Art Deco






 -Art Deco- Lana del ley より

 私の微笑みは、いつだって計算された角度で固定されている。
 皇宮大広間の天井に吊るされたシャンデリアが、扇形の影を床に描き、黒と金の連なる蛇行――シェブロン模様が波のようにうねる。アール・デコ風の壁面装飾が光を幾何学に刻み、私の髪にも、君の横顔にも、同じ法則の影を落とす。

 人々は歓声をあげ、笑い、盃を合わせる。虚飾はこの帝国の母乳のようなものだね、と私はよく冗談を言う。うん、今日もよく出ている。
 私の名は呼ばれすぎて磨耗した。肩書きは、磨けば磨くほど実体から離れていく。外側は増殖し、内側は空洞になる。簡単な理屈だ。
 それでも私がこの夜に立つのは、君がいるからだよ、ティラナ。
 壁際、柱の陰。君は誰とも目を合わせず、ただ私だけを見ていた。よく馴染み手垢だらけの私を飽きもせず。
 グラスの泡はほどけ、君の睫毛の深い影が頬に小さな三日月を置く。君の瞳には、私の仮面の内側が映ってしまう。だから君はいつも、少しだけ遠くに立つのだと思うのだけど。
 扇型の壁飾りがつくる金の波に、私を指先を滑らせる。冷たい。
 君は暖かい。
 夜会という劇場で、君の孤独はひどく目立つ。でも、孤独は美しい。私が長くみつめてきたのは、君のそこだ。
 さあ、始めよう。虚飾の流儀で踊り、孤独の流儀で囁き、退廃の流儀で触れる。
 君がそのすべてを赦してしまう前に、私の方から先に赦してしまおう。私の美は変わらない。けれど変わらない美は、ときに残酷さと同義だ。だから私は、残酷を自覚して君に触れる。
 今夜もまた、君の視線が私を呼ぶ。私はその合図を、世界中のどの号令より正確に聞き分ける。

 舞曲が変わり、ホールの西側で扇形に人だかりができる。私がそこへ進むと、音の粒がほどけて道が空く。グラスが鳴り、笑みが開く。
 「殿下」「宰相閣下」「シュナイゼル様」――呼び名が幾何学に反射して、私の耳をすり抜ける。
 私は、微笑む。
 ――ねえ、ティラナ。私は、微笑むために生まれてきたのだろうか。

 黄金色のシャンパンが満たされたフルートグラスを受け取り、形だけの祝辞を述べる。言葉は正確で、温度は慎重に設定され、誰も傷つけない。誰も満たさない。この均衡の上で私は歩く。君が見ているから、なにひとつ零さずに、落とさぬように。
 その時、君が視界の端で首をわずかに傾けた。
 ――合図だね。今行くよ。
 私は会話を二言で終わらせ、軽く礼をほどこし、人垣の縁を回り、柱の陰へ抜ける。私の大きな影が君の影に重なる。
 「……また隅にいるのだね」
 囁くと、君はグラスを持ち上げ少しだけ傾けた。
 「あなたの微笑みは、皆のものだから」
 「そして、貴女の沈黙は私のものだ」
 私が言うと、君は細く笑った。グラスの泡が、君の笑い声の代わりに震える。
 君の肩から鎖骨へのラインは、正確なコンパスで引かれたように美しい。けれど、その下にある幾重にも折り重なった手術痕や、埋め込まれてきた記憶の欠片は、図形には収まりきらない。
 私は、その不規則な歴史を愛す。
 「踊ろうか」
 「ええ。でも、三曲以上は許さないわ」
 「貴女はそうやっていつも制限を設けるね。――だからこそ私は、制限の内側で無限をやってみせるよ」
 私達は輪の中へ滑り込む。君の手は冷たく、掌は薄い。指を重ねると、思い出す。
 幼い日の約束。瓦礫の気配。私の瞳と同じ色の花畑の中。燃え盛る岩窟の裂け目。交互に訪れる最高と最悪の記憶。私にとってとても都合よく同じフィルムに編集されているのだけど。
 音楽が跳ね、君のために誂えられた深い緑のドレスの裾が弧を描く。
 周囲は歓声の泡立ち、私たちは中心にいるようでいて、誰とも交わらない。
 君は言う。「あなた、今日も完璧ね」と。
 「完璧は退屈だよ」
 「退屈な完璧に、皆が救われているわ」
 「貴女は?」
 「私は――」
 君は言葉を切り、私の胸に視線を落とす。私の鼓動は、微笑みほどには整然としていない。
 「私は、あなたの退屈をほどくためにいるのだと思うの」
 君が、あまりに神妙な顔つきで言うものだから、私はわずかに笑った。
 「やっぱり貴女は、私のことに詳しいね」
 音が遠のき、曲が終わる。拍手は海の音に似ている。君は受け取ったばかりの新しいグラスを私に預け、バルコニーへの扉に顎をしゃくる。
 わかったよ。仮面は少しずらそう。夜気は、仮面の下の肌に優しい。
  
 バルコニーに出ると、夜は冷たく、星は少なかった。皇宮の庭園に据えられた黒い水盤が、月光を受けてオニキスのように光っている。
 君は手すりに細い指を添え、しばらく黙っていた。沈黙は、君の第一言語だ。私はそれを、翻訳しようとしすぎないように努める。
 「……さっき、あなたの微笑みを大勢の人々が見つめていた」
 「たくさんいるね」
 「ええ。でも、ひとりだけ、あなたの孤独を見ているひとがいた」
 「貴女だ」
 「ええ。私」
 君は息を吐く。白い。
 「美しいことは、残酷なこと。とくに変わらない美≠ヘ」
 「たしかに」
 「あなたが変わらないままでいるたびに、私のなかの何かが歳を取る。置いていかれるみたいで、少し怖い」
 私は手すりに肘を置き、君の横顔を見下ろす。
 「置いていかないよ」
 「本当かしら?」
 君は微笑んだ。
 「私もあと数十年すれば皺くちゃになっていくよ。若さとは儚いものだ」
 「本当にそう思う?」
 「そうとも」
 「完璧でいられなくなるのね」
 君の瞳に淡く苦みを帯びたのを見逃さなかった。
 私は頷く。夜会の音が遠くでくぐもり、ここは別の世界のあわいになる。君の頬に指を添え、顎の線を辿る。
 触れると、君は安堵と警戒をいっしょに漏らす。どちらも正しい。
 そうして私は、君の耳元へ唇を寄せる。
 「貴女が若くなくても、私は君を愛するよ」
 「知ってる」
 「貴女が美しさを喪っても、私は君を欲する」
 「それも知ってる」
 「では、何が怖いんだい?」
 「……私が私でなくなること」
 夜風が、ドレスの裾を撫でる。
 私は君の肩を抱き、額を合わせた。
 「貴女が自分でなくなる時は、私が君の代わり≠ノすべてを憶えているよ」
 「あなたの記憶はあまりに正確で、ときどき冷たいもの」
 「じゃあ、今夜の私の役目は正確さ≠捨てることにしよう。もっとずさんに、もっと君の側で」
 君は笑う。やっと、ほんの少しだけ熱が混じる。

 控えの間の灯りは落とし、壁際のランプだけを残す。乳白ガラスの笠に縁取られた光が、部屋にやわらかな楕円を置いた。ソファの革が僅かに鳴り、君の呼吸がほどけていく。私は手袋を外し、指先を君の髪へ。ゆっくり梳かすと、静電気のような緊張が指に纏わりつく。耳下の柔らかさに口づけを落とすと、君の肩がわずかに上がった。
 布の重なりをずらし、肌の境目を辿る。光が当たる面と影になる面の温度差。指が渡るたび、君の体はそれを“現在”として受け取り、細い吐息で返してくる。
 私は手のひらを君の腹に置き、呼吸のたわみを一緒に受ける。柔らかい。生きている。ここに戻ってきたのだ、と体が先に理解する。
 君の指が私の喉仏を探り、軽く押さえる。節度のある力。確かめたいのだね――“ここにいる私”を。
 ソファがわずかに軋む。かすれる音と呼吸が混ざって、音楽の代わりになった。
 私は君の脇腹に沿って唇を下ろし、細い震えごと抱き寄せる。痛みと快楽の境目で、君は目を閉じる。そこに線は引かない。引けば、君はまた一人になってしまうから。
 「あなたは変わらない」
 君が、まぶたの下で微笑う。
 「変わらないものを抱いていると、私まで永遠になれる気がする」
 「永遠は退屈だよ」
 「今夜だけ、退屈になりたい」
 「なら、今夜だけだ」
 指を絡め、互いを確かめる。息が合うたび、体温が一段上がる。光が浅く跳ね、影が深く沈む。
 私は君の背を支え、重さを分け合う。君の喉の奥で漏れる音は、言葉よりずっと正確に“欲しい”を言い当てる。
 時間の針が、音もなく進む。外の夜会は薄れ、控えの間は小さな海になる。波をつくるのは二人きりの呼吸で、潮の満ち引きは君の鼓動が決める。
 やがて、君が私の名を呼ぶ。
 「……シュナイゼル」
 私は額を君に合わせ、短く応じる。
 「ここにいるよ」
 その確かめ合いの先で、言葉はもう要らなかった。
 触れ合う面が増えるほど、孤独の面積が減っていく。君の孤独を、今夜は私が“ぜんぶ”抱える。美が変わらないことを、罰ではなく、誓いに変える。
 静けさの底で、二人の呼吸がやっと同じ長さになった。
 「……生きてる音がする」
 「ティラナの音だ」
 「あなたのも」
 私は微笑む。計算を忘れた角度で。

 東の空がわずかに白む。皇宮の廊下に朝の冷えが流れ込み、赤い絨毯の端が灰色を帯びていく。
 私たちは並んで歩く。君の歩幅に、私が合わせる。
 すれ違う侍従が伏目がちに礼をとり、誰も何も問わない。夜会の花は、朝にはただの茎に戻る。その潔さが好きだ。

 回廊の突き当たり、背の高い窓から朝の光が差す。
 私は立ち止まり、君の額に口づけを落とした。短く、けれど確かな印のように。
 「また夜会がある。虚飾は何度でも咲く」
 「ええ。私はまた隅にいる」
 「私はまた中心で微笑む」
 「そして、目で呼ぶ」
 「聞き分けるよ」
 光は、誰にも平等だ。けれど美は、誰にも平等ではない。
 だから私は、私の“変わらない美”を君のために使う。
 君が時を刻むかぎり、その刻み目に口づける者でいよう。

 朝の冷気が頬を掠める。君が一歩、先に出る。
 私は半歩遅れて、その背中を見守る。飾りのサンバーストが、初日の光をすくい上げた。
 虚飾は剥がれ、また塗り直される。孤独は分かたれ、またひとつに戻る。
 アール・デコの直線と扇が、今日の始まりに規則を与える。規則は美しい。だが、生はいつも少しだけはみ出す。
 君と私が重なるのは、いつだってその“はみ出し”の場所だ。
 私は微笑む。今度は、計算のない角度で。
 君はそれを見て、ただ頷いた。黎明の静寂が、ふたりの頷きにうなずき返す。

 ――Art Decoの夜は終わり、今日という幾何学が始まる。
 その中心に、君と私がいる。



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午前四時の異邦人
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