一ヶ月前 a.t.b.二〇〇六 October
内務局の衣装部に残されていた過去数十年に渡る衣装オーダーリストには、制作品と金額、納品日などの詳細に加えて複数のデザイナーの名前が記載されている。その中にある直近制作されたドレスはティラナ王女の代物で二〇〇〇年を最後に途絶えている。依頼月が九月にあり十月に納品されているということ。婚約後最初の誕生日である十一月の誕生日に合わせて制作されたものだろう。その担当デザイナーがカストラリア人ではなく、シュナイゼルの出身国、ブリタニア人のデザイナーであるのが何よりの証拠だ。
オーダーメイドのドレス制作を引き受けるデザイナーの住所はブリタニアにある。ここペンドラゴンの高級ブティック街の片隅にある一角。
店のショーウインドウに並ぶのはウエディングドレスやカクテルドレスで装飾のビーズやスパンコールが星屑のように散らされ照明の光を受けてキラキラと輝きを放っている。ウインドウに貼り付く中流層の淑女が今母親と一緒に何やら熱心に話し込んでいる。
店前のポーチで足を止めその様子を眺めていると、頭上からいきなり声がかかった。
「あら? ノエルじゃない」
口調は女性的なのにそのやや低い声には聞き覚えが確かにある。ノエルは首を傾げ正面を向くとひとつ結びの栗色の長い髪を揺らし、柔らかなライトブルーの双眸が見下ろしていて、たった今店から出てきたばかりなのか店のロゴ入りの大きなショッパーを手に提げている。
「……? も、もしかして……カノン……?」
「やだ、なんでこんなところに?」
「それはこっちの台詞……というかその喋り方はなに……?」
カノンは僅かに目を泳がせて「まぁ、ノエルなら……」とぶつぶつと呟いた。そしてノエルのところまで降りると彼の腕を引き、再び店に入った。
「こっちにいらっしゃい」
「カノン?」
店内は明るく光に満たされており、そこかしこに既に仕上がった女性もののドレスやワンピースそれに合わせるヒールやパンプス、小物の類が並んでいる。店員は再入店したカノンを咎めることなく笑顔で迎え入れ、カノンは「ごめんなさい。ちょっと奥使わせてもらうわ」と一言を告げてノエルを店の奥に連れて行った。
奥のフロアはVIP用に開放されているのか、それともカノンが個人的な理由で使用権限があるのか不明だがウォークインクローゼットのように四方八方に女性ものの色とりどりの衣装が吊るされた部屋で、まるでそこは王宮内にあった衣装部屋のようだった。
「あなたもこういう趣味を持ってるなんて意外だと思って」
「趣味!?」
「やだ、大きい声をださないの。はしたないわよ」
「ん……んん……、カノンは……ドレスを着たりするのが好きなの?」
「簡単に言えば、女装がね」
女装ときいて今一度カノンの顔を見つめた。違和感が殆どなかったからだ。彼に告げたことはないが、女性的な顔立ちをしているし長い髪も睫毛も、肌のキメの細かさも、どの努力と維持があるからその容姿を保っているのだとしても彼は中性的な容姿をしていた。
「そうなんだ。ここにはよく来るの?」
「そうね。あなたは初めて?」
「まあ。はじめて」
今度はカノンがじっくりとノエルの顔を観察する番だった。ファッションショーの壇上を睨みつけるバイヤーのようで背筋に不自然に曲がった針金が差し込まれたように固まった。
「……脱いで」
「え?」
「脱ぎなさい」
「あ……あの……えと……」
「なに恥ずかしがってるの、これから試着するのよ」
カノンの目つきは鋭く真剣だった。ノエルは動揺し声が裏返った。
「ま……まって、脱ぐから!」
カノンの威圧感に耐えきれずノエルはベージュのトレンチコートを手早く脱いだ。「下着以外全部脱いで。採寸してあげる」と付け加えてカノンは部屋の奥からメジャーと筆記用具を出してきた。
鏡の前で両腕を水平に保つポーズをとり、その脇下を慣れた手つきでするすると採寸していくカノンをノエルは横目で見下ろした。
「綺麗な体のラインしてるわね。バレエでも習ってた?」
「どうも……。そういうのはやってないかな」
「そう。勿体ないわ。手足が長くてフリルとか似合うのに」
「……ありがとう」
――他人を真似た体を褒められてもどう喜んでいいかわからないな……。
全身鏡の前のノエルを見つめると、ああ――男の体だと、筋肉のつくところとつかないところ、目立つ骨感や細さが目についた。鍛えればまた体は変わっていくのだろうが、そうすることで元々の性別と乖離していくのが少し怖かった。取り付けられた陰茎や睾丸を始めとする陰嚢が脳からの指令でテストステロン分泌させ声を低くし、髭を生やし、その見かけ以上の筋力と体力に貢献している。
未だこの世界は完全に肉体を異性に変えるということを知らないが、今それが『わたし』の中で起こっている現実だ。
「採寸終わったわ。ドレスの色味は好きなの選んで」
カノンの声が現実に引き戻す。ノエルは何を着ようかは考えていなかった。元々この店に来たのはオーダーのためだったが、カノンがメモした採寸データはありがたいことに役に立ちそうだった。
無意識にノエルは色彩豊かなドレス群の中から、やや褪せた色合いのものを選んだ。高山や庭を駆け回り、とっさの入れ違いでも汚れが目立たないようにするために極力私達はいつも地味な色味を選んでいた癖が現れたのだった。
カノンは少し驚いた。初歩的な女装をする男の不慣れな一面だと思って、明度の高いレモンやミントブルー色のドレスを引っ張り出しノエルの体にあてた。
「さすがに地味じゃない? あなたなら明るくて軽いのがいいと思うわ」
「そうなんだ」
このノエルの金髪と瞳の色ではその色が似合うのは確かだ。色に拘りが特になかったのでミントブルーのドレスに袖を通すと、カノンの目が光った。すぐさまドレッサーの前にノエルを座らせてメイク道具を広げた。見たことがないような本数のブラシ、いったい何色あるのかというほどのシャドウ、リップ、下地クリーム、パウダー、ファンデーション……そしてそのどれもが高そうなものばかりだ。
「メイクもしてくれるの?」
「当たり前よ。ドすっぴんじゃドレスに着られるか浮くわよ。メイクはしたことあるの?」
「……ちょっとだけね。でもこれに似合うのはわからないな」
「わかったわ」
小さく頷いてカノンはノエルの髪を梳いてクリップで留めていく。髪の毛も睫毛も瞳もすべて本物の偽物だ。
手際よくメイクを施していく彼は度々鏡の中のノエルと目が合った。
「あなたって、子鹿みたいな顔してるわね」
「子鹿?!」
「比喩よ比喩。造りが繊細っていってるの」
「人の顔を動物で喩えることってある? ……あるか……」
「そうよ。馬顔とかヤギ顔とか」
褒められたはずなのにやはりどこか他人事にしか思えなかった。マルカだった頃から自分の顔への関心は薄かったが他人≠フ顔が自分の顔となってからはより顕著だった。対象の人間に似ていて欺けるのであれば美醜など不要だから。
「特定の人の真似ができるようなメイクってどうやるの?」
「あら、いきなり飛び級ね。結構技術がいるのよ? わかっているとは思うでしょうけど。なに? なりたい顔でもあるの?」
「なりたい顔……。そうだね」
ノエルは鏡の中の顔を見つめる。鏡を見つめるのはあまり好きではなかった。いつも他人がそこにいて驚くことが今でもある。
なりたい顔であるティラナ王女の顔に近づけるのには、すこし不安がつきまとう。マルカが完璧に姫様の顔を持っていた頃は十二歳までで、そこから先、彼女がどのような顔になっていたのかは想像の世界だからだ。
姫様はどんな顔だっただろう。思い出そうとすると、あの大きなアンバーの瞳から光が消えていく瞬間ばかりが再生される。本当の親よりもたくさん見てきた顔。毎日鏡の向こうに姫様がいて、『わたし』が笑うと姫様も笑ってくれた。
――『わたしはあなた』
――『あなたはわたし』
ノエルの横でカノンは腕を組んで暫く考え込んでいた。
「どんな顔か描き出せる?」
「……私でも難しい。記憶の中の人だから」
「記憶の中? もしかして、初恋の子? ロマンチックね。とても意外だわ」
「……ふふ。考えてくれてありがとう、カノン。今日はこのままの顔にメイクを覚えることにするよ」
ドレスアップが完了したノエルは髪の短さを除けば女性と見間違う出来栄えだった。
「カノン、すごいや。女の子にみえる!」
「胸に詰めものをしておくと、よりそれっぽくなるわ。でも本当に驚いた。あなたもこっち側の人間だったなんて」
「あー……ははは」
なんていえば良いのか。困り顔をなんとか笑って誤魔化した。
より客観的にみれば、マルカは元々女性でその体を男に替えたのに女になりたがっている滑稽な存在だからだ。
翌日、ノエルは昨日と同じ格好でいくと足がつくと考えて、変装をして同じ店を訪ねた。
店員は全く同じ人だったが昨日の応対と打って変わり、髭面の眼鏡をかけた中年男がが寄ってくるので、全く期待のしていない目つきでノエルを観察していたが、その懐からカストラリア王室の紋章入りの勅書を提示すると店員はみるみるうちに表情を変化し慌てふためいた。
「あ……あっ……大変申し訳ございません……カストラリア王室の方でしたか!」
「はい。私、王室の衣装係長でして……どうぞこちらを」
ノエルは名刺を手渡した。フロンド・ディーパリー。
エリア四――……カストラリア王国、カストリア王室内務局衣装係長。彼は実在する人物だ。先日の内務局衣装部の購入履歴を参照したところ、現在その彼の職が閑職であるため事務と広報に異動して働いている。
「デザイナーズ・リストにこちらの所属デザイナーのアーニー・モルケット氏のお名前があり……過去に最短の納品をいただいておりましたのでお願いしたい……とティラナ王女殿下から勅命を賜っております」
「ティラナ王女殿下が……? ご快復されているということですね? あ、ああ……失礼! 詮索をお許しください」
「内密にお願い申し上げます。来月七日の晩餐会のみ出席なさる、と急遽決定しまして……急ではありますがモルケット氏のご都合はいかがでしょうか……難しいようでしたら断っていただいて結構です」
「とんでもない! ……少々お待ちいただいても?」
「どうぞ」
ノエルはにこやかな返事をした。店員はバックヤードに飛んでいき直ぐ様モルケットに連絡を入れた。
アーニー・モルケットは一言返事で仕事を承った。
ノエルは名刺の連絡先を指さして店員に言い聞かせた。
「完成品と領収書、支払いに関する書類はこちらの名刺の住所宛にお願いします」
「は……はい!」
鞄の中から封筒を取り出し受付テーブルに差し出す。封筒には王室のエンブレムが印刷されている。これは内務局から調達した。
「デザイナーにはこちらをお渡しください。オーダーの詳細と王女の採寸データがあります。もし追加でなにかございましたら、携帯番号にお掛けください。いつでもお待ちしています」
「よろしくお願いします!」
交渉はスムーズだ。『わたし』は店員と握手した。彼女の手は少し湿っていて温かかった。
◇ ◇ ◇
a.t.b.二〇〇六 7th November
カストラリア王国 首都・リダニウム
晩餐会会場の白亜と菫色の大広間にはシャンデリアの煌々とした夜の輝きの麓、既に大勢の要人が所定のドレスコードとマナーを守り席に就いている。会場内には厳かな空気を保ちつつ、近くの者と談笑し楽しみを絶やさない。
控室ではシュナイゼルは姿見鏡の前で侍従にホワイトタイを結んで貰っているところだった。
「手際がよくなったね」
「お褒め頂きありがとうございます、殿下」
「公式行事は種々あれど……暗いばかりでは辛いだろうからね」
鏡越しには他の侍従達が壁際に立って一人の少年の話を聞いている。身長は成人男性とほとんど変わらないが彼はその場にいる中で誰よりも幼く、誰よりも地位が高かった。しかしブリタニアと違ってここの空気は互いを戒め力を奮い牽制しあうものではなく、どこかこの若い皇子を手助けし支えてやらねばなるまいとする大人としての態度と気配があった。
先王夫妻が薨去し、王女が倒れ、その摂政となった九つの頃からこの国のこの王宮にいるすべての者たちにとって希望の星だった。
そのためにはたとえ名前を奪われ属領の一つに数えられようとも、国の存続には致し方のない針路であり、むしろシュナイゼルの手腕は優れており他国の侵略から今日まで守護されているのだ。――そして、本来であればその王冠は王女のもので、彼は婚約時にある程度の国事行為を認められたものの君主代理という制限から何事においても限界という壁が立ちはだかった。それはこの国の枢密院やそこで策定される国家の基本条項から逸脱することがたとえ君主であっても許されないためだ。
シュナイゼルは規則に従い常に最低限を保証し最高の判断で、出来うる限りのことを尽くしている。
今夜の晩餐会とて――シュナイゼルにはそうする必要があると判断して執り行われる宮中行事だった。誰も何も言えなかった。それどころか、そうして貰わなければ権威が失墜するとさえ危機感を募らせているから皆救いのように思っていた。
シュナイゼルはそこにいる者たちに流れる沈黙を汲んだ。
「こうして毎年、なにかにかこつけて王宮の力を維持するのも私の仕事だよ」
侍従達は誰も追求をしなかった。全員同じ心境だった。主役不在の晩餐会の居心地の悪さ不格好さ。こうした場を作らざるを得ないのは王宮の者の仕事を創出する事や、伝統・外交・内政機能の統率力を堅持するには必要な事だった。
侍従達は彼のその才覚と慈悲と血統に感謝した。彼の名は王侯貴族達の総本山である国の傍流を感じさせる名で、統べる者にふさわしかった。
腰のチェーンに紐づく懐中時計を眺めて、シュナイゼルは侍従長に確認した。
「ハーゲン、すべて順調かな?」
「はい。滞りなく」
「対象も?」
「はい。抜かりなく。殿下」
「うん。……無下に断ることはしないだろうね。挨拶だけだから――今夜は楽しんでもらおう」
時間になった。シュナイゼルはその美しい容貌に相応しい微笑みを浮かべた。
午後七時。
綺羅びやかなシャンデリアの光を受け、彼の姿は白磁のように際立っていた。
純白のウイングカラーのシャツに、胸元を飾るのは細やかに折り上げられた真っ白なボウタイ。漆黒の燕尾服は肩から袖まで無駄なく仕立てられ、銀糸の縁取りが控えめに光を返している。左胸にはブリタニア皇族の徽章とカストラリア摂政としての勲章が並ぶ。その胸を横切るサッシュはヒマラヤの青いケシ――ホリドゥラの花弁のようにな深い紫がかった青、その中央を走る細い縁取りは花芯を思わせる黄金色。王家の象徴色を纏ったその姿は、ただの装飾ではなく、この地で彼が摂政として立つ証そのものだった。
饗される人々は大広間に登場したシュナイゼルの存在に気づき、一斉に席を立ち上がった。
コの字に伸びる純白のテーブルクロスのテーブルの中央上座に彼が歩いてくるのを待った。給仕が各テーブルでグラスにシャンパンを注ぎ終わったところだった。
シュナイゼルが席につき、グラスを持ち上げると賓客達も同様にグラスを手にする。テーブルの上には読み上げるためのメッセージカードがあり、一通りを頭に入れ参列者の顔をゆっくりと眺めながら挨拶の口上を述べた。
「ご列席の皆々様。本日はカストラリア王女殿下のご誕生日を祝うため、遠路はるばるお集まりいただき、心より感謝申し上げます。……女王陛下に連なるこの国の未来は、数多の試練を経てもなお、ここにこうして輝いております。本夜の食卓は、王国の大地が育んだ実りと、皆様の友情がもたらした賜物により彩られています。カストラリアの地が常に平和と繁栄に包まれますように。そして、この杯が、我らを結ぶ絆の証となりますように。――王女殿下のご健康と、皆様の繁栄を祈念して――」
招待賓客とそのパートナーあわせ数百人が、琥珀色の食前酒を高らかに持ち上げ乾杯しようとした時、一気に大広間の外が騒がしくなった。
シュナイゼルは最も近くにいた侍従に目配せし、広間から続く廊下側に立つ侍従長ハーゲンが平静を装って様子を確認した。にわかに騒がしくなりだした大広間の中でも、侍従長の上擦った声が「姫様」といったのを聞き漏らさなかった。
廊下側の扉に立つ白いドレスを纏う人影は招待客の中の誰かの令嬢でもなく、その頭上に載せられた象徴のティアラがなによりも王女のものだった。
会場内には衝撃と混乱が生じ始めていた。
「あの姿は王女殿下か……? ご快復されたのか……?」
誰もが困惑と期待を口走らせている。
シュナイゼルは眉を動かして一瞬驚いたものの、すぐさまグラスをテーブルに置いた。近くの侍従に耳打ちし席から離れ、入口で佇む王女らしき者の前に立った。白い肌、長い睫毛に縁取られた黄昏時の光の瞳、光沢のあるしなやかなブルネットの髪は波打ち頭頂には彼女のティアラが輝いている。シュナイゼルを前に動じる様子もなく、自信に満ちた表情をさらに柔らかく微笑みに変えた。
「顔色が良くなったね。……さあ、お手をどうぞ」
彼女に腕を差し出すと、ごく当たり前の所作であるかのようにするりとレースの手袋に覆われた細い手が絡みつく。侍従長ハーゲンは目を見開いてシュナイゼルのエスコートを止めに入ろうとしたが私の言う通りに≠ニ手の制止で動けなくなった。
大広間の中央、テーブルの上座に入るとさらに色めき立つ声に溢れた。大広間の周囲ではメディア関係者がごたつき出した。中継していた映像カメラが何台か一気に増え、その騒がしさから王宮スタッフの注意が飛ぶ。
シュナイゼルは気遣わしげな態度を示し、ティラナの足取りに合わせてゆっくりと席まで進んだ。彼女は見た目こそ健やかに見えたが、腕を預ける重心がシュナイゼルに片寄っていた。
気丈な振る舞いが心打つのか誰かの涙ぐむ声が大広間の中に混じった。
シュナイゼルの隣席に始めから用意されていた椅子に彼女を座らせようと勧めたが、ティラナは首を微かに横に振った。それから場を仕切り直すために置いたグラスを再び持った。
「皆様、乾杯の途中に失礼いたしました。……遅ればせながらティラナ王女殿下を晩餐会にお迎えいたします。お手元のグラスをお持ちください……ん?」
ティラナは皆からは見えない位置にあるシュナイゼルの袖をくいと引いた。
「どうしたんだい?」
シュナイゼルは優しい表情でティラナを見下ろした。彼女はまるで研究における実験で目論見通りにいかなかった時のように不本意ながら≠ニ言いたげにメッセージカードを摂政の手に握らせた。腰元の位置でその意図と文字を読み「わかったよ」と彼は小さく言った。
「乾杯の前にティラナ王女殿下から皆様への言葉を申し上げます。ティラナの体調が優れないため僭越ながら、私が代読いたします」
シュナイゼルはカードを持ち上げティラナが用意したカードを読み上げる。
「――諸賢。そして愛する民の皆さま。本日は、このように多くの祝意をいただき、心より感謝申し上げます。――長らく体調を崩し、皆さまにはご心配をおかけしてまいりました。けれど私は、家族と友の支え、そして国中からよせられた温かな祈りによって、少しずつ快復の歩みを重ねることができております。この場に立つことが叶いましたのも、ひとえに皆さまのおかげです。――カストラリアは、古より幾多の試練を乗り越えてきた国でございます。そして、その力の源は、山河にではなく、人々の心にこそ宿るのだと私は信じております。いかなる時も手を取り合い、弱き者を見捨てず、共に未来を築こうとする精神――それこそが、この国の誉れにほかなりません。未だ若輩者ではありますが、皆さまと共に歩み、学び、この国をより良き未来へと導いていくことを、王女として、ひとりの人間として、ここに誓いを申し上げます。本日の席が、皆さまの絆を強めるひとときとなることを願っております。――ティラナ・ヴァル・カストリア」
ティラナの文章は完璧だった。
その筆致、直筆文書や論文のメモなどでみた癖も殆ど同じだとシュナイゼルは思った。
戸惑いを打ち消す喝采は次第に大きくなっていく。恭順の礼を取る国内貴族、涙ぐむその貴族の夫人達。メスドレスに身を包む陸海空軍・王立近衛連隊の長たちの敬礼。学者・文化人、外国大使の黙礼。参加者各々が礼をとりティラナ王女のメッセージに応えた。
その中でひとり、ベルケス首相がシュナイゼルの瞳を見た。
晩餐会は国際報道に乗り、また映像は中継されている。ブリタニア帝国第二皇子の摂政体制下と衛生エリアの庇護にある国での国事行為はほぼ全世界に中継されているのも同然で、それ以上の余計な動きは不要だった。
ようやく食事がテーブルに並びだし人々は椅子に着席した。だが誰もそれに手をつけないのは、上座でティラナ王女が食事を摂らず中座しようと席を離れたからだった。
「皆様。晩餐をお楽しみください」
主役とその摂政が不在の晩餐に再び困惑が広がる。今夜の晩餐会はイレギュラー続きだ。シュナイゼルは先に歩き始めていたティラナの手をとり歩調を合わせた。
「ハーゲン。すまない、会場を任せるよ。……万一のことを想定して、頼んだよ」
「はい。殿下」
ハーゲンは恭しく礼をとり、賓客達に向けて食事をすすめるように促した。
さりげなく腰にシュナイゼルの手を回されたティラナ――マルカはこのとき内心焦った。大広間の中にいるうちは走り出すことを諦めた。ティラナはシュナイゼルを見つめ彼もまた愛おしむように見つめ返した。ふたりに言葉はなかった。童話の中の王子と姫君のうっとりとため息が出るような光景に誰もが釘付けだった。
大広間を出たティラナは少しずつ歩調を強めシュナイゼルの手を振りほどこうとした。
「……ずいぶん急ぎ足だね、お体はまだ……」
どこまで演技を続けるつもりか。それも見ものだったが、彼の指を引き剥がして逃れようと庭園のある屋外に繋がる廊下を曲がった時、シュナイゼルはティラナを壁に追いやり目眩のするほどの美貌の顔を近づけた。
ティラナの心臓は早鐘を打ち、首筋には冷たい汗の伝う感触がした。頭の中は危険だと知らせる警報音がずっと鳴り止まない。
「……あなたは、誰?」
彼の白い手袋に包まれた長い人差し指が顎先に触れ、唇に触れる。息を呑む。このまま唇を奪われそうなほどすぐそこに――目を逸らすことができないほど、シュナイゼルは美しかった。
「声を出せないのは、病弱だからではない」
なにもかも見破られている。さすがだと賛辞を送りたくなる。しかし、それでは計画が乱れてしまう。
ティラナは体に弾みをつけて片脚を下から振り上げた。股下の長いシュナイゼルの下腹部に命中し、ドレスを持ち上げ全力疾走で庭園を走る。
「ッ……! 待ちなさい! ……この足癖の悪さは……」
シュナイゼルはまさかそう来るとは思っていなかったと、片脚を引き摺ってリーチの有利な長い脚でティラナを追った。
主役と摂政不在の晩餐会はカストラリアの特産品のフルコースで招待客たちの味覚を饗していた。
「姫様ったら健やかそうで安心しましたわ」
「そうだね。あの方のことだから、きっと驚かせたかったに違いない」
「それもそうね」
姫様は大の悪戯好きですものね。
貴族の夫人たちはティラナ王女の幼少の頃を懐かしんだ。国民に親しみを持ってもらうためにテレビ放送で王室の日常を映す番組を先王時代に始めていた。毎週日曜の朝に三〇分間放送される番組のことで、父王が即位した頃から王宮火災の起こる前の週まで親しまれていた。国民の大半はいかに彼女がジョークと乗馬を好み、難しい話をしたがるのかを知っている。
ある放送回では学会を震撼させる新事実をポロリと発言し、賛否両論の説の所感を述べた日には王室に抗議の電話がかかってきた。
「ご覧になっていたかしら? シュナイゼル殿下と婚約されてから数ヶ月後の……」
「ああ! あのメレンゲの回!」
「包丁止血パッチ回もございますわ」
「インク風呂の回も外せませんわ! 手榴弾の作成回も!」
どれも濃い回だ。ティラナは番組に大企業がスポンサーについていることを告げ、視聴率をとるために撮れ高を……とメタ発言を繰り返しお茶の間に笑いを届けた。シュナイゼルが登場するまでは一人で実験をするだけのシュールな絵面の回もあったが、年齢の近い皇子の参加がより番組内容を深化させた。
「シュナイゼル殿下も悪戯がお好きで……応酬に応酬を重ね……あの頃、毎週どちらが悪戯に勝つかこっそり賭けてましたのよ」
「あらあら、うちも!」
「教育的な番組でしたわねえ。水槽の中の肉食魚が共食いでどちらが生き残るかを予測する回は手に汗握りましたもの」
「ほんと。バラエティ番組も顔負けの。おかげでうちの子は未だおふたりを教育番組の子役だと思ってて……女の子ふたりの」
「シュナイゼル殿下が愛らしいのだから致し方ないわ」
夫人の一人が息をそっとつき、また込み上げてくる涙をレースハンカチで拭った。
「お元気そうでよかった……」
「ほんとうに仲がよろしくて……あら、アルディック公爵……そちらの席は?」
夫人の一人がずっと空席となっている席の隣で食事をするアルディック公爵に訳を尋ねた。
「ああ……娘を伴って来たんだよ。途中からお腹の調子が悪いと言って……なかなか戻って来なくてね」
「あらまあ。残念ですこと。せっかくお料理が美味しいのに」
そうして夫人たちは食事をしながら再び王女と皇子の番組の話に花を咲かせる。
庭園を走り抜けるティラナは履いていたローパンプスが片方脱げてしまったのに、秘密の部屋に着いてから気づいた。
シュナイゼルは彼女のパンプスを拾い「困ったシンデレラだね」と笑った。
暗い部屋にはもう一人、セラフィナ令嬢がいた。ティラナは彼女を闇に紛れるようにそっと奥へ追いやった。
「お……王女殿下……わたくし……」
「シー……」
人差し指を唇にあてティラナはセラフィナの言葉を封じた。
部屋の入口にシュナイゼルが来ていた。
「ティラナ、戯れのつもりかな。そのように走れるなら、晩餐にも十分ありつけるだろうね? すぐ準備させるよ」
ティラナは彼が完全に部屋に入るのを、引き付けるように待った。そして時間制限付きの扉が静かに閉まり、部屋は真っ暗になった。
「おやおや。これは……制限付きオートロックだったのか」
呟いているうちに、ティラナはセラフィナの腕をとり彼の前へ押し出した。セラフィナは焦って引き留めようとするも、もうそこにティラナの影はなかった。
セラフィナは緊張と不安と困惑に揺さぶられ体が震えが止まらなかった。シュナイゼルは夜目に慣れる前に、目の前にいる人がティラナだと信じ込んでいた。
「ティラナ……? 怖くないよ。すぐに出られる」
「……ち……違うんですの……こんなの……間違って……」
シュナイゼルはその声と言葉に口なしだったティラナとは別人だとすぐにわかった。
「……君はティラナじゃないね。ここに閉じ込められていたのかい」
「わたくしは……アルディック公爵娘の……セラフィナでございます……殿下」
精一杯の自己紹介を果たし、小さく礼をとるセラフィナにシュナイゼルは安心させるような声で話した。
「セラフィナ嬢でしたか。失礼いたしました。……今しがたティラナ王女がこちらに入ってきたでしょう?」
「王女殿下は……その……」
「うん?」
口の重たいセラフィナに対し、シュナイゼルは部屋の中を少し歩いて、シェード付きのランプがあることに気づいて電源を入れた。それまで塗りつぶされた闇に光が灯り、セラフィナの相貌が明らかとなった。周囲を少し見渡して、ティラナは部屋の中から完全に消えており苦い笑いを浮かべた。
「……ティラナ王女は……わたくしにお務めを果たすようにとおっしゃられて……」
「務めを?」
言葉を繰り返し尋ねる。
「『私には世継ぎを望めそうにないから』……と……」
シュナイゼルはその発言を正面から受け止め、それが論理的には正しくないことをすぐに指摘した。
「ははは。それはそうだよ。私がまだ宮廷規則の年齢に達していないからね。残り二月の辛抱だよ」
セラフィナははっとして顔をあげ、シュナイゼルの美しい顔を見つめた。
「わたくしは、王女殿下にからかわれたと……?」
「うーん、そうだなあ……まんまと踊らされたのかな。でも、この知恵のまわり方はティラナらしいと思うよ」
肩を竦めるシュナイゼルに対し、セラフィナはまだ困惑と不安が拭えないのか口を閉ざした。
部屋の外では晩餐会から出てなかなか戻らない摂政を心配してか侍従達がシュナイゼルを探している。シュナイゼルは閉じた扉に近寄り、何度か扉を叩いて声を上げた。
「私はここだよ」
「殿下! なぜここに!? いますぐ開けます!」
ちょうど外には侍従長のハーゲンが来ていて、すぐさまこの部屋の暗証番号を入力し解錠した。
彼は中にはティラナがいると思っていたが、なぜかセラフィナ令嬢がいるのに真っ先に驚いた。
「なっ……なぜ……アルディック公爵令嬢もご一緒に……?」
シュナイゼルはそれまでティラナがどうしてこの場所に誘い、セラフィナと二人きりにしたのかを考えていた。そしてその真意を掴み思いがけず笑いが込み上げてきたのだった。
「ん? ……ああ。……ふ……ははは! そうか、そういうことだったんだね」
「はぁ……?」
「いやはや……本当に……なにをしたいのかはわかったよ。ティラナ。……ハーゲン、一応自己弁護しておくと彼女には手を出していないし、彼女も王女の気まぐれの被害者だよ」
いまいち事態を飲み込めないでいる侍従長は渋い顔を作っている。
奥に立ち尽くすセラフィナの手をとり、シュナイゼルは部屋から外に連れ出した。
「セラフィナ嬢。王女の悪戯は忘れて美味しい食事を楽しんでください。……ネイラー、セラフィナ嬢を大広間にお連れして」
「は……はい。お気遣い感謝いたします、殿下」
セラフィナは侍従のネイラーとともに晩餐会に戻っていった。
「ハーゲン」
「はっ。承知しております」
シュナイゼルの声音が硬くなった。侍従長ハーゲンは頭を下げ彼の側に寄った。
「まだ王宮内にはいるはずだけど……そうだね、直近の監視カメラのデータチェック、セキュリティの漏れを再確認するんだ。いくつか突破されている。データログに不自然な入力が残っているはずだ。そして、セラフィナ嬢には後日また事情聴取をしようか。晩餐会が終わったら声をかけて」
「はい。すべて殿下の仰せのままに。……ところで、あの方は本物だったのでしょうか?」
「それをこれから探るんだよ」
「ははっ」
「久しぶりだよ。この国でこんなに気分が高揚するのは……、それで安置室≠フ確認は行ったかい?」
「ええ……すでに向かわせています」
「何かあったらすぐに連絡して。私は晩餐会に戻る。……そうだ、ベルケス首相にも当件の情報共有を頼むよ」
「はい。殿下」
シュナイゼルはふと手に残った彼女のパンプスを見下ろした。ビーズと丁寧な銀刺繍が施された逸品だ。
「十二時を過ぎれば、魔法は解けるのかな」
それは誰に対してでもなく呟かれ、十一月の冷たい風が頬を撫でた。