a.t.b.二〇〇七 7th April 夜
帝立コルチェスター学院
ずっと暗闇のなかにいるはずだった。
雨粒は次第に大粒となり頬を濡らすだけだったものが、身につけていた衣服を重くしていった。
次にやってきたのは不快な疼痛と工業的なオイルのにおい。物質の性質からくる異なる反響音。感覚だけ研ぎ澄まされていく。――しかし、いつまで経っても膜の中に封じ込められたようにわからない≠ナいる。瞼を持ち上げる。やはりバルーンの内側にいるように不鮮明だ。
夜雨のなか。産業廃棄物まみれのなかでノエル・アストリアスは目覚めた。
――……記憶がない。
直感的にそれがわかったのは、ゴミ山の中で仰向けに倒れているだけでも明白だった。
「……え? ……どこ……」
ぽつりと呟かれた声は雨の中に溶け込んでいった。
a.t.b.二〇〇七 7th April
帝立コルチェスター学院
春季休暇明けのコルチェスター学院ノーサンブリエ寮前は人の壁をつくり騒然としていた。
一度、二度では済まない激しい打擲を繰り返すのは当寮の生徒、カノン・マルディーニ。そしてその猛烈な殴打に顔を不揃いなジャガイモに変えられているのはそれまで彼と不良仲間とされていた同寮の問題児達だった。
鼻や口の端からは赤い血が滲み、胸元のリボンは解け、第二釦まで消え去っている。
「くっ」
「こんなことして、どうなんのかわかってんだろうなぁ……! ごふっ」
カノンは不良生徒アルドールから一発貰い受け、同時に襟を掴んで頭突きをかます。
外側で煽る野次馬の中で良心を持つ生徒の何人かが口々に叫んだ。
「もうその辺にしとけって、なあ!」
「監督生来るって……!」
「うわっ……!」
暴力の応酬を止めぬ中性的な少年を囲むサークルが割れる。カノンの背中越しに最も恐るに足るものの姿を目にしてアルドールは声にならない悲鳴を叫んだ。
「当学院内においての私闘は禁止行為だ。双方、引き下がりなさい」
ノーサンブリエ寮監督生――シュナイゼル・エル・ブリタニアの怜悧な声音が鋭く仲裁する。
カノンは風を切るよりも素早く振り返り、シュナイゼルに強引に掴みかかった。
その光景を目にしてある人物が脳裏を掠めた。約半年前のノエル・アストリアスのようだと。
カノンは周囲を睨みつけ「どいつもこいつも!」と吐き捨てた。シュナイゼルは一糸乱れぬ穏やかな態度と微笑をもって模範的生徒の中の生徒≠ナあった。超然的ともいえる姿はカノンに劣等感と燃え盛るエネルギーに火を足していった。
「俺はてめえが気に食わなかった! 何をやっても上手くいく! 最初の頃は張り合うことだってあった! 俺は……いつもいつもいつも、あんたみてえに綺麗で完璧な奴と比較されて、目の前で上手くいかないって嘆かれて! 没落の一途を辿る貴族のガキの気持ちがわかるかよ! 生まれた時から恵まれた、貴い身分の、皇族のアンタに! 下々の人間の苦労が! そうやって! 貼り付けたみたいに笑って! 俺達を見下してやがるんだ!」
心からの罵倒は言葉数を多くするだけで、すべてがアウトラインに引き寄せられ無意味な力の発散のようにシュナイゼルには効果がなく――その瞳が揺らぐことも、笑みの角度が下がることも、声のトーンが落ちることもない。毎秒毎秒貼り付けられた人間を模したなにかがその瞬間心を宿さずに、新しくその場に留まっている。人形のような存在感にカノンは眉間に皺が寄るのがわかる。
「言い分はそれで全部かい? カノン・マルディーニ君」
「なッ……!?」
そして、それは正しい。
彼はようやくすこし鈍い感情らしきものを表出させ、困った顔≠作ってみせた。
「君にどのような事情があろうと、君の行ったことは重大な規則違反だ。過去のペナルティ分も入れると違反件数超過だ。わかっているね?」
カノンの言葉には歯牙にもかけないで、シュナイゼルは彼自身の仕事に徹した。監督生としての。学院の代表としての。将来を有望視され、その肩に帝国と王国を背負う優秀で完璧な少年。反抗心や反骨心さえこのまま機械的に処理してしまうのだろう。
「クソッ、なにがコノッ……!?」
唐突に。シュナイゼルはカノンの肩を突き押した。まったくその気配のないタイミングで。軽くものをどかすようにあっさりとカノンは襟を掴んでいた指を放したとき、シュナイゼルは数歩退いたかと思うと、一歩踏み込んでその手に握られていた――隠し持っていた長くしなやかな縄のような得物を、祖先よりも好まれし懲罰の道具。動物を躾けるためのそれを用いて空気を裂いた。
危険信号が発する点滅。黄色と黒のエラーの警告色。頭の中がその光に満たされている。避けようがなかった。
パシュッと小気味よい音。遅れてやって来る皮膚の表面を焼く痛みと帳尻が合っていない。尻餅をつき、峻険にそびえる山の如くひとり脱俗したまま下界を見下ろす王を見上げる。
手の甲で頬を擦ると湿りを帯びた。新鮮な赤い血のにおいと暴力的な色。火が勢いづく。
「クソッ、クソッ、クソッ……! てめぇ、よくも俺の顔に……ッ!」
吠えた。顔は商売道具のひとつだというのに。人と会う最初の印象を決定づけるのにもっとも大切なものだというのに。もう一度立ち上がって殴りつけてやる。しかしそれさえも時は待たず、風紀員達の到着がカノンの暴力的行為を堰き止めるために体を拘束した。
「彼を反省室に連れていきなさい。事情聴取を行う」
シュナイゼルは鞭を巻取り足取り軽やかにノーサンブリエ寮へ入っていった。
a.t.b.二〇〇七 7th April 夜
帝立コルチェスター学院
大判タオルで髪と体を拭うと、あっという間にタオルはそれ以上水気を吸いきれなくなった。体は冷え寒気がする。室内が暑く感じた。
工学棟。ロイドのいるラボの隣室で白湯と栄養補給バーを齧った。使用しているロッカーに入れていたものだった。ぼそぼそとして食感が悪く喉越しのいい水を助けがなければ食道でないほうに迷い込んでしまうほど。
白衣姿のロイドが部屋に入ってきた。顔を合わせるのは随分と久しく懐かしいとさえ感じた。
「久しぶり〜。暫く見なかったけど、どこ行ってたんだい? 帰省? 休暇明け初日から欠席だよ、アストリアスくん」
「はあ」
「カノンくんがさ、反省室行きだよ。もしかしたら脱走シュートのこともバレちゃうかも」
「……カノン……そっか……。カノンは、なにしたんです?」
ロイドの言葉が靄の中に漂ってはその形を与えていく。ノエルは頭を振る。顔だけでなく指先も白かった。
「どうも寮内で私闘をしたらしい。それで、シュナイゼル殿下が彼に鞭打ち罰をね。……大丈夫? ぼーっとしちゃって。次のテストについて話したいんだけどさ」
「すみません。博士……寮に帰ります。……風邪ひきそうで」
「おや。……でもカノンくんが捕まっちゃ時間の問題か」
ノエルは休んでいた椅子から立ち上がり、替えのシャツを着てそれまで着用していた衣類を腕にかけた。ロイドの心配をまともに取り合えないままケント寮に帰った。
疲労感が全身を覆いつくしベッドに倒れ込むと、盥を打ち鳴らす轟音がガンガンと頭の中に鳴り響いた。
ぼんやりとしていく視界のなか、椅子の背にかけた衣類から一枚紙の端が落ちた。身を捩りベッドから床に転がり落ち、紙を手にする。ふやけた紙には乱暴に書き殴った筆跡が滲んでいる。
「……フランドロ……ローディック……? 本……? 洗脳……」
頭蓋骨がハンマーで殴られたかのように痛み呻いた。
――またね――。
あの声だ。
「またね……?」
また、ブツブツとキレの悪いラジオ音声みたいに 途切れていく。
a.t.b.二〇〇七 7th April 同時刻
帝立コルチェスター学院
小窓の外は暗く土に混ざった雨の匂いがした。
ノーサンブリエ寮の三階の突き当りに反省室――別名、懲罰室は事務机を挟んで最低限椅子が二つ置かれているだけで、それ以上特別な備品も装飾的な待遇を削ぎ落とした無機質さをそなえていた。事務机の上にはカノンの私物である中身の入った紙袋が置かれている。顔の傷は最初部屋に入ったとき机の上に滅菌ガーゼと治癒促進シートが置かれていた。
仕事が山積みのシュナイゼルが反省室に入ってきたのは、カノンが椅子に座ってから二時間が経過した頃。軽いノックと共に「あとはよろしく」と扉の外にいる他の生徒に引き継ぎながらだった。
「待たせて悪かったね。マルディーニ君」
カノンは長い髪を払ってシュナイゼルを睨みつけた。頷いてみせてシュナイゼルは後ろ手で扉を閉め、椅子に座ると机上で両手を組んだ。
「私闘の原因は、君の私物の取り扱いが発端だね?」
「……ああ」
「ここにあるものが全部かな?」
カノンは舌打ちした。
不機嫌な顔を一瞥し、少しの間を置いてから怪我についての話をはじめた。
「大丈夫だよ。顔の傷はすぐ治る。シートの効果はあと数時間だ。鏡を貸そうか」
「いい、持ってるから」
「そう。……確認してもいいかな」
わざわざ確認を取らずともそうするくせに――とカノンは片眉を釣り上げる。対してシュナイゼルはアイコンのような笑みのまま「必要な手順なんだよ。ご理解を」と言った。「好きにすれば」と突き放してカノンは顔を明後日の方向に向けた。
私物には試供品の化粧品や新作発表予定のサンプルがいくつかあった。ガラスの小瓶は割れ、漏れないよう袋に密閉してはいるが、シュナイゼルは白手袋をはめ、丁寧な手つきで包みをほどくと狭い反省室内に甘い香水のにおいが満ちた。
「あんたは……空っぽだよ」
シュナイゼルは視線を一度だけ寄越したが、再び私物のチェックに戻った。
「なんにもない。こだわりがない。執着がない。だから、他人がどうなろうとも平気で、ずっと同じ顔してやがる」
「ふふ。……君はおもしろいことを言うね?」
「……チッ!」
机上に出してもよいものだけ並べながら「……少し外れだ」と金色の髪を揺らして少年は呟いた。
「あぁ?」
「外れだと言ったんだよ」
驚くほど滑らかで落ち着いた声色をしている。
「てめえこの……」
机の下で握り拳をつくる。
「私には……一人だけいるんだ」
カノンは小首を傾げた。「なにが?」と訊き返すと彼は意図的に笑みを深めたが回答を勿体ぶった。
このなにも執着のなさそうな人を満たす存在。
満たす存在がいると言ったのに、どうして今ここまでなにもない≠フか。電池のないリモコンが勝手に動き出すというのか。心臓の稼働しない生物がいないのと同じように機能しているはずがない。
では、この人は今、死んでいるとでもいうのだろうか。
シュナイゼルの印象は、何においても優れていて、すべてを把握し、調和と調律を司る人間味のない存在だった。苦労を知らず、他人の感情に惑わされることもなく、ただそこで超然的な神のように君臨する。そんな存在が人間でいることさえあり得ないのに、シュナイゼルは体現している。
カノンは興味がふつふつと湧いてくるのがわかった。
このひとを満たすひととは、人間なのだろうか? 人間の姿形をしていて、喋ったり笑ったり泣いたりするのだろうか?
「興味がありそうだね」
「苦労知らずの皇子様お墨付きの?」
「美しい白鳥は湖面を優雅に泳ぐが――水面下の足元は必死さ」
くす――と綺麗な微笑とともにシュナイゼルは言った。正直、美しいことにかけて否定しようがなかった。美意識を人一倍培ってきたカノンの目からみてもブリタニア皇族――ひいてはこのシュナイゼル・エル・ブリタニアは絵画から抜け出てきたか、彫像が動き出したのかと思うほど――比類なき美貌の持ち主である。
「比喩か? けっ――美しいっておまえ……」
「本当は軽く泳いでいるだけだ。白鳥は」
「ちっ、こいつ! おちょくりやがって!」
吐き捨てるカノンをまっすぐ正面から、直視を避けたくなるほどの美しい瞳が射抜く。
「人はドラマを与えたがるんだよ。苦労をしていないものにさえ……そうであってほしいという願望を、ね」
なにかの催眠術かのような秘めやかな囁きかけ。
「私には苦労をしていないはずだ≠ニいうドラマを求めている」
「な――――」
「違うかい? カノン・マルディーニ君」
カノンは――やられた! と気づいたが遅かった。目先の言葉遊びをしていたつもりが、回り込まれていた。いや、それが言葉遊びだったと教えられて――羞恥に炙られていく。シュナイゼルは食えないやつだ。
瞬きを一つ。吸い込まれそうな夜と朝の境目の光。太陽の山登りの途中。人々が何度も祈った明けを知らせる色。彼を知るものなら誰もがその瞳に見つめられたいと願うだろう。
「君に聞きたいことがあるんだよ」
「まどろっこしい。さっさと言えば言いだろうが」
「昨年末。クリスマス休暇の直前。十二月一七日の夜。君はペンドラゴンの大時計広場にいた」
「……はぁ? それがなに」
「……その時、君のそばにいた女性は誰だろう?」
カノンはノエルの顔を思い浮かべた。もし、ノエルの名を出せばカノンには都合が悪かった。彼には恩がまずあったが、それ以上に今後のビジネスにおいても必要な人材だった。クリスマス直前から数ヶ月経っているがカノンの要望に付き合ってオーダー通りの仕事をこなすモデルは現在の資金では雇いきれなかった。無理難題を要求しているわけではない――はずなのだが。
「なんでそんなこと知りたがる? 人のプライベートを勝手に詮索して楽しいかよてめぇ……お手伝いだよ。お手伝い。これの!」
「化粧品のかい……?」
「うちの仕事の手伝ってもらったの。そんだけ。もう帰っていい?」
ガタンと荒々しく席を立つ。蹴り飛ばしてやりたかったがそれ以上の詮索を受けると敗ける≠ニ第六感が警告している。
「それ返してくれる?」
「……わかった。これは持ち帰りなさい。……では、処分についての罰則通知は明日行うよ」
「罰則ぅ〜!? こちとら顔に受けたんですけど。顔に! あれじゃだめなの?」
「示威行為だよ。あれは」
また頭に血が昇りそうだった。
シュナイゼルが腰を上げた。ちょうど同じタイミングで扉が叩かれると級長が顔を覗かせた。
「殿下。次のご予定です」
「わかっているよ」
悠然とした動きで彼は一つの仕事を終え、また次の仕事に取り掛かる。
休暇明け早々ノエルに愚痴を聞いてもらいたくなった。
a.t.b.二〇〇七 8th April
帝立コルチェスター学院・工学棟
ヘリウムガス入りのバルーンが天井にくっついたまま戻らない――ノエルの意識は数日そのように浮ついたまま定かではなかった。
授業にも身が入らず、引きずる不調からかろくに頭も回らない。最悪の休暇明けだ。
「アストリアス――おい、おい……聞いているのかね」
教師の呼びかけにも応じぬ姿は物憂げな少年に映り、窓際の席で景色を眺めてばかりのノエルは恋煩い≠ニ誤解が学院内に伝播していった。
――フランドロ・ローディック。
ネットの英語検索ではヒット件数が乏しいうえに彼の著書は学内図書館にも所蔵されていない。断片的な記憶とメモの言葉から推察するに地下出版の書籍であるというところまで判った。
――地下出版。……洗脳……。
洗脳を受けたのか? 自身へ疑いを向ける。何のために危険な場所へ赴いたのか。この学院にはなぜ滞在しているのか。それは――。
「今日のテストはパスできそうかい?」
ロイドが制御盤に手をかけながらテストのサインを記入しようとしたノエルに声をかけた。
「……簡単なものならできます」
声は芯が歪んだように頼りなく、ロイドでもわかるほど覇気がない。
やや暗いラボの空気を柔らかな声が裂いた。
「やあ。ロイド。アストリアス君も。テストは順調かい」
「あっ殿下! お待ちしてました! いやぁ〜春休み中に採ろうと思ってたんですけどねぇ。彼が捕まらなくって」
ロイドの目配せを受けて、シュナイゼルがノエルを見下ろした。
「アストリアス君が? ……では噂は本当なのかな」
「噂ぁ?」
「春だよ」
「春ぅ?」
学院の王、シュナイゼル。一際目を惹く佇まい。優美な微笑み。何度も焦がれた――本物の金色。
――何度も、焦がれた?
彼はゆっくりとラボに入り階段を下る。テストの同意書にサインをするノエルは、彼が近づくにつれて悍ましい熱に支配されていくのがわかった。記入用に握っていたペンをぎゅっと強く握りしめる。
「怖い顔をしているよ。アストリアス君」
そっと囁いて、ノエルの肩に羽毛に触れるように手を置く。
――どうしてこんなに、強く、激しい感情を抱くのだろう。
汗が一筋こめかみから顎下まで伝う。心臓が破裂し、大動脈から血を噴きそうなくらいの憎悪。呼吸が浅くなっていく。
彼の視線と交わると、握ったペンを白い首に突き刺したくなった。
――殺したい。殺さなくては。殺さなければ。
歯を食いしばり、溜まった唾を飲み下す。
誰にも公平な微笑。この人を愛した人の顔がちらつく。殺人衝動を堪えるためにペン先で掌に傷をつくる。
「すみません。……今日のテストはやっぱり辞退させていただきます」
「え? あ……ちょっとぉ! アストリアスくん!」
その場から逃げるようにラボを出たノエルの向かう場所など、この学院にはなかった。
行き場のないものを冷却させるため、ひたすら敷地内を歩き続け、やがて外れにある厩舎に辿り着いた。乗馬部がちょうど馬を馬房に入れているところだった。パカパカと蹄音が反響する。
草と飼料と馬のにおいが日暮れの風とともに吹いた。そこにいないはずの子供達のはしゃぎ声が聞こえてくる。
導かれるようにして厩舎の向こうに広がる牧場に自然と足が進む。真っ平らな地平線の向こうに熟したトマトのような陽が揺れている。頬が濡れていた。俯いて、わけのわからない感傷が踏み心地のよい土の栄養として吸収されていくのを眺めていた。
――ねーえ、まってよぉ!――
甘い子供の掛け声。ワンピースの裾が汚れるのもおかまいなしに、先に遊びを仕掛けた少年を追いかけていく。
少女は少年を試すために長い草の影に身を縮め息を潜めた。
――隠れてないで出ておいで――
いつになったら見つけてくれるだろうか。楽しみに笑いを堪えていると、遠くで嘶きがきこえて少女は置いていかれたと思って立ち上がる。馬はすぐ近くまで寄ってきていて、鞍には少年が跨っている。
――あはは。見つけた。思ったより簡単だったね――
――試したわね!?――
――試したのはそっちだろう。いじわるさん――
少年が少女に手を差し伸べる。彼は逆光で漆黒に塗りつぶされていてよく見えない。
――お手をどうぞ。お姫様――
切り取られた黒いシルエットのなかで微かに笑った気配が漂う。
黄金色の田園風景の中で子供ふたり。映画のワンシーンのように淡く交わされる囁き。叙情的な景色はそれこそ過去どこかで目にした創作物か夢幻の風景かなにかだろう。
シュナイゼルに対する殺意ある衝動は日に日に強くなっていった。
彼を手にかけてしまわないよう授業をエスケープし、フランドロ・ローディックについて探るためしばしば脱走シュートを利用して街に出た。街の図書館、本屋、フリーペーパー、出版社、教会。ブリタニア内部での取扱は僅少でかろうじて発見したのは恋愛ものの書籍だった。
ノエルが街中の広場にあるベンチで歩き疲れた足を休めていると、嗄れた男の声が掛かった。
「おお! あんた!」
「……? あなたは……」
「ついこの間一緒に働いた仲じゃねえかよ。俺だ、俺。工場で……ローディックの」
「ローディック……!」
思わず勢いよく男に詰め寄った。靄のかかっていた記憶に輪郭がわかってくる。
その老年の男は歴史家と名乗り、ノエルにローディックの本を勧めた張本人だ。
「教えてくれ。ローディックってなに? 彼はなにをしようとしている?!」
「な、なんだよ……落ち着けって。急にそんな捲し立てられちゃあよ……そんなことより……コレ、あるか?」
歴史家の男はにんまり笑うとコインの形を指で作った。
ノエルは手持ち僅かの硬貨をいくつか男に渡した。
「おじさん、こっち出てきていいの? あそこ監視がきついんじゃない」
「あんたこそ、なんで街中にいやがるんだ。見たトコ、はじめっからあっこで働いてたワケじゃあなさげだが」
「色々ね。……そうだ……ナークス……アンドレ・ナークス。彼は元気?」
「ああ。あの根暗の坊っちゃんか。死んだよ」
「え?」
耳を疑った。
「数日前のことだ。朝、小屋で死んでた。……今日はその葬式のためのお使いだ」
「死因は……?」
「さあねえ。過労死だってお医者はいったよ」
「そ……」
言いかけて、言葉を呑み込む。――そんなはずはない。
嫌な汗が首裏を滑り落ちていく。ナークス。深い水の畔=c…。心象的なローディックの作品。
「深い水の畔……」
「なんだって?」
「え?」
歴史家の男は煙草の煙を吐き出して懐から一冊の小さな本を取り出した。
それは紛れもなくノエルが口にした本のタイトルだ。目を見開きついその本に手を伸ばす。男は本を遠ざけて「ン」と指で金を示した。
「火葬料だと思って恵んでくれや」
「……わかった」
ノエルは銀行で金を降ろし、男に支払った。たとえそれが金欲しさの嘘であっても、今はその本がどうしても欲しかった。
男は笑ってローディックの本をノエルに手渡した。すぐに中身を確かめた。不確かな記憶が、曇った鏡が晴れていくように全貌がみえてくる。
――そうだ。私は、護国自警会の捜査のために……。ローディックの本に辿り着いた。
何かが思い出せそうだと確信した。ノエルは男に礼を言い、学院にはそのまま帰らず道草を食う。砂漠の端、オアシスといわれるセントラル・バレーの広大な農地の中を乾いた風に背を押されながら歩く。
クレイグサイド湖の水面は深く青くまるでその本のタイトルのような縁――静謐な水のほとりを擁している。
未だ朝露の眠りから醒めやらぬ草をかきわけて木陰で休む。
水底で人はみな繋がり、共通の希望を持ち、泡沫を未来に送り続ける。
源流を委ねてはならぬ。すべての者が等しく恩恵を授かれるように。生命と血と結束など幻である。
とくに希少な石を貴重な水で濯ぎ、研磨する者たち。欲深くこれを掲げ、得意顔で我々を支配する者たち。=@
――F・Roddick
一面に広がる清冽な湖は薫風を受け緩やかな波紋を広げる。
来訪者の生んだ風によってクリーム色の頁が軽やかにパラパラと捲りあげられていく。はっとして顔を気配の方に向けると誰であるかを知り、咄嗟にコミュニズムについて説いた禁書を木陰に押し込めた。
弛みない所作で下馬し、やはり淀みない長身の影は上空の光の位置から短く伸びゆっくりと近寄ってくる。
「殿下。何故ここが」
「……やあ。ノエル・アストリアス君。私はノーサンブリエ寮の監督生だからね。非行態度には規則に則って処罰が必要なんだよ。わかるね? 」
彼は馴染んだ言葉を繰り返し、規則に則った処罰についての必要性を説いた。
カノン・マルディーニが先日処罰を受けたばかりだった。
「……なるほど。それでは、カノン・マルディーニのように鞭打ちに処すので? 先日のように」
シュナイゼル・エル・ブリタニアは含みある微笑みを傾けて「お望みならば」と穏やかな声で言った。
「エンペラー・スカラーとして自覚を持て、と仰りたいのですね」
彼はノエルの忘れかけていた記憶を呼び出すように、奨学生の説明を淡々とおこなった。それを聞いている間、ノエルはシュナイゼルの瞳と合わせないように雫の光る草を凝視していた。また彼を殺したいと願う熱が忍び寄ってこないように。
視線を一瞬シュナイゼルに戻した。皇族の特長であるロイヤルパープルの瞳は泰然と不良少年を見据えている。
間違いだとすぐわかった。何かを思い出しそうだった。
「要件を満たしていますね。十分に不良生徒として。……殿下にご足労いただいたということは最後通牒ということでしょうか」
「惜しいね。その考えがあるなら改めて欲しいよ。数十年に一人のエンペラー・スカラーだ。自信を持って欲しいね」
「畏れ多いことです。貴方ほどの方に窘められるのは、どうも……」
「ここでは身分は関係ないと言っただろう?」
――とんでもない。人は色眼鏡で見る。シュナイゼルはそうでなくとも、彼の取り巻きや指導教官、多くの生徒が編入生のノエルを最初冷遇していた。血統の王者からは足元の草が見えないのだろう。ノエルは左手を彼の胸の前へと突き出した。
「どうぞ」
「おやおや。私が躾好きの人間だとでも?」
「監督生の役目でしょう」
「ここには私と君しかいないよ。抑止力にさして効果が無いなら無闇矢鱈と振るうものではないとは思わないかい。……だが君は退かないつもりだね」
シュナイゼルは差し出された白魚のような色の手を取り、鈍色の短い金属棒の十手で左掌を叩いた。十度の打擲を受け次第に肌は赤みを帯びていく。ノエル・アストリアスは僅かに眉根を寄せ苦痛をやり過ごした。儀礼的な懲罰を終えてシュナイゼルは何事もなかったかのように十手をサーベルを下げるように腰元の鞘に戻した。湖の縁に寄り、遠くまでずっと続く水面に目を眇めては顔にかかった金色の髪を払った。その後姿を遠慮がちに尾けて頭一つ分背の高い彼の後頭部を見上げた。
「よくここへは来るのかい?」
ノエルは咄嗟に嘘をついた。
街に出ていたことを知られてはそれ以上の罰が待っているからだ。
「寄宿舎では気が散ってしまうんです。……好奇のまなざし。殿下なら慣れっこでしょうか」
「生まれながら自然なことだからね」
シュナイゼルは不審な視線の働きから察したのか、木陰の茂みの中にあるノエルの隠した本をいとも容易く発見しその手に取った。
「フランドロ・ローディック……現代作家だね」
「ご存知でしたか」
「エリア四の名誉ブリタニア人の新進気鋭の作家と聞いているよ。著書の八割を禁書指定を受け一般流通しているのは二流の恋愛戯曲だといわれているね。だが……これは禁書指定の方だ」
フランドロ・ローディックは E.U.から新興国に亡命した肝煎りの共産主義者だったがその新興国が七年前ブリタニア侵攻により敗戦。その後、エリア四となった漂流先の国でその危険思想から投獄され、既出作は発禁。今もなお獄中から執筆している。ローディックは仲間を通じてシュナイゼルの言ったような恋愛をテーマとする戯曲を発表し舞台で上演されている。一定の知名度を誇っていることからシュナイゼル・エル・ブリタニアの耳に入っているのも不思議ではない。
『何故これを?』と興味深げに高貴な紫苑の瞳が煌めく。
もし彼の熱烈な信奉者であったらならば即座に口を割っただろう。それだけの開心術の魔力を持つ恐ろしい青年は、本を開き目次を読んで肩を竦めた。「本とは……その人間の思想を反映する」と遠回しな疑いを穏やかな笑みを浮かべたまま口にした。
「除籍処分ですか」
「それも構わないね。………借りてもいいかな」
「……は? この本をですか」
「ああ。いけないかい?」
その本をどうするつもりか、教官宛てへ報告するのかはたまた――。
シュナイゼルは「個人的興味だよ」といって本を閉じ、そのまま懐へ収めた。
「優秀な学徒の愛読書に興味を持つことはいけないことかな」
シュナイゼルは何もかもが優れている青年だった。
「さあ、戻ろう。今からだと昼下がりの講義には出席できる。私から担当教官に指導済みだと報告しておくから安心なさい」
「……Yes, Your Highness」
渋々と承諾すると、納得したシュナイゼルは白馬を手繰り寄せた。
「徒歩でここまで来たのかい」
「……厨舎の馬を連れて行くと足がつくでしょう」
「それもそうだね。……では、私の馬に乗るといい」
「……恐れ多いことです」
シュナイゼルの提案を拒むと、よく馴染んだアルカイックスマイルを掲げ無言の命令を下した。馬の尻の方へ向かうと「いけないね」と制止を加えた。
「後ろに乗っては落馬するかもしれないよ。構わず前へどうぞ」
いよいよ諦めるしかなくなったノエルは鞍の前に器用に飛び乗った。白馬は元々大人しい性格なのか、調教が行き届いているのか暴れたりはしなかった。遅れてもう一人分の体重が彼の背に乗ってもそれは同じことだった。馬の毛並みは艷やかで、それはこの乗り手専用馬であるからに他ならず、ノーサンブリエの寮紋にある白百合ほど純潔であった。
二人分の体重に慣れさせるために白馬を緩やかに歩かせて、その間他愛のないやり取りをシュナイゼルは望んだ。
「君にも愛馬はいるのかな」
「……ええ。家に……」
「それはいい。私達の最初の友人だ」
――愛馬である彼は、丸焦げになっていた。
いつの記憶だろう。燃え盛る炎の気配。焼け焦げる人、馬。何を見てきたのだろう。
ノエルは自分の手に重ねて手綱を握るブルーブラッドの流れる貴公子の大柄な手を見下ろした。
――この手を期待していた。この指があの人を救うのを待っていた。そうなれば我がカストラリア王国はエリア四にならず済んだのに。なぜ、どうして。それともやはり。
奥底に蓋をした憎悪が音もなく溢れようとした。抑え込むようにノエルは拳をきつく握り込んでやり過ごした。シュナイゼルは背後でその機微を悟り、身を屈めそっと肩越しに確かめた。ふと得も言われぬほどの好い香りが鼻腔に侵入する。彼の香水や生来持ち合わせる肌の香、熱、緩やかな髪の新鮮なシャボンの血を寄せ付けぬ清廉潔白さ。
「どうかしたかい?」
「……いいえ」
長い睫毛がゆっくりと瞬く。あの断崖絶壁の岩肌に寄り添うように咲く花色のような双眼が、ノエルをたしかめるように見つめている。
けっして目を合わせようとしない態度を貫くのに、彼は微笑を零した。
「お腹が空いているのだね。空腹は不機嫌の初期症状だ」
端正な上流階級のアクセントがすぐ近く吐息が耳殻に生える産毛を柔らかく揺らす。
そう言われてみて、食事を疎かにしていたことを思い出す。白毛を駆り広漠とした大地を疾風となり帰路につく。
哀愁が胸を撫で、虫食いだらけの記憶のなかでひとりの少女が草原に立っている。
いいや、彼女はすぐそこにいた。
――姫様。あなたが愛したこの男を葬り去ること。どうかお許しください。
自室の床に倒れノエルは意識が朦朧とするなか時計の針の刻む音だけを数えていた。
――殺してやる――殺してやる――殺してやる――。
残響がどこまでもこだまする。熱いものが顔を濡らし鼻を床に擦り付ける。もうその言葉を聞きたくなかった。
頭痛が鋭くも均一な高音を連れてくる。
――どうして、どこから、この憎しみが溢れてくるの。
白い足が視界の端に映り込む。まだそこにいる。
亡霊のようなそれが、ばたっと倒れると顔がちょうど同じ位置に揃い、目が合った。
「―――ヒッ!!!」
姫様の死に顔だ。そう、彼女は……死んだ。
瓜二つ。双子のようにそっくりな私達。でも、本当はしっている。『わたし』のほうには頭に痣がのこっている。昔受けた虐待の痕跡。暖炉のなかで火あぶりにされ生死の境を彷徨った。
――あれ……?
なにかのフックが引っかかる。
――どうして私はあんなに酷い大火傷から命拾いしたんだっけ……。姫様の研究――。ううん……研究は……陛下が私のために……。
記憶の捻じれ。綻びがすぐそこにみえるのに、そのリボンを解いてしまうのを恐れている。
こわい。
――こわい。こわい。こわい。こわい。こわい。こわい。こわい……。
ノエルは目を見開いて、耳を塞ぎ頭を押さえ込む。震えがやってきた。のっぺりした暗闇のなか。何十本の手が皮膚を剥ぎ、銀のトレーに載せられた赤い臓器を。
――それは、誰の……?
誰かが叫ぶ。
全身麻酔が効いていません!
追加投与しろ
これ以上は心臓に負荷が――!
手術着姿の医師、看護師、医師。無影灯の眩しさ。生体情報モニターから発する機械音。
――みんなが私の体をみている。
面白そうに。気の毒そうに。感慨深そうに。
――もっとお馬鹿だったらよかったわ。
血の海の中で中身が動いているのが見えた。顔を逆さまに覗かせる麻酔科医が機械を操作して『わたし』を眠りに就かせた。
硬い床の上は汗でぬめついていた。
カーテンの開いた窓の外はぼやけた星明かり。
天井に赤いシミがありそれはいつまでも消えないでいる。目を擦っても残り続けている。
恐ろしい夢を忘れたくて力の入らない体を起こすと、ゴム素材のように弾んだ。ベッドの上に倒れ込み息を整えてから、天井の印のついた板を外した。
「……これは……」
天井裏にはノートが何冊か隠されていた。
ノートには『わたし』の字が並んでいる。書いた憶えがないのに、それを読んでいくとたしかにそういうこともあったと急に蘇ってくる感触に体が震えた。
――……私は、忘れている……? なにを……?
デスクの灯りを点ける。
『わたし』は以前の『わたし』に感謝をしなくてはいけないようだ。
ノートの最初の頁には、これを読むことがないよう願う。しかし常にバックアップは取っておくもの=\―と記されている。頁を捲っていく。
カストラリア王宮火災はクーデターであること。
自分はティラナ王女の影武者であったこと。カストラリア南西部にあるローモロー孤児院出身で、引き取られた家庭で暖炉に閉じ込められて大火傷を負ったこと。近所の住人に助け出され瀕死の状態を、社会福祉活動に熱心だった王后陛下の設立した病院で大手術を受け奇跡の生還を遂げたこと。その御恩に報いようと王宮に出仕し、姫様の影武者になる人生を選んだこと。たくさんの論文を書いたこと。国のために貢献できて嬉しかったこと。
どうやら、そのクーデターの最中に首謀者に目をつけられ、催眠術のようなものをかけられていること。その催眠術にかかっている間、その前後の記憶はないこと。『わたし』は迂闊にも性別転換の手術や改造手術を受けていること。
姫様――ティラナは生きていること。
――クーデター首謀者は、シュナイゼルの暗殺を目論んでいる=\―。
こめかみがズキズキと痛んだ。
「……どうして忘れているんだ……これも……催眠術のせい?」
自然と涙がこぼれノートの紙に滲み込んでいく。
「……記憶がなくなっているということは……催眠術をかけられて……その直前に……会っているということ……」
どうやって? なんで? いつ? どこで?
ノートの最新の頁を開く。
a.t.b.二〇〇七、一月――護国自警会、グロックス、十一月に死亡か? 不審点あり
a.t.b.二〇〇七、二月――勘付かれないように小休止期間。五月のプロムの準備を引き受ける。
a.t.b.二〇〇七、三月――一月の逆探知の結果から近辺のエイムスバレーに絞る、工場地帯、潜入にはボイスレコーダーを用いる。
「――ボイスレコーダー……はっ……!」
エイムスバレーの工場。ブリタニアの掃き溜め。労働地区B。バイブル。洗脳本。フランドロ・ローディック。エリア四――カストラリアからの犯罪密入国者。セキリティ皆無のビル。
ノエルは部屋を飛び出した。七日の夜、意識を取り戻した産業廃棄物の中を探し回った。
――まだ残っていてくれ。頼む……!
耳に埋め込めるほどの大きさの代物を、暗闇の中で探すのは骨が折れる。しかし、それがあれば確かな証拠になる。気づかれて回収された可能性だってあるのに、鉄屑の大海原を携帯端末の灯りひとつを頼りにがむしゃらに手で掘っていく。
夜明けは寒く息が白く、指先が朱に染まり悴んでいる。滴るはずの鼻水も上唇のうえで乾いて貼り付いて、唇は地割れのようにひび割れている。
川底の砂金を探すよりはいい。
薄い影が伸び始める頃、金属より遥かに軽いカナル型、髪色に合わせた色。小さな精密機器が、鉄屑で埋まる底に転がっているのを発見した。感情よりも先に声が飛び出した。
「あった……はは……っ……やった……! やった……! やった……! げほ……っ、げほ……!」
限界がきたようだ。
見つけたばかりの砂金を掌にしっかり握り、朝焼けの空をみあげた。
a.t.b.二〇〇七 10th April
鐘楼の鐘が、最終授業の終わりを告げる。
一気に人の気配が廊下に溢れ、あちこちに散っていく。その合間に紛れて医務室に立ち寄ったのは柔らかな髪色の長髪の少年だった。閉め切ったカーテンの前までやってくる靴音に窓側に体を向けて本を読んでいたノエルが首をひねる。
「……カノン?」
カーテンが遠慮気味に開けられる。
ベッドの足元の方の柵に両腕をのせて授業のノートを毛布の上に数冊置いた。彼は柔らかく微笑むとノエルを心配した。
「風邪ひいたって聞いて。どう気分は?」
「ご覧の通りさ」
肩を竦めてみせるとカノンが上品に笑った。
視線はノエルの手の中で開かれている一冊の書籍に注がれている。無言で表紙を掲げると片方の眉を上げてみせていった。
「なに読んでるの? ……フランドロ・ローディック……? 知らない名前」
「ブリタニアじゃ有名じゃない?」
「ご生憎。他にもいい作家がいるから」
「それもそうだ……ゲホッ」
咳の波がやってきた。
慌てて回り込んできてカノンがノエルの背中を擦る。
「咳が酷いじゃない。寝てなきゃ。温かくなってきたからってお腹出して寝てたんじゃない」
「ご明、答……ゲホゲホ……」
「お昼は? 食べたの?」
「オートミールと……スープッ……ゲホ……」
喉がむず痒くてたまらない、とノエルはオーバーベッドテーブルの上の吸い飲みを握った。
「……百貨店の方、正式に決まりそう。ありがとう。ほんとうに感謝してるわ」
「君の実力、だよ……きっと、これからも、上手くい、く……コホッ」
「……ノエルがよければでかまわないけど、またお願いできないかと思って」
噴出を抑えきれず、ノエルは胸を押さえた。
「……タッチアップのモデル……?」
「ええ」
「……元気になったらね」
「もちろん。……だから、早くよくなって」
毛布を首まで引き寄せて眠るように促す。さらりと揺れるカノンの髪からはいい匂いがした。そのまま顔の輪郭を追い、綺麗な顔を目に入れて、そういえば先日、顔に怪我をしたばかりだという話を思い出した。
「顔の傷、綺麗に消えてる。よかったね」
「あ〜! そうなのよ。あのクソ……げふん。あの皇子がね! 顔に鞭打ちやがってこの……。どっかネジ外れてんのよ!」
あはは、と緩く笑う。
シュナイゼルはここのところ前科が貯まった者に対して容赦がないようだ。泳がせていただけで見放されていたわけではなく、彼の中で敷かれたラインを超過すると仕事が始まる。そういった意味では非常にシステマチックだ。
「一斉検挙シーズンだったりして」
「やだ、こわいこと言わないでよ」
カノンは壁の時計を見上げて小さく声をあげた。
「ごめんなさい。そろそろ行くわ。……そうだ、なにか入り用なら持ってくるから」
「うん。お気遣いなく。ノートありがとう」
「どういたしまして」
挨拶を交わしてカノンはカーテンを閉めて出ていった。
再び迎える静寂。廊下の喧騒も次第に潮が引いていく。吸い飲みから水を吸うと喉の絡まりがすこし軽くなった。
鐘楼の鐘が、最終授業の終わりを告げる。
代表室の窓から差し込む光も温かくなってきた。私設捜査チームが送ってきた書類を読み、事件は新展開をみせていたが、それと同時に憂慮すべき事態にシュナイゼルは珍しくため息を漏らした。
同時進行の案件が大まかに三つ。その三件に関する書類をボックスごとに仕分け、残りの雑多なものを執務机の脇のボックスに入れている。椅子に腰掛けて、じっとそれらと睨み合っていると時間があっという間に過ぎ去っていく。
血流が滞らぬよう一度立ち上がり、没収した件の本を開いて室内を一周、二周と円を描くように歩き回る。
栞を挟んだ頁から再開する。獄中作家のフランドロ・ローディックの禁書である。タイトルは、深い水の畔。
「……彼は肝いりのコミュニストだが……」
政治犯で思想家。禁書というのは流通するには有害であるとされる代物である。
「どこでこんなものを手に入れたのだろうね」
ノエル・アストリアス。
優秀な生徒であるが、奇妙で意外性に満ちた少年である。皇族であるシュナイゼルにも萎縮せず、また敬意を示すことも真似事のように披露するが、態度はフラットで堂々としている――とさえ感じる。端的な表現を借りると、将来有望な大物だ。
しかし、もし、その態度を裏付ける証拠があるとしたらどうだろうか。
シュナイゼルは執務机に戻り、その上にある封筒を見下ろす。
私設捜査チームの最新情報にミレーヌ・ド・サンジェルマンの身辺調査の結果がある。彼女は死亡する直前、最後に会っていた人物がいた。
「……ノエル・アストリアス」
彼女の家族は事件化をなぜか望まず、事故死を受け入れ、さらに無言を貫いている。それどころか立件に至るよりも前に、ノエル・アストリアスへの言及や警察にも通報していない。
もっとも重要な点は、そのミレーヌ・ド・サンジェルマンのクレジットカードをなぜティラナと思しき女性が使用していたかである。
シュナイゼルはノエルがミレーヌとなんらかの関係性があることを前提に、彼の読んでいた禁書が事件との繋がりを持っているのではないかと推測している。
コミュニスト――即ち共産主義を意味する思想において、私有財産における考え方は、土地や工場、財産における個人の所有を廃止し寡占を嫌い、社会全体で共有する――といったものの考え方を行う人のことだ。
クレジットカードはまさに個人の財産であり、それを他人であるはずのティラナが所持する――他者の財産の共有が行なわれている証ではないか。
それがブリタニア帝国内に網目を巡らせている。国家的危機に繋がる工作。それらの解決への糸口がノエル・アストリアスにあるかもしれない。シュナイゼルが取るべき行動はひとつしかなかった。
代表室の扉を開けた級長にむかってシュナイゼルは尋ねた。
「やあ。ダローウィン。ノエル・アストリアス君は医務室かな」
「はあ……暫くその名前を聞かなくて済むと思ってたのに……。ああ。そうですよ。どうも風邪ひいたらしいです」
「ありがとう。少し出るよ」
ダローウィンは苦い顔をして自分の席についた。ノエルと彼の仲は悪いままだった。
程よく冷たい掌の温度に心地よさを覚え、ノエルは糊づけられたように重い瞼を持ち上げた。視界は霞み水の膜が張ったように鈍く曖昧な色彩に揺れている。
その向こうで長身の影が動く。感情を消した顔が静かに見下ろしている。
「……あれ……? ……殿、下……? なんで?」
今日は来訪者が多いとノエルは思った。
シュナイゼルは先日没収したばかりの本、深い水の畔≠ノエルに差し出した。
「これを君に返すよ」
「もう読んだんですね……げほ……風邪が移るので……帰ったほうがいいですよ」
「聞きたいことがある」
「……あ?」
真剣味を帯びた声色と眼差しに不遜な声が飛び出た。
病人の見舞いに来るほどの喫緊の用事だというのだろうか。
熱に浮かされたノエルの頭には閃きはなく、ロイドのテストについてかもしれないと考えて「治ったらちゃんとテストを受けますから」と喉の奥から声を絞り出すが、シュナイゼルの微動だにしない様態がそれが的外れであると答えていた。
――なんだ、違うのか。恥ずかしいじゃん……。
頬が熱くなってきたのは体調不良のせいだけではないだろう。予期せず、彼は長身を丸め顔を覗き込んだかと思うと汗で濡れた額に唇を寄せた。
行動の真意が捉えきれずノエルの顔に困惑が浮かぶ。
「……あの……殿下……なにしてるんですか」
「どうして?」
「質問に質問で返さないでください」
彼はパイプ椅子を引き、深く腰掛け、腕を組んだ。立ち去る様子はないようだ。
仕方なく身を起こし、枕をクッションにして凭れ掛かる。シュナイゼルは唇の曲線を維持したまま聞く人によっては撹乱させるような物言いをした。
「夫が両性愛者だったら幻滅させてしまうかな?」
首を傾げたくなった。世間話の範疇。本題への道のりが見えてこない。彼にしては遠回りだ。
「さぁ……王女殿下じゃないのでお気持ちはさっぱりわからないです」
「ふふ。……我々の関係は仕事のようなものだよ。時には遊びたくなることだってある」
「げほ。皇族って、大変ですねぇ」
付き合いが華やかであろうとも周囲は黙認するだろう。シュナイゼルは充分働いているし、多くの王家が順風満帆で関係が良好であることを装いながら愛妾を持つことはままある。――そうなることを予期して条約文の改訂を行い、君主ほかならびに王妃・王配の秘密の恋愛を合法化した。
あのあと枢機卿に現代化≠ノ対して痛烈なお言葉を頂戴したが、もしそれで問題があるようなら次また改善すればいいだけのことだ。
――姫様とてもう幼くはない。割り切りはできるだろう。
王家に生まれつくとはそういうことだ。どんな隠し事もいつかは知られてしまう。
ノエルは今朝、ティラナの生存を証拠付ける十二月のクリスマスムービーをネットで閲覧し、その前後の工作を含めて催眠術から記憶の修復を行ったばかりだった。
シュナイゼルが話題をノエルに移した。
「君も大概だろう。学院にいれば刃傷沙汰は避けられる?」
「私? まあ……でも、諦めてくれているんじゃないですか、ね」
その段になってようやくシュナイゼルがノエル・アストリアス≠フ人間関係の話をしたがっていることがわかった。考えること。やることが山積みの彼がいち生徒であるノエルを気に掛ける程の事態について何かを掴んだことを意味している。
撒き餌に食いつきがあり、なにか進展があったと悟り、くしゃみをするフリをして表情の緩みを誤魔化した。
「失敬。……ああ……まあ。そうですね。それがどうしたんですか?」
「ミレーヌ・ド・サンジェルマンというご令嬢をご存知かな」
「……彼女がどうかしましたか?」
あのクレジットカードの名義人の名前だ。調べがついたのだろう。サンジェルマン家についての情報は得ていたが、なぜノエルが彼女のカードを持っているのか掴みきれず、あえて使ってみたわけだが。
――……ということは、あの郵政局の防犯カメラ映像も証拠として把握されている。
組織側の把握がどこまで進んだかは不明だが、シュナイゼルは確実にノエルの目論見通りに調査を進めているとしって俄然に嬉しくなった。
「昨年末に彼女の名義で作成されたカードの不正利用があってね。……君は交友関係があったとのことだから何か知っているんじゃないかな」
「……本人に身に覚えは?」
シュナイゼルは一瞬、青紫の瞳を細めた。
「ふむ。君は、ミレーヌ嬢の近況をご存じない?」
「学院に編入してからは。勉強やら行事やらであまり。……彼女になにかあったんですか?」
「では、悲しい知らせになるね。……ミレーヌ嬢は、亡くなっている」
「え?」
「八月頃だと聞いているよ」
出したくもない咳を出し、ノエルは動揺を演じた。
「……そのミレーヌ嬢と最後に会っていたのは君だとも捜査で判明してね。なにか、心当たりはないかな」
――ノエル・アストリアスはミレーヌ・ド・サンジェルマンと最後に会っている……。
ノエルとして活動を始めたのはそれよりも前からだ。そして、ミレーヌ・ド・サンジェルマンと共にいたという記憶はない。忘れているだけだろうか? なぜ? 不都合な記憶であるのか?
もしくは、本物≠フノエル・アストリアスが活動していて、本物とミレーヌが会っているとしたら?
――どうして私がミレーヌのクレジットカードを……?
何かの事件がノエルを取り囲んでいる。そして関与をした可能性があり、記憶を消されている。――なぜ?
ふたりはカストラリア人ではなくブリタニア人の貴族だ。すると考えつくのは。
――ブリタニア帝国内で組織に絡む事件が起きた。
エイムスバレーの活動拠点以外にも彼らのテリトリーは存在するだろう。帝国内に広大なコミュニティが築かれていて、ふたりがなんらかの形で組織と接触し事件にいたり、『わたし』の素体としてノエル・アストリアスが利用されたと考えると辻褄があう。
――本物のノエルは放蕩息子だ。莫大な資産を豪遊生活で溶かし浮き名を流し、ある馬車の事故で意識不明に陥りそこで私を代替として割り当てられた。本物は護国自警会が預かっている。
カストラリアではなく、ブリタニアのどこかにいる?
ノエルの肉体を得た時期と、彼らが消息を絶った時期に齟齬がある。
――組織に探りをいれるなら、サンジェルマンが近道か……?
長い沈黙を経て、ノエルは顔をあげる。親しい人の訃報を知り目元を赤らめ涙を流す少年。帝国エレミー賞も狙えるだろう。
「私には……なにも」
「なにも、ね」
「……死因については?」
「死因は事故死だそうだよ」
「そうですか。……すみません。ご期待に添えるような回答ができず」
偽物の咳が本物に変わるとき、シュナイゼルは切り上げるように椅子から立ち上がった。
「しっかり療養なさい」
「げほ……殿下も、お気をつけて」
背を向ける彼を髪の隙間から窺う。
彼のことだ、捜査は次の段階に進むだろう。
「そうだ。最後に一つ」
足をピタリと止めて、再び宝石の双眸がノエルを睨む。
「なんですか?」
「ミレーヌ嬢の、その他の交友関係について知らないかい」
「彼女の?」
「女性の友人でね。君はそちらの方面に明るいだろう」
ノエルは頬を緩める。「マセガキだと仰りたいんですか?」というと彼は笑みを深めた。
シュナイゼルはクリスマス・カードの送り主である、防犯カメラに映る女について知りたがっているだろう。影武者のマルカを。ティラナのスペアーを。
――カストラリア王室の秘密を知る人間を野に放っておくことはしたくない、か。
「選り取り見取りですよ、殿下」
a.t.b.二〇〇七 May
マナー・ハウス・オブ・グレンブルック
なだらかな起伏を持つ広大な芝生の隙間にくねる白い道を抜けて、ひとりの淑女が、谷間の小川の名をとる屋敷の大きな扉の前に佇んでいた。
扉は開かれ、使用人に向けて頭を下げる。その淑女の背後からお供揃いでその屋敷の主、アエノール・ド・サンジェルマンが抜け切らない軍隊式の闊歩でやってくる。
使用人は深く頭を下げ、淑女にも倣うように命じた。
「この方は?」
「新しく雇った、エメリー・ダルボンでございます。旦那様」
「旦那様。ベアトリス様のご指南役を仰せつかりました、エメリー・ダルボンにございます。以後お見知りおきの程、伏してお願い申し上げます」
アエノール・ド・サンジェルマンは淑女に顔をあげるようにいい、その相貌をたしかめた。
「うちのベアトリスを頼んだよ。ミス・ダルボン」
「もちろんでございますわ。旦那様」
ドレスの裾をふわりと持ち上げ、身を低くする。うわべを取り繕い『わたし』は優雅に微笑んだ。