a.t.b.二〇〇七 March

 深く、低く、奥底にある場所で眠らせたはずの残滓がぷくぷくと気泡といっしょに水上を目指している。

 ――『なぜいつもこうなんだ!』
 ――『いつもうまくいかない! この役立たずが!』
 やめて。ぶたないで。
 ――『シュテファンの首輪を外したのはあなたでしょ?』
 ちがう。シュテファンがごみを飲み込んだから、それを吐き出させようとしたの。
 ――『家畜以下だよ。おまえは。ローモローに返品したいくらいだ』
 豚の餌、牛の糞尿と混ざって眠るほうが幸せよ。
 ――『炉に放り込んでおけ』
 嫌、いや――あつい、あつい、あつい、あつい、いたい、いたい、いたい――かみさま、どうか、かみさま、わたしをおすくいください――。
 ――『目が覚めたかな。あなたはマルカ……ただのマルカだね? それが君の名前?』
 ええ、そうよ。惨めなマルカ。人の悪意に死にかけたマルカ。
 
 暗闇の中に呑み込まれてしまったのに。まだ生きているの?
 ――『陛下、こちらでございます。さあマルカ、腕は動く? 首は? 足は? 引き攣るところはないかな』
 ああ――ほんとう。体が綺麗になっている。肌もしろくて柔らかくて、シミやそばかす、酷かった手荒れなんかもない。見違えるよう。
 かみさまはわたしをお助けになったのね。これで幸せになれるのね?
 ――『よかったよ、ちょうどいい条件とマッチして。……ああ、楽にしていいんだ。あの子も喜ぶ、自分の研究が人の役に立てると証明できたんだから』
 あの子?
 ――『私の娘だよ。ちょうど君と同じくらいの年齢だ。君はたしか孤児院出身だと聞いた。ローモロー孤児院だって? 乳飲み子の頃から。いったい誰が捨てたんだろう』
 意味がすこしわからない。それにその名前は聞きたくない。忌々しいローモロー孤児院。
 ――『むずかしい話をしてしまった。気にしなくて良い。君を虐げた人々のことは忘れなさい。――マルカ、君に夢はない?』
 夢? そんなものマルカにあるわけがない。マルカは毎日、ぶたれたり、嫌なことをされたりしなくて、食べ物を食べられれば幸せだから。でも、この体が生きていて生まれ変わることが許されたのなら、私の体は私を救った人のためだと思う。
 ――『それは、つまり、奉仕をしたいと?』
 ほうし? むずかしい言葉。
 ――『マルカは、手伝ってくれる?』
 手伝うと、喜んでくださるの?
 ――『もちろん』

 私は王宮にお仕えすることになった。それまでいたどんな場所よりも幸福な場所で、誰も私にひどい言葉や暴力を使わなかったし、三食とおやつの時間まであって、夢のような生活を過ごした。
 長い廊下。たくさんの偉大なひとの肖像画。貴重な壺や、胸像の並ぶギャラリー。綺羅びやかなシャンデリア。広いお庭に咲き誇る可憐なお花。大きな階段。紫と金色の立派な国旗。お月さまとハゲワシ。砦の狭間の王宮。王国の一番高い塔のお姫様。この国で一番幸せでいなくてはいけない女の子。ランチボックスに詰め込まれたままのサンドイッチ。
 ――『ねえ、姫様。お昼ごはん忘れているよ』
 ――『うん、今とってもいいところだから』
 ――『なにして……え……っと……』
 姫様は花壇に咲く花の上で交尾をする蝶を芝生の上に寝そべりながらじっと観察していた。 
 ――『あの……』
 ――『触覚や模様をしっかりみれば雌雄がわかるけど、ぱっと見じゃどっちが上≠ゥ下≠ゥなんかわからないよね!』
 蝶の交尾は飛んで行うためにそれが上下反転しわかりづらい、ということを言っている。
 ――『花にとまったほうが雌で上を飛び回っているのが雄よ』
 ――『うん。わかった。……お昼ごはん食べよう? マルカのおやつの時間になっちゃうよ』
 ――『向こうに繁殖期に入った小鳥の巣があって、それを調べてから!』
 窮屈でふりふりのドレスよりも、男の子のようにパンツとシャツの格好で姫様は好きだった。お昼ごはんのことも忘れて、木の上に登っては巣の観察に夢中になって、ポッケの中に入れていた小さなメモ帳に鉛筆でスケッチしはじめる。
 ――『この辺りの地域は拓けた斜面もあるから、雌雄同色ばっかりでつまらないなー。エリア二なら植生が豊かで隠れられる場所が多いし、綺麗な雄が観察できるかもね。でもブリタニアの属領ね……コネがあったらいいのになあ……生態系比較と分布比較……うーん手が足りないわ。……ブリタニアの侵攻で焼けたところもあるから十年前と変わってしまう……? 問い合わせはどっちにしよう……あーんもう! おばあさまの家にはちっとも学識が足りない人ばっかり! お話しにならないもの……そもそもブリタニアが領土拡大なんてするからよ! これだから軍事国家は! しっしっ!』
 飛び飛びの内容の大きな独り言はティラナ王女の癖だった。
 ――『ねえ姫様ったら〜!』
 ――『わかってるよお〜……あ〜ほんとうにコネがほしい! 世の中結局人脈よ! あっそうだ、今度ブリタニア開催のシンポジウムに呼ばれていたんだった! そこでお近づきになればいいのだわ!』
 ティラナは毎日毎日忙しそうになにかに没頭して、時々思い出したように王族としての仕事をこなした。マルカは目の前のそれになぜ関心を持つのか不可解だったが、その積み重ねがマルカの体と人生を救ったことを知っていたから夢中になる彼女を無理に従わせる力がなかった。

 通信画面の向こうで姫様は目元を腫れぼったくしていた。
 シンポジウムが終わってまもなく。滞在中の高級ホテルの一室。背景にあるトルコブルーの壺が印象的で、その色と手前の姫様のお顔の色がより際立って見えた。
 ――『どうしたの姫様。顔が真っ赤よ』
 ――『泣いちゃって』
 ――『まあ、珍しい』
 姫様の顔はりんごみたいに赤い。顔を冷やしに消えたティラナのあとで映った王后陛下が事の経緯を説明したのだった。
 ティラナはシンポジウムで盛大にやらかした話を。声をかけた学者さんからお叱りを受けた話――。叱られる経験が少ないティラナにはいい薬になったであろうと――また、子どもの増長を許したことを母親として嘆き、反省の言葉を王后陛下が述べられた。
 ――もう、姫様ったら。そういうところ、お子様ね。
 すべてを手に入れる尊大なお姫さま。高慢だと人をついつい見下しているみたいに誤解されるお姫さま。賢いのに愚かしく、そしてマルカには一生その境地に達することの出来ない命の恩人。
 
 洞窟の天井から水滴が頬に垂れる。その冷たさがピリピリと痛みに変わり、現実と感覚を結びつけていく。
 水に濡れた岩肌の上を滑らないように慎重に進む国王陛下の腕に抱かれた姫様はまるで――死人みたいだった。
 だらりと白く細い腕がこぼれた。左側頭部からこめかみにかけて赤い筋がいくつもでき、岩の上に黒い染みをつくった。
 ――『大変なことが起きたんだ』
 ――え?
 べっとりと血の付着したシャツ。国王陛下の乱れた髪と汗塗れのお顔。喉の奥から震える弱々しいお声。
 ――『……どうしよう、我々にはこの子しかいないのに……』
 ――陛下……。
 陛下の満月の瞳はうつくしかった。
 
 ベッドの上で青白い顔をした姫様と、その傍ら真っ赤な顔で責め立てる陛下を鍵穴越しにみていた。
 ――『だから僕はあれほど言ったんだ! 自由にさせすぎだと! 発育が良いがまだ子供だ! 泣かないでくれ! 僕だって泣きたいさ! どれほど自分の宿命を恨んだか! いいか? これ以上の血を流さないために、私は……君を一人選んだんだ。……間違っていたのか? 僕の選択が!? 血に呪われた一族だって!? 君もこんなところへ嫁いできたくはなかったのは知っている! あのままスイスにいればよかったね? 言いたいことがあるならはっきり言い給え。それとも私が無能か不能だとでも!?』
 王后陛下は苦痛に耐えるように黙って涙を流していた。
 ――おねがい、けんかしないで……。
 ――『ああもう――うんざりだ! こんな国に戻ってきたくなかったというのに……君の方の親戚も厄介だ! なにもかも!』
 国王陛下はぐるぐると苛立ちをやり過ごそうとその場を歩き回った。
 ――おねがい。こわいことをしないで。
 目を背けたくなった。ベッドの上の姫様はぴくりとも動かない。嗚咽をもらす王后陛下。憔悴する国王陛下。
 そして姫様そっくりのお月さまの瞳が、マルカを捕まえる。
 ――『マルカ、お願いがあるんだ』
 ――え?
 扉は開かれ、陛下がマルカを見下ろしていた。
 そしてマルカの目の前で両膝をついて、手を掬い、祈るように額にあてた。
 ――『お願いがあるんだ、マルカ』
 ――こわい。ティラナは起きないの?
 ――『大きな怪我をしただけだよ。……お願いを、聞いてくれるかい』
 ――どんな、お願い?
 ――『この子が、もし、万が一のときでも――生き続けられるようにするお願い』
 ――? むずかしいお話?
 ――『単刀直入にいうよ。ティラナの生体細胞を君の中に残す。そうだね、簡単にいうなれば、バックアップデータを君に預けるという意味だ』
 ――むずかしいはなし。私はどうなっちゃうの?
 ――『ティラナそっくりになる。……生体に対して後天的に発現させるこの技術はね、我が国の至高の医療と科学技術の結晶だ。まさか、娘のために使うことになるとは思わなかったなぁ……あはは……』
 ――それって、ティラナのためになるのね?
 ――『もちろん』
 ――……………………わかった。
 断れるはずがなかった。YESといわなければ、姫様は目が覚めないような気がした。
 ――『もしも、私達やティラナになにかあった時は、私の書斎においで。そこにすべてのログを残してある。君のも。ティラナのも。私達一族のすべてのね。信頼できる博士を集められるかはわからないが……できるかな……』
 ――どういういみ? なにをしたらいいの? ……私そんな難しいことできるかな……。
 ――『ティラナが死んだら、彼女を蘇らせるんだ』
 ――え?
 人は死んだら生き返らない。
 ――『彼女は女王様にならなきゃいけないんだ。彼女ひとりぽっちの命より、国のほうが大事なんだ。かんたんに死なせられないんだ。私達も精一杯長生きするように頑張るから。それでも子供より先に死んでしまうんだよ』
 ――こわい。こわい。こわい……。
 国王陛下の瞳は執念の膜に覆われていて、たった今から死を志す愛国者のような恐ろしげな光を宿していた。
 ――『ごめんね。……ティラナに弟か妹がいればよかったんだけど……難しいかもしれないんだ。私の体の問題だよ……彼女は悪くない……はは……』
 陛下は悔しそうに顔を覆いまた涙をこぼした。
 マルカにはわからない。言葉を受け付けるのを拒絶していた。そこまでしてどうしてティラナに固執するのか。たった一人娘だから? この人を失ったら国が終わってしまうから? そんなに血統は大切なの? しかしそんなことを口にしてしまえばマルカの首を絞め殺してしまいそうなほど思い詰めている。孤児でどこにでもいる子供の一人だったマルカには、王権だとか国を失えばどうなるか初歩的な影響力と結果さえもわからなかった。
 ――『私達がいなくなると、この国がバラバラになるか消えてしまって、みんなが路頭に迷うんだ。マルカ。美味しいものも食べられなくなるし、綺麗なお洋服も、おもちゃも簡単に手に入らなくなって、安全に外を歩けなくなる、犯罪が増えて、君の昔みたいな子供がたくさん増えるんだ』
 ――そうなんだ……。姫様がしんじゃったら、終わっちゃうの……?
 国王陛下は黙ってマルカを見つめた。時が止まってしまったかのように、じっとして動かなくなった。暫くしたあと瞼を伏せて――がっくりと項垂れた。
 
 悲劇はまだ終わらなかった。
 マルカが手術を終えて包帯がとれた頃、怪我から回復したティラナがやって来た。マルカはその時知らなかった。怪我が治ってもティラナは毎日ぼんやりと過ごして元気をなくしていたことを。頭の打ち所が悪かった≠ニ国王陛下は仰ったが、本当にそうだろうか。
 ――『姫様、ごめんなさい。まだ立って歩くことはできないの』
 ベッドに横たわり呼びかけたけれど、ティラナから返事はなかった。
 彼女はキャビネットに寄りかかり、マルカのほうを熱病に罹った時のような夢見心地の瞳で見つめた。すぐに駆け寄って助けてやりたかったが、全身が彼女のものになってしまったばかりのマルカには不可能だった。
 ――『姫様。……コールで誰かをお呼びしますから……』
 枕元にある呼び出しボタンに手を伸ばそうとする。
 ――『ねえ』
 唐突にティラナは呼びかけた。そしてふらふらと覚束ない足取りでマルカのベッドまでやってきてしゃがみ込んだ。
 ――『お話しして』
 姫様の声は硬く。感情はなく、平らだった。
 ――『は……はなし……? 私、姫様みたいに上手なお話つくれませんよ』
 ティラナは無言で力のない瞳を、宙のどこかに向けて――。その、あまりに恐ろしい表情にマルカは戦慄した。皮膚が突っ張って顔がゆがむのがわかった。
 なにか喋らなければ――と焦って最初に言いかけたのが孤児院で出された不味いスープの話だった。
 薄い野菜の切れ端と肉の骨を煮込んだ、具のないスープ。そこに黒いパンをつけてほぐしながら食べる――王女様に語り聞かせるにしてはひもじい話だ。
 マルカはとりあえずティラナがその話を気に入ってくれたことに安堵し、彼女が満足して王宮に帰るまで話してやることにした。
 ――『もっと話して』
 ――『もっと、ですか? でも……日が暮れてまいりましたよ』
 マルカは長い時間をかけてマルカの話≠ティラナに語った。孤児院の話から、王宮で暮らしている今の話まで。面白みのない話を。マルカのそれまでの人生の話を。しかしティラナは次第に表情という色彩を取り戻し、最後の方はいつものように冗句が言えるほどになっていた。
 姫様はすべての話を聞き終えて部屋を去ったが、夜になって国王陛下がマルカのもとにやって来た。木乃伊のような格好で無理矢理起き上がるのを彼は手で制止した。
 ――『こちらにいたんだろう?』
 ――『そんな……二時間前に帰ったとおもったのに……どこに……』
 バタバタと部屋の外が騒がしくなる。
 ――『陛下! 官舎にいらっしゃいました!』
 女官長のレルヒの叫び声が空気を切り裂く。
 嫌な想像が駆け巡った。
 ドミノは倒しきったと思っていたが、マルカは続きを押してしまったのではないか――。無理を言って車椅子にのせてもらい、官舎へ向かうと、ティラナは静かに本を読んでいた。そこはマルカの部屋だった。
 呼吸が乱れた。風邪を引いてしまいそうなくらいに汗が冷たかった。
 ――ああ……ああ……とんでもないことを……してしまった……、どうしよう、どうしよう、どうしよう……!
 車椅子のまま彼女に近づき、マルカはおそるおそる、ティラナに尋ねた。
 ――『姫様、ここはマルカの部屋です……どうか、王宮にお戻りください……』
 姫様は読書をやめてマルカの方をみつめた。
 不思議で仕方ならないといった顔つきに、不安が肌の表面をざらりと撫でた。
 姫様は綺麗な声で笑い出した。
 ――『あははは! おかしなことを言わないで? 姫様の方こそ、お怪我をしていらっしゃるのだから早くベッドに戻らなきゃ。送っていってあげる』
 なにかの悪い夢。悪い冗談だ。
 ――『御冗談を。いまはそんな冗談を言ってはいけません……』
 ――『冗談? もっとおもしろいのを考えるわ。……さあ、行きましょう』
 姫様はマルカの車椅子の後ろに回り動かした。
 その場にいた国王は怒号を上げ、正気に戻るように姫様の頬を打った。
 ――『やめて! ぶたないで……! ご……ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……』
 姫様はその場に跪き身を守るように頭を抱えた。
 ――『なんでもします、なんでもしますから……ぶたないで……おねがいします……おねがいします……』
 マルカの記憶を焼きつけてしまった姫様は泣き崩れ、床に嘔吐した。
 ――ああ、どういうことだろう。
 女官長レルヒはこの上なく青褪め、マルカは白目を剥き、激しい頭痛に苛まれた。
 ――こんな――こんなこと……。私のせいだ……。私のせい……。私のせい……私のせい――私のせいなんだ。私が不幸な子供で、姫様に昔話をしてしまったから……。
 マルカは鏡台に映り込む、包帯に巻かれた自分の姿を見て嘔吐いた。

 それから数カ月後。ブリタニアからそれはそれは美しい皇子さまがティラナに会いにやってきた。

 国王陛下の執務室にはたくさんの本が床から天井まで詰まっている。
 背表紙の文字はカストラリア語以外の外国語のものもあり、背表紙の文字や装丁だけで中身の難しさを推し測り、一生をかけても理解できない代物だとマルカは思った。
 執務机で陛下は丸眼鏡をかけ、書類にサインや判を押す仕事をしている。マルカはシュナイゼルと婚約したティラナの今後について憂慮していた。
 ――『ご婚約されるなんて……マルカはこれからどうしたらいいのですか、陛下』
 ――『大丈夫だよ。適宜入れ替われば問題ないさ』
 マルカは書類に視線を集中させる陛下をみて、そっと息を漏らした。 
 ――陛下の目にはわからないのだわ。
 ――『……お話ししてみて……難しいと思ったんです。いつか突き止められてしまいます……皇子様が……とても賢い方ですし……それに……』
 ――『それに?』
 ――『嘘はよくありません』
 ――『わかっているよ。……それに記憶が戻らないということもないはずだ。いつか必ず戻る日がくる。これは……今だけのことだ。専門医を集めて治療法だって考えてもらっているところだ。安心して』
 それはそうだと信じたかった。ずっと、このまま、死ぬまでなんてことはないはずだ。しかしマルカの胸の内に巣食う不安は日々大きくなっていた。朝目が覚めた時、今日こそ彼女の記憶がしっかりと彼女のものであればいいと祈っている。しかし今のところ兆しはまったくなく、それどころか、ティラナ王女≠ナあった頃よりも溌剌としていて楽しそうにしている。
 ――『記憶が戻っても、私がいること、シュナイゼル殿下には仰らないのですか……』
 ――『時が来れば打ち明ければいい。でも今はそのタイミングではない。記憶が戻るまでは……。順番の問題だよ、わかるかね』
 ――『……で、でも……』
 ――『大丈夫だよ。彼は優しい男の子だし、手をあげたりなんかしない。スイッチは入らない』
 ――『その心配もありますけれど、戻らないまま大人になって……その……子供をつくらなくてはいけなくなったときは……どうすればいいのです……入れ替わりなど……できっこないわ!』
 陛下は笑った。『今の怒りっぽいところはよく似ていた』と評価した。真剣さをかわす態度にむくれたくなった。
 執務室からの去り際、陛下は真面目な声に戻って言った。
 ――『もしも、私達二人になにかあったときには……マルカが教えて差し上げて』
 ――『……そんな、縁起でもないことを仰らないでください』
 ――『もしもの話だよ』 
 もしも、なんて言わないで。
 ティラナへ人生を捧げるためにマルカを捨てさせて、無責任でいないで。こんな感情を持ちたくなかった。
 ――ずっと、ずっと、目覚めない方がマシだった。本当に死んでしまって、マルカはどうしたらいいの……。


 春の匂いがやさしく眠りの水底からマルカを引き上げる。
 目覚めの向こうでシュナイゼルがベッド脇の椅子に腰掛け、厚い本を読んでいた。
 開いた窓から甘い花の薫を染めつける風が吹くと、波打つスイートコーンのように美しい金色の髪が柔らかく揺れた。
 「……殿下?」
 「おはよう。すこし魘されていたね」
 「……え、えぇ……怖い夢をみて……」
 ぽろりと目尻に雫が溢れた。彼の声はどこまでも包み込むようにやさしい。
 「春季休暇だから帰ってきたんだよ」
 「ねえ殿下」
 「なんだい」
 「……むかし、ブリタニアでお会いになったでしょう、姫様と」
 昔といっても大人の時間ほど長いものではない。七年前の話だ。
 それを耳にして彼は紙の上の文字からマルカに視線を移した。
 「そうだよ。なにか思い出したみたいだね」
 マルカは身を起こし、たくさんの枕に背中を預けた。
 「……シンポジウムに……姫様が参加なさって。……姫様ったら、他の方の論文のミスを指摘しちゃったの。……相手の方を怒らせてしまって……王后陛下が謝り倒しで。……エリア二から参加されていたお目当ての学者とお近づきになれたはいいものの、研究者としてのお叱りを受けてわんわん裏方で泣いていたら……綺麗な金髪の男の子がやって来てハンカチで涙を拭いてくれたって」
 夢の中の話を辿るように出来事をなぞっていく。シュナイゼルは輝くブロンドと肩を震わせて笑った。
 「懐かしいね。……ティラナはまとまりようもなく質の低い発表に我慢強く耐えていたよ。論文の計算も本当に間違っていたし、数字のズレが論文の精度と根拠を弱める。しかし相手の学者は公衆の面前で恥をかかされたんだ……それも学会じゃなくシンポジウムで。あの子は正しいけど、大人の礼節を知らなかった」
 マルカはゆっくりと頷いた。ティラナは昔から自信満々で頭の良さとコミュニケーション能力の釣り合いが取れていなかった。馬鹿にこそはしないけど、正しいことを正しいまま、相手の意見や気持ちを尊重せずに言わないでおく我慢が苦手な子供で、傍にいたマルカでさえわかるほどだった。
 シュナイゼルがカストラリアに来た頃には記憶喪失は始まっていて、マルカである思い込みが彼女を寡黙に変えた。だが同時に、どうしてそうなってしまったのかのヒントを永久に失ってしまったようなものだった。

 マルカは悪夢について、シュナイゼルに打ち明けるか迷い、体の全身が小刻みに震えた。
 「……殿下……打ち明けたいことが……」
 「どうしたんだい」
 「……わ、わたしの……罪を……」
 震えを押さえつけようと両手を交差させ、必死に体を抱きしめる。
 シュナイゼルは組んでいた長い脚を解きサイドテーブルに読みかけの本を置いた。
 そして、敷き詰められたペルシャ絨毯の上に膝をつき、ベッドの上に両腕をのせマルカの震える手を握った。手仕事をしない綺麗な手に慈しみのキスを数度落とし、教会の神父のする、全てを包み込む慈愛に満ちた微笑とともに希少な宝石を捧げるようマルカを見つめた。――シュナイゼルはティラナに与えられるべき愛情を魅せつけるかのようにマルカを扱った。
 彼は秋の頃よりもまた背丈が伸び、顔つきもしっかりとしてきた。少年から青年への移り変わり。若さと美貌の黄金期の幕開け。宮廷では男性として扱われ始め――何事もなく国王夫妻やティラナが壮健であれば早くも婚姻が成立した年だ。
 ふたりは国内にある離宮で暮らし、新婚生活を営み世継ぎを儲けただろう。
 ロマンチックで完璧な世界。世界はそうならず、マルカの人生最大痛恨のミスがティラナが生存していてもそれを阻んでいる可能性に深い絶望の味が胸の中に広がっていた。
 「……夢をみて思い出したの。……私が、してしまったこと。……私の体にはメモリーカプセル≠ェ埋め込まれているって。……国王陛下がおっしゃられた……陛下の書斎にそのログがあるって。……陛下は賢王であらせられたのね。お考えになったすべての最悪の状況を網羅しているもの……」
 シュナイゼルはどこまでも落ち着いていた。
 「書斎を調べればいいんだね」
 マルカは首を縦に振る。心拍数が速くなる。恐ろしい話をするのに口の中が乾いていて無理に唾液を溜めなくてはいけなかった。「……はい。……そしてもっと重要なことは……」声は掠れ、不安のあまりシュナイゼルに視線を向けた。
 彼は黙ってみつめていた。
 「姫様は私の語った昔話を自分の記憶だと思い込んでしまったの……」
 「記憶をなくしたあとに?」
 「……陛下がもしもの時のために、私を影武者の体にした……だから……私は、遺伝子レベルでティラナとそっくりなの……」
 「そう。生命倫理規定に違反する行為だね。……やむを得ないか」
 生体のまま他人の体に作り変える。デザイナーベイビーよりも身体的に負担の大きい医療行為。倫理問題で承認を得ることは不可能な領域。シュナイゼルはすぐにその意味を理解し、また一つ王家の秘密を知った。
 「姫様の研究のおかげで私は人生を得た。なんでもすると誓ったけれど……これでよかったのか……」
 「さすがカストラリアだ。医療先進国なだけある。……それをまだブリタニアの皇子である私に教えてしまってよかったのかい?」
 「ここで見聞きしたことは……カストラリアの憲法と婚姻の条約に基づいて、漏洩行為があれば婚約破棄とする――でしょう」
 「……ティラナなら言いそうなことだ。悪かったね。試して」
 シュナイゼルは絨毯のうえから立ち上がり、最後に、マルカの手の甲にキスをした。
 マルカはティラナと違って信頼関係の蓄積でいえば浅く、迂闊な行動を警戒するのは自然なことだ。――彼の行動にそれが如実に現れている。たとえば、手や額にキスをするが、唇にだけは決してしないように。
 彼は二度と誤りを、間違いを犯さないだろう。

 「――安心して。君の罪は墓まで持っていく秘密にするよ」



22
午前四時の異邦人
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