回顧―早春―







 a.t.b.二〇〇七 February
 帝立コルチェスター学院

 今日は左脚の日だ。
 厚手のガウン越しに大腿直筋から脹脛の外側を軽く揉む。ほんの一瞬にも満たない解放を挟んでまた骨の伸長に伴う筋肉痛に苛まれる。
 寮内の広々とした個室は同学年の生徒なら誰もが羨むほどの私的な時間を約束されている。それが許されるのは責任と義務を負う者に与えられる褒美だからだ。壁に貼り付けたコルクボードに下がるカレンダーに黒インクで埋め尽くされ、暗くなる紙を天気の良い日に撮影された学院の白麗たる学び舎と青と緑の穏やかな風景写真が中和している。皇宮に帰ればすべて従者の仕事になるようなものでも自由と規律の学院生活では自分自身のものだ。

 シュナイゼルの入学時、皇宮から付き人をつけるかどうか話が持ち上がった事がある。一帝国の宗主の子供が何の手助けなしに上流層といえど子供だらけの場所で手荒に扱われるべきではないと声があがった。根本的にシュナイゼルならば貴族子弟に混ざらずとも高名な学者をチューターとして抱えているのだから必要ないだろうと。
 正しい指摘だった。その頃すでに婚約を結んでいるシュナイゼルに必要なのは帝王学や相手国の造詣を深めることであって、帝国内の派閥闘争や歓心を買おうとする貴族の子供を通じたご機嫌取りに付き合うことではない。
 少年皇子の両肩には既にその国の君主代理人の重責と、帝国の温情として庇護名目の統治権・総督の任を負いとてもではないが学校生活はおままごとが過ぎる≠ニ非難を浴びた。

 この冬、休暇に皇宮に帰省したシュナイゼルは廷臣の者よりそれはそれは気遣いを頂戴した。
 ――そろそろ時期でございましょう。シュナイゼル殿下――
 意図は明け透けだったが、わざと肩を竦めてやると、恐れる気色もなく進み出た。
 ――床に臥せりきりというわけではありませぬし、女子の体には適齢期というものがございます。自由恋愛などと申すのは一端の責務を終えてからがよろしいでしょう――
 平然と言い放つ廷臣は意地の悪い顔をして、未だ青い性であると嘲笑さえも混じる弄りは父帝の威信を借りていた。余計なお世話だった。
 ――もう二月か。
 再びカレンダーに意識を向けると冬季休暇から一ヶ月も経っている。 
 二月は彼女と婚約した月だ。
 空気が澄み渡る岩山の国の夜。ここよりもずっと深い闇の中にありながら満天の星空が広がっている。秘密の逃避行。
 ――もっと、おもしろいものをみせてあげる――
 父帝から遣わされていた以上シュナイゼルに選択肢はなかった。彼の望みはその国を武力行使なく手に入れることで、ただ、たまたまその国の王女とは数ヶ月前に面識が辛うじてあったのが救いだった。
 子供心に。シュナイゼルは父親の言うことを聞いて認められればなにか満たされたような気持ちを味わえるのではないか、すべてを持ち与えられているのに求めてしまうこの渇きを癒せるのではないか。――それを期待していた。
 
 ――『王女殿下はどちらに?』
 婚約した次の週のことだ。本国に帰還し皇帝陛下への上申を済ませカストラリアを再訪した。
 カストラリア王宮は標高の高さから冬山の極寒地にあった。どこもかしこも薄ら寒く、空気は頭や肺を締めつけ手はかじかみ、見かけの華美さを脱ぎ捨てる必要があった。そのおかげか王宮の者の親切のほうが優しさと温かさを感じられた。
 ――『姫様なら研究棟にいらっしゃいますよ。さあ、シュナイゼル殿下。お風邪を召されてしまいますから、こちらを』
 ――『ありがとう』
 侍従長ハーゲンはシュナイゼルの目の前に膝をつき、カシミアのセーターとマフラー、ウールの手袋を着せた。彼は王宮を包む不動な岩山そのもの、に大きく堅そうに見えるのに、仕事をする手つきはしなやかだった。
 ――『コートもご用意していますよ』
 ――『うん』
 シュナイゼルは持たされたコートを抱え、王宮のより北側にある彼女の趣味とライフワークを兼ねた研究を行う場所へと向かった。
 外は雪が降っていて、吐息がはっきりと白く。一言も口を利きたくなくなるほど寒かった。
 小さな二階か三階建ての小屋のようなものから小さなオフィスのような建物がそのエリアには集まっていて、それのどこかにティラナは気の済むまで好きな研究に没頭しているらしい。建物玄関にある濡れた傘があるかどうかで彼女の居場所はすぐにわかった。小屋のラボは部屋が四つほどしかなく、シャワー室、応接室、仮眠室、実験室の機能的な構造をしている。玄関のすぐ向こうが一部クリア板が挟まれ中が見え、そこで豊かな髪を一纏めに保護メガネで目元を覆い白衣姿のティラナが実験室で一人黙々と作業に取り組んでいた。
 ――『来たんだ。……あっ、待って! そっちで一旦脱いで。靴も。服はブラッシングしてから白衣を着て』
 シュナイゼルは指示に従い研究室の手前にある仕切られたブースのクローゼットに防寒着をかけた。特殊なブラシで動物毛を除くようにブラッシングし、靴を足首まで覆う室内シューズに履き替え、彼女の白衣を借りる。
 彼女の城≠ノ入るのはこの国に来るよりも胸が高鳴った。
 ――『うふふ! ぶっかぶか! 前に着ていたの出して来ましょうか?』
 ――『結構です。このままで』
 袖先の生地が余りすこし垂れている。実験に協力するわけではないし、指先まで温かくていいと納得した。
 あの頃はまだティラナよりも背が低く、発育の良さでいえばなにもかも女性であるティラナの方が優れていた。
 ――『あとで向こうの部屋でお茶を飲みましょう。サンヤラ・サファイアがあるわ。サンヤラ地方の谷で栽培された茶葉で……。青茶に似た葉色なのだけれど紅茶なのよ。お茶請けはアップルパイとバスクチーズケーキ、タルトタタン。手作りだけどレシピ通りだから間違いないわ』
 ――『国際色豊かだね』
 ――『でしょ?』
 ティラナは歯を見せて綺麗に笑った。
 シュナイゼルはノートや筆記用具、薬品入りの茶色い遮光瓶、ガラス製のメスシリンダー、ピペット、彼女の手元の試験管を注視した。いくつかある試験管の中には一定の高さまで黒から茶、灰褐色、赤褐色、黄土色のものが詰め込まれている。
 ――『いまは何をしているのかな』
 ――『土のサンプル比較』
 ――『それはおもしろい?』
 ――『……見てみる?』
 シュナイゼルが小さく頷いたので、ティラナは奥の保管場所から試験管立てを二つ取り出して、清潔なテーブルの上の置いた。細かくラベルに省略された単語が明記されている。
 ――『こっちが北部の土』
 ――『うん』
 ――『次のが、中部の』
 ――『粒度が違うね』
 ――『これが、南部』
 ――『小さいね』
 シュナイゼルの的確な観察力にティラナは擽ったそうに笑う。
 ――『山の方が岩がちで、押し流されていくから南部の方がより砕けていて水はけがいいの。でも……隆起による標高差や複雑な凹凸、傾斜が激しい国土のどこも条件が一定な場所は実はなくて』
 ――『どうしてこれを調べているの?』
 ――『食料自給率を高くするためよ』
 ――『中立国だから?』
 ――『そう。中華連邦と国交と貿易を寸断しているわけじゃないけれど、有事の際に輸入が途絶えたら多くの餓死者が出るわ。有事ということは……』
 ――『戦争だね』
 ――『うん、戦争』
 そこで会話は一度途切れた。戦争主導国家の子供と慮ってのことだったのか、饒舌なはずの彼女はわかりやすく沈黙した。
 『どんな時も人はお腹を空かせるものね。それに一次産業は国家の土台よ。損なってしまったらおしまいですから』
 今度はシュナイゼルがなんとなく黙った。少年の微笑に彼女は自分らしくない≠ニ捉えたようだ。らしくないとは、この研究をティラナがわざわざする必要がないのではないか? というもので、ほんの僅か豊かな感情を表す顔が曇った。
 ――『数千年の歴史の蓄積があるなら今更だって思うじゃない? 温室や地下栽培や人工光農業を推進するには現代のデータが必要だから……』
 農業とは何年続けても毎年状況が一定ではない自然の大博打とはいったもので、ティラナはそれを限りなく一定化させ安定供給させる仕組みを構築。生産者へ技術供与し国策推進したいのだろうというところまでシュナイゼルは推理した。
 『明日は種まきに備えて準備しなきゃ。広い畑をみせてあげます。……綺麗なお洋服が汚れてしまうか……もう一着服を用意させるから安心して!』
 『ここではブリタニアの服は無用の長物だよ』
 着替えに数人がかりの衣装を着なくてはならないのは時代錯誤もよいところだと思い知ったのはカストラリアに来てからだ。それも特別な儀式装束ならまだしも、日常生活で人の手を借りて暮らすのは強者か弱者だけだ。ティラナは良い意味で中庸で、悪い意味では貴人らしくなく、なんでも自分でやりたがった。
 シュナイゼルが人や物が溢れ恵まれている生活の中に欠如していた不足する¥態を彼女は自ら作りゲームのように愉しんでいる。
 
 翌日、ティラナに連れ出されて訪れたのは王室所有の農園だった。昼にも関わらず気温はなかなか上がらず、空は重くのしかかるように迫り、吹く風の中にみぞれが混じっている。
 農園全体は殺風景で土が突き当りの岩の壁にあたる遠くまで続き、所々に朝まで降っていた雪がつもり、それらを取り囲むように植わった毛細血管のような裸の木々が並んでいる。
 大きな倉庫に立ち入っては持ってきたプラスチックの箱を開けて、ティラナは丁寧にそれが何であるかを説明した。 
 エンドウ豆、そら豆、キャベツ、ジャガイモ、ビート、ミント、カモミール、セージ、タイム――これから播種に使う種子の名前を読み上げて、その場所の土壌の話に移ろいでいった。
 ふと気づけば農園の入口の柵前に人だかりができていた。防寒着をしっかり着込んだ集団は高級カメラ機材や集音マイクを手にティラナが振り返るのを待ち構えている。小声で問いかけると彼女はそちらを振り返らず箱の中の種子の状態を観察し続けている。
 ――『あれはなにかな。彼らはどうして貴女を撮っているんだい』
 ――『ああ……あれはテレビの撮影で……。王室の広報も兼ねているんです』
 ――『広報?』
 首を傾げるシュナイゼルに『過渡期ですから』とねずみ色の空を見上げながら呟いた。
 ――『今の立憲君主制と民主主義の時代は始まったばかり。議会では貴族以外の国民が政治の代表として参加することを認めた。先進的に見えるかもしれないけどこれまでの専制君主制の名残は消えない。でもいずれその力も弱まっていく、とはいえ人々は世襲制の王権を支持する……貴族達も自分たちの椅子を失わないように下支えするでしょうし……定着するにはあと三〇年から六〇年かかる』
 独り言のような説明を終えて、ティラナは箱をシュナイゼルに差し向けた。
 ――『何か蒔いてみますか?』
 ――『いいのかい』
 ――『ご期待に応えてあげましょう』
 そう言って、ヤキモキさせていた彼らの方にようやく顔を向けると歓声が広い農園に響き渡った。
 ――『ティラナ王女殿下。そちらにうかがってもよろしいでしょうか?』
 ――『土を踏み荒らさないとお約束していただけるなら。どうぞいらっしゃってください』
 リポーターは一礼しクルーを引き連れて柵を超えた。
 ――『ご婚約おめでとうございます。王女殿下。本日はシュナイゼル殿下もご一緒ですね。殿下、御前失礼いたします』
 ――『よろしく。なにか特別なことでもしないといけないのかな』
 ――『とんでもございません。自然体にお過ごしいただければと思います。ティラナ王女殿下、本日はなにをされるのでしょうか?』
 『本日はこの畑で種まきをします。寒いからプランターを使ったものだけど。発芽率のよいものを中心に播種し、発芽率をみます。農園での播種はもう少し先です』
  ティラナが簡単な趣旨を述べ農園の脇にある小屋に入った。すでに用意していたプランターがいくつか並べてあり、それも実験の過程というようにどのプランターにもラベリングされている。
 小屋はほのかに温かく感じたがそれでも寒かった。土の中に穴をあけ種子を数個ずつ入れていく。遠巻きに静かに撮影は続けられていた。邪魔することなく静かでそこになにもないかのようだった。『いつもこんな感じなのかい』と訊けば、ティラナは苦笑して『面白みがないのは承知していますよ』と言った。
 ――『こんなに寒い国にきて残念ですね』
 ――『夏は過ごしやすいと聞いたよ』
 ――『夏といっても、短いの。ああ、でも……夏場の泥んこ遊びって気持ちいいのよ?』
 ――『砂浴びってこと?』
 ――『んーと……土壌菌は腸内細菌となって善玉菌を助けるし寄生虫避けの砂浴びとはすこし違うけど……王女様が小汚いとイヤ?』
 ――『……みんなは嫌がると思うけれど』
 率直な感想にティラナは『あなたも?』と尋ね返した。
 ――『……やっぱりそうよね。だけど、別にイヤと思っていてもいいの。ご機嫌をうかがわなくて。だって対等だから』
 ――『私とあなたが?』
 ――『婚約ってそういうことだもの』 
 政治的な意味で対等でないことは理解していた。しかし、それは外側の評価であって、ティラナはそう望んでいない。
 ――『……ふふ。でも、美しいあなたに汚いって思われるのはドキドキする』
 ――『……? それはどういうこと?』
 ――『なんでもないわ』
 寒さで赤くなった顔を横に振って、彼女はラベリングの内容に従い別のプランターに種子を植え込んでいく。
 実験と畑いじりでティラナの手は子供にしては不格好で適度にかさついていて、白いマメがあった。
 無香料のハンドクリームで丁寧に保湿しても、すぐにどこか次の何かの関心事のために、ペンを持ったり物を運んだり髪の毛をいじったりするものだからケアのほうが追いつかなかった。
 彼女は自分自身に対しては最低限であるのに、シュナイゼルに対してはより敏感に繊細に扱った。仕事によって作り込まれた手指がたとえ手袋の中にあろうとも、シュナイゼルの手を握るのでさえ『ご用心あそばせ』といってからだった。美術館に展示される美術品のようだとさえ思った。
 口先では対等というわり、ティラナはシュナイゼルを特別扱いしていた。ヴェールを被った姫君は彼女ではなく、シュナイゼルの方が似つかわしかった。
 
 まだ左脚の成長痛は眠りに落ちるのを妨げている。
 学院の寄宿舎の中では比較的広い私室を貰うシュナイゼルのベッドは少し手狭になっていた。日々彼は身長を伸ばし、声が低くなり、力が強くなっていた。彼の父もかなり高身長であるため、その遺伝性を引き継いで似るだろうとシュナイゼルは思った。ふと、その頃彼女がシュナイゼルに向かって『小さな紳士さん』と呼んでいたのを思い出した。当時の年齢にしてはかなり背の高い方だったが、ティラナの方がまだ大きかった。
 昨年の十一月の晩餐会の夜、彼女も成長していたがティラナの瞳は見下ろす位置にあり、のりしろはシュナイゼルの方が勝っていた。
 
 まだ、眠れそうになかった。
 瞼を閉じればその向こうにティラナの姿が残っている。共に過ごした期間はこの寄宿舎生活よりも短いというのに、思い返す回数のせいか長い年月の経過と記憶の美化と補強が行なわれていた。
 なにか手慰みになるような事はあまりなく、読書をするにもかえって頭が冴えるだろうし、せっかく彼女のことを思い出しているのに堅い仕事の続きをする気にもなれず――痛みをやり過ごすために脚を擦っていた手が自然と下腹部に触れた。
 そういえば最近は発散をしていないとそこで漸く気づき、ガウンを捲り下着の上からなんとなしになぞった。その気にならなければ大人しく眠ることに集中しようと決めて。
 シュナイゼルはその見かけから非人間的扱いと期待を浴びることが多いが、彼の体は人間という生物の領域を逸脱しているわけではなかった。
 つまり人並みといえるであろう性欲はあったし、豊満で健康的な肉体を持つ女性の姿をみれば、しっかりと男性機能の仕組みは働いた。
 「……ん」
 弄り続けると、熱と硬さを帯び始めてきた。
 彼女を抱くことはできるだろうか。
 肉体的な意味ではなく、将来の話だ。――シュナイゼルにとってティラナと結ばれることには大いなる意義がある。彼女を抱き、孕ませ血を繋ぐことこそ婚姻の核である。国の存続のすべてが懸かっている。
 王女にはシュナイゼルと違って兄弟は一人もいないし、君主が女王となる以上種の拡散効率は男よりも悪いのがネックだ。
 だからこそ。
 ――はやく探し出して見つけなくてはいけないのだけれど。
 もしも、ティラナがどこかへ行かずに今も王宮に留まっていたなら、こんなに途方に暮れることもなかった。
 「ああ。困った」
 いつもなら言葉以上に内心が無機質なシュナイゼルだったが、こと彼女に関してだけはその通りだった。
 宮廷規則では男子は十六歳、女子は十八歳で婚姻が解禁される。順当に進んでいれば、今年二人は互いの貞操を明け渡し結ばれていた。
 なんと完璧なロマンス劇だろう。絵に描いた餅だ。あいにく現実は厳しく思い描いていた未来とは異なる道を進んでいる。
 「ほんとうに、わからないな……どうして」
 ――セラフィナ嬢を宛てがったのか。君なら、それがスキャンダル以上に何を意味するのかわかるだろうに。
 自己誤解があれど国のことを考えられる人がとる行動にしては矛盾がある。
 自分の隣に戻ってこられない理由がわからない。ああ――また現実の話に夢中になってしまったとそこで考えを止める。

 瞼を閉じてもう一度彼女の姿をみつめる。
 その滑稽さにシュナイゼルは少し笑う。仰向けから横向きになり、デュベを巻き込んだものを脚の間に挟み込む。
 寝具には自分の匂いばかりだが、幸いにも彼女の匂いは覚えている。記憶の香りを胸いっぱいに吸い込むと、ティラナの豊かな髪のにおいがした。自分の容姿に自信がなかったのか、シュナイゼルと比較していたのか、凡庸な色彩の雑種≠ニ自虐めいたことを口にしていた。ティラナは知らない。光に透ければ赤みが増すことを。
 ――二月の火。暖炉に眠る美しい火。焦げつく感傷。
 安楽椅子に揺られ一枚、二枚大切な研究メモが絨毯に落ちて拾い集めたときに見上げた眠り顔。炎の光が艷やかに髪を照らし、歴史を重ね複雑で捉えようのない特徴をもつ彫りの深さ、後頭部や額の丸さ、皮膚の厚みと柔らかさ。触れた指の肉の硬さ。
 起きて、ティラナ。
 そっと呼びかける。瞼は重く、下がりきったまま。
 「……ティラナ」
 肺の中に彼女を取り込む。
 硬い岩がちの草原を走ったあと立ちのぼる汗の香。それは首筋からした。項に鼻を寄せひと嗅ぎすると、わずかに体が震え、そこでようやく時々月のように光る瞳がシュナイゼルを見ようとするか、名前を呼ぶだろう。この世で敬称を取り払うことが許された女性。肉体を許す女性は彼女だけなのも感慨深い。
 「ティラナ」
 呼応するように彼女の名を呼ぶ。その白い体は柔らかく温かい。犬や猫が毛繕いをするようにキスをすれば喜ぶだろうか。指で彼女の性器を愛撫していると、シュナイゼルを求めやがて、ふたりして接吻に耽るだろうか。すると、ティラナのはシュナイゼルと向き合い、その乳房が前身に触れ擦れそっと弄るだろう。そしてその時、ゆっくりと彼女の中に自身を捧げるだろう。――痛がるだろうか? 少しは我慢してしまうかもしれない。
 許されるまで衝動を抑えるだろう。ティラナに嫌われるのはあとあとの計算を狂わせてしまう。好かれていなければいけない。これからも関係を続けるために、欲望を解放するまで抱きしめて。気に入る言葉をかけて、ほぐしてやらなければ。彼女の顔にキスをしよう。働き者の指がシュナイゼルの腕を掴んだら、指の一本一本に時間をかけてキスをしよう。
 そうして、――いいよ、と声が聞こえたら。
 「――っ」
 シュナイゼルは片手で性器を持ち緩やかに腰を動かす。ティラナの中は温かく、それ以上に熱くなっている。
 どれほど気持ちのいいところだろう。想像だけではわからないのが悔しい。興奮した彼女がどんな風になるかも、どこが一番気持ちの良いところなのかも。
 手の中の摩擦を繰り返す。果ては近い。サイドボードに置かれた箱から抜き取っていたティッシュを数枚を手繰り寄せる。ティラナのことをじっくりと余す所なく思い出して、彼女の体の中に熱を注ぐための想像を膨らませる。自然と腰が動いた。
 「……ティラナ……っ」
 先走りがこぼれせめてもの泥濘みを得て追い上げていく。呼吸が乱れる。あとは思うがままだった。
 ティッシュの中に熱を吐き出す。うめき声を飲み込み、喉の奥で堪えた。体がビクビクと震え、それまでの自慰よりもたしかな満足感があった。成長痛のことはとっくに忘れていた。
 ティッシュを丸めてゴミ箱に投げ込むと一気に脱力感と眠気に襲われる。
 急激に虚しい現実が土を払わずにやってくる。ため息を吐き、自嘲的に笑った。
 このままティラナが戻らなければ役に立たない男なのだという悲哀と、屈辱を感じる。――いつも屈辱の味をティラナを介して味わっている。シュナイゼルを利用する父帝や、その廷臣、王家の謀反の首謀者――自分にエネルギーを与えてくれると約束しながらどこかへ行ってしまった婚約者に。生きているのに戻って来る気配のない婚約者に。
 「困ったものだね……どこにいるのやら」
 考えることが山積みだ。
 誕生日を迎えてしまったいま、シュナイゼルにはブリタニアからの期待が押し寄せてくる。廷臣の言葉通りなのは癪だが、婚姻の儀は引き延ばせたとしてもどちらの国にとっても世継ぎ問題は早急に解決すべき課題だ。
 とろとろと眠りに沈み込んでいく。
 昨日よりも今日はよくなるだろうか。未来はよくなるだろうか。



21
午前四時の異邦人
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