――やりきった。
心臓の鼓動はまだ早い。
そう壁の間の中で息をつく『わたし』は闇に染まった天井を仰いだ。
シュナイゼルはセラフィナ令嬢に手を出すことはしなかったが、そんなことは想定内だ。噂をつくるための狼煙上げ。それが今回の真の目的で、ついでに国際社会を少し騒がせて王国民を鼓舞できれば十分だった。
もう一度息をつく。
懐中時計を確認すると午後九時過ぎだった。晩餐会はそろそろ終わって帰り支度を始める頃合いだ。
シュナイゼルのことだから厳重警戒を指示し、王宮内を探らせているだろう。今出ていくと場所によってはメイドがいるには不適切と判断されて怪しまれる可能性があった。
『わたし』はティラナのままその狭い場所に座り込んだ。ぐうと腹が鳴った。
――美味しそうだったな。
味見をしても良かったかもしれない。宮廷料理など堅くてマナーばかりの味のしないような食事と思っていたが、久しぶりに目にすると昔を懐かしめた。心地よい疲労感と空腹とに押し流されて『わたし』は深夜になるまで少し眠った。
帝立コルチェスター学院の工学棟研究室。本来そこは公平に誰でも使用できるエリアだが、一人の天才科学者が留年を覚悟しこれ以上の問題を起こさないという条件で一部屋を完全に独占していた。そのほぼ私室と化した部屋はテレビの置かれたデスクと、ラボの二部屋が一枚のガラス扉で仕切られている。部屋の主が購買部で食料を買い込みラボに入ると、すでに先客がいた。
「あら。おかえり、ロイド」
ノーサンブリエ寮の不良、カノン・マルディーニは芸術週間を放棄しテレビの前で優雅に紅茶を啜っていた。白衣姿のロイドは眼鏡を押し上げていつもと同じように飄々としデスクに栄養補助ゼリーやペットボトル飲料を置いた。
「熱心じゃな〜い。殿下のお出になる番組を観るなんてさぁ」
「番組って……宮中晩餐会よ。公務よ」
「カノンくん、その口調……いいのかい?」
ロイドはカノンの表の顔を知っていたが、最近変化をみせていることに気づいていた。もっとも人間への関心が最低値ではあったが、不良支援を行うのと取引交換で様々なお使いを任せている都合もあり、この学院の不良で脱走シュートを使う人間の詳細は心得ていたのである。
カノンは曖昧な年齢の男とも女ともつかない綺麗な顔で微笑んだ。
「もう少し悪ぶっていたほうが良かった? ノエルを見ていたら……なんだか馬鹿らしくなっちゃってね。誰がどう思うが思うまいが……」
「それって反抗期ぃ?」
「私は生まれた頃から反抗期よ」
「あっは〜! それにしても生中継の解説が放送事故みたいになってて面白いねぇ?」
先ほどからカノンが眺めているテレビ画面の向こうには、この学院の王様≠フ将来の就職先が映っている。綺羅びやかなシャンデリアと調度品、華やかな貴族達の晩餐会。ロイドには肩の凝るような鬱陶しい社交界の景色だ。それを好き好んで視聴する人間はマニアか変態しかいない。
宮廷内部の映像を映したかと思えば、放送局のアナウンサーの実況に戻り、再び宮廷を映したりと忙しない。それに肝心の説明となる実況がもたついており放送事故のようだと思った。カノンは眉を顰めロイドを見上げた。
「みたいじゃなくて、放送事故なのよ」
「ふーん?」
「病床に伏せていた王女殿下が晩餐会の始めにおいでになって……聞いてるの? ロイド」
「僕にはそのへん興味なくって」
それはそうね。カノンは短く肯定した。
シュナイゼルにはなんだかんだと興味を持たれており、それはそれは羨ましがられるような好遇を受けている自覚はあったが、ロイドにしてもそれは自分の研究が恙無く進められる環境的な都合を優先して、少しは金払いのいいパトロンに対して興味を持っておいたほうがいい――という最低保証でしかない。だから実際、シュナイゼルがどこでなにをしようが、誰と結婚しようが瑣末事の一つに過ぎないのである。
がたっと椅子が音を立てた。カノンが勢いよく立ち上がりテレビにしがみついたので、ロイドはその動きに驚き目を丸めた。
「このドレス……アーニー・モルケット作じゃない!?」
「え? え? なに? またなんか放送事故?!」
「王女のお召になってるドレスのデザイナー! 今すごく人気で予約十年待ちなのよ! 最新トレンドを押さえてるから……直近作だわ……さすがロイヤルファミリーは違うわね」
ロイドは素直に感心した。カノンのように誰かに興味を持つことが出来るのは才能の一つだ。人は型通りに理論通りにも動かないし、気づくと勝手に変質してしまう。流動的で自由自在・変幻自在に形のないものを頭の中に抱えて扱いづらい生物。そんなものに常に相手に政治や戦争や商売する。ただでさえナマモノであるのに、その生物が身に纏う布に関心を持ち知識を蓄えるカノンが奇異に映る。
――どんな材質の布をまとえど、中身はみな一緒なのにねえ。
こんなことを呟いてしまえば彼の鉄拳で医務室送りだ。
「はー……ドレスねえ……なんでシュナイゼル殿下が喋ってるんだい」
「代読よ。体調が優れないんですって」
ロイドは長身を曲げテレビ画面に顔を近づけた。ティラナ王女殿下、六年越しに宮中晩餐会ご臨席のテロップ。
ブリタニアの正装よりも遥かに質素ながら優れた容姿のおかげで人に見窄らしい印象を与えない帝国第二皇子がその婚約者である女性の隣で、彼女のしたためた言葉を読み上げている。
ロイドは画面中央に映る、シュナイゼルよりは凡庸な色彩を持つ王女を見つめた。
「病床から六年ぶりにお見えになった王女殿下ねぇ〜」
「あなたでもその話は知ってるのね」
「それってさぁ……」
「うん?」
「本物なのかな?」
ロイドとカノンの視線が交わる。
「不敬よ、ロイド」
「わかってるよぉ。僕は生まれながら不敬!」
テレビに飽きたロイドは身を翻し隣のラボに入った。ロイドの関心事は一定だが最近、唯一人間に傾けられそうな対象が出来た。
「ところで、ノエルくんはなんで学校にいないの? KMFの正規パーツを入手できそうだから、試乗をお願いしたいのにさぁ」
ノエル・アストリアス。この九月に編入したばかりの最新の不良メンバーだ。とてつもなく行動力があり、自動走行実験させていた機体が学院を走り回ってしまったとき、彼がその機体を止めた。そのおかげでロイドは留年が確定したが、代わりに時間猶予を得た。ノエル・アストリアスはKMFを使用する演習でも好成績を収める不良の中でも優秀なタイプで本人は工学方面は専門的ではないと宣うが基礎を習得していなければ実験機の暴走をさらに推し進めていたことだろう。物理法則の理解もあり、先月のスポーツ・ウィーク内で行なわれたクリケット競技でノーサンブリエと引き分けに持ち込むほどの知識と腕前だ。
その彼がロイドの作製したものを扱えば、また新しい境地に達することができる。そんな予感を抱かせてくれるだろうと思うほど――彼にしては希少で興味をそそる人間だった。
同じ不良仲間のカノンはやはり情報通で、ノエルが今この学院にいないことを知っていた。
「……ああ、ご実家に呼び出し食らったらしいわ」
「ついに?」
「そう。ついに」
たった数ヶ月で学院中をお騒がせし派手に様々な脚光を浴びた少年はついに自宅で絞られる羽目になった――というわけだ。
彼は公爵子息で浮き名を流している話も耳にする。すべて人伝の風聞だが。その彼が実家行きとは付けが回ったのだろう。
カノンはロイドに疑問を呈した。
「でもどうしたの、急に正規パーツだなんて。高額じゃない。私達がいつも脱走帰りに持ってきてあげてるジャンクでも結構値が張るのよ?」
「うふふふふ〜……それがさぁ、この間のスポーツ・ウィークに……マリアンヌ皇妃がご興味があるとウチを視察されてねぇ?」
「あぁ……ジェレミア監督生が鼻血出してぶっ倒れたんだって?」
「よぉく知ってるね〜。でさ。そこでいくらか融通が効くようにしてあげるってアッシュフォードに紹介状を出してもらって……」
「アッシュフォードって……あなた、あのガニメデの!?」
「そうそう。いやぁ〜トラブルは起こしておくもんだよね!」
カノンは珍しく興奮気味にロイドの背中を叩いて「やるじゃない!」と喜んだ。
a.t.b.二〇〇六 8th November
カストラリア王国 首都・リダニウム
メイド服に着替えた『わたし』は内務局の衣装部屋にティアラを返却した後、山と洞窟が混ざりあった北側の坑道付近から王宮を出ることにした。
薄雲が張り半月の頼りない淡い光が、高山植物の生える庭を斑模様を投影するよう照らしている。白い砂利道の上を音を立てないようスーツケースを持って歩くのは神経を遣った。
この辺りの庭園のほかに研究施設がいくつかある。国王夫妻がティラナ王女の――影武者であるマルカのために用意してくれた馴染み深い場所だ。研究施設の白い建物群はそこだけ紙を貼り付けたように夜の景色に浮いていた。――その先を下りきった場所で六年前多くの人が、デスモイド首相や姫様が拳銃で撃ち殺された。『わたし』は死の恐怖から逃げ出し、都市部まで走った。その先で誰かに頭を殴りつけられて記憶がなく――気づけば護国自警会に保護されていた。
マルカは砂利道を見下ろしながら歩いた。
『わたし』は揺らいでいた。頭の痛くなりそうな気配が側頭部に回り込んできていた。
――今この国を支えられるのは、シュナイゼルだけだ。
今晩の収穫はそれを知ったことだ。『わたし』は護国自警会に助けられたが、彼らの思想を支持するのは国のためになるからだと信じてきたからだ。しかし。
――しかし、このまま信じて良いのだろうか? 私はなにか見落としをしていないだろうか。もっと根本的な、原始的な、盲点を。
もし。もしもだ。
――彼を殺して喜ぶ者は――いったい誰だろうか?
「うあッ!」
思わず声を漏らすほどの激痛だった。
誰かに聞かれていないか目をぐるぐると巡らせ周囲を警戒する。人影はなかったが、背後から一突きされたような恐怖が悪寒をつくった。ようやく、闇の中にある扉の感触が掴めてきた。
もしも。もしもの話だ。
『わたし』は慎重に記憶を頼りに紐解いていく。
――シュナイゼルは摂政でしかない。なぜ狙うのかといえば……最後のキングだからだ。
彼を倒せば、この国は完全に沈み込む。それどころかブリタニアの守護さえなくなるのではないか。では、エリア四とは――そう、エリア四とは苦肉の策だ。シュナイゼルが善き行いをすると信じるなら、この国を属領としブリタニアの支配下に置くことで中華連邦やE.U.の旧貴族筋からの侵略から防ぐ戦略を取るだろう。
ぐっと生唾を飲み込む。口の中の水分はそれで無くなった。頭痛が耳鳴りを連れてきた。
――では、クイーンは? 姫様のことだ。
姫様は殺された。姫様は目の前で死んだ。『わたし』はこわくなって逃げ出した。でも――もし逃げずに、王宮に戻って誰かに庇護を頼めば。そんな話はたらればだ。たらればだとしても、そのまま『わたし』が姫様のかわりにティラナだったら?
――『わたし』がティラナだったら、よかったのに。
そうすれば。そうしていたら、男の体にだってならなくてもよかった。
――『わたし』は利用されていた? 最初から? 誰に? 護国自警会に?
マルカの呼吸は痩せ犬のように乱れ、どんなに息を吸っても上手く入ってこなかった。
砂利を踏む音が大きくなり、マルカは身を強張らせた。咄嗟に茂みに身を潜めると、研究施設から研究員がぞろぞろと列を連ねて王宮の方に戻っていくではないか。手で口を押さえ彼らがその激しい呼気に気づかないことを祈った。
時刻は深夜の二時前だ。こんな夜中に研究施設に大人数ですることが果たしてあるだろうか。
「あの建物は私のいた頃にはなかった。壁の塗装も比較的新しい……」
王宮内の研究施設は表向きティラナのものだ。それを新設するということは、どういうことか。しかし、姫様は死んでいて残念ながら本物のほうにはその才覚がなかった。するとシュナイゼル指揮下の私設研究施設ではないか。
マルカはスーツケースを茂みに置いて、新しい研究施設の壁をよじ登った。どこの窓もしっかり閉まっていたが、二階のトイレの換気のために開けている窓から侵入した。
深夜まで取り組む必要のある研究――。それも今日は表で宮中晩餐会が行なわれており、一般国民は十一月七日は王女誕生日で祝日になっているため勤労は推奨されない。王宮内の研究施設でそんな日に働かせていいとは考えられない。よって、彼らはより私的な研究員だとわかる。
――誰の? やはり、シュナイゼルだ。
研究施設の中は簡素な造りで、無機質な壁色と音を吸収する天井が組み合わさった病院のような内装をしていた。
中に人はおらず、どこからともなく一定の電子音が響いている。薬品の匂いも科学的ではなく医学的で、それがマルカに嫌な予感をもたらした。
二階中央の部屋は薄暗く、何かを厳重に守るようにパーテーションのカーテンがヴェールのように幾重にも立てられている。
電子音。電子音。脈打つ波形。脳波の波形は小刻みに波打ち、心電図の心拍数がゆっくりと数字を一定に保っている。
「あ……ああ……あぁ……――!」
マルカは言葉を失った。
――幻をみている。これは幻だ。幻でなくてはいけない!
マルカの脳がゆっくりと目の前にある光景を咀嚼していく。日に晒されていない白い肌。豊かな秋を連想させる長い髪。時を止めてしまった幼い身体――。
――そんなはずはない。そんなはずはない。そんなはずはない。そんなはずはない――!
耳鳴りが何重にも幾重にも頭の中を埋め尽くすように響く。うるさい、うるさい、うるさい、うるさい……! こんなところにいてはいけない。こんなところにいてはいけない。こんなところにいてはいけない――!
何を目にして、何を感じたのか。かなしい、かなしい、かなしい、かなしい、かなしい、かなしい、かなしい、かなしい――。
いやだ、いやだ、いやだ、いやだ……きえないで、きえないで……。
意味のない言葉、意味のわからない感情。頭の中が痒くてしかたがない。こじ開けないで。叩かないで。広げないで。壊さないで。消えないで。早くきて。早くきて。逃さないで。逃げて。捕まえないで。捕まえて――。
打ち震える鐘のように全身が揺れる。
この眠っている人は誰?
この静かに、柔らかく、あまい、かわいいひとは誰?
『わたし』が訊ねる。
きみは、だれ?
シュナイゼルが『わたし』に訊ねる。
――『あなたは、誰?』
「……わ、たし……わたし……は……」
その時、真っ白で皺のないその瞼が薄く開いた。大きなアンバーの瞳は宙を彷徨い。やがて、『わたし』を捉えた。
少女の声は掠れ、たしかにその名を口にした。
「……ティラナ……」
びりびりびり。ぐちゃぐちゃぐちゃ。
「ぅあ……う……ああ……ああぁぁ……あぁぁああああああああああ――ぁぁああああああぁぁ―――ッ!!」
絶叫と悲鳴。落涙と噴出する鼻血。空腹なのに胃液が、胃ごと口から飛び出してしまいそうだし、心臓が不自然な働きをし、今にも意識が飛びそうだ。はやく、逃げなければいけない。そうしなければ捕まってしまうから。いや、いや、いや、いや、いや、いや、いや!
また、捕まって痛いことをされるのはいやだ。何日も何日もごはんが食べられないのはいやだ。しあわせな夢をみたくて眠っても眠っても死ねないのはいやだ。ころして。ころして。ころして。ころして。
「やだ……やだ……やだ……やだ……やだ……やだ……やだ……」
「……ティラナ……」
もう一度、ティラナがその名前を呼んだ。『わたし』は頭を抱え苦痛を上塗りするように叫んだ。
「ちがう!」
『わたし』の唇から飛び出す否定は深く深く傷を開かないように閉じるために必要な呪文だった。裂けている傷の在処を知らないでいるほうが幸せだった。こじあけないで。こじあけないで。なかみをひっぱらないで。みないで。
「違う! 違う! 違う! 違うッ、違うぅぅ――ッ!」
ティラナじゃない。ティラナじゃない。ティラナじゃない。ティラナじゃだめ。ティラナじゃあってはいけない。ティラナなはずがない!
「わたしはマルカ、マルカ、マルカ、マルカ、マルカ、マルカ、マルカ、マルカ、マルカ、マルカ、マルカ……」
『わたし』はマルカであらねばならなかった。マルカの名前でいなければならなかった。そうしなければ、そうしなければ……。
そう思い込まなければあの苦痛のすべてに耐えられなかった。ひもじくて、みじめで、くつじょくてきで、かなしくて、さびしくて、くるしくて、ぜつぼうてきな、あの二一三六ぽんの注しゃに……。
あの手がきてしまうよ。
「いやっ……!」
つぎはもっとうまくやるから。
「いやだ……!」
胃が捻り激しく嘔吐した。暗い赤色だった。ティラナの手が『わたし』に伸びてきて、それが怖くて振り払った。
「いやああ!」
マルカの強烈なヒステリーにティラナはおおきなお月さまのような瞳を海にうかべた。
「ティラナ……いかないでぇ……!」
それ以上聞きたくなかった。
『わたし』の体はなにかに乗っ取られたように勝手に動きだした。どこか、どこか、どこか安全な場所を目指していた。
――これいじょう、とびらをあけないで!
外はまだ暗かった。マルカは千鳥足で煮立つ鍋のような頭をぐらぐら揺らしながら辛うじてスーツケースの取っ手を握り、でこぼこの鉄球が上手く回りきれないような不規則な軌道で研究施設――王宮から逃げ去った。
深夜二時十分
様々なトラブルの処理を終えたシュナイゼルがベッドで眠りに就いたのは、深夜二時のことだった。遠くで何か遠吠えのようなものが耳奥を掠めたが夢の中で聞くような幻だと思い、一つ寝返りを打った。ほんのつい先程、就寝直前に聞いた報告では彼女に異常≠ヘなかったのだから。そう――さらに深い眠りへ移ろうとしたとき、不意に激しいノックが寝室の静寂を終わらせた。
侍従長ハーゲンの切迫した叫び声だった。
「殿下! 起きていらっしゃいますか!? 殿下!」
「……なんだい」
「い……異常が……!」
その言葉に一瞬にして眠気は霧散した。誂えたばかりの寝台から飛び起き、居室の扉を開ける。ハーゲンは懐中電燈を手に持ち厚いガウンを羽織ってそこに立っていた。
「ハーゲン……安置室か?」
「殿下。外は寒いですので十分厚着をなさってください」
手近にあった外套を体に巻き付けて、シュナイゼルは居室の扉を後ろ手で閉めた。
「行こう。……先程の報告では異常はないと言っていたね?」
「ええ。間違いはありません。ですが……何者かが侵入したと」
「侵入?」
シュナイゼルはいくらか考えを巡らせたが、あの場所の研究施設の在処を知り関心を持つ者の存在は限られている。
「今夜の、彼女かな」
「それは……わかりかねますが」
「王宮内の者は眠ったかな。この事、他の者は?」
「私と研究施設の者……それから殿下だけです」
ハーゲンの額は汗で濡れ、光っていた。
研究施設――安置室≠ナは、警告音がけたたましく鳴っている。内部に設置された警報機が作動し、二階の一部窓ガラスが突き破られていた。
一階の芝生上に散乱するガラスには血液が付着し、それが白い砂利道の上を点々と染みをつくっている。
「これは……」
「血の痕はかなり向こうまで続いています」
「ティラナは?」
「ご無事です」
「血液採取を。靴を履き替えて」
「はい。現場保護につとめます」
安置室の中に入ると既に何名かの医師と研究員が詰めて鑑識作業に入っていた。
「遅くまですまないね。」
倒されたパーテーションの布地にも血飛沫が飛んでいる。掻き乱すように荒らされた現場は、小競り合いにならなければありえない状況を呈している。シュナイゼルは最重要事項であるティラナの様子を窺った。彼女は寝台の上で瞼を閉じている。いつ何時ここを訪れても、眠り続けている。人間の肉体とは不思議なもので、眠り続けていても肉体の成長と老化は止まらないゆえに十二歳のままの姿ではない。
「……涙の痕がある」
小さく呟いて、彼女の涙を指で拭う。
「周辺の監視カメラを確認させて……」
ハーゲンが安置室の入口に戻ってきていた。シュナイゼルがその場から動こうとしたのと同時にティラナの瞼が震えた。
「……まって……」
「……ティラナ?」
シュナイゼルは掠れた声に振り返り、ティラナの傍らに身を寄せた。ハーゲンが慌てた。
「姫様! お目覚めに……!? 殿下!」
「わかっているよ」
ティラナは譫言のように繰り返し、涙を目尻に滲ませた。
「……いかないで……いかないで……」
「私はここにいるよ、ティラナ」
「ちがう……ちがうの……ちがう……」
「なにが違うんだい。……目が覚めてよかった。嬉しいよ」
ティラナの澄んだ瞳からポロポロと涙がこぼれ落ちる。それをまた指で拭って額にキスを一つ。それでもティラナの不安で困りきった顔は直らなかった。少女自身も上手く言葉にするためにどうすればいいのか、舌がまわらず、シュナイゼルのコートの裾をきつく握りしめることで何かを訴えかけている。
「わたし……ティラナじゃない……」
シュナイゼルは聞き間違えたかと思い、首を傾げた。目覚めたばかりで自己認識が出来ていないのだと考えた。
しかし、その言葉を聞くやいなや――侍従長ハーゲンの顔色が真っ青になり壁に手をついた。
「ハーゲン」
侍従長ハーゲンはぶつぶつと何かを熱心に呟き、それから十字を切った。
シュナイゼルはもう一度彼の背中に名前を呼びかけた。
「ハーゲン。……君は、なにかを知っているね?」
ハーゲンはシュナイゼルの方を向き直ると、心の底から申し訳無さそうに頭を下げ、両膝を床についた。
「殿下……お許しを……お許しを……お許しを……!」
「説明するんだ。ハーゲン。私の知らないでいることを、すべて」
「お許しを……セイル国王陛下……」
先王の名がハーゲンから漏れた。それだけでシュナイゼルはこの王家は家族ぐるみで偽りを共有していたのだとわかった。
ハーゲンは静かに立ち上がって、ティラナに恭しく礼をとった。
「本当によろしいのですか……私の口から真実をお伝えしても」
「ティラナ……死んじゃうから……」
「はっ!? 今なんと! それでは……それでは……あの方は……本当に……?」
ハーゲンは一人合点がいっているのか、激しい動揺をみせた。辛抱強いシュナイゼルもさすがに痺れを切らし声音を強めた。
「ハーゲン」
「申し訳ございません、殿下。捜索を急がせたほうがよろしいかと……」
シュナイゼルは怪訝な顔で、声に力を失っていく侍従長を見つめた。血液から遺伝子解析がまだ終わっていない。不確かなまま行動に移すのは確実ではないはずだ。
「まだサンプル一致も確認とれていないよ」
「いいえ……間違いございません」
しかしその蒼白に染まる顔がことの重大さを確かなものにしていて、かつ嘘のつけないハーゲンがそこまで言うのであれば信じてみることにした。
「まだこの近隣にいる可能性はあるね?」
「血液が乾ききっていないところをみるとその可能性は高いでしょう。夜明けまで五時間。この寒さです。鉄道、フライトは四時間後でございます。どこか建物に身を寄せているでしょう。王宮内をもう一度洗ってみるのも手かもしれませんが……」
「動かせる者で捜索班を結成させ、半径一〇キロ圏内を中心に捜索を」
「はい! 殿下」
ハーゲンは急いで安置室の外にある非常用通信の受話器を取った。
シュナイゼルは厳しい声で研究員を急かした。
「解析を急いで」
「はい」
そして、傍らの寝台にいる彼女へと視線を戻す。
「これでいいのかな」
シュナイゼルの声は元の調子に戻っていた。ティラナではないという少女は力なく微笑み、瞼を緩やかに閉じた。
ハーゲンが戻ってきた。
「殿下、お休みになられますか」
「冗談じゃないよ。君からまだ何一つ説明を聞けていないんだよ」
「血液検査の結果とあわせてご説明します。女官長も呼び立てますので……明朝になるやもしれません」
「解析まで最短二時間か。……わかった。そこのソファで暫く横になるよ」
「しかし……」
「すぐに結果を聞きたいからね」
安置室前の簡易なソファに身を横たえシュナイゼルは目を瞑った。研究施設の外は雪がちらちらと降り始めていた。
◆ ◆ ◆
とても、とても、おそろしい話をしよう。
『わたし』は何を信じてきたのか。どこへ向かおうとしているのか。
どうやってここへ戻ってきたのか、どれほど時間が経過しているのか、『わたし』にはわからなかった。
頭の中はどこか切れたのか、強烈な頭痛は地球最後の日のようにどこもかしこも至るとこで燃えている。その場所はとても暗く冷たい場所だった。床の上に転がり、鼻と口の中は涙と血と唾液の鉄臭さと甘酸っぱさを感じた。空腹は消えていた。なにも聞こえなくてとっくに死んでしまったのではないかと思うほど静かだった。
窓のない暗闇の水底に滞留した空気が押し流されていったのがわかった。誰かがこの部屋に入ってきた。
「おもしろかったよ。昨晩の余興は」
重く深い腹の底に響く男の声だ。目に力が入らず薄い影の輪郭しか捉えられない。一歩また一歩、男は『わたし』に近づいた。『わたし』は、あの恐怖を思い出して床を虫のように這った。脚にも力が入らず、思うように動けずに、逃げた先の壁に肩を打ち付けた。
「怖がらないで」
男はすぐ傍に来ていた。そして跪き上から覆い被さるように『わたし』を覗き込んだ。どこまでも真っ暗でなにも見えないのに、そこからはっきりと吐息と声が聞こえてくる。
「……しかし驚いた。さすがティラナ王女様だ。自分でこの力を――洗脳を解いてしまうなんて。本当にすごく優秀だよ、カストリア王家の血は。……だからあの優秀な皇子も惹かれるんだろう。間に合ってよかったよ。このまま実を結んでしまえば……。興味あるがね、彼との御子とやらも」
「ちがう……ちがう……わたしは……、ティラナじゃない……ティラナじゃないから……これいじょう……いたくしないで……」
「大丈夫。大丈夫。……楽になれるようにいらないものを消しておくよ」
男は分厚い胸の中に『わたし』を迎え入れた。知らないにおいだった。
唐突に彼と眠った寝台の匂いを思い出した。清潔で温かく庭から吹く風のなかに薔薇の香りが甘く薫った。ウィルゴ宮での記憶が喚起された。金色の髪の隙間のなかの甘やかな皮膚のにおい。荒れた指の間を埋めるように繋がれた柔らかな指。世界のすべてがあたたかい湯船に浸かっているように幸福に満ちている。
――『きみは本当にこの色が好きなんだね』
――『綺麗なものを愛でるのは、自然の摂理なのよ。再現不可能な色を自然に持つことは特別なの』
――『その話だと……私の瞳や髪色は鉱物と一緒ってことになるよ』
――『そうよ。宝石も鉱物だもの。鉱物の中の特別なもの。科学は自然の美しさと素晴らしさを識るための学問なの』
彼はすこし微笑み、りくつやさん≠ニいって『わたし』の頬に唇を寄せた。
「あ……」
もう出ないと思っていた涙が両目から泉のように溢れ出る。あのときなんて思ったんだろう。はじめて、ティラナに嫉妬を覚えたような気がする。この特別美しいひとと、これからもずっと一緒にいられるなんて。
ティラナの頭にはもう苦痛がなかった。死の直前のように、もっとも苦痛を和らげる幸せな記憶が満たし始めていた。
「思い出した? 君の本当の目的を。……あのお願いを果たしてくれたら、君も楽にしてあげられるよ」
なにをいっているのか、男の言葉は何一つ、届いてはいない。無粋にもその幸福を奪おうとする男の手が――大きく厚く、手袋に覆われているその手が――ティラナの両頬を包みその方に向けられる。
暗闇が動く。そこにある二つの眼が次第に赤みを帯びていくのがわかる。瞳を逸らしたくても、魅入られてしまったように動けない。
――ああ。あの日、あの真っ赤に燃える王宮みたいだ。その空を鷹が何羽も飛び回っていて……。
赤い鷹はティラナを捉えると一直線に飛び出して、彼女の瞳の中に這入りこんだ。教会ではじめて洗礼を受けた時のような厳かさ。無我の境地に晒されていく。
「――私の命令に従え。ブリタニア帝国第二皇子、シュナイゼル・エル・ブリタニアを暗殺せよ」