Little UnicornV







 外は小雨が降っていた。それは本当だった。玄関先の石畳には黒い染みと水脈の跡が出来ている。彼はより体を引き寄せ、腕の中へ囲った。もはや逃げ出す手段などはなく、マルカは気分が悪くなっていくのを感じていた。靴先に反射する光沢が動いた。傘をさした男が、もう一本の広げた傘をふたりに差し出していた。
 「……順調だよ」
 シュナイゼルは短く状況を評価した。計画したプロセス通りだ。マルカは瞼をぎゅっと閉じ、治まらない頭痛をやり過ごそうとしていた。
 「さあ。乗って」
 彼の力任せに歩き、リムジンの扉が開いた時、脳裏に火花が散った。
 それは、闇の中にあり、その漆黒の車の中から手が伸びてくる。雪が降っている。すべての音を吸い込んで。⾧い外套の裾。革手袋の手が差し伸べられる。  
 ――『迎えに来たよ』  
 誰かを待っていた。
 いや、彼が来てくれると期待していた。  
 ――『さあ。おいで』
 違った。
 ――『おいで』
 ――どこへいくの?
 ――『あたたかいところだよ』
 ――みんなは無事なの?
 男の低い声は沈黙を愛した。
 『わたし』を抱え上げて、黒光りの車に乗せて、王宮に連れて行ってくれるのだと思った。
 ――こわい。……こわい。……こわい……。こわい……!
 固定された眼球。奥歯がガチガチと音をたて、手足が震えだす。どうにもならない恐怖の毛布が全身を覆っている。
 「いや……! ひ……ッ!! 放して……! 放してえ!」
 シュナイゼルは逃れようとするマルカの肩を強く抱き込み、リムジンに押し込んだ。
 「出して」
 囁きほどの短な命令にリムジンとその前後を挟む護衛車両は、雨音のなかを静かに走り出した。
 広い車内には医師や捜査官が待機しており、すべてが決められた働きをこなした。医師は恐怖で固まる修道女に近寄り、指先から微量の血液を採取した。
 一瞬の甲高い機械音を発し「おかえりなさいませ」と掠れた声で言った。
 「ティラナ」
 名を呼ぶ男の声に彼女は発狂した。両手で耳を押さえ、声の限り叫んだ。
 男は優しく言った。身を屈めて。おとぎ話に登場する王子さまが囁くように。
 ――『中で温かいスープを用意しているよ。チキンのローストも。プディングだってある。今日はクリスマスだからね』
 男は扉に向かって指さした。
 ――嘘! 嘘つき!
 『わたし』は精いっぱい叫んだ。
 「いやあああああっ……ああ……っ――!! あああう――――」
 足がそれ以上進みたくないと、動きたくないと拒んでいる。シュナイゼルは彼女の視界を覆うよう強く抱き込んだ。
 「睡眠薬を使用いたしますか?」医師のゼーバッハがそっと尋ねた。
 「いや……隠して」
 珍しく迷いを見せた。今はほんの混乱のなかにいて、時間が経てば落ち着きをみせるはずだと。もし、今眠りに入れば、覚醒したとき何もかもを覚えている確証さえ、シュナイゼルには持てていなかった。まだ彼女には、訊かなければならない話がたくさんある。
 「大丈夫だよ。ティラナ。……大丈夫だ。カストラリアに帰ろう」
 頭を包むベール越しに彼女を撫でる。落ち着かせるために。祈るように彼は、彼女の汗で濡れるこめかみに唇で触れた。
 「……シュナイゼル……?」
 泣き腫らした赤い顔が、燦然と輝く星月のように高いところにある男の顔を見上げる。
 「うん。私だよ」
 「……シュナイゼル……たすけて……シュナイゼル……王宮が……燃えて……あああ……いや……ッ! まっかで……みんな……ひ……ひめさま……ひめさまが……ひいいいいい!!!」
 ベールごと髪を掻きむしりティラナ≠ヘ泣き叫んだ。意識は過去に飛んでいた。
 「大丈夫だよ。助けにきたから。……ティラナは無事だよ」
 「あぐっ……ああ……お父さまああああ!!! お母さまあああああ――――ッ!!! 死んじゃいやああああぁぁ――――!!」
 落ち着かせようとするシュナイゼルの声は、言葉は、もはや届かず、他人の器となる碧い瞳は虚空を彷徨っている。 
 「ひめさま……ひめさま……ひめさまおきて……にげなきゃ……にげなきゃ……にげなきゃ……にげなきゃ……」
 血の気の引いた白い肌。掠れた声。焦点の合わない目。限界を迎えつつあるとシュナイゼルは判断し、車内の前列にあるシートに退いていたカノンとDr.ゼーバッハに目をくれた。医師は待ち構えていたように清潔な手袋をはめ、箱から注射器を取り出した。合図を受けて、カノンはそっと抱き込まれたティラナの背後に陣取った。
 ティラナは意識の混乱に巻き込まれながらも、視界の端で注射器の輝きを見逃さなかった。
 「……ころさなきゃ……」
 目にも止まらぬ早さでティラナはローブを捲り上げ、内ポケットに仕込んでいたホルスターから拳銃を引き抜くなり、自分自身を抱きかかえようとする男の首筋に銃口を押し当てた。カノンは目を瞠り、女の腕を捻り上げ、それを奪い去ろうとした。
 「殿下ッ!!」
 叫び声とともに発砲音が数発。照明を打ち破る弾丸。微細な硝子の雨が床に散乱。誰かが「停めろ!」と走行中の、暗くなった車内の中で言った。捜査官が一斉に身を乗り出し、懐の拳銃に手をかけていた。
 「殿下! ……シュナイゼル殿下! ご無事でございますか!?」
 「ティラナ。落ち着きなさい。……ティラナ」
 女は暴れていた。シュナイゼルの下敷きとなり、その大きな体と重力が、抵抗を阻む重石となっても藻掻き続けていた。
 「んむうう――――ッ!! いや――――!! はなしてええ――――!!」
 シュナイゼルの声は届いていない。ティラナは過去の苦痛に夢中でそれどころではなかった。
 「落ち着いて。ティラナ。大丈夫だよ。全部終わったんだよ」
 悪さする薔薇の棘と絡みつく蔦を、一本一本選り分けていくように、シュナイゼルは耳元で囁きかける。
 「ティラナ」
 何度も名前を呼ぶ。忘れてしまわないように。現在に意識を繋ぎ止めるために。耐え難い苦痛に苛まれるとしても。迷わずに戻ってこられるように。
 瞳は潤み、穏やかな湖面を漂うように揺れていた。
 車内は澄み切った静寂。沈黙の無風の中にあった。
 「……シュナイゼル……」
 溢れる涙が頬を濡らす。ようやく焦点が定まり、視線が交わる。この時を待ち侘びていたかのように、ほんの軽く鼻先を掠め、唇を重ね合わせる。
 シュナイゼルは、愛撫を施すように優しい目つきで見下ろし、惹きつける間。彼女の手から拳銃を抜き取り、それをカノンに引き渡した。深い感懐に浸るのには早く、震える白い指先が頬に触れることはなかった。
 漸くタイヤを止めた車に伝う轟音。落雷を凌ぐ轟音。襲いかかる地を這う鳴動。その次に、リムジンが激しく揺れる。
 「何事だ!?」
 車内は再び混乱に陥る。闇がぐるりとかき混ぜられ、捜査官はバンバンと激しくドアや窓を叩いた。一列に走行中の後続車両が巨大トレーラーに追突され、吹き飛んだ勢いが、このリムジンにも伝播した。慣性の法則に従い人間ドミノ倒しが起き、不意な目眩く衝撃により上下反転する。シートの台座に身を打ち付けたティラナの意識は緊張と収縮を繰り返し、あの気配の知覚に慄きのあまり悲鳴を上げた。
 まるで心臓が強い力で握られたようだ。全身がしなっては強張り、肺が押し潰される感覚。次第に呼吸が乱れていった。激しく。徐々に震えが増し、汗が滲み、恐怖が縫いしろをちくりちくりと辿る。
 「――あ――あが……――」
 腹の底。肺の壁。骨の髄から、神経、細胞に至るまで。そこかしこから、深い憎しみのマグマが噴きあがる。血が沸き立つ。
 これは思い込みなどではない。何度も。何度も、何度も、味わってきた悍ましい経験。改造された意識、記憶、人生。憎悪。苦悩。生への絶望。死への渇望。歪な執着。精巧な悪意。果てしのない怨嗟。
 「あいつが――」
 口走る。脳を震盪させる強烈な耳鳴り。手のつけようのない昂奮は制御が効かない。
 女の顔は苦悶に満ちている。斜めになった床に転がるカノンの手から拳銃を奪い返す。内鍵を解除し、外に飛び出した。復讐心に火がついた彼女を止める者はいない。
 「ティラナ! 待って!」
 腕の中に彼女がいないことに気づいて、シュナイゼルが車内から這い出た。林道に灯りはなく。覆い被さる木々と葉の濃密な闇のカーテンに閉め切られている。後続の警護車両から出る赤い炎が頼りになる唯一の光源であった。ティラナはベールを完全に取り払い、髪を振り乱す。汗でぬめつきだした掌を修道服の裾で拭い、グリップを強く握り直した。
 彼女の足はリムジンの運転席に向かい、中から運転手を外へ引き摺り出した。
 「……ひっ、おやめくださ……!」
 男の顔は声とは裏腹に、ひどく歪み、嗤っている。

 ――『ごきげんよう、王女様』――『ごきげんよう』――
 ――『今日は陛下にお話?』――
 悪い予感はいつだって当たる。にこにこ笑っているのに、本当の気持ちは真逆のことだらけ。
 ――『ええ。王女様。大切なお話しがございます』――
 その微笑みが恐ろしい。嘘をつく前の前菜。お説教前の予行演習。
 ――『……我々へ恩恵を授けていただいておりますことは、重々承知しておりますが……次期国王と決定した今、そればかりでは務まりません』――
 ――『帝王学は昨年から始めさせている。リダニウム大や王立大から教授を招聘し、彼らも褒めていた。……それでは不十分?』――
 話の内容は断片的だが、父と大司教の会話の中身が、王女についてであることは明白だった。研究のこと。人生のこと。いつもそんな風に、大人が生真面目に子供ではなく王女≠フ将来を話し合っている。
 籠の中で飼育されているモルモットに、これから何を投与するかを話し合う研究者のようだ。『わたし』の人生は決まっている。ティラナの生まれる前から、死ぬまで。死んだら、臓器を取り除かれて、灰にもならず棺の中でゆっくりと腐っていく。時々誰かが、研究のために亡骸を確認する。死んでも自由にならない。死んだあとは意地悪な評論家に人生の総評をされる。悪口だって言われる。上手くいかなかったことを、笑いの種に変えられ、人々の玩具にされる。だったら、モルモットの方がマシだ。名前も簡素で、名付け親にしか本当の名前は知らない。人生に傷つけられない。上手くいかなくても、死を尊ばれる。
 ――息苦しい。
 父は何度か防壁となり、鋒となり、守ってくれた。
 ――『ああ……いえ、そのような事ではありませんが。……研究は継続していただきたく存じます。して、それ以前に国家元首としてのお立場には必ず継承の段が生じます』――
 ――言い訳なんてしないで。みっともないわ。
 ――『しかし……』――
 どこかに隠れたい。
 ――聞きたくない。
 縋る思いで父を見遣る。この気持ち、お父様ならわかるでしょう?
 ――『しかし、風の噂によれば……』
 ――知りたくない。

 ――「王女様!」「王女様! 落ち着かれますよう……!」――
 外野の声は蝿の羽音よりも不快だ。止めるくせに。正しい行動ばかりを求めるくせに。本当の責任を取る時には、その助言をなかったことにする。
 ――これが落ち着いていられるとでもお思い?
 こうでもしなければ、埋もれてしまう。生きている意味が消えてしまう。
 ――王様になんか、なりたくない。
 「お前を殺して、私も、死ぬ……お前を殺して……私も……!」
 頭に血が昇っている。血液が、血管の中を潜る。勢いが強くて、破裂してしまうのではないかと思うほどに。銃底で鼻を、頬を、額の骨を叩きつける。急所を狙って。激しい粉砕音。望んでいた復讐。血の噴射が肌や髪、服を濡らしても。氷をアイスピックで砕くみたいに。地中の硬い箇所をスコップで叩きつけるように、何度も、何度も、何度も、何度も繰り返す。
 この男のせいで、父と母が死んだ。『わたし』も殺された。多くの人が殺された。人生を狂わされた。

 軽侮の眼差しが運転手の男を射抜く。唾棄すべき悪人。悔悟の念に苛まれることもなく、命を弄んできた罪人。ティラナはただひたすら、刻みつけるように、激しく、男の顔を殴りつけた。
 「殿下!? お怪我は……」
 「軽い打撲だ。折れてはいない――それより」
 白く強い光を発する常備灯を片手に、脱出したカノンは言葉を失った。峻烈な殴打をやめさせようと、外に出た従者ほか捜査官の何人かがタイミングを見計らっていた。異様な光景だ。返り血が肩布の白、髪を、肌を着実に汚していった。
 「王女様!」「王女様! 落ち着かれますよう……!」周囲の者は口々に言った。
 その場にいた者には、何事か理解には追いつかない。リムジンの運転席を開け、拳銃で運転手の顔を叩きつけたかと思えば、今度は首を掴み硬いボンネットに何度も頭を叩きつけている。
 カノンはその場から駆けて追突したトレーラーを確認した。
 「軍用トレーラー……どこの所属!?」
 トレーラーの大きさ、形状、ナンバー。明らかに軍のものである。念入りに経路を確認し作戦を組み立てた段階で、この夜のその時間帯、ブリタニア軍の活動および移送情報はなかった。運転手はなぜだか微動だにせず、進行方向をじっと見据えたまま席から降りる様子がない。また、後ろに詰めている軍人も同様で設置された椅子に座っているが、博物館の蝋人形のように固まっている。
 不可解だ。なにが起きているというのか。その状況の中で、シュナイゼルは一際冷静に言い放った。
 「交渉なら応じる用意があるよ。貴方がたの作戦は……失敗したみたいだが」
 カノンは眉を顰めた。誰に向けて呼びかけているのかわからなかった。
 コートの裾についた硝子片を払い落とし、シュナイゼルはティラナのもとに近寄った。彼は手出しはしなかった。
 引き摺り出された運転手は、暴力を浴び、その上半身は肉がこぼれ赤黒く染まっている。女は血と涙に濡れ、永久機関のごとく猛烈な勢いが収まる様子はない。誰の目から見ても陰惨な光景。だが、もはや咎めようとする者はいなかった。多くの者は、シュナイゼルが確信に至ったように、徐々にその行動の真の理由にたどり着いていた。
 「Dr.ゼーバッハ。運転手の男のチェックを」
 「……はい」
 シュナイゼルの囁きにDr.ゼーバッハは応じた。
 「彼に¢繧って交渉人の捕縛を」
 「交渉人? ……トレーラーの者は待機状態で、人っ子一人出てきませんわ」
 カノンの報告に、シュナイゼルは笑みを深めた。
 「ならば重畳」
 誰一人が話し合うこともせずに、その場を離れることも、物言うこともない。まるで演劇の舞台で、自分のセリフの順番が回ってくるのを待ち構えているかのようにーー。そこまで行き着いて、シュナイゼルは危機を感じ取った。この状況も作戦の一部≠ナあるならば――。
 「カノン」
 名を呼んだ主人の異変を察したカノンは「退避命令を?」と訊いた。彼は目だけで頷いた。
 「……総員、遮蔽物へ退避!」
 カノンが命令を叫んだ時だった。
 乾いた銃声が響いた。泥濘んだ地面。ヘッドライトの前に、黒い塊が転がった。捜査官のひとりが動き出そうと足を一歩踏み出した時、兵士は一斉にライフル銃を抱え、車両の外へ現れると機械的に殲滅行動を開始した。時計仕掛けの人形の仕事の時間はすぐに終わった。木々や車両の陰に隠れたことで、被害は免れた。銃弾には誰も当たらなかった。王女移送作戦メンバーたちは、先程の奇妙な命令の意味を理解した。
 シュナイゼルは、崩れ落ちた女を抱き寄せた。銃声に失神したのか瞼を閉じている。怪我はしていないようだ。
 ボンネットの上では男が仰向けに寝そべり、流れ出す雨水が血の河をつくっている。厚い手に握りしめられていた拳銃を引き剥がし、銃口を腫れ上がった顔に突きつける。
 「チェックメイト」
 冷然と勝利宣言が下る。
 Dr.ゼーバッハは顔を顰めながら「間違いございません」と解析の判定結果から正体を確定させた。
 「……まだ意識があるなら、この宣言を受け入れて欲しいところです。叔父上」
 熟し皺がかったトマトのように、男の顔は形状を維持しておらず、中身がどろりと吹きこぼれている。蠢く血肉のなかで力が加わる。歪んだ肉が気味悪く嗤った。
 

 
 a.t.b.二〇一一 May
 カストラリア カストラリア王宮・特別医療棟


 機器の電子音が一定のテンポで鳴り響く。冷たく硬いステンレスの道具の準備する音に混ざり、手広なオペルームの静けさに漂っている。
 「バイタル安定しています」
 「ああ」
 Dr. ブレイモアは準備室で看護師の報告を聞き、隣室の硝子越しにオペルームを臨む部屋に戻った。
 「シュナイゼル殿下」
 椅子に長身を委ねる青年は、脳外科医Dr.ブレイモアに目を向け、再び正面のオペルームの方を見据えた。医師の助手が書類を挟んだバインダーを抱えて、その部屋に入室した。恭しく頭を下げると「こちらにサインを、お書きください」とシュナイゼルに差し向けた。
 バインダーには万年筆がのっている。シュナイゼルは、無言のままじっと見返した。
 「……如何されました?」
 Dr.ブレイモアが尋ねた。彼の柔らかな微笑は変わらずとも、その温度はいつもよりも暖かい。
 「いいや。……彼女のために、私の名前を記すのはどんな署名よりも心躍る。そう思ってね」
 「左様でございますか」
 最初の変身≠ゥら十年。ティラナの手術に同意は必要とされていなかった。同意書もなく、ある男の指示だけで肉体を替えられ、存在を奪われた。だからこそ、同意書に名を記すことは存在を肯定し、尊厳がそのなかに含まれているように思えた。
 「手術の内容につきましては、以前ご説明いたしました通りにございます。王女様のご身体の負担を軽減すべく、長期的に複数回に分けて行います。必要となる血液、血管、骨、神経、内臓に至るまで。メモリーカプセルから採取した、生体細胞からS.T.A.G.E. - 3 培養基質を用いて培養したものを使用し、慎重に復元を進めてまいります」
 ガラス越しにオペルームを見遣る。中央の手術台には冷々とした光の下で、ひとりの女性が横たわっている。これから、その白い肌に金髪碧眼の人間マスクが引き剥がされ、ゆっくりと彼女の本当の姿に戻される。悲願といっていい。王女の優れた知恵。王が用意していた起死回生の計画が、彼女自身を救う。
 「万物は変転するが、何ひとつとして滅びはしない=v
 Dr.ブレイモアはその言葉の引用を言い当てた。
 「……オウィディウス、変身物語<sュタゴラスですか」
 「ああ。……昔、彼女が……彼だったときにその話をかわしたことがある。……万物は変転するが、何ひとつとして滅びはしない。魂は、さまよい、こちらからあちらへ、あちらからこちらへと移動して、気に入ったからだに住みつく=c…彼女は、いつもそれぞれの体に馴染み、魂を住まわせてきたよ。肉体の破滅を迎え、何度も蘇った。……神話にならないのが残念だ」
 シュナイゼルはバインダーを手に取った。なだらかに転がる万年筆を指先で捕え、蓋を外し、先端を紙面に滑らせる。
 Schneizel el Britannia――と。オペレーションの同意書の下欄。所定の空欄に流麗な筆記体が埋まる。
 「任せるよ」
 
 
 地下は永遠の夜に似ていた。
 王宮地下にある療養施設。――壁一面に埋め込まれた透明の石英が、光を透かしながらわずかに呼吸するように淡く揺れている。時の流れはここでは意味を持たない。朝も夕も、ただ光量の増減として記録されるだけだった。
 ベッドの上で横たわる女性がいた。女性にしては幼い姿をしているが、年齢は成年である。生え替わった濃いブルネットの髪は、首ほどの長さで、枕の上でほどけている。かつては聡明な思考の光を宿していたアンバーの瞳が、今は何も映さず、開いては閉じる。反射的な運動だけが、生命の残滓を証明していた。
 シュナイゼル・エル・ブリタニアは、椅子に腰かけたまま静かにそれを見ていた。ガウンをシャツの上から掛けて。皮膚の清潔を保つために、手袋をはめている。ただ一人の人間として――いや、それすらも疑わしいほどの静けさで。
 「……ティラナ」
 呼びかけは空気の粒に吸い込まれ、彼女の鼓膜に届いたかどうかもわからなかった。
 反応はない。代わりに、天井のどこかで微細な機械の軋む音が伝わってくる。それが、この場所で最も生きている音だった。もはや、記録を取ることをやめていた。データも、生体数値も、今日の脈拍も、意味を成さない。数字は生を測るためのものであって、生を呼び戻す≠スめのものではないからだ。
 それでもここに来る。毎朝、定刻に。長い年月の空白を埋め合わせるために。寂しさを忘れるために。
 彼女の手は冷たい。温めようとしても、すぐに熱を失う。それは彼女が生きている証でもあり、どこかへ遠ざかり続けている証でもあった。
 「……君はまだ、遠くにいるね」
 囁きは独白に似ていた。
 この数ヶ月、彼は問いかけと沈黙の応答だけで、日々を積み上げていた。
 語りかけは、祈りでもあり、試みでもあった。いつかその声が彼女の記憶のどこかに届く日を信じていた。
 ティラナの瞳が、かすかに動いた。その瞬間だけ、青紫の光とアンバーがかすかに交わる。一秒にも満たない視線。だが、シュナイゼルにはそれで充分だった。
 彼は立ち上がり、窓際の小さな卓へ向かった。地下深くの貯水層に繋がる観測窓。揺れる水面は、まるで“時間”が液体化したように緩やかに流れている。
 青い光が部屋を包む。その光が彼の金髪を透かし、白い頬に淡い影を落とす。
 鏡のような水面の揺らめきの中で、彼はかつての時間を思い出す。遥か幼い頃の時間ばかりを懐かしんでいる。あのときの少女は、今、目の前で息をしている。再生治療の経過報告には微細な反応あり≠ニだけ記されていた。脳神経は再接続の途上、感情野はまだ活動を再開していない。
 それでも、彼は待った。実体のないそれまでの時間に比べれば、なんてことのない余暇のような心持ちを抱いて。
 ふと、指先に柔らく動いたのを見逃さなかった。ティラナの手が、ほんのわずかに動いた。意識ではない。けれど、その微細な筋肉の収縮を、彼は応答≠ニみなした。
 「……戻っておいで。君の時間はまだ終わっていない」
 彼の声は静かだった。命令でも祈りでもない。ただ、世界の残響のように。深く、深く。耳の奥に沈んでいった。ティラナの瞳が、ほんのわずかに震えた。涙とも違う、神経の微光。その光がアンバーに戻る兆しのように見えた。
 シュナイゼルは微笑んだ。代理者としての笑みでも、皇族の笑みでもない。ただ、人間としての微笑みだった。この場所に、役割や肩書はいらない。彼女との関係性の多くは仕組みのなかにあるが、取り巻く社会の望遠鏡から観測されるものだ。人間がふたりいる。それ以上の意味が必要だろうか?
 「すべてを解決しよう。貴女への愛のために」
 宣言的な告白は、安置室の余白の多い空間に吸い込まれていく。
 頬に触れるか触れないかの距離まで唇を寄せる。
 一日中その場所に、傍らで過ごしていたかった。子供の時分のように。その人のそばでは楽しいことが自然と飛び込んできて、満足を知らない人生が送れるものだと。事実はそれ以上に、平穏と無縁の血にまみれていたわけだが。
 為すべきことが山積みだ。
 待合室のテーブルは第二の執務室と化している。表に出たシュナイゼルは、地上から持ち込んだ不似合いなデザインの椅子に座った。テーブルには書類を保管するボックスに、書き仕事のための道具が揃っている。いつ何時、ティラナが目覚めてもいいように。彼女が身勝手に、そこから消えてしまわないように。
 用意されていたカップの中の紅茶は、すでに冷めていた。
 


68
午前四時の異邦人
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