリアは私が完全に綺麗にして、お前に渡す。だから危ないことは考えるな。……な、ユフィ?」
 頬に触れていた姉の掌が離れる。
 姉の背中が扉の向こうへ消えた後も、ユーフェミアの胸の奥には冷たい澱のような疑問が残り続けていた。
 カワグチ湖ホテルジャック。あの闇の中、照明の落ちた閉鎖空間で手渡された死の予感。暗闇に溶け込む仮面の男――ゼロが突きつけてきた銃口。彼が語った、異母兄クロヴィス殺害の動機。

――『あの男が、ブリタニア皇帝の血を引く子だからだ。そういえば、貴方もそうでしたね。しかし、今は……』

 漆黒の人物。ゼロが言葉を途切れさせた意味。その背後には、まだ決して語られていない残酷な続きがあるのではないか。
――スザク……あなたなら、どう思うの? ゼロの行いを。……そして、私は……。
 掌を胸元でぎゅっと握りしめ、ユーフェミアは胸中に呟きを残した。



 a.t.b. 二〇一七  July
 ブリタニア 帝都ペンドラゴン近郊


「驚いたな。我が帝国には、本国の法務局すら関知していない密造ラボが、まだいくつか眠っているみたいだね」
 静寂の立ち込める地下施設の中、シュナイゼル・エル・ブリタニアの軽やかな足音が硬い石畳に響いた。
 そこは最新の実験機器が並ぶクリーンルームというよりは、古びた書類や羊皮紙が雑然と積み上げられた、資料保管用のバックオフィスのような薄暗い空間であった。壁際の棚にはびっしりとファイルが並び、足元には化学式や人体構造図の殴り書きされた用紙が散乱している。
「コードR……?」
シュナイゼルは長身をかがめ、棚に収められていた分厚いファイルを一冊手にとった。優美な指先が黄ばんだ紙面を繰る。そこに並ぶ複雑な数式、遺伝子配列の模式図、そして引用文献の注釈の数々。
シュナイゼルの青紫色の瞳が、細く鋭く光った。
「……ふむ。見覚えのある記述や、論文の引用がいくつもあるね」
 それらは、カストラリアの女王――ティラナ・ヴァル・カストリアが過去に発表した先進医療の基礎理論や、特区の極秘データベースから抽出されたと思われるデータと、気味が悪いほど酷似していた。
 シュナイゼルの背後に控えるバトレー・アスプリウスは、額から滝のような油汗を流し、激しく身体を震わせていた。
 亡きクロヴィス殿下の指示とはいえ、ティラナの研究成果を不法に盗用・改変し、非人道的な人体実験――『コードR』へと悪用していた事実。それが今、目の前に立つ第二皇子に完璧に見抜かれたのだ。もしこれが露呈すれば、今度こそタンブル島か処刑台へ送られるだろう。
「……そっ……それは……! 殿下、しかし……! これには相応の理由が……」
「咎めるつもりはないのだけれどね」
 シュナイゼルは掠れた声を上げるバトレーを振り返りもせず、穏やかな声音で言葉を重ねた。
「科学の発展や人類の進歩には、たとえそれが非ず道、邪道であろうとも、根や幹を共にする部分があるものだ。……だがね、それを行うのであれば、もう少し上手に隠してほしいところだよ。バトレー」
「はっ……! 殿下……ッ!」
 遠回しな冷徹な苦言に、バトレーは勢いよく床へ頭を擦りつけた。その顔は、激しい雨に打ちつけられた窓ガラスのように汗と涙で濡れている。
 亡きクロヴィスを偲ぶ間もなく、新たな主人となったシュナイゼル。帝国の頂点に立つこの男を取り巻く数々の噂と、その底知れぬ実力。配下となった以上、その真意に触れる機会を得たわけだが、後ろ暗い過去を持つバトレーには、ただ恐怖に身を竦めて俯くことしかできなかった。
「エリア十一には、まだその研究の残骸が残っていると?」
「はい……。私はこうして本国へ引き揚げてまいりましたが、重要なサンプルと資料はナリタの拠点に残してございます」
「そう、か。……エリア十一には、やはり注目すべきものが集まっているようだね」
「殿下……?」
 シュナイゼルは手にしたファイルを静かに棚へ戻すと、ふっと視線を遠くへ向けた。
「神根島……と言ったね。あの島で古代の遺跡が発見されたというのは」
「はい、殿下。間違いございません」
「どうやら我々は、最初から同じ頂上を目指していたようだね」
 その時、密室の重い扉が静かに開き、洗練された側近の姿が現れた。
「シュナイゼル殿下。至急のご報告がございます」
「……その様子だと、喫緊の用だね。カノン」
 シュナイゼルは短く頷くと、平伏したままのバトレーへと視線を落とした。
「すまないね、バトレー。今日は案内してくれて感謝するよ。神根島の調査に関する詳細は、また後日に決めよう」



 ナリタ連山。
 日本解放戦線の総本山が存在したその山岳地帯に対し、コーネリア総督率いるブリタニア軍は、四個大隊のナイトメアフレームを七隊に分けて布陣し、完璧な包囲奇襲作戦を実行に移した。
 圧倒的劣勢に追い詰められた日本解放戦線。だが、その絶体絶命の窮地。漁夫の利を得たのは、仮面の男ゼロ率いる『黒の騎士団』であった。
 日本初のナイトメアフレーム『紅蓮弐式』の投入、そしてナリタの豊かな水脈と地盤を利用した大規模な人工雪崩。巨大な土石流は、日本解放戦線のみならずブリタニア軍をも呑み込み、双方の戦力を等しく潰し去った。
 混乱の中で孤立し、死角を突かれて追い詰められたコーネリア。その絶体絶命の危機を打ち破ったのは、特別派遣嚮導技術部が誇る第七世代ナイトメア――ランスロットであった。

 しかし、戦場の渦中で謎の少女による不気味な精神干渉を受けたパイロット、枢木スザクは、過酷なフラッシュバックと激しいショックにより、搭乗するランスロットごと暴走する。やがてエナジーが尽きたあと、撤収を終えても、狭いコクピットの中で力みを逃す余力もなく、激しく呼吸を乱していた。
「――僕は……俺は……ッ!」
「スザクくん! スザクくん……! しっかりして!」
「スザク、聞こえていますか? スザク――」
ハッチを開け、セシルの悲痛な叫びも、ユーフェミアの心配も、混乱する彼の意識の底には届いていなかった。



 a.t.b.二〇一七 July
 エリア十一 ブリタニア政庁 軍務会議室


「総督の巧みな作戦により、日本解放戦線は事実上壊滅いたしました。逃走を続ける構成員も、各地で相次いで拘束されております」
文官の報告に対し、腕を組んだコーネリアは不機嫌さを露わにして吐き捨てた。
「それは私への嫌味か? 我が軍が立て直しを迫られているというのに」
「あ、いえ! そのようなつもりでは……!」
「そもそも、占領初期の政策そのものが間違っていたのではないか?」
 コーネリアの脇を固める親衛隊長またその専任騎士であるギルバート・G・P・ギルフォードが、険しい表情で文官たちを詰問する。
「何故、エリア十一の広大な地下鉄網や高山坑道を野放しに放置させたのだ? ゲットーにおける戸籍管理や各種の所有権設定も曖昧なままだ。これでは反政府活動の温床を自ら残しているようなものではないか!」
「え、ええ……地下鉄網は旧日本全土に張り巡らされておりまして、租界外の区画をすべて埋め立てるには莫大な予算が……」
「テロリストの絶好の拠点や逃走経路になると分かっていて放置したというのか!?」

――『Area 11, Assimilation Plan Outline(エリア11同同化計画概略)』――

 慌てる文官の手元の端末には、未完成の計画書が表示されていた。
「く、クロヴィス殿下のご指示でして……! あ、その……あまり強く圧力をかければ内乱状態を引き起こし、中華連邦に付け入る隙を与えることになると……」
「既に隙を与えている! ゼロという不吉な勢力が着実に力を付けているのがその証拠だ!」
 コーネリアの喝破に、文官は縮こまる。そこへ、ダールトン将軍が重々しく助け船を出した。
「事務次官。内政省の管理部には、このエリアの自治を司るイレヴンの代表者たちがおりましたな? 確か『NAC』と呼ばれていたグループだ」
「っ……!?」
「先日のナリタ作戦でNACの尻尾を掴みたかったのですが、関連資料は土砂の下に埋もれてしまいました。しかし、疑いは極めて濃厚です。ここを真っ先に抑えれば……」
「うむ。旧権力層たる名門と財閥の集合体か。もはや過去の遺物に過ぎんな」
 コーネリアの同意に対し、文官は青ざめた顔で声を張った。
「お、お待ちください! それはあくまで噂の域を出ず、決定的な証拠はございません! 彼らを力尽くで抑え込めば、イレヴンの経済自体が完全に立ち行かなくなります! 本国への徴税にも深刻な影響が出ましょうし……そもそも『ナンバーズはナンバーズ自身に面倒をみさせる』のが我が帝国の大原則で……」
「では、肝心の黒の騎士団の捜査状況はどうなっているのだ?」
 コーネリアのひやりとした問いに、文官は絞り出すような声で応じた。
「現場に残されていた大型シールドマシンから、ナリタの惨劇はゼロの手によるものと断定されましたが……回収された団員の死体からは、それ以上の有効な情報は……」
「キョウトには手を出すな、ゼロは追い詰められない……か。知っているか? 結果を伴わぬ者を、世間では『無能』と呼ぶのだ」
 コーネリアの冷ややかな一言に、会議室全体が氷のように凍りついた。



 a.t.b.二〇一七 July
 エリア十一 キョウト某所


 仄暗い和室の中央、小さな囲炉裏から揺らめく煙が天井へと昇っていた。
 部屋を覆う重厚な御簾の向こう側には、幼くも気品に満ちたシルエット――皇神楽耶が座している。
「ブリタニアの皇女が、これほどの武質を備えておられるとはな……。日本解放戦線は雲散霧消し、我が国の灯火は完全に消え去りました」
「待たれよ! 逃走中とはいえ、奇跡の藤堂は未だ健在ですぞ!」
「然れども、無頼改の全機までも失ったと聞き及んでいる。最早、我らに希望など……」
 老練な男たちの間に、湿った灰のような絶望と深い溜息が落ちる。囲炉裏の炭がパチと小さく爆ぜたその刹那、重苦しい静寂を切り裂いて、澄んだ声が御簾の奥から滑り出した。
「希望なら、ございますわ」
 御簾の奥――艶やかな漆黒の長髪を揺らし、幼き首を傾げる神楽耶。囲炉裏を囲んでいた老練な男たちが、一斉に御簾の向こうを振り返った。
「黒の騎士団……か。あの紅蓮弐式といい、先の枢木スザク救出劇以来、神楽耶様は随分とあのゼロにご執心ですな」
 その時、静かな廊下の向こうから控えていた童の清らかな声がかかる。
「神楽耶様、特使がお見えです」
 姿を現したのは、カストラリア王国から派遣された商工使節団の密使であった。カストラリアがエリア十一内で行っている独自の内偵業務について、事前に筋を通すべく密かに訪れたのだ。
 神楽耶は扇を静かに開き、口元を覆った。
「ほら……私たちには、既に心強い味方がおりますもの」
 しかし、四人のうち一人が、苦々しい表情で黒い羽織を翻して立ち上がった。刑部辰世であった。
「味方……? しかし神楽耶様、カストラリアは所詮、ブリタニアという巨大な猛獣の威光に与かる残飯食いのハイエナに過ぎん……! 足がつきますぞ! 下がれ貴様、撃つぞッ!」
 刑部が懐から拳銃を抜き放ち、特使へと銃口を向けた。
「おやめなさい!」
 神楽耶の一声が、部屋の空気をピリリと引き締めた。
「無闇な殺生、ここを何処と知っての言動か。それとも幾度となく我らに極秘裏の物資支援を尽くしてきた、かの国への義理と信を、もうお忘れになられましたか?」
 厳しく咎められた男は、忌々しそうに銃を収めた。神楽耶は御簾越しに特使へと穏やかな視線を注ぐ。
「国と個とは、分かたれているもの。……その者たちの仕える主は、ただこの地の『耳』となるだけに過ぎないのでしょう?」
 カストラリアの特使は、静かに、そして深く首を垂れた。



 a.t.b.二〇一七 July
 エリア十一 ナリタ連山麓


 土石流が揉み潰した惨状のなか、ブリタニア軍による救出作業と遺体回収がしとしとと雨の降る中で続けられていた。緑色の大型テントの下には、回収された遺体を入れた白い袋が何十、何百ともなく並べられている。
 その傍らで、パイロットスーツ姿の枢木スザクは、冷えたペットボトルの水を喉へと流し込んでいた。
 脳裏から離れないのは、ランスロットの動きを完全に封じ込めた、あの緑色の髪の不思議な少女の不可解な存在感。
――本当にいたんだろうか、彼女はあそこに。それに……あの時見えた、不気味な映像は……。
 スザクはペットボトルの残りの水を、自身の頭頂部から一気に浴びた。冷たさが頭皮を打つ。
――忘れろ! ランスロットのデータログには、何の反応も残っちゃいないんだ……!

「もう満足したかい? 死体発掘作業は」
 飄々とした声とともに近づいてきたのは、主任のロイド・アスプルンドだった。少し離れた野外整備スペースでは、ランスロットのエナジーフィラー交換作業が進められている。
「……できれば、もう少し救出作業に従事させてください」
「なら、気が済むまでどうぞ。一応、コーネリア殿下からの直々の要請でもあるからね」
 スザクは短く頷いたが、胸の奥から湧き上がる衝動を抑えきれず、ロイドを見つめた。
「……ロイドさん。ゼロは……黒の騎士団は、一体何をしようとしているんでしょう? これほど無体な犠牲の上に、一体何が築けると思っているんでしょうか!?」
「『正義の味方』だろ? 本人の言葉をそのまま信じるならね」
「これが……これが正義だというのですか!?」
 スザクの手の中で、空になったペットボトルがメリメリと音を立てて歪んだ。ロイドは呆れたように肩をすくめる。
「おいおい。まさか僕に向かって『正義とは何か』なんて、恥ずかしい議論を吹っかける気じゃあるまいね? 僕らは一応、軍人だよ?」
 その時、スザクの視界の端に、見知った姿が映り込んだ。アッシュフォード学園高等部の同級生であるシャーリー・フェネットと、彼女の母親が、急ぎ足でのテントの中へと消えていく。
「終わったわよー! エナジーフィラーの交換!」
 遠くからセシルの明るい声が響く。スザクはハッと正気に戻り、「はっ、はい!」と短く応えると、シャーリーたちから目を背けるようにしてランスロットの待機場所へと駆け出していった。

 操作盤の前に立つセシルは、純白の装甲を光らせるランスロットを不安げに見上げている。ロイドがその隣へと歩み寄った。
「セシル君」
「……調べました。純血派の機体に残されていた不可解な損傷のデータを……」
「やっぱり、あれかい?」
「はい。間違いありません……『輻射波動』です」
「まっさかぁ。敵に協力するなんてねぇ……あのラクシャータが」
 ロイドの顔から、いつものふざけた笑みが一瞬消えた。セシルは眉をひそめ、声を落とす。
「敵のパイロットも間違いなくエース級です。スザク君の精神状態が不安定な今、もし再びあの機体と交戦することになったら……」
「勝てないって言うつもりかい? この僕の、最高傑作であるランスロットが?」
 軽薄な口調を取り戻そうとするロイドに、セシルは言いづらそうに視線を落とした。
「……ロイドさん。スザク君のことなんですけれど」
「ん?」
「……日本侵攻時における、ブリタニア軍内部の過去記録の閲覧について、彼から相談を受けていて……」
 セシルは口元を固く結んだ。
「閲覧権限は、一定以上の階級がないと難しいって話は、もうしたんだろ?」
「以前、伝えました。でも……」
「でも、なにさ? 僕に権力を使ってなんとかしろって?」
「そういうわけでは……ただの情報共有のつもりです」
ロイドは浅い溜息をつき、ランスロットからセシルの顔に向けた。
「名誉ブリタニア人に対する偏見は根強い。下手に軍の機密データベースを探らせたりしてみなよ。今の彼の立場だって一発で危うくなる。……いくら天下の第二皇子殿下の直属部隊だからって、何のお咎めもなしとはいかない。 ……それとも何かい? 君は彼が、本当に敵のスパイだとでも疑っているのかい?」
「ロイドさんッ!」
 強い抗議の声を上げたセシルに、ロイドは「ひゃ〜ッ!」とおどけて両手を挙げ、煙に巻くようにくるりと背を向けたのだった。



 a.t.b.二〇一七 July
 カストラリア王宮 中庭
 

「陛下。ブリタニアより、シュナイゼル殿下から通信でございます。……陛下?」
 眩い夏の光が眩暈のように降り注ぐ中庭で、侍従が反応の薄い主人へとおずおずと視線を向けた。サマーベッドの上で広げられたタブロイド紙の影から、気怠げな声がゆっくりと重なる。
「ん〜……。今夜、こっちから折り返すって伝えてくれる?」
「……承知いたしました」
 退出しようとした侍従の足を、女王のすっと上がった指先が引き留めた。侍従は近くに控えていたもう一人の従僕へ目配せを送り、殿下への伝言を任せる。
 決して多忙を極める政務の最中というわけではない。ゆったりとした浅緑の薄い綿のロングチュニックワンピースに身を包み、のんびりと揺れる深い木陰の中に佇むその姿。目と鼻の先では、父親譲りの艶やかな金髪を輝かせた小さな王子――ルークが、子犬のクルーと無邪気な水遊びに興じていた。
 帝国の宰相たるシュナイゼルからの連絡を後回しにできる人物など、この世界広しといえども、かのブリタニア皇帝の他にはこのカストラリア女王をおいて他にいないだろう。大きなサングラスに覆われた目元の色は、影の中に隠れて伺い知ることはできない。しかし、先の視察から戻られて以降、女王の気落ちが著しいことは従者や臣下の間でも密かに共有されており、皆が腫れ物に触るような慎重さで仕えていた。
「ヴァルグレイの準備は予定通り進んでいるかしら?」
「はい、陛下。万事順調に」
「……使節団もエリア十一で活動を始めたことだし、これで後手に回ることは少なくなるでしょう。警戒されるのを見越して送り込んだのだけれど……そればかりか、あちらは私に過度な期待をしているのかもしれないわ。……自惚れかもしれないけど」
 女王の言葉に侍従は深く頷いた。
「お考え通りの魂胆はおありでしょう。皇コンツェルンは、滞在中の協力を惜しまないと申し出ております」
「……見返りを用意しておけということね。でも、どうかしら。……もしも彼らが、新興のテロリストに加担するような真似をしているのなら、都合よく応じるわけにはいかないわ。……そこは筋を通さなくちゃ。何より、ブリタニアに対してね。……それと、もう一件。彼の捜査はどう? リストにはないの? ノエル・アストリアスは」
 話題は潔く移り変わり、侍従はわかりやすく言葉を濁した。重い沈黙が木漏れ日の間に流れる。
「……答えられない理由があるの? 私は、リストに名前が載っているか、いないかどうかだけを尋ねているのよ」
「……リストに、名前はございます」
「そう。……彼は、亡くなっているのね?」
「……はい」
 ティラナは深く息を吐き出し、サングラスを押し上げた。その細められた琥珀色の瞳に、砂を噛むような切なさが落とされる。
「ミレーヌには、残酷な知らせになるわね。……本当に、残念。教えない方がいいのかもしれない。だけど……彼女には頼まれているの。……他に何かしてあげられたらいいと考えてはいるけれど……。他の頼まれてもいない手出しは、ただのお節介というものね」
「引き留めてごめんなさいね」という免しの言葉を受け、侍従は静かに首を竦めると、結露したグラスに刺さった替えのレモネードをテーブルに置いて引き下がった。


 ペンが、握れなくなってしまった。
 最初の兆候を見逃せるほど鈍感ではなかった。
 あれから何度、執務机の前に座っても、どれほど他の研究者の先進的な論文を目にしても、新規プロジェクトの報告を受け取っても。万年筆のインクは満杯に満ちているというのに、かつてのように瑞々しいアイデアが溢れ出てくることは二度となかった。天から降ってくるかのような閃きも、もう訪れない。
 それどころか、あれほど新鮮で、どこまでも澄んだ光に満ちていたはずの世界が、いまや不透明な曇りガラスに遮断されてしまったかのように淡く霞んでいた。
 七色の彩りは失われ、情熱は痩せ細り、目に入る景色すべてが薄汚れた土気色。冬を前に葉を落とした裸木の幹のように、ただ頼りなく冷たい風に晒されている。
 心配されたいわけでも、優しい慰めが欲しいわけでもない。――いや、本音を言えば、夫からの甘い慰めを喉が渇くほどに求めているのかもしれなかった。だが、一度でも彼からそれを受け取ってしまえば、同じだけの返報を果たさなければならない。
 いまのティラナには、彼が愛してくれたはずの、元気なティラナの姿を維持し続ける自信など、どこにも残っていなかった。だから、そっけなく彼からの通信を断って――もう少しばかり冷静で、いつも通りに振る舞うための自分を取り戻すために、時間の猶予が必要だった。
 酸いレモネードの味に染まった唾をごくりと呑み込んだ。

 何より、長年待たせ続けてきた、シュナイゼルに対する申し訳なさと負い目。――罪悪感。
 ブリタニアの宰相というあまりにも重密な立場にある彼に、自分の国の都合や計画を押し付け、手を煩わせているという事実。この壮大な計画を完遂させるまでは、弱音を吐いて彼の足を引っ張るわけにはいかないのだ。
 『がっかりされたくない』――その一心が、折れかけた心をかろうじて繋ぎ止めている。中途半端な姿勢で投げ出すことなど、最初から謀略を持ちかけた側の責任として決して許されない。
「……潮時かしら」
 呟きは、掠れた風の音のように儚く消えた。
 研究の第一線を走り続けることも、激務を極める女王としての生活の中ではすでに限界を迎えていた。これからは、静かに後進へ時代を譲っていくべき時なのかもしれない。
 けれど、胸の奥には泥のような迷いが残っていた。悔しささえある。自分自身を形作っていたはずの「知性と信念」を否定されて、ただ平然としていられるほど丈夫な心など持ち合わせてはいなかった。

「ママ! 一緒に遊ぼ! マーマ!」
 甲高くて愛らしい声が、静寂を破って響いた。
 ビニール製の簡易プールの中で、金髪を濡らしたルークが弾けるような笑顔でカラーボールを芝生の上へ投げつけている。子犬のクルーが短い足を滑らせながらボールを追いかけ、長い鼻で突き、ブルブルと首を振ってはプールの中へ戻そうと奮闘していた。
 水しぶきが午後の太陽を反射して、きらきらと眩しく光る。
――ただの母親という役割に振り切って生きていくのも、ひとつの幸せなのかもしれない。
 ふっと浮かび上がる、甘やかな人生の選択肢。多くの女性たちが適切な年齢に選んでいく進路。決して人並みの人生設計を望めない自分自身が、唯一同じように望める方向性。
 だがその瞬間、クリスティン・ハーロットのまっすぐな言葉が脳裏を揺さぶる。

――『陛下は……私たちの希望の光でございますから』

 なんと居心地の悪い言葉だろう。一方の責任を捨て、もう一方の平穏を得ようとするたび、信じてくれた人々の言葉が袖を引っ張る。

――子供を逃避の先に選ぶの? それを正当化の理由にして、現実を賢しく受け容れたつもり?

 ルークは喜んでくれるだろう。子供の愛情を無碍にしたくないのは、ティラナがよくわかっていた。注意を引こうと、歓心を買おうとして自分を特別に演出して、父親のために役立てる娘になれるように――頑張ってきたはずなのだから。

――裏切り者。――多くの人の期待と願いを裏切って、市井の人々のように家族を求められる立場だとでも思っているの?

 王とは、私人ではなく、公人である。一生涯、死ぬときまで。常に孤独の身である。
 けれど――。そうであればルークもまた、いずれ同じ孤独を背負うことになる。あの子だけには、寂しさを味わわせたくない。自分が欲しいと願っていた、渇望し続けた家族団らんを、飢えを、同じ苦しみを引き継がせたくはない。それこそが親心というものではないのか。
 ――いや違う。あの子から父親を遠ざけている原因をつくったのは、元凶は――他ならぬティラナ自身だ。シュナイゼルを父親ではなく、他人にしてしまったのも、ティラナが持ちかけた計画に従わせているからだ。その罪は、すべてティラナの側にある。

――最初から、すべて間違っていたのではないの? そもそも、この計画そのものが。

 何もしなければ、国家はより不利な状況に追い込まれていた。安全保障上、どうしても必要な選択だったのだ。政治的同盟を自由に行使できない状況を作り出したのは、あのブリタニア皇帝なのだから。

――我が子を利用することが? 切り札のために、牢獄に産み落とされた可哀想な子。それを、本当の愛と呼ぶつもり?

 最初に生まれた子は、総じて重い宿命を背負わされる。王家の血を引く子の運命は、古今東西いつの時代も変わらない。親の都合で望まれて生まれてくるからこそ、愛おしみ守り抜く責任もまた親にある。……たとえ、何よりも優先すべき国家と民が存在していたとしても。

――なにもかも、中途半端。なにも上手くいかない。上手くいかなければ、失望され、人はあなたから離れていくことでしょう。クレインが離れていったように。ほら、あなたも人殺しになった。人殺し。人殺し。人殺し。人殺し。人殺し。人殺し。人殺し。人殺し。人殺し。人殺し――。

 脳内で、何重もの呪詛が重なり合って木霊する。
 耳を塞ぎたくなるほどの激しい鳴動。仮に両耳を塞いだとしても、内側から響くその声が消えることは決してない。
 ティラナは震える手でサングラスを頭の上に滑り転がすと、サマーベッドからゆっくりと立ち上がった。失われかけた世界の色彩の中で、目の前で弾ける息子の眩しさと、その面影に重なる愛しい男の姿だけが、鮮烈な光を放っていた。
「ええ、今行くわ、ルーク。……クルーを濡らしすぎないようにね」
 震える膝が擦り切れないよう素足で温かい芝生を踏みしめ、注意を促す言葉をかける。取り繕った笑顔の裏で、いまにも内側から崩れ落ちていきそうな自分を隠すために。
 ただ強く、強く、我が子を抱きしめるために。




100
午前四時の異邦人
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