a.t.b.二〇〇六 November
帝立コルチェスター学院
「いいねえ〜。とぉ〜っても素晴らしいよノエルくん〜」
気の抜けた間延びする声が工学棟のラボに反響する。どの部屋よりも広くゆったりとした空間には本格的な設備が整い、大学機関や専門的な学校以外でこれらを用意するだけでももう一つ学校が建ちそうなほどの金がかかる。元々これだけ立派ではなかった頃を知るラボの主は、試作機として開発した一機のKMFのデータを一人の少年の操作から問題なく取得し、その数値があまりに充実していたので、スライムのようにぐにゃっとした蕩けた顔で喜んだ。
コックピットから降りて身軽なパイロットスーツの前を開けながら、ノエルは渇いた喉を潤すため用意されていたペットボトルをデスクから取り、ミネラルウォーターを飲んだ。ロイドはモニターに集中していた顔をようやくノエルに向けた。
「これでご用は済みましたか? ロイド博士」
「残念でした! まだ色々残ってるんだぁ! というかなんだい、博士って。なんで知っているんだい」
「書き上げて提出なさったんでしょう? そういうことです」
パイプ椅子に座ったノエルは欠伸をして、紙袋に入れていた着替えをゆっくりと取り出した。
「君って、書いたことあるでしょ? 偽名とかで?」
「ペンネームですよ」
「何本」
ロイドのねっとりとした視線に気づき、ノエルは記憶にある限りの論文本数を数えた。十二歳までに二十八本あったが、年齢に対して詮索が働きそうだと誤魔化した。
「……内緒」
人間にさほど興味がないロイドは追求しなかったが、脱いだスーツの下から露わになった生々しい怪我をみて顔を引き攣らせた。
「その傷イタそ〜」
「父上も大概にしてほしいですよ。おかげでパッチじゃ間に合わなくて」
「治癒促進シートならあるよ? 使う?」
「いいの?」
主任デスクの片隅にある何でも置き場に詰め込まれたガラクタの中から湿布薬のように個包装されたシートを抜き取り、それをノエルに手渡した。「ブリタニアの後追いパチモンジェネリックだけどね。効果も二流三流」そんな呟きといっしょに。
中身を取り出し胸の上に二本の赤いミミズ腫れが交差している。デスク上の文房具の中にあった鋏で傷の幅と長さに合わせてシートを細かく切り分けて、患部に器用に貼り付けていく。
「……その代わり安上がりで大量に使えるじゃないですか」
「まぁね〜。早く次の特許切れを待ってるんだけどさぁ……頭打ちでね〜。有効成分は同じはずだけど、どうしてか効果グレードが下がるんだ。
「へー」
生返事を返す。シートを貼ったはいいものの見かけの不格好さに少し笑ってしまう。
「開発元の基礎理論書いてくれてた人がもっと元気にやってくれたらね〜? 特許切れまで二十年! もうあと十二年もこのままじゃね。こっちの研究所が今血眼で研究してるんだってさ。殿下にお願いしたらこっそり横流ししてくれたりしないかなぁ?」
「それは出来ない相談だね、ロイド」
ラボの扉はいつの間にか開いている。突然の長身の貴公子の登場にふたりは、ぱっと顔を上げた。シュナイゼルは一週間ほどのカストラリアでの秋季公務を終えコルチェスターに帰ってきていた。
「おや、殿下! 聞かれちゃいました〜?」
「我が国≠フ最重要機密事項だからね。それをしてしまったら、私は離縁されてしまうよ」
「あら、出来なかったんじゃありませんでしたっけ? 離婚」
「よく覚えていたね。信用の失墜という意味だよ。代わりといってはなんだが、我が国の手土産ならここにあるよ」
「あひゃあ〜! これは!!」
ロイドの機嫌はランドスピナーの回転速度よりも調子がいい。待ち遠しかったと言わんばかりの喜びの舞とともに書類をシュナイゼルの手からひったくる。
「正規パーツの購入許諾書類だ。欲しいものを明記すると届けてもらえるよ」
「ありがとうございまぁす!」
ノエルはシュナイゼルの前で着替えを始めるのを躊躇い、せっかく伸ばした着替えを紙袋に戻した。青みがかった紫の瞳は奇妙な怪我の仕方をしている少年へと移される。
「テストは彼にやらせるのかい」
「ええ。怪我がデータに反映されると困りますが、軽微でしょ」
ロイドは書類の確認ばかりでふたりの方を見ていなかった。
「ご実家で叱られたんだそうだね?」
「あーはい。そうです。ボッコボコにされちゃいまして」
シュナイゼルは椅子に座るノエルの前に立ち、彼の顎に手指を添え上を向かせた。剥き出しになる白い喉、鎖骨、薄い胸板に治癒促進シートを細かくXの字のように貼り付けてある。シートはやや透明で下にある傷口の色がわかるようになっていて、デスク上に置かれたシートの袋がブリタニア製のものであると理解し、効果は五時間から七時間後に現れるだろうと思った。
「ふうん」
「なんですか」
「いや、傷の具合をね」
「鞭打ち二回なんで……大したことないですよ」
「腕は上がるのかい」
「はい」
ノエルは両手をあげて万歳ポーズをとる。筋肉の動きは自然で違和感は殆ど無い。
「問題なさそうだね。パイロットの備考欄に記載は不要だ。……それでシートの話をしていたんだね?」
「そうですよぉ!」
「うーん、力になれそうにないな。ごめんね」
シュナイゼルにしては茶目っ気のある謝罪に、ノエルは少しばかりむっとした。
――基礎理論を書いた本人が使えないことがあっていいのか。
こんなことならロイドの御用聞きついでに軍部から盗んで来ればよかったと後悔する。
学院代表及びパトロンからお墨付きを頂いたロイドは思い出したように「あ、そうだ」と声をあげた。
「ノエルくん、そっちのロッカー使っていいよ」
「ロッカー?」
「これから頻繁に来てもらうことになるだろうし、着替えとかに使う用の」
「あぁ。ありがとうございます」
ロッカーは広いラボの中に入口のすぐ側にあった。縦六列・横三列のもので原始的なキーロッカーなところが安上がりだ。ノエルはいつまでもこの格好でいたくなかったので着替えるためにロッカーに近寄った。
「殿下ぁ、これって締め切りいつです?」
「ん? あぁ、半月後の水曜日までだよ」
ふたりのやり取りを背後に、空いていると思って開けたロッカーは誰の私物なのかたくさんの物が詰め込まれている。
「ロイド博士ぇ、使用中ですけど」
「全部出しちゃって」
言われた通りに中の物品を床に出していく。上質な紙袋・ショッパーの中身は明らかに女性ものでこれをロッカーに置いておく人物が誰かすぐにわかった。
「はーい。……ここってカノンも使ってるんですか?」
「カノンくんが? まぁ、よく入り浸っているからね。なんだいそれ」
床上に広がる、赤、白、ピンク、紫、上質な黒の高級そうな化粧品の数々を不思議そうな目でロイドは見つめた。
「……たぶん、香水とか化粧水とか。……デパコスかな……勝手に動かしたら怒るかな?」
そこに髪を結んでおらず流したカノン・マルディーニが盛大な愚痴を叫びながらラボに入ってくる。
「はー。もう最悪〜せっかくウチが譲歩してやってんのに何よあの態度!」
「あ、ちょうどいいところに」
カノンは室内の異変にすぐに気づき、その部屋の中央にそびえ立つ狩人の姿に仰け反った。
「げっ。なんで……。なんで殿下がいるんだよここに! ロイド!」
「露骨に嫌そうな顔をしないでくれるかな、マルディーニ君」
シュナイゼルの足元でロッカーを整理するノエルと彼のはだけた上裸に目が留まり、カノンは顔を顰めながら確かめるようにノエルに近寄った。
「やだ、ノエルその怪我なに?」
「実家でお父上に殴られたんだってさ」
「サイアク!」
「……ははは!」
突然笑い出したシュナイゼルに三人の視線が集中する。カノンの表情はさらに強張った。
「え、なに、ノエルまた変なとこ押したの?」
「変なとこってなに」
「殿下ぁ、申請できるパーツのカタログとかってご用意いただけるもんですかぁ?」
「……くく……後日手配させるよ。……いやはや、問題のある生徒がロイドのところで楽しそうにしていると知れて良かったよ」
ノエルとカノンは顔を見合わせた。ふたりの頭には脱走シュートの存在を嗅ぎつけられたらどうしようという懸念が矢の如し過った。しかしその話題に触れればたちまちシュナイゼルの追求を受けるのは明白でノエルは喉を鳴らすとロッカーの話に戻った。
「これからこのロッカーを使わせてもらうんだけど、カノンの私物でしょ」
「そうよ。置きっぱなしで悪かったわね。……ロイド、こっちのロッカー空いてるでしょう?」
「あのさぁ、ノエルくんはテストパイロットだから貸せるけど、きみは私用で使っちゃダメ!」
「けちー」
カノンがふくれっ面でロイドをキッと睨む。
「マルディーニ君は寮のロッカーを使いなさい」
「この……、……試供品の価値がわからない野郎どもに荒らされたくないからここを使ってるってのに……」
ノエルはカノンの窮地を察して助けることにした。
「んー……じゃあ、私が二個使ったら駄目ですかロイド博士」
「あーはいはい。二個だけね! それ以上はだめだよ。ここのラボの研究員、部員のものだからさ。ねっ、殿下。そういうルールでしょ?」
「ああ」
自寮の監督生の了承を得たカノンは密かに安堵の息をついた。「ノエルくんの優しさに感謝したほうがいいよぉ〜」戯けたロイドの声にカノンは微笑みを浮かべ、床に座りっぱなしのノエルに手を貸し助け起こした。
「恩に着るわ」
「どういたしまして」
シュナイゼルは懐中時計で時刻を確認しラボの入口に向かった。彼は時間に正確でこの後も一週間の内に積み重なった仕事の処理があるのだろうとノエルは思った。
「まだ仕事があるんですね」
「そうだね。終わりが見えないよ。……君たちは、そろそろ夕食の時間ではないかな」
「もうそんな時間ですか」
ノエルはロッカーを開け、着替えを始めた。大食堂の食事メニューは後になればなるほど量と選択肢が少ないからだ。
カノンがロイドに訊いた。
「どうする、ロイドも行く?」
「僕は遠慮するよ。今進めてるところの続きをやらなきゃだし」
「なにか持ってこようか?」
「そおだね〜。テキトーでいいよテキトーで」
シュナイゼルは「それではね」と言葉を残し、ラボを出ていった。ノエルは着替えながらその背中を見送ったが、彼とのやり取りの間、ずっと何か――喉に小骨がひっかかったような感覚の正体が気になって仕方がなかった。
大食堂は生徒達で賑わっていた。
めっきり寒くなってきたせいか、スープ類が底を見せるのが早い。ノエルは五種類の中からほうれん草のクリームスープを選び、下味のしっかりついたローストチキン、フライドポテト、無花果と胡桃のサラダ、ビートルートジュースをトレーに載せた。食事には並々ならぬこだわりがあり、とくに肉が好きだった。
目立たない隅の長いテーブルの端に座ると、料理を取り終わったジェレミアがやって来てその隣に座った。
「ゴットバルト監督生」
「ロイドのところでテストパイロットをやるそうだな」
「ああ、はい」
ジェレミアは天を仰ぎわかりやすく喜んだ。
「……はぁ〜……君には感謝しておくよ。これで散々のトラブルから解放されそうだからな」
「おめでとうございます」
「それはロイドの口癖のマネか?」
「本当に良かったなーと思っていますよ」
「あの問題上級生を条件付きで手懐けるとは、さすがは殿下だ。それでこそブリタニア皇族だ。誇らしい」
やり手の監督生を礼賛する隣でノエルは苦く笑った。厄介払いに付き合わされる羽目になった身の上でこれから――。そこまで考えて、ノエルはまたひっかかった感覚に違和感を覚えた。
――そうだ。これから、シュナイゼルを殺さなくてはいけないんだ。そのためにこの学院に編入したのに、どうして忘れているんだろう。
かなり重要な目的を忘れていることにノエルは動揺した。
「どうした、アストリアス。食事をしないのか? しかし、本当に健啖家だな」
「……食べ盛りなんです。監督生こそひとのことを言えないんじゃありません?」
「そうだな」
ジェレミアは料理の前で両手を組み合わせ、食前の祈りをし、ミートボールの山をナイフとフォークでつつき始めた。それに倣うようにフォークを手に持ち、ナイフで切り分けたチキンを口へ運ぶが、動揺と困惑が味を不明瞭に鈍くわからなくしていた。
ラボ内では相変わらずロイドが大量の紙の書類とモニターを見合わせ、申請する物品を熱心に吟味している。
「食事、持ってきましたよロイド博士」
「あーうん。テキトーに置いといて」
ロイドは顔を向けずに言った。カノンから押し付けられたロイドの分の食事を詰めた紙袋をデスクに置いた。ノエルはまた寒い外に出るのも億劫になり、ラボの仕切られた隣室で寛ぐことにした。
隣室にはロイドが普段読んでいる難しい内容の専門書が積み上げられ、テーブルにはお手製のKMF模型が飾られている。その部屋には一台のテレビが置かれていて、カノンがここで怠ける時は大抵テレビが点いている。
ノエルは、そういえばシュナイゼルが一週間前にカストラリアに渡っていたのを思い起こし、リモコンを操作した。画面が点灯し賑やかで退屈な民放のバラエティ番組が映り、隣室を気遣って一気にボリューム落とした。
「ニュース、ニュースと……」
夜のゴールデンタイムのニュースがそろそろ始まる頃合いだ。カストラリアの情報はブリタニアでも報道されるが、主軸はあくまでも第二皇子殿下に絞られており、彼が何かしない限りは小さなトピックで扱われている。
ゴールデンタイムの国営放送のニュースが始まった。報道のトップは近々衝突が起こるのではないかと噂される他国の内紛とブリタニアがその仲裁をする形で新エリア獲得の機運の高まりについて報じられている。両国相手に和解案を提案するブリタニア帝国にしてはかなり融和的な方針にシュナイゼルの顔が浮かんだ。
――まさか、ね。シュナイゼルはカストラリアを……。
カストラリアをエリア四にした。だが――。
――彼は……属領とし、施策も実際に行なわれているものの……国民からの反発の声はあまりない……。
ノエルは頭を捻り、一週間前の自分がカストラリアに行ったことを思い出したが、どうして忘れているのかやはりわからない。
「……あれ? あれ……」
――カストラリアに何をしに行ったんだっけ……。
記憶は黒い靄に包まれていて、そこに行き当たり触れるたびに少しずつ輪郭と形、質感が判明し、全体像を把握しようにも繋がりの先が切られているようだった。
「なんだこれ……」
テレビ画面には一週間前カストラリア王国で行なわれた宮中晩餐会のダイジェスト映像が流れはじめた。
「……姫様……」
ノエルは思わず画面に向かって手を伸ばした。白いドレス、白銀のティアラ、濃いブルネットの髪、アンバーの瞳。大勢の国賓や貴族達の前でティラナ王女は、無彩色の正装姿であっても輝くシュナイゼルの隣に立っている。王宮火災以来六年ぶりに姿を見せたことで国際報道では連日話題になっているらしい――だが、そんな大事なことをどうして知らないのか、忘れているのか。当惑し頭を抱える。
シュナイゼルはティラナの代わりに彼女のスピーチを読み上げた。病床からの復活を遂げた第二皇子の婚約者。ブリタニアのメディアはシュナイゼルが摂政関係を終了する時期も近いのではないかと報じている。
「ああ……そうか」
――そうだ。シュナイゼルは……姫様の状態を慮って……。君主不在の療養期間中に他国から、とくに中華連邦からの干渉を防ぐために……。
彼は彼なりに国のことを考えている。
では、その人を殺してどうなる? なぜ殺す必要がある? どうして思いついた? カストラリアに行ったのはなぜ?
殺すならこの学院で実行するほうが確実だ。それをあえてカストラリアまで行ってする必要性がない。
考え込んでいると隣室から顔を出したロイドがノエルに帰寮を催促した。
「ノエルくん、そろそろ帰ったら? ここ締めちゃうよ〜」
「……ああ、はい。……今日は早いんですね」
「寮への提出物あるからさぁ」
「そうですか。お邪魔しました」
これ以上の長居は迷惑だとテレビの電源を消した。
「ど〜もぉ〜。……大丈夫? 顔色真っ青だけど」
「え?……そうですかね」
「さっさと帰った帰った!」
ノエルは工学棟のラボを出た。夕食を食べすぎたせいか胃もたれを起こしている腹を擦った。夜の学内はより冷え込んでいた。外套もなしに制服のままでいると風邪を引いてしまいそうだ。
――ああ、寒い。
吐息が白い。その中を必死で走る自分の足がフラッシュバックした。
「あ……」
白い砂利道を転げながら、立ち上がって、また走る。真っ白な息が顔にかかりすぐに冷えて風の中に置き去りにされていく。汗が滲んでいる。それを拭うと、視界が赤くなった。右腕に血液が付着している。黄色い長袖、その下の皮膚が破れて真っ赤に染まっている。
逃げきゃ。逃げきゃ。逃げきゃ。逃げきゃ――。
もっと恐ろしいものがやってくる。びりびりびり―――。
「――うぇ……ぷ……」
――吐きそうだ。
ノエルは口元を押さえ、教会近くの水場へ走った。
体が熱い。焼け爛れそうだ。水場の蛇口のハンドルを捻り水を出す。水を溜めその中に両手を突っ込むと感覚が刺激されて吐き気が少しマシになった。何かを思い出しかけている。だが、それ以上突き進むと戻れないところに行ってしまう気がする。
息があがっている。心臓が怯えている。頭が考えることを。理解することを。思い出すことを拒んでいる。
――私は、カストラリアに……行き……姫様を……。
ティラナはおおきなお月さまのような瞳を海にうかべた――。
――姫様が……ティラナが……生きていて……じゃああのシュナイゼルの隣に立っていたのは? 私だ。私はカストラリアでティラナの格好をして晩餐会に現れて、彼にスピーチをさせた。なぜ? 姫様が……生きているとは……知らなかったから。どうして、姫様の前から逃げたの?――。
その先は、だめだ。
水道水を頭から被った。甚だしいほどの頭痛。吐き気の気配を封じ込めるように、ハンドルを緩めると冷水が髪の毛を濡らし、シャツの中にまで染み込み入り込んできた。冷たさは痛みに変わり、それが苦痛を相殺するように冷静に立ち戻れるよう猶予を作ってくれる。
ゆっくりと深呼吸をする。まだもう少し思い出せそうだ。覚悟を決めて意識を集中させ始める――そんなところにもっとも聞きたくなかった声が鼓膜を震わせた。
「そこで何をしているんだい」
ノエルは集中力が切れて、顔をあげた。体が氷のようだ。風が吹くとさらに冷たく感じた。
暗闇の中からノエルは光の差し込む場所に出る。シュナイゼルは大食堂から出てきたところだった。
「……ロイドのところに行っていたんだろう? ……アストリアス君、びしょ濡れじゃないか。風邪をひいてしまうよ」
「……わかってます」
彼の瞳をみるのが怖いと思った。その瞳をみたら、もっと思い出して扉を開けてしまう気がした。扉は開けてはいけない。だが、思い出したかった。忘れているほうが辛いからだ。耳を劈くような警鐘が鳴る。
いつの間にかシュナイゼルはノエルの近くに来ていた。数ヶ月前、医務室でそうしたように彼の大きな手は額に触れていた。あの時は冷たく感じた手が、今は温かかった。
「震えている。早く寮に戻りなさい。温かいシャワーを浴びて」
そして、眠るんだ。
彼の声は落ち着いていてまるで催眠術のようだった。催眠術……?
なにかが切れた。ぶつりと。そして底が抜けていく酷い浮遊感、胸の詰まり、また気持ちが悪くなってくる。
シュナイゼルに吐瀉物を浴びせるわけにはいかず、ノエルは精一杯眠る前の挨拶を口にした。
「…………おやすみ、なさい」
「うん、おやすみ」
ノエルは走り出した。熱がぶり返してきた。まったくあの夜と同じ景色だ。『わたし』はこのあと思い出す。でも、いくら思い出そうとしても宙を掴むように何もなかった。
◇ ◇ ◇
――おやすみ。
カストラリアを発つ夜、マルカの額にキスをした。
彼女は自分はティラナではないのだから無理にそうしなくていいと何度も断ったが、目の前にティラナと瓜二つの顔があってそうしない方が不自然だとシュナイゼルは思った。
時刻は夜七時を過ぎていた。最終フライトで発って翌朝ブリタニアに到着する予定だった。
ティラナの居室。ベッドの上でマルカはネグリジェ姿でいた。シュナイゼルはカストラリアに来た時と同じ格好で、ベッドの近くの椅子に座っていた。
「……行ってしまうの」
「ティラナとの約束でね。学校には行かなきゃいけないんだ」
マルカの瞳は心細そうに揺らいでいる。
「王宮にはハーゲンやレルヒもいる。ベルケス公爵もお力になってくれるよ」
「殿下」
ぽつりと彼女が呼んだ。
「うん」
「……殿下にだけ、お伝えしなくてはいけないことがあるの……」
「どんなこと?」
「殿下は……どうしてティラナに婚約を申し込んだの?」
自然に頬が緩まるのがわかった。シュナイゼルは決まり切った答えを返した。
「……ティラナはね、私を満たしてくれるんだよ」
「満たす……?」
考えてもみなかった答えにマルカは首を傾げた。ティラナだったらきっと花が咲くように笑うだろう。
「私にない唯一のものを……持っているんだ」
シュナイゼルだけでは手に入らないものを。それをティラナは持っていて、さらにそれを披露すると彼女は約束してくれた。
マルカは質問をしたくせに、答えがちっともわからず肩を竦めた。そして追求することを諦めて、彼女の話したい話を始めた。シュナイゼルは静かにティラナとマルカの境目を学んでいった。
「……私達ははじめから入れ替わっていたわ。殿下が……この国にいらしてくれた時から。……でも、私にはあの子のように優れているものはないし、すぐにバレてしまうのではと思っていた。姫様は……殿下にお会いする二ヶ月前からおかしくなっちゃって……ご自分をマルカだと思い込んじゃったまま……」
「なるほどね。わかったよ」
シュナイゼルはティラナと過ごした八ヶ月しかない短い期間のうち、ティラナらしくない¥u間の数々をいくつか思い浮かべてみて、その中にマルカらしいものを当てはめて差し引いていった。
マルカはシュナイゼルの沈黙に肯定を見出した。
「気づいていた?」
「今にして思えば……というところはあるよ。きっと君は私と会う時には入れ替わるように仕向けてくれていたはずだ。違うかい?」
「……! ええ。そう。そうなの……あっ……」
「ん?」
「……朝の……日曜日の朝に放送されていた番組の……」
マルカの言葉で懐かしい記憶が喚起されていく。それはもっともらしくティラナらしい≠烽フの象徴でもあった。
「ああ、……たしか王室日記だったかな」
「あれは全部ティラナよ」
王室日記とは、カストラリア国内の民放で制作された王室メディア用の番組のことだ。国民に王室の理解と公務の内容を紹介することを目的としていたが次第にその内容は幅を広げ科学的、過激、奇妙な――ティラナが一人体を張って奮闘する番組へと偏移し、番組放送途中にクーデターが発生し半ば強制打ち切りとなったのにもかかわらずカルト的人気を博している。
国内のみ放送だったはずが、どうしてだかブリタニア帝国出身の人間からもその頃の話を蒸し返されることが少なくない。
シュナイゼルは悪戯好きなティラナの罠にかけられた最初のものを思い出した。死海風呂だ。
「ふふ……そうだろうね。……遊びに来るたびに色々悪戯されたっけ……湯浴みをしようと思ったらぷっかりと浮くものだからびっくりしたよ」
「死海を再現するって言って塩をずっと溶かし続けてたのよ」
「溶かしきるのにさぞ苦労しただろうね。私の裸体が映ってはいけないと――放送局とスポンサーがかなり気を利かせて、お蔵入りになったけれど」
マルカはくすくすと笑った。
「代わりに差し替えにしたものが好評だった。ティラナが実験で指を切ってみたり、研究から作られた治癒促進シートを使用して効果を証明してみせたり、学会の新事実を暴露したり、王室の収益が税金ではなく一部特許から賄われていてそれで新医療研究基金や教育基金を作ると発表したりね」
通販番組ではないのに王室宛に大量の注文の電話が殺到し、後日内務局からしっかり叱られたティラナは半べそをかいていた。だがそれごときで懲りるような性格をしている人ではなかった。
青いケシの咲く庭園でティラナはしゃがみ込んで地面を這う蟻の様子を目で追っていた。
シュナイゼルは子供服のセーラー服を着てその隣に同じように屈み、蟻の行列を見下ろしていた。
――『反省したかい?』
――『なにくそでございますわ殿下』
――『あはは。困ったお姫様だなぁ』
ティラナはシュナイゼルの笑った顔をみて心底驚いた顔をしたので、逆にシュナイゼルのほうがびっくりした。
――『どうしたの?』
――『う……うん』
歯にものが挟まったように急に押し黙って、ティラナはいくらか考えてこう言った。
――『殿下は学校には通っているの?』
――『急にどうしたの。家庭教師をつけて貰っているけど』
――『公務はなさってる?』
――『あなたほどじゃないよ。でも時期が来ればするんじゃないかな……兄上ももうそろそろ始めているから』
ティラナは小さな声で呟いた。
――『……い……だから』
――『なあに、もう一回いって』
――『かわいいから……』
それはそれは不思議な答えだった。ティラナはその場から腰を上げるとシュナイゼルを見下ろした。
――『公務は成年まで待ったほうがいいわ。その間は学校に通って……寄宿舎のあるようなところが望ましいわ』
――『……意味がわからないよ』
――『……世の中にはね、男の子を狙うヘンタイがたくさんいてね……』
急にどうしてこの話をしだすのだろうと当時のシュナイゼルは思った。それは自身には婚約者となる目の前の少女がいて、いわば予約済みの関係であるのだから誰かがそこに手を加えようなどとはしないはずだといった過信があった。
――『私は、男だよ?』
――『わかっています』
どこでそんな話を知ったのか、ティラナは説明の難しいといった顔つきで唸った。
――『殿下は番組の撮影に付き合っていただかなくてもいいわ』
――『どうして? 死海風呂がお蔵になったから?』
――『そういうことじゃないけど、危険だから……』
危険とはなんだろう。テレビを通して同性異性を問わず性的に感応させるようなことだろうか。たとえそれが上手くいったとして――シュナイゼル自身には指一本触れられやしない者たちだというのに。シュナイゼルはここに来るまでに既に自分の優れた容姿がひとの心を乱し陶酔させる出来栄えであることを知っていた。そして――性的な消費を受けるものであるということにも気づいていた。
多くの者は意図しない相手からの性的消費をきらうが、シュナイゼルはティラナと婚約することで大義名分を得ているし、むしろそれを多くの者に印象付けるにはティラナの傍にいたほうが良いとさえ考えていた。
――『私はティラナの傍にいたいだけなのに?』
ティラナはシュナイゼルの言葉に固まった。彼女にしては長い思考の末、『私が頑張る』と決意して――それからまた番組の内容が過激化していった。
皮肉にも。ティラナはクーデターで行方不明となってしまったわけだが。
彼女は成年を迎えるまでさせないように願っていた公務は、その庭園での会話の七ヶ月後には始まり、彼女の代理・摂政を務める羽目になるとは夢にも思っていなかっただろう。現在は幸いにもかわいい≠ネどとは一過性のもので背丈は随分と伸びたし、立場が虫除けを果たしているのか否かは兎も角、ティラナが予見したような出来事は今のところ起きていない。
そんなことよりも今の問題はティラナの方にあった。
シュナイゼルが椅子から立ち上がると「……本当に学校に戻られるの?」とマルカがまた不安な顔をした。
「私が休学すると、なにか嗅ぎつけられるかもしれない。相手に悟らせるのは得策ではないよ」
「……そう……」
「寂しい思いをさせて悪いと思っているよ」
「ティラナが生きているかも、わからないのに……?」
「暗澹たる思いだよ。だけど何も手を打たないつもりでもない。……護国自警会のビルには何も痕跡はなかった。匿名の告発者さえ掴めないけれど、一つ確定情報があがったよ」
「えっ?」
マルカが弾けるように顔をあげた。
「今日はアルディック公爵令嬢の事情聴取があったんだ」
「アルディック……ティラナの二人目の叔父上ね?」
「そうだね。……ご令嬢はティラナの誕生日の夜に、彼女から勅命を受けて晩餐会に参加したそうだ。暗い部屋に私と二人きりにして、密会を仕向けたようだけど……その部屋から出たあと、ご令嬢は私に私には世継ぎを望めそうにないから≠ニ仰った」
「……それって……ティラナは……」
「うん。ティラナは――マルカ、君の方が生きていることを知らないんだよ。もしくは世間一般に知れるように病気で伏せていて、公務にも出られないのを察して。……でもね。病床に伏せていても、程度によっては睦み合うことはできる。国と王室の死活問題だからティラナなら取り組むはずだ。すると――やっぱり、ティラナは君が生きているとは考えていなかった……という事になると思うよ」
「だから……ティラナは……私があの場所で眠っているのをみて……驚いたってこと?」
「そうかもしれない」
ブルネットの髪を押さえマルカは記憶を手繰り寄せる。
「あの時……ティラナは……。……ティラナは、私はマルカだ≠ニ何度も叫んでいたわ。狂気的に……。それはおかしいと思ったの」
「……うん」
「それは、ティラナだという自覚がなければ……出てこない言葉じゃない? まるで自分に言い聞かせるか、念じるように」
「思い込んでいるかもしれない。……ティラナはマルカと思い込んだまま、どういうわけか今年の晩餐会に急に現れて私の隣に立った。マルカはティラナの影武者の役割を与えられ、王家の血筋を汲まない出自の自覚が、その夜の行動の目的だった……」
はっとしてマルカはシュナイゼルを見つめた。
「傷つけたかな」
「い、いえ……事実ですから」
「……うーん……でも、たとえティラナが、マルカが生存しているのを見て驚いたにせよ、血を吐くほどかな?」
「それは……」
「むしろ……喜ぶべきでは? 本物のティラナ≠ェ生存しているなら。彼女は自身がティラナだという理解がないと辻褄が合わないねぇ。矛盾だ」
シュナイゼルは考えを深めるためにベッドの周りを歩いた。
「殿下……」
「よって、私は仮定するよ。この矛盾が生じる状態がどのようなものか。……矛盾というのは、二つのことが同時に起こり得ることで物事の筋道が立たないことをいう。……だったら同時に存在するのではないかな」
「ど、同時……? ちょっと意味が……」
「ふふ。君たちが存在するように、ティラナの中に二つ存在する……なんてね」
「……? 二重人格?」
「それか……昔の記憶とマルカの記憶が混ざっていて行動に一貫性がない、とかね。――仮定の話だよ。証拠はなにもない。でもそういう話にでもしないと成り立たないよ、これは」
マルカはデュベの上に乗り上げ、シュナイゼルに近寄った。
「では、早く保護しなくてはいけないわ!」
「ああ、そうだね。それは変わらない。血を吐いているんだ。……そのうえで、アルディック公爵のセラフィナ令嬢の事情聴取の話に戻るよ。彼女は事情聴取で、……私に身柄の保護を頼んだ」
「え?」
おもしろいほどわかりやすくマルカは目を丸くした。
「急なことで驚いたんだけど。……今日は帰らせたよ。理由は私と同じだ。悟らせてはいけない≠ゥらね」
「で……では……っ!」
「さっそく身辺を洗わせている。……黒であるなら、じきアルディック公爵も動き出すだろう」
◆ ◆ ◆
ノエルはケント寮の自室のトイレで吐き通しだった。
便器の中に顔をくっつけてしまいそうなくらい、底のない苦痛。肉体の骨、筋肉、臓器、神経、細胞、あらゆるものが痙攣、収縮、拒絶をしていた。思考力は失われ、皮膚の隙間から汗という名の水が吹き出ては留まるところを知らなかった。冷凍庫の中に仕舞い込まれたまま忘れ去られたなにかを取り出そうとしているのに、霜でそれが覆い隠されているようだった。
「くぅ……、う……! う……!」
体を丸ごと剥き返したって何も出ないくらい吐いたが、ずっとそうしていたことで癖づけられてしまったように元に戻らない。焼けてしまった肉のように。綺麗なものには戻らない。そう――一度、思い出してしまったものが完全に封じ込めておくことができないように。
「あ――がは……っ」
ノエルは壁に手を張り弾みをつけてトイレの便器から顔をあげ、外のフローリングに転がった。
目眩がした。目を開けることも難しかった。瞼の中では気持ちの悪い紫や紺や赤がぐちゃぐちゃと混ざった前衛芸術か、水に絵の具を溶き合わせたみたいに境目がなく曖昧な色彩の暴力を受けていた。
手探りでベッドの場所を探った。鎮痛剤をせめて飲みたい。水も欲しい。備え付けの小さな冷蔵庫を感覚だけでこじ開け、取り出したペットボトルの水を飲んだ。水はあっという間になくなった。そうして、また次の一本を飲み干した。苦痛は続いていたが脱水症状で死ぬことはないはずだ。たった今飲んだばかりのものが吹き返さない限りは。
ぐったりとしたままノエルはなんとか身をベッドに横たえた。手が勝手に動いていて、錠剤を探している。
「くすり……、くすり……」
それだけ見れば薬物中毒の患者だ。
枕元にあった硬くて冷たい瓶の感触に頬の筋肉が強張った。それを取り出そうとして、手汗で滑り蓋を開けられず、あっけなくベッド下に落ち、じゃらっと中身が溢れた音だけが残った。薄目でそれを見下ろすと、床に散乱する白が強烈に感じられた。
射し込む月光はSF映画の人工的な光線のように眩しい。荒い呼吸の最中、不意に頭の中に彼の姿が浮かんだ。
書斎の窓辺で光を受け本を静かに読んでいる彼の――陰影の中に隠れる横顔。薄いカーテンが風にあおられてパタパタとはためく。軽い彼の金糸がふわっと揺らめき、その色彩が鮮やかになる。
「シュ、ナ……ゼル……」
磔になったイエス・キリストのようにノエルの体はベッドに縫い付けられている。彼は死後三日目に復活した。
「……シュ……」
――なんて綺麗なんだろう。
彼は本を読む姿だけで、人に恋の魔法をかけることができる。
――殺せるはずが……。
頭の中のシュナイゼルは、視線に気づいて髪を押さえながら此方を見る。慣れ親しんだ微笑みとともに。
――殺せるはずがない。……姫様が……。
「……生きていたんだから」
シュナイゼルだけが知らなかった秘密。本物と影武者。
姫様が生きているなら、彼はその秘密を知ったに違いない。カストリア王室の最高機密を。ノエルは少しずつ痛みが溶けていく感覚に身を委ねた。そしてある答えにたどり着く。
――つまり、私は用済みだ。
姫様が生存しているならば王家の血の存続は保証されたも同然だ。それならばマルカがわざわざ晩餐会に出ることもなかったかもしれないが、カストラリアのために何か奉仕できたというのは誇らしかった。
――いまの私になにか出来ることといえば……。
シュナイゼル暗殺を目論む人間の探知だろう。それだけは彼の、彼らのために施せる最大の仕事だ。
ノエルは楽になってきた体をずるずると引き摺り、新品のノートを引き出しから取り出した。机の上に広げ、いつまた何時この苦痛が生じても記憶を留めておけるようにメモを記していく。
カストラリア王宮火災はクーデターであること。
自分はティラナ王女の影武者であったこと。カストラリア南西部にあるローモロー孤児院出身で、引き取られた家庭で暖炉に閉じ込められて大火傷を負ったこと。近所の住人に助け出され瀕死の状態を、社会福祉活動に熱心だった王后陛下の設立した病院で大手術を受け奇跡の生還を遂げたこと。その御恩に報いようと王宮に出仕し、姫様の影武者になる人生を選んだこと。たくさんの論文を書いたこと。国のために貢献できて嬉しかったこと。
どうやら、そのクーデターの最中に首謀者に目をつけられ、催眠術のようなものをかけられていること。その催眠術にかかっている間、その前後の記憶はないこと。『わたし』は迂闊にも性別転換の手術や改造手術を受けていること。
そこまで書き出して、三本目のペットボトルを冷蔵庫から引っ張り出す。薬も飲んでいないのに脳みそは驚くほど冴えてきている。
――姫様と『わたし』が逆の立場だったら、とんでもないことになっていたな。
そして、続きを書き加える。クーデター首謀者は、シュナイゼルの暗殺を目論んでいる=\―。私は何度か催眠術の効果を対象の前で発揮するのを体験している。
――もっとも怪しいのは護国自警会だ。しかし、調査を私がするには慎重に行う必要があるだろう。
暗殺計画を遂行する間、とくに学院にいるうちは猶予があるが、期限が設定されればより行動を急がなくてはいけない。今まで協力を得ていたのも護国自警会のメンバーで、その彼らに疑われてはいけないし、単独での捜査はより規模が縮小され時間がかかる。まずノエルの行動を組織が把握しているのかさえ『わたし』自身が掴めていなかった。
――……困ったな。一人では限界がある。
シュナイゼル暗殺計画は今の時点で破綻している。
『わたし』にそうするメリットがないと気づいたのを首謀者に伝わってはいけないと同時に、シュナイゼルに対して、その首謀者の情報をどうにかして伝える必要があった。その確定的な証拠さえ集められれば、あとは彼が適切に仕事をするだろう。そこに関しての不安は一切なかった。
乾いてきた唇を舐めると塩味が舌上に広がった。
◇ ◇ ◇
「殿下、本当によろしいのでしょうか? いくら新たな尻尾を掴んだとはいえ」
リダニウム国際空港の控室で、見送りのため付き添う侍従長ハーゲンはシュナイゼルに再三の確認を行っていた。ブリタニアからの専用機到着まではあと数十分ほどだった。控室に設えられている革張りのソファに座り紅茶を飲んでいた。窓の外を見ると星空が見えた。
「相手の狙いを把握しなければいけないよ。まだその時じゃない」
「姫様の所在さえ掴めないのですぞ」
ハーゲンの主張はごもっともだ。将来の国家元首がこの広大な世界のどこかに一人紛れているのだから。カストラリア全国に網を張り巡らせ、その日更新される死亡者や病院での死亡診断書、火葬場の検分さえ独自班を組織させ行っている。組織犯罪を疑いあちこちに覆面捜査だって仕掛けている。しかしどこにも目ぼしい、これといった情報はあがっていなかった。
「それは耳が痛い。わかっているよ。最優先事項はティラナの保護だ」
「殿下とて御身を狙われているかもしれませぬ」
「そうかな?」
シュナイゼルの緊張感のなさにハーゲンは苦言を呈した。
「……もう少しご自覚をお持ちください」
「私の命を狙うならもっと効率の良い方法があるよ、ハーゲン。……コルチェスターに刺客を送り込めばいいだけだ。……だろう?」
侍従長ハーゲンは目を大きく見開き、それならば余計にたちが悪いと顔を曇らせた。
シュナイゼルはぬるくなった紅茶を飲み干した。