捜査






 a.t.b.二〇〇七 6th January

 鉄屑の墓場に一人夜の帳に紛れる人影があった。
 掌に収まっる小さな携帯端末を見下ろし、必要な機器を取り付ける。足元に転がる男から奪い取ったもので、その男は護国自警会の構成員の一人であり、ノエルの監視役だった。
 クリスマス前のカノン・マルディーニとの外出機会を利用し、――シュナイゼル暗殺に関するS計画≠ノついての話があるというメッセージを仕込み、この日おびき出すことに成功した。
 ノエルは携帯端末を耳に押し当て、電源を入れる。液晶画面に走るログを素早くスクロールした。
 「……やはり、この番号とだけ異常にやり取りしている」
 目に留まったのは、短い通話が頻発している番号。時間は夜半、あるいは未明。組織の中枢と繋がっている可能性は高い。
 ノエルは深呼吸し、指を止める。
 ――このままかける? リスクは高い。だが、かけなければ何も掴めない。
 しかし、早かったのは着信音だった。心臓が思わず跳ねる。
 「……っ!」
 音を周囲に悟られるわけにはいかないと、瞬時に応答する。
 〈……ああ、今どこだ?〉
 若い男の声。背後には鉄を打つような騒音が混じっていた。
 咄嗟に応答を切る。耳に残る音を反芻する。
 ――工場音。しかも規則性がある……あれはハンマーの衝撃じゃない、圧延機か? なら郊外の鉄工所……。
 机に広げた学院周辺地図に指先で円を描く。かなり遠い場所にあるが、広大な敷地を有する学院の中では最寄りの街の中にある外れだった。
 「……鉄工所の位置は三つ。……候補は絞れた」
 震える指でメモを取り、携帯を閉じた。
 ――私は暗殺者としての命令を受けている。けれど、こうやって証拠を集めれば、なにか情報が拾えるはず。
 「よし、ログを拾おう」
 必要な下準備は整った。ノエルは靴先で眠剤で伸びた男の腹を揺すった。


 a.t.b.二〇〇六 25th December
 帝立コルチェスター学院 大食堂

 立派な生木を使用したクリスマスツリーは電飾とオーナメントで飾り付けられている。冬季休暇に帰省しない生徒は学年末の夏よりも比較的多いのか、大食堂には顔なじみになるメンバーが何人かいて、クリスマスツリーはそうした生徒達の手持ち無沙汰を解消するにはもってこいの道楽だった。
 暖炉の中で爆ぜる薪。
 ノエルは私服の赤色のセーターを被っている。休暇中は制服ではなく私服の着用が許されていた。食堂のコックは生徒達のためにクリスマスの特別メニューを用意してくれた。豚ひき肉とみじん切りの玉ねぎを詰めたの七面鳥に濃いグレービーソースをたっぷりとかける。
 ホタテ入りの栗のクリームソースのスープ、デザートのプラムプディング――プラムといいながら実際はレーズンのケーキをトレーに載せてテーブルに着く。
 誰かが大食堂にテレビモニターをわざわざ設置したのか、中央のテーブルの手前の見やすい位置にある。ノエルは誰もテレビを占領していないことを確認し、リモコンを操作した。
 衛星放送に切り替えると、ブリタニア帝国の属領国――衛星エリア・エリア四。カストラリア王国よりティラナ王女殿下のクリスマスメッセージ映像が放送されている。時刻は昼の十二時十分。ノエルはモニターに映るティラナに目を凝らした。
 「……ふーん。ちゃんと届いたし……内容の検閲・改竄もなし……か。まあ、姫様が元気そうなのが確認できたし……これで動きをみるか」
 ノエルはチャンネルを元に戻し、食事のテーブルに戻る。複数の入口のうち中央出入り口から見つけた眼鏡の少年がノエルのもとに近寄ってきて声をかける。
 「メリークリスマス! ノエルくん、きみ帰省しないの?」
 「メリークリスマス。また鞭打ちにされちゃロイド博士の研究手伝えないじゃないですか」
 「それは困るねえ〜僕も帰るの諦めちゃった。それは?」
 「帰省しない寂しい男の子達のための限定食ですよ、博士」
 ロイドは自分を抱きしめるように戯けたポーズをとった。
 「さびしーッ!」
 「あははは。……あ、そうだ。博士に確認したいことがあって。……工学棟にアンテナつけていいですか?」
 問いの後に七面鳥の肉を齧る。
 ロイドははじめこそいつものような飄々とした様子でいたが、次第にその顔に雫を作り出していた。
 「うん? え、まって? なになになになに……?! きみ本当になにしてるのさ。なんの遊び? 興味あるんだけど」
 「……ふふ、内緒」
 ロイドは「でもねぇ……」と率直な懸念事項を思い出したのか少し勿体ぶって言った。
 「……でも残念でした! 無許可のアンテナ設置は帝国無線・電波法に抵触する恐れがあるよ」
 「えーッ! ……でもぉ……いま学院代表いないじゃないですかー。クリスマス休暇で!」
 「うふふふふふ……! きみ、ほんとにワルだね。だから帰省しなかったのかい?」
 当たらずといえども遠からず。ノエルがにやっと笑うと、やれやれと肩を竦めてみせた。
 「言っとくけど僕は大事なトコ、ノータッチだからね?」 
 「イエス・マイロード!」
 「進路相談なら無料で乗ってあげるよ」
 「それはお気遣いなく」
 配膳台の上からクリスマスメニューを詰め込んだランチボックスを取るロイドの背中をみて、彼がそのまま工学棟に帰るのを推測したノエルは急いで食事を掻き込んだ。
 
 

 a.t.b.二〇〇六 26th December
 ブリタニア皇宮 ウィルゴ宮

 帝都ペンドラゴンにある郵政局本部の窓口。モニターに映るのは三十八にも及ぶ窓口の十四番目。両隣に仕切りがある。防犯カメラが捉えるのは斜め後ろから。遮蔽物の存在が邪魔をしている。背格好の特定はその後の移動時の一瞬を用いることになった。
 「映像データを送るよ」
 プライベート回線で繋がっているカストラリア王宮にいる侍従長ハーゲンに向かってシュナイゼルは呼びかける。
 私室の執務机の上に置いた懐中時計は若い数字を指している。外は漆黒の真夜中で、薄く雪がちらついている。断熱材がしっかりと入り隙間風が入ることはなく冬であっても室内はとても暖かい。
 ボタニカル模様のティーコジーを摘み持ち上げ、底をついたカップに新しく紅茶を注ぐとフレーバーティーの上品な薫りが立ち昇る。
 郵政局本部の防犯カメラ。十四番窓口に一人の女性が映っている。髪は長く、その色は鳶色だ。コートの裾からは生白い足に黒のショートブーツが覗く。後ろ側であるのでその顔は殆ど映っていない。
 シュナイゼルは独自に局長を通じてクリスマスカードを送った日時と消印の情報を照合させ、夕方頃にやって来たこの女性がそうであると行き着いた。
 通信先のハーゲンはやや納得のいっていない顔をした。
 〈こちらが……今の姫様のお姿でございますか?〉
 「映像ではね。この後の映像を確認してほしい。残りふたつ送ったから。順番にみて」
 〈はい。……ただいま確認いたします〉
 ハーゲンが映像を確認している間に、シュナイゼルは淹れたての紅茶に口をつけた。
 〈これは……!〉 
 驚きの声が通信越しに響く。シュナイゼルがもう一度同じ映像に視線を落とす。
 二つ目の映像。この映像は先ほどのカメラよりも比較的女性の真後ろに近いが入口付近に設置されたものであるため画素が荒い拡大したものだ。――十四番のブース内にいる女性は鞄から郵送物を取り出し窓口担当者に手渡す。いくらかしてカードで郵送料を支払っている。そのあと不意に女性はこの映像カメラに振り返った。いきなりのことで誰かが彼女に向けて呼びかけて、反応したのではないかと思うだろうが違う。
 彼女は、窓口を捉える複数の防犯カメラを見渡すように首を捻り――そしてこの映像のカメラを見つけだして――微笑んだ。映像の中の白い顔。口元に微笑みの陰影が帯びる。そして軽く手を振った。ティラナの笑い方だ。
 シュナイゼルが最初に映像を確認したとき、正真正銘の本物であると断定するにはもう少し情報が必要だと考えたが、この仕草がサインだというならば、それはつまりティラナは意図的に気づかせようとしている。
 「彼女だ。私がこうして辿り着くことも想定済みだというわけだ。――遊びに振り回されている気分だね」
 〈……なにゆえに……?〉
 「三つ目の映像をみて」
 〈はい……、殿下……こちらは……〉
 三つ目の映像。郵政局内にあるレストルームエリアの並びを撮っているもので、それぞれ男女・多目的トイレの出入り口を映している。十四番窓口にいたティラナと思しき女性は多目的トイレに入りそこから数十分後、入った時と別人の格好で出ていく。鳶色だった長髪は黒髪になり、着ている服はコートからダウンジャケットに、靴はショートブーツはロングブーツに。
 「多目的トイレに入って着替えて出てきた映像だね。三つの中ではこれが一番鮮明だけど……」
 〈変装されていらっしゃると……?〉
 映像の中のティラナは、また周囲と上に設置されている防犯カメラを確認するとそこに笑いかけた。
 瞳は彼女特有のアンバーではなく翠色をしている。
 「変装か、整形をしているかだろう。……念の為と思ってね。先ほど郵送料の決済時に使用したクレジットカードの情報照会は既に申請済みだ」
 〈さすがでございます。殿下〉
 「口座と口座開設時の情報も引っ張れるだろう。……あとは正しい℃pを捉えられるといいのだけれど」
 ティラナのことだ。行動に移す時細心の注意を払う。映像のように意図的に教えることが目的でないとき、彼女の普段の姿がわからないのでは情報が集まっても推定の領域から抜け出すことは難しいだろう。
 「やれやれ。複数の名前や人物になりすましていたとしたら厄介だよ」
 言葉よりも優しげな口調でシュナイゼルは言う。通信の向こうでハーゲンが頷いた。
 

 a.t.b.二〇〇七 7th January

 年が明けての初日の大食堂は大盛況で、どこのテーブルも満席で落ち着いて食事どころではなかった。
 ノエルは冬季休暇中、工作準備で忙しかった。そしてその日の前の日にギリギリで潜入捜査に必要な最初の行動をとり情報を入手した。この学院の王様が帰ってくる今日までに済ませる必要があった。
 壁際に立って昼食の料理をのせた皿をつつくノエルは、その隣でサンドイッチを齧る眼鏡の上級生に向かって釘を差しているところだ。
 「工学棟に絶対。ぜーったい、殿下を呼んじゃだめですからね」
 「あはー……もおー必死だねえ?」
 「バレたら反省室行きかなあ。今日の天気が曇りで良かったですよ。晴れてたら……」
 ロイドのいうアレ≠ニはノエルが工学棟の屋上に設置したアンテナのことだ。
 ブリタニアでは地中化された電線・地下ケーブルで通信網や電力供給網が敷かれており、テレビもケーブル由来で、地上に露出するような設備は悪目立ちする。空中線――アンテナ、またの名をエアリアルを使用したのはそのケーブルネットワークに痕跡を残してしまう。不審なログに気づかれないことを祈りつつ、機器撤去までに工学棟に足を運ばせないようにしなければ――と思っていると心を読まれているのか運悪くシュナイゼルがやって来た。
 「やあ。今年もよろしく。二人とも」
 「あは! 殿下!」
 「ども」
 ロイドは不自然なほど顔を引き攣らせ、片や黙々とキッシュを咀嚼するノエルを交互に見比べ学院代表の皇子は薄く笑った。
 「悪戯の相談かな?」
 「いっいえ〜」
 「ロイド。デモ機の進捗はどう? 上手くいっているのかな」
 「ええ、それはもう。休暇の間に、はい」
 「そうか。それじゃすこし見てみたいな」
 「ええッ」
 おいおい――とノエルはロイドを呆れ混じりにじろりと睨んだ。
 「……いけないということは、ないだろう?」
 「あー。はあ」
 ロイドの目が、このパトロンに逆らえるわけがない!≠ニ訴えている。
 ノエルは渋い顔をつくり苦肉の策を講じることにした。
 「放課後までに撤去します」と耳打ちし、つまりそれまでどうにか足止めしろと理解したロイドは首を小さく竦めるのだった。
 ノエルの何気ない視線に神をも虜にする美しい微笑みを浮かべる彼が「なにか?」と首を傾げる。
 「いえ……。クリスマス休暇中はなにをしていたのかなと」
 「家族と過ごしたよ。きょうだい達とね」
 「賑やかでいいですね」
 ――いったい何人増えていくのやら。
 毎年、ときには数ヶ月ごとに新たな皇子や皇女が誕生するとメディア発表される。とくにその皇妃を擁する一族やそれを支持する貴族達の企業の株が上がったり下がったりする。経済的効果からブリタニアではハイネス特需≠ネどと有難がれているが――全臣民、いや当の本人達もこうして皇室外の世界に出てきょうだいの数が普通でないことに驚くのだろう。
 「……次はどちらの皇妃さまの御子がご誕生になるかご存知ですか?」
 「ははは。それは皇帝陛下次第だね」
 我が国もシャルル帝ほどではないが王室の人員が欲しい――と、『わたし』は密かに思っていた。いくらなんでも上級貴族層が少数で、王室に至っては正当な後継者が一人だ。婚姻条約締結時に王・女王のと、王妃・王配の秘密の恋愛を容認している条文にサインしたが第一子でも儲けなければ王朝とカストリア一族が終わってしまう。
 ――クリスマスムービーを撮影できるほど、姫様がご快復されているのはせめてもの安心材料といえるのだけど。
 シュナイゼルの穏やかな態度は変わらず、水面下の動きは掴めない。
 クリスマスムービーの放送の許可には総督相当の地位である彼の承諾も必要となり、内容についても承知がなければ国際放送で放映もなされないため、王室最高機密であるマルカの存在を認識したとみてもよく――だからこそ『わたし』はわざわざ窓口で送るといった身の安全を脅かすような真似をした。さらにノエルの持たされている、ノエル・アストリアス以外の名義=Aミレーヌ・ド・サンジェルマン≠フクレジットカードを彼の方で探知してくれれば、そのうちシュナイゼルがどの程度捜査を動かして来るかや、組織の尻尾も掴めるはず――なのだが。

 『わたし』は機会を見つけてシュナイゼルに正体を打ち明けることも考えていた。
 彼は余計な働きはしないタイプだし、味方として動いたほうが首謀者特定は早い。暗殺任務の最中に対象と協力する――組織に悟られてしまった時、ノエルに作戦実行能力がないと判断された時、誰かがシュナイゼルを殺しに来るとも限らない。
 小さな箱庭でシュナイゼルを守りきるには力と人手が明らかに不足していた。
 
 ノエルの逆探知作戦でブリタニア国内にも護国自警会の組織の潜伏場所があるとわかったいま、大掛かりな組織犯罪の糸口を掴んだかもしれないいま、監視員に疑惑をかけられているいま――危険の種を蒔かないほうが利巧だ。

 
 a.t.b.二〇〇七 6th January

 睡眠薬は独自精製し間に合わせたが効果がいささか強めに出たらしい。深夜の産業廃棄物のゴミクズ置き場を漁りに来る人間はこの地域ではまずない。一時間以内に仕上げるつもりだった。ぐっすり眠りこけたこの男の目覚めを余分に待つことになり暇を持て余す羽目になったが、釣果は上場だ。
 男の端末にあった連絡先、発着信場所の位置情報、そのログはすべてコピーした。もう一度逆探知のためにコールを鳴らそうかと思ったが相手から先にかかってきてこれ僥倖と相手の所在地も掴めた。
 そして監視員の男ははっと目を開いた。大きな目玉がきょろきょろとそれだけが独立した生き物のように動いた。
 「大丈夫か? 急に倒れたから」
 「今、なんじだ……」
 「深夜二時。疲れているんだろう。……あ、何度か電話がかかってきちゃったから、代わりに出ちゃった。ごめんね。S計画についての話なんだけどね……」
 ノエルは倒れ込むだ男の前で身を屈めて顔を覗き込む。
 「時間はもう少しかかると思うんだ。あの人、意外と隙がなくってさ」
 「そ……そうか……」
 「ねえ」
 「あ?」
 「グロックスは元気かな」
 「え? あいつは……」
 監視員は歯切れの悪い返事をした。
 「どうしたの」
 「死んだよ」
 「……いつ?」
 「数ヶ月前。交通事故だそうだ」
 「ふうん。……今日はご苦労さま。帰っていいよ」
 グロックスは護国自警会内でマルカの協力者だった。十一月の王宮潜入についても彼の助力なしでは立ち行かなかった。その矢先、突然の死。数ヶ月前とぼかしているが十一月なことは明らかだ。
 監視員はジロリと白目を光らせてノエルを睨んだ。疑いの眼差しだった。
 ――踏み込みすぎたか? 実行時期をもう少し先にしたほうがいいかもしれない。
 今日の不審な呼び出しは警戒を与えるかもしれなかった。
 護国自警会の関係者が全員がS計画支持者でない。表向きに王党派を掲げる組織が、現状体制派の長を務めるシュナイゼルの暗殺を企てる――もし組織内で彼を悪人に仕立てあげるとするなら彼がブリタニア人であることを強調するだろう。しかし、実際のところカストラリアはかなり融和的政策が敷かれ、王宮潜入の記憶を振り返ってみても、国内に混乱や反発はみられなかった。『わたし』にかけた催眠術のようにクーデターの主犯がブリタニア≠ナある≠ニ誤解を利用した刷り込みがされていない限りは。
 ――局所的。だが協力者は複数人以上。
 この違和感はいったいなにか。ブラックボックスの中に手を突っ込んでいるが何も掴めない、掴んでいる感触どころか手応えがない。
 

 a.t.b.二〇〇七 February
 帝立コルチェスター学院 代表室
 
 ティラナ王女捜索を目標とする秘密捜査チームをブリタニア内でも発足させたシュナイゼルは、早速、クリスマス直前に郵政局本部で現在ティラナが扮する女性が使用したクレジットカードの調査結果があがってきたのを確認したところだった。
 独自回線で通信傍受対策を徹底した機器とモニターを睨み金髪の皇子シュナイゼルはただ一言「マネーロンダリング」と呟いた。
 彼は椅子に深く座り、凝った天井の植物の蔦模様を眺めた。それらの模様のように物事が一箇所ではなく複数箇所に渡って広範囲に及んでいる。
 ブリタニア帝国中央銀行こと帝立ペンドラゴン銀行、カンタベリー信託銀行、アルスター信用金庫など複数の帝国銀行法によって運営される複数の銀行≠ナつくられた口座は一見なんの不都合のない送金履歴を残しているが階級社会のブリタニアにおいて一点明確におかしいとわかるのが、一般臣民階級達の人間と上級貴族達の属する利用銀行はそれぞれ異なっているのにもかかわらず、いくつかの口座を経由したあと最終的に共通の一つの口座に向かって送受金を繰り返しているということだ。完全階級社会では衣食住やそれに伴うサービスが異なる。利用する銀行、居住区、利用する百貨店、飲食店、庶民であれば日常使いの食料品店。こうしたものが日常のあらゆる場所で見えない差や壁、境界線で区切られ人々はそれぞれの意識に従って生活を営む。
 まず銀行口座には持ち主のIDを含めた金の流れを透明化するための情報が紐づけられている。――彼女、ティラナが使用したミレーヌ・ド・サンジェルマンは上級貴族――侯爵家の娘でその家の三女のものだ。
 その貴族階級と庶民階級の人間が共通の口座と金銭的やり取りをするだろうか。
 さらに捜査結果は……この、令嬢ミレーヌは半年前に亡くなっていると報告書の無機質な文字が示している。
 シュナイゼルは懐中時計を確認し、カストラリアの回線に接続する。呼び出しから三コールで侍従長ハーゲンが応答した。彼は老眼鏡を取り出し、執務机に座り直した。ちょうどなにか仕事の一区切りだったのを引き留めたようだった。
 「……ハーゲン。悪いね。夜分遅くに」
 〈いいえ。殿下……なにかわかったのですか?〉
 机上でシュナイゼルは両手を組んだ。机の下で脚を交差させ、ため息を吐きたくなるのを堪える。
 「私達はすでに網の中にいるらしい。――そちらのインペリアル・スローン銀行に調査を行ってくれないかな。出来れば総当たりがいいが」
 〈はい。殿下〉
 ハーゲンに情報を飛ばす。彼は羅列された情報を読み込んでいくごとに額に皺が増えていった。
 「今送ったとおりだ。私はミレーヌ嬢の調査を進める。――彼女がこちらの国で犯罪に携わっている可能性があるのは……いささか……いいや、大不祥事だよね?」
 〈事件化はされていないのでしょうか?〉 
 「ふむ……警察がしっかり機能しているかも怪しいよねぇ、こうなっては」
 〈……そんな、まさか?〉
 「カストラリアの方もそういうわけだから。頼んだよ。……もう少しミステリー小説を読んだほうがいいかな? あはは」
 大規模な犯罪がブリタニア帝国内の地下に蔓延している。由々しき事態だ。
 「ティラナがわざわざ痕跡を残すのは……私へのメッセージか、もうひとつ。誰かへの挑発≠ニ考えられるね」
 〈挑発?〉
 「……この映像を見るのは我々だけではないよ。……そして挑発が行き過ぎると身の危険性が高まる。そして、今の彼女はカストラリアに戻って来る意思が感じられないのが引っかかるね。そうできない状況にいる? ……考えてみてごらん。あのメッセージを送ってきている人が、国のことを気にかけている人がなぜ戻らないのか? 戻れない理由があるんだ。――とすると、犯罪に従事していると推測できるのではないかな」
 ハーゲンは手元でメモを記していた。
 〈……その、姫様の現在の居所は掴めそうでございますか?〉
 シュナイゼルは視界に降りた前髪を避けるよう梳かし、捜査局から上がってきた十二月一七日の該当映像記録を見つめる。
 「十二月十七日。防犯カメラに映り込んだティラナの姿は郵政局から出て街中に紛れ込み、人でごった返す大時計広場方面に向かったところまでは追えた。そこで――おもしろいことに、よく見知った顔を見つけてね」
 カメラの端のふたりの男女。クローズアップすると、女の後ろ姿越しに一人の見知った男子。
 カノン・マルディーニ。
 ノーサンブリエ寮の生徒だった。 


 a.t.b.二〇〇七 March

 潜入捜査の決行日はどんよりとした曇り空が広がり鈍い輝きを放っていた。
 コルチェスター学院に最も近い街、エイムスバレー。その端にある工場地帯。数週間かけた下準備と一週間前から始まった春季休暇を利用して行動するならその日しかなかった。
 薄汚く加工した作業着姿で労働者達の中に紛れ重労働に従事する。殆どが他エリアからの出稼ぎ労働者で会話の品質はよくない。酒や煙草、女とセックス、ギャンブルで占められる。適当に相槌を打ちそれらしく振る舞う。少し離れたところに貴族達の学ぶ学校があるのが夢物語かのように思える。ブリタニア国内にも掃き溜め≠ヘあるが、各エリアからこうして連れて来ることでナンバーズの中でも名誉ブリタニア人としての帰化を促す作用があるのだろう。
 実態は能力があれば軍や公職に就けるが、そうでない場合肉体労働に落ち着く。生活水準はブリタニア人と同様だが、通信機器や護身用の銃器の所持は許されていない。それでも故国で暮らすよりは賃金が高く、ブリタニアでも差別を受けることにはなっても、植民地の故郷で裏切り者として扱われるよりは良いと選択した者たちがここにいた。
 
 ――エリア四も表向き被支配国だから、この就労渡航を利用すれば事実上ブリタニアに入って来られる……。
 就労渡航には集団で、かつ就労場所のエリアが設定されその範囲を越境してはいけない条件がある。国内自由移動の制限がある。決まった場所で働かされ住む場所も与えられる。飼い殺しのシステムだが、大半の者は満足していた。
 カストラリアはそも民主主義立憲君主制の形をとっているがブリタニアのように激しく締め付けのある人種差別制度をとっておらず、多くの責務と義務を果たすことの上にその身分の保証があり、王室と周辺の貴族以下の身分は等しく平民である。渡航制限は体裁上一部の制限があるが――シュナイゼルが渡航制限した国は紛争地のある国が殆どだ。国内にナンバーズの収容所などはなく名誉ブリタニア人保護政策≠ヘ存在せずブリタニア人の入植及び居住数も僅少。二〇〇〇年の頃と多少人口の増減があっても軽微だ。Four≠フ呼称も建前でしかない。――ブリタニアにとって指導と矯正の必要な矯正エリア≠フ情報を『わたし』は信じ込まされていた。
 だから、もし、このブリタニアの掃き溜めにカストラリア人がいたとしたら。その人物は正規の渡航では足がつきやすい犯罪者であるということになる。
 ――シュナイゼルは把握していないのか?
 答えは単純だ。カストラリアで犯罪を犯しているわけではないなら、話にすらならない。しかしカストラリアでの犯罪者がブリタニアに逃亡目的で流入するなら話は別だ。

 工場の休憩所の端でノエルは安い煙草を吸う老年から話を聞いた。
 ――『逃し屋?』
 ――『大きな声じゃ言えねえけどよ。協力するとコレ≠ェいいんだコレ≠ェ』
 男は親指と人差し指で輪をつくり金をあらわした。
 ――『エリア四の人間なの? そいつは』
 ――『さあねえ。エリア四の人間っつっても見分けつかねぇや。あん国は人種の坩堝だろ? 色んな国の血が混ざっててアジアでも東西南北、欧州からも血がきててわかりっこねえ。あっこの王女様だってブリタニアやらその周辺やら混ざりものだろうが』
 その通りだ。カストラリア人の八十三パーセントは実に複雑な遺伝子スイッチシステムを持つ。遺伝子解析技術が向上したのも国民の複雑なルーツと貴族達がその祖先と血統の証明に用いるため莫大な資金を投じて飛躍させてきた固有の技術と成果だ。
 ――だからこそテューダー朝の正統な後継者がティラナ王女にある。
 男はくっくっくと喉の奥で笑い「ローマ人の落人の末裔の国が、イングランドの胤子を迎え入れ、次は傍流と再統合だ」と口にしてさらに続けた。
 ――『ブリタニアも王女ごと血統に組み直すのは正しい判断だわなあ。皇室の開祖が公爵の傍流じゃ格好がつかねえ。歴史的大婚になるさろうな』
 ブリタニア帝国を築き、現ブリタニア皇室の始祖――リカルド・ヴァン・ブリタニアは、テューダー朝最後の王とされていたエリザベス三世治世の公爵であり彼女の親戚筋にあたる。エリザベス三世の秘密裏に存在した隠し子がカストラリアに亡命し血を繋いだことで、皇室の血統的価値を揺るがすものになる。
 小国の王女相手に婚約を結ぶことになったのも、ブリタニアにとっては王権を守護するために必要な手段だったのだろう。
 第二皇子のシュナイゼルが自発的に判断したようにみえて、実は皇帝の意思決定もあったはずと『わたし』はふと思い至る。
 ――第一皇子を手元に、第二皇子を外縁に置く。
 鮮やかな戦略的判断だ。小国だったブリタニアが息を吹き返し、今まさに栄華の時代を花開こうとするその大帝国時代の統治者らしい策略。
 ――『おじさん、詳しいね』
 ――『おう。こう見えて歴史家をやっていたんだよ。戦争はよくねえなぁ……味を占めたのか、近年どんどん勢いついてやがる。エリア八からの亡命者も増えてるよ。ちょっと前まで小国だったってのに』
 歴史家だった男は、オイルで黒く汚れた細い指で煙草を咥える。マッチの火をつけてやると喜んだ。
 ――『ブリタニアのイメージが変わった?』
 ――『そりゃあそうさ。……しっかし、あの子供の皇子はなかなか切れ者だなぁ。将来が恐ろしいよ。カストラリアに厳しい施政を敷かずいることで他国の反発が抑えられて……どこまで計算ずくなのやら。だからわりにイメージは悪くねぇんだ』
 シュナイゼルが婚姻する理由にはブリタニアのイメージ戦略も含まれている、と言いたげだ。
 ユーラシアの緩衝国に根を下ろすことで、人種差別政策をとる帝国がそうではない≠ニ建前を立てられるからだ。

 工場で数日労働者に紛れて働き得た情報の中でもっとも収穫があったのは、その老年の男の差し出した一冊の文庫本だった。
 ――『ほい。これやるよ』
 ――『なんですか? この本』
 掌に収まりのいいサイズの文庫本は薄く捲ってみると簡素な文字が並んでいる。
 ――『ああ。今、はやってんだここいらで。フランドロ・ローディックの本がよ』
 ――『フランドロ……ローディック?』
 ――『亡命者だよ。エリア四に漂流した、あたまのおかしい奴。けど話はおもしれえのよ。読みやすくってよ。ガキでも読めるくらい簡単な文章でな』
 ――『それが今のブーム?』
 ――『獄中で書いてるらしい。仲間が書籍化して売上を保釈金にしようって魂胆だ。よくそんなの思いつくねえ?』
 男は本が並べられた棚を顎で指図した。
 ――『そっちにいろいろあるよ。好きなの読んでいい』
 ノエルは高級煙草の箱を男に手渡した。
 ――『気前いいねえまったく。いい趣味してるよ』
 ――『どうも』
 社交的な笑みを返し、ノエルは本棚に寄る。一冊手にとっては、二冊、三冊と同様にする。
 パラパラと本をめくり、本の背表紙を並べてみる。ある異変、違和感に気がついた。均等な幅。どの本も頁数がすべて同じ一七九頁で揃えられている、奇妙な本だった。
 後方でさっそく高級煙草を吸いはじめた男を振り返り尋ねる。
 ――『この本はどこで?』
 ――『あいつだよ』
 ノエルは男の指さしたほうを見た。黒髪の痩せぎす。浮き出た頬骨と落ち窪んだ目。いかにも陰気な男が一人休憩所の片隅で本を読んでいる。
 ――『彼が配っているということ?』
 ――『ああ。声かけて金を払えば貰えるよ。おすすめを聞きゃ喋る』
 陰気な男のもとへ歩き進む。じめじめした風が吹いた。油まみれの髪や皮膚に余計油分をあたえるような重たい風だった。
 「君、ちょっといいかな」
 ノエルははじめから耳穴に埋め込んであったボイスレコーダーのボタンを押した。
 「その中にある本って、全部フランドロ・ローディックの本?」
 「……ああ」
 空返事がひとつ。
 黒いくねった髪の隙間から覗く瞳が本の世界から逸らされることはなかった。
 「面白い本だね。少し読ませてもらったんだけど。ほんの触りの。……他にもおもしろいのがある?」
 「まあね」
 「君、名前は?」
 「アンドレ・ナークス」
 「僕はジョーン・コックス。よろしく。それで、おすすめはある?」
 ノエルは偽名を名乗り、半ば無理矢理彼と握手した。その時ようやく目が合った。
 「これ」
 「……深い水の畔……か。叙情的なタイトルだね。……ナークスはどうしてこの本を配っているの?」
 「好きなんだ」
 「うん」
 「ローディックの本を読んでいると、嫌なことが忘れられるんだ。彼がそこにいるみたいに、友達のように、語りかけてきて、心を慰めてくれる。どんなに辛いことがあっても」
 「そうなんだ。素晴らしい感性を持っているんだね。君も彼も。さっき読んだのは、キザな遊び人の風船ガムのような話だったなぁ。その、深い水の畔はもうすこし――なんていえばいいか、シリアス? 感傷的なのかな」
 枝垂れ柳を揺らしアンドレ・ナークスはノエルを見向く。声にはかすかな期待が込められていた。
 「――あんた、向いてるよ。……だったら、他にもいい本ある」
 ナークスに誘われて向かった場所は労働者達が寝泊まりする簡素な小屋で、一軒に八人が雑魚寝をする人間コンテナだった。四人が寝転んだり壁を背に積まれた本を読んでいるだけの静かな小屋内に足を踏み入れるとナークスは、中央の本の山に手をやり「お好きな本を」と紹介した。
 ノエルは本を適当にいくつか選び、それを部屋の隅で読み始めた。数時間ほどで数冊を流し読みし、室内の様子が異様だと気づいた。彼らはどこか虚ろ気でぶつぶつと独り言を呟き、時には陶酔し遠い世界へ思い馳せるように恍惚の吐息を漏らした。
 ――……これは、まるで、ドラッグパーティーみたいだ。
 文字が読める賢い知識人達のなかの、とりわけ孤独を持て余す者に語りかけ、じわじわと虜にしていく遅効性の毒。
 ノエルは再び手元にある本に視線を下げる。簡単なストーリー、読みやすい文字、理解しやすい語彙、時折挟み込まれる意味ありげなひねった固有名詞。小気味よい感動が何度も読み返したくなる。
 ノエルはどれも同じ頁に揃えられ、内容もフォーマットに沿った本のクライマックスのシーンを比較しようと思い立ち、違う本同士の一四〇頁を開いた。
 「あ……」
 『わたし』はそれに、その正体がなんであるかそこで腑に落ちた。
 何度も同じフレーズを繰り返している。
 反対側の壁際で読書するナークスに声をかけた。
 「……ナークス。ローディックの本はどのくらいの頻度で出版されるの?」
 「月に最低一冊。時々二冊」
 「……かなり速筆なんだね。……収容されているならそれだけ暇ってことか。……出版社というのはどこにあるか知ってる?」
 「反対側の労働地区にある」
 「そんなに近所に? ……そう。ありがとう」

 つまり――ローディックの本はただの本ではない。
 いわゆるバイブルのように、宗教勧誘のパンフレットのような、洗脳的なフレーズを用いた暗号文を人々に流通させている。
 
 二日後。ノエルはナークスの言った労働地区Bを訪れた。
 景観はノエルがいた地区Aと然程変わりなく、工場の周辺を小屋が取り囲みそのさらに外側に施設を置いている一つの町を形成し無機質な構造をしている。唯一の違いはA地区には教会があるというだけで、それ以外は他の地区も同様なのだろう。
 
 コルチェスター学院で行った逆探知場所は大まかにこの労働エリアにあったが、もしかするとそのB地区からの発着信ではないか――とこの時思った。
 工場付近の休憩所には本を読む者の姿がちらほら。無味無臭の薬物ゆえに誰もそれを不審がる様子はない。
 耳の中にあるボイスレコーダーを操作し、ノエルは彼らに接近した。
 「やあ。ちょっといいかな。……反対側から来たんだけど……ローディックの本を読みはじめてさ。……本の装丁が気に入って。……こっちで出版されてるって聞いたけど、知ってる?」
 無精髭を生やした男は喋ることも億劫なのか、ん、と人差し指である三階建ての建物を指した。
 「……ありがとう。行ってみるよ」
 A地区でも同様の建物があるが、そこはブリタニア人の専用エリアで入るにはIDとパスワードが必要だ。しかしB地区の建物にはセキュリティがなく、誰でも入っていけるのか労働者達の行き来する姿がある。
 建物の中は清潔で、ざっとみただけでも小さな会議室が一フロアに十五ほどある。どこからか人の話し声が聞こえてくる。
 よく耳を澄ませてみると本の内容を朗読しているようだ。
 ノエルはその声の場所に導かれるように、一つの部屋に辿り着く。
 部屋の中は暗く、窓はカーテンで閉め切られている。
 室内に人影はなく、それが一箇所――白いテーブルの上に置かれた小型の音声機器から発される録音だと気づいた時、背中に視線と気配が張り付いた。

 「結構早かったね。――王女さま」 
 「――――!」

 危うく心臓が止まりかける。
 ひやりと背筋を氷の鋭い切っ先で撫でられるような恐怖と悍ましさ。不快な感覚。目眩のする記憶の撹拌。どこかで聞いたことのある声。水に溺れていくような息苦しさ。気配は一歩、また一歩、『わたし』の背中に近づく。
  
 見てはいけない。見てはいけない。見てはいけない。見てはいけない。見てはいけない。見てはいけない。見てはいけない――――。
 瞼を強く縫い付けるように瞑る。それが危険であるとなぜか知っている。
 「こっちをみて。……君の婚約者のように美しい瞳を持っていたら喜んでくれただろうか」
 ――婚約者……? ああ、彼のことか。――ああ、頭痛が、す、る――――。
 ビリビリと麻痺が脳神経を侵していく。思考力を奪い、扉の鍵がごりごりと音をたてて回って、開こうとする。やめて。開けないで。やめて。それ以上開けると、閉じなくなってしまうから。
 「な、ぜ――――こんなことをする?」
 「こんなこと、か。……」
 「お前は誰だ!」
 「教えてあげても構わないが――王女さまにはもう少し眠っていてもらいたい。これは実験なんだ。君も好きだろう実験は」
 ――意味がわからない。わからないものは嫌いだ。理解できないことは苦痛だ。
 頭の中が歪みそうになる。もうすでに歪んでいるのかもしれない。言葉を聞いてもその意味と意味の点と点が結びつかないから。
 「わたしは……王女じゃ……ない……」
 「そうだ。麻酔を解いてしまうと死んでしまうから、そういうことにしたんだったな。……困った困った。もっと、思い出しても平気になってほしいが」
 「やめ――」
 冷たい風が耳と項にかかる。それは背後にいる者の吐息だった。
 「あなたが使い物にならないから、こうして何度も躾けてあげているのだよ。あの扉を開いてくれさえすればいい」
 ――あの扉? なんのことだ。それこそ、姫様と勘違いしているのではないか。
 男の声は神託のように脳髄に響く。
 「魂を研鑽し、蓄積が次の扉を開くのだ」
 「―――いっ!!!」
 唐突に首筋に針が突き刺さる。注射針から液体が注入され――ぐらりと世界が揺らぐ。ノエルの意識は急速に遠のいていった。



20
午前四時の異邦人
top