疑惑






 a.t.b.二〇〇七 April
 帝立・コルチェスター学院 ケント寮

 勉強机の上には、急遽課せられた小論文の課題と今朝配布されたばかりの構内地図、元から引き受けていたプロムの実行委員の書類で埋め尽くされていた。
 自室の扉が軽く叩かれる。今日だけで五件目だ。いい加減振り向くのさえ面倒になっていたノエルは声だけで背後に呼びかけた。
 「卒業試験の問題集作成ですかー? ……私、今年卒業じゃないですよー!」
 「そうじゃなくって。作成を手伝ってくれないかって話だ。お願いだ、アストリアス!」
 病み上がりの体は身を捻るだけでも筋肉が硬く強張ってしなりが悪い。上級生達は入れ替わり立ち替わりノエルを説得しようと躍起だった。
 「傾向はおろか過去問とか知らないし、上級生方のお願いは叶えて差し上げたいですけど……お役に立てるかなあ?」
 「そこを! なんとか!」
 扉の外で膝をついたような気配にそっとため息をつく。
 ノエルは椅子から立ち上がり扉を開けた。案の定、そこには追い縋る神をも崇めんとする哀れな姿がある。
 「代表にバレたらペナルティつくの私なんですけど」
 「そこをッ! なんとか!」
 両手を硬く結び捧げる。
 「だいたい日頃の積み重ねがものをいうんですよ。日頃の」
 「ぐうの音も出ない!」
 懇願する上級生の背後に物陰から様子を窺う目がいくつもある。
 あえて気づいていない風に装い、わざとらしくノエルは声高らかに、そして言い聞かせるように声を張った。
 「上級生方そんなんでよく、プロムはどこそこの女学院の女生徒を誘ったんだ〜って自慢してましたね。卒業も危ういならそれどころじゃないと思いますよ」
 「ぐううう……!」
 どこからともなく突き刺さった声が響く。廊下の曲がり角から最上級生の中では生真面目な生徒がノエルの元に寄ってきて物言いたげな顔で見下ろした。
 「はい。なんですかMr.トーリン」
 「プロムのことで相談がある。近親者に女性がいないもので、どなたかご紹介いただけないだろうか」
 ――ブルータス、お前もか。
 「私の部屋は、なんでも相談室じゃないんですよ」
 皆の狙いはわかっている。
 ノエル・アストリアスの不純異性交遊の噂から女に困っていないだろうと目星をつけられている。アーバンド伯爵ともなれば立派な貴族の少年だ。ケント寮は貴族学校のなかでも庶民上がりでもなんとか食らいつこうとする者が入寮する寮だが、卒業試験といいプロムナードのお相手選びといいどこか他人任せだ。
 「試験にしたって、女性相手にしたって、お膳立てしたところで本番で恥をかくようでは紳士の名が廃りますよ」
 その場にいる上級生たちが熊のように唸った。


 a.t.b.二〇〇七 April
 帝立・コルチェスター学院 代表室
 
 ミレーヌ・ド・サンジェルマンの捜査線上で浮上したのはノエル・アストリアスだった。
 机上には編入時に提出させたノエルの願書、学生履歴書。元在学していたボーディング・スクールの理事長のサインの入りの推薦状が並んでいる。備考欄には素行不良が難点≠ニ申し送りまでなされていて、彼が入学許可されたのはアストリアス公爵からの寄付金目当てだった。
 いたって現状のノエル・アストリアスと矛盾するところのない情報の羅列。シュナイゼルはため息を吐きかけて、外部用の回線に接続し架電する。
 「……わたくし帝立コルチェスター学院総代表のシュナイゼル・エル・ブリタニアと申します」
 電話口が慌ただしくなる。担当者は動揺の色を隠さず、すぐさまブリタニア北部のレイク・カントリーにあるセイント・アルウィン、聖ポール・ダーストウッドスクールの理事長の声に切り替わる。
 「畏まらなくて結構ですよ。そちらの学校に昨年度まで在学していたノエル・アストリアスについて何点か伺いたいことがあるんです。……ええ。素行不良であるのは承知済みです。……そこは変わっていません。レドモンド卿にお尋ねしたいのは彼の私生活の交友関係についてでしてね」
 ノエル・アストリアスは領地である北部ユトランドからほど近い最寄りの寄宿舎に通っていた。素行不良には飲酒、喫煙、時間外の外出。申請のない外出。地元の平民の高校生との喧嘩。ノーヘルメットでの普通自動二輪車走行……と不良経歴は枚挙にいとまがない。
 電話の向こうのレドモンド卿は恐る恐る現在のノエルについて尋ねた。
 「……現在の彼ですか? 小さな違反は相変わらずですが、華やかな経歴≠ノ比べれば随分大人しくなったのではないでしょうか。……はい。私が知りたいのは――もっと具体的な事件性のある話です。いいえ、要点を絞ると、彼の交友関係、交際関係についてです。社交界の噂では女性関係が派手と聞き及んでおります」
 レドモンド卿は言葉を詰まらせた。
 [アストリアス……いいえ、アーバンド伯爵は……別荘に女性達を連れ込んで……いえ、パーティーを主催なさっておいででした]
 「パーティーですか。……字義通りではないでしょう」
 [え、ええ……]
 彼が異性愛者であるというのは間違いではないだろう。
 机の端を指で叩く。
 「パーティーの開催は頻繁にありましたか」
 [不規則的ですが、休暇中には必ずあったようです。発覚したのはそのパーティーに参加したある令嬢が同じく参加者だったバーランド侯爵家の次男の……子を身籠ったと。それで民事訴訟になりましてね]
 「おやおや。……これは大事だ。その事件で発覚したということですね」
 [はい]
 「パーティーは現在も?」
 [本人に尋ねてみられたほうが確実でしょうが、昨年度末より控えているのではないでしょうか。そちらでお預かりいただいているのが上手くいっているのやも。……パーティーに女性を連れ込んでいるのは確かですが、通常の社交場としても機能していたようですし証言は多いかと]
 「ふむ。……どうもありがとう。参考にさせていただきます」
 二、三言挨拶を交わして受話器を置く。
 椅子に深く体重を預ける。
 「……パーティーか」
 呟く声は他に誰もいない代表室にはよく響いた。シュナイゼルはしばらく瞼を閉じ思案した後、再びデスク上の通信機に手をやる。慣れた手つきで回線をカストラリア独立回線に切り替える。
 カストラリアは早朝だ。
 三回のコールの末、画面に眠たげな侍従長の顔が映し出される。
 「おはよう。起き抜けに失礼するよ」
 「ははあ。殿下。……紅茶を飲みながらでも?」
 「私も飲んでいるよ」
 シュナイゼルがカップを持ち上げてみせると、侍従長ハーゲンは目尻に皺をつくった。
 ハーゲンが画面から一旦消え、ティーセットを用意する音とガスコンロで湯を沸かす音が伝わってくる。すべての準備を終え、彼が目覚めの一杯――アーリーモーニングティーの一口目を味わった後、シュナイゼルは口を切った。
 「先日、伝えていた話なんだがね。政治犯疑惑の彼の話だ」
 「そちらの学生でしたね?」
 「ああ。まだ断定的な回答はできないが……情報を握っているとみている。もう少し身辺を洗ってみることにするよ。ハーゲン。……そちらはどうかな」
 「フランドロ・ローディックについてですね。コミュニストで各地に支持者を抱えています。……カストラリアで主な拠点は捜査中です。関係筋では定期的に集会が行なわれているとか。しかし我が国は不当に禁じる法はありませんし、現状要監視までの対応に留まっています。……それにしてもブリタニアでの動きは不可解です。いったいどこから……?」
 「……その学生の所持していた禁書の奥付には、第二教区正十字出版社とあった。企業の出版物ではなく、もっと小規模な自費出版の類かもしれない。諜報員を遣わせる予定をたてている」
 ハーゲンは白の混ざり始めた眉を上げた。
 「……その彼、ノエル・アストリアスという若者が……真正のコミュニストで政治犯である可能性は?」
 「公爵嫡男。伯爵位も持っている彼が愛国心に欠くとは考えにくい。身分に胡座をかいている行動がないわけではないが微々たるものだ。……しかし、その行動力や知能の高さは十分考慮に入れなければね。彼は北ブリタニアの社交界を取り仕切っていたみたいだ」
 ぬるくなってきた紅茶を口に含み、卓上のカレンダーを二枚捲り七月・八月の日程を眺める。
 夏季休暇に入ると一気に予定を表す情報量が減る。カレンダーにはない予定なら山程ある。ブリタニアの宮廷議会やエリア会議での定例報告、枢密院との今後の協議もある。来年度のカストラリアの公式行事に関する最終予算審議とその承認。大なり小なりの細々とした引見。それらに加えて秘密裏に行っている両国間に広がる犯罪捜査。その捜査線上のどこかにいるはずのティラナの捜索――。
 「夏はそちらでゆっくりしようと考えていたけど、そうもいかなくなってきた。マルカには残念かもしれないけど……」
 「殿下。どうかご無理はなさらず」
 「無理、か……。多少無謀でも尽くさねば困るのは我々だよ。彼女には玉座に座っていただかないと」
 「左様でございますね。失礼致しました」
 ハーゲンは思い直して詫びた。
 そこでシュナイゼルは「ああ、そうだ」とハーゲンの新しい仕事を思い出した。王室行事に関してはほぼ彼に一任していたからだ。
 「ブリタニアの枢密院からはお達しが来ている。婚儀が先か戴冠式が先か。……彼らの望みは婚儀が先だろうね。戴冠式を先んじて行えば、独立性が強まりブリタニア側の面目が潰れると感じるだろうから。それに私の親政権の返上もある」
 「ええ。……それはごもっともでございます」
 戴冠式をもって摂政から親政を返上すると、婚儀までの間、シュナイゼルには称号がなく体裁が悪いのを権威主義の帝国が納得するはずがないということだ。
 「肝心の本人は不在……消息不明だけれど、一度このあたりをしっかり協議しなくてはね」
 「はい。しかし……もし、このまま姫様がお戻りにならなければいかがなさるおつもりで?」
 「最終手段を講じる所存だよ」
 「まさか……」
 そのまさかだが、やむを得ない手段だ。「そのための影武者だろう?」シュナイゼルの声は冷たくも温かくもなかった。ハーゲンは納得行かないとばかりに、やんわりと忠言を挟んだ。
 「マルカ様がご納得するでしょうか」
 「彼女の内面の問題に過ぎないよ。見かけだけなら本物のティラナだ」
 それを聞いてハーゲンは沈黙した。画面には少しずつ弱くなっていく淡い湯気が映り込んでいる。
 「仮の話だよ。マルカを女王に立てた場合、君主の空位を埋めることになっても親政面で数カ月彼女が働く必要がある。……不可能とは言い切らないが……彼女にその能力と気概があるかな」
 相対的評価でマルカは本物のティラナの持つ秀でた能力には到底及ばない。元来の役割は多方面で忙殺されやすいティラナ王女の公務の補佐である。軽微な内容というと慰問や代読といった類で、頭脳労働が係わる内容を除外する。しかし――女王、君主ともなればそうも言っていられなくなる。
 「では……」とハーゲンはマルカが女王の座に就くには問題がある、と言いたそうな顔をした。
 「とすると、婚儀が先になるよ。ハーゲン」
 「ええ……そのようです。殿下」
 「空白を作りたくなければ。……戴冠式までは私が摂政を務める。準備面にしても、婚儀の方が苦労が多いだろう。皇位継承権の放棄。ブリタニアからカストラリア王室の編入。憲章宣誓。婚儀・称号授与。王配宣誓式……とスケジュールが詰まっている。……私としても、先に終わらせた方が楽だ。……期間はどれほどかかるかな」
 ハーゲンは老眼鏡をかけ、引き出しから辞典ほどある黒の厚いファイルを取り出した。
 「……最低半年ほどでございます。殿下」
 「大掛かりだね。――仕方ないか」
 「お言葉ですが殿下、そちらはあくまで公の儀の方の話でございます」
 「……というと?」
 思わず尋ね返す。彼の話しぶりは容易ではない≠ニ難色を示している。
 「婚儀には公然公開となる公のロイヤル・ウェディングの前に、宗教的婚姻となる国教会の婚姻の宣言を行う結昇祭、七燭の儀がございます。……西ローマ派の王権でありますゆえご理解賜りたく」
 「……ああ、先に改宗と神前式だね。そちらは問題ないよ。それで進めていこう。――神は不貞をお赦しになるかな」
 ハーゲンは再び沈黙した。
 人々だけでなく国や神をも欺くのかと――咎めたいのを堪えている者。瞳の底光りがシュナイゼルに異議を唱えていた。
 「我が国において王家は国教会の最高信徒にあたります。王・女王は教会と教義の守護者であり、いかなる場合にあっても守らなくてはいけません。七燭の儀は別名、契約の確認の儀といわれておりまして、その……偽証となる不倫、誓約破りは神との契約違反となります」
 「契約の確認の儀というのはなにをするのかな」
 「……神前交合にございます」
 ハーゲンは少し躊躇したものの簡潔に述べた。
 神前交合。
 一般的ではない言葉だ。長い歴史のなかで様々な色合いを取り入れたものというより、カストラリアの土着信仰と西ローマ派の神官が王家に混じったことで王権を確固たる地位に押し上げた名残ともいうべき慣習だろう。
 「古代メソポタミアかギリシャの豊穣儀礼だね。仏教的ともいえるのかな」
 「ええ。秘儀でありますゆえ……私の方では詳細の説明は行えません。……ですが表の婚儀に進むには、こちらの秘儀を通過しなくてはなりません」
 昔、ティラナが言っていた。王家のカストリアとは砦を守る一族≠フ名のことだ。神を信仰し仕える者が科学を信仰するなんておかしな話だ≠ニこぼしていた。つまりカストラリア王国において王や女王などの君主は、親政のほか国教会の最高統治者である。むしろ――カストリアの名を鑑みれば本職といっても過言ではない。
 ハーゲンが、容姿こそ本物そっくりなマルカを玉座に就かせるプランに対して渋面をつくるのは、見せかけのはったりで誤魔化せても神には見破られてしまうだろう、という篤い信仰心ゆえの畏怖だ。
 「なにもティラナを諦めろと言っているわけでないよ。最悪の選択肢の話だ。……先に述べたように彼女が玉座に戻らなければ、王権そのものの断絶が起きる。今この時代を凌げたとていずれ崩壊を招くだろう。カストラリアに限らず、地球上のあらゆる国家とその君主の神話と生命の安全性を脅かす」
 たとえば、マルカが女王になったとして。彼女の正体が後世のどこかで偽物だと暴かれたとしたら。その時代の支配者達にとって不都合な真実だ。歴史的な汚点。王権神授説の破壊。
 それとも神は限りなく近いDNA保有者も認めるのだろうか。

 ――だとするならば、先王は禁忌破りだ。

 苦渋の選択とはいえ、赤の他人を自分の娘とそっくりの、一卵性双生児のように作り替えてしまった。国教会の最高統治者が自らの存在を担保する神話を切り崩した。厳密には、王家の人間特有の遺伝配列とマルカには持ち得ない特殊な形質もあるが、研究がさらに進行すれば、その重要な核さえも複製可能にしてしまうだろう。
 ゆえに研究熱心なティラナに対して、国教会の保守派はいい顔をしてこなかった。彼らは、大人しく飾り立てられて玉座に座し、国家を存続させるために血を繋げる役割を果たす君主を望んでいた。
 国教会保守派の長老たちはシュナイゼルにも度々諫言した。どうか、国を思うならば研究を辞めさせよ≠ニ。
 ――『懸念事項は重々承知しております。法規制が追いついていないだけです。適切に運用されていけば問題ありませんよ。議会には私の方から法案を提出しましょう。――しかし、そんなにお嫌なら然るべき対応をなさればよろしいではありませんか。貴方がたは枢密院司法委員会は最高裁判所の役割も担っておられる。……ただ、王女は療養中≠フ身であらせられる。研究も止まっている状況です。あえて申し上げることもないでしょう』
 ――『殿下の本音をお聞かせ願えませんか』
 ――『私の本音?』
 本音などない。大多数の人間にとって損か得か。将来性の有無。正悪を選り分けるだけだ。
 長老たちは調節弁の役割を求めている。だが、今や国の国内総生産を支える基盤だ。第一次産業から第五次産業まで、彼女の研究と理論が活用されている。
 ――『国とはなんだと思いますか?』
 ――『は? はあ……』
 ――『国とは領土でも体制でもない、人ですよ。民衆の生活はどうです? 雇用統計は? 各指標高水準を維持しています。国際的地位は? 高度で先進的な医療システムと技術、人道的支援や医療技術の供与から高く評価されています。パスポート一枚で多くの国への入国が可能です。特別警戒の国・紛争地域を除いてね。……国へ貢献されているではありませんか。……咎めろと仰せですか?』
 ――『殿下は……ご自身の立場をなんだと……』
 ――『本音を言ったまでですが。お知りになりたかったのでしょう』
 長老たちは面くらった。どこの枢密院の者も一緒だなとシュナイゼルは内心思った。
 ――『あなたがたには信心深さが足りませぬ。……神の御前でもそのようにあらせられるおつもりですか!』
 長老のひとりが天に人差し指をたてて叫んだ。
 回廊の窓から見える青空に視線を巡らせて、シュナイゼルはいつもの微笑みを取り戻した。

 ――すでに禁忌は破られている。

 深い沈黙が人にどれほどの神聖さを印象付けるだろう。
 ハーゲンが老眼鏡を机のうえに置き、シュナイゼルは顔をあげた。
 「人は、信じるものをなくしては生きてはいけない。人々のためになるならば、私は努力を惜しまないよ」 
 ハーゲンは肩を下げ小さく頷いた。峻険の合間から射し込む鋭い光が眼鏡の縁を光らせた。


 a.t.b.二〇〇七 May
 帝立コルチェスター学院 屋上

 清々しい緑風の吹き渡る午後。
 歩けば十五分ほどかかる校舎の三階の軒下にある巣に渡り鳥がせっせと餌を運んでいる。
 学院の屋上で双眼鏡からバードウォッチングをするノエルの背後に不機嫌を隠さず扉を閉める音が反響する。
 「あー! あー! ほんッとにキモいんだけど!」
 「なに? また監督生になんか言われた?」
 「違うわ。ネジ飛んでるのは相変わらずだけど、今日はそうじゃないの。いえ、今日どころか毎年恒例ね……」
 柵の前で双眼鏡から顔を外さないノエルのとなりにカノンが並び立ち、長い髪を手際よく纏め頭の後ろで縛った。
 親鳥は雛に餌を与えるとふたたび大空に羽ばたいた。
 「この時期になるとね……女役になれってダンスの練習をせがまれるの」
 「へえ……」
 「女役出来ないんだ、とか思ったでしょ。一応出来るわ。もちろんダンスの話よ」
 「何も言ってないじゃん」
 親鳥のいない時間、雛は餌を欲しがり首を巣から出し帰りを待っている。同種の別の鳥が巣に接近し鳴いている。警戒鳴きだ。さらに上空、あるいは付近の背の高いイチョウの木に双眼鏡を向ける。
 「出来ないことはない。でもね、私にはなんのメリットもないわけ!」
 「あぁ、わかるわかる。みんな自分勝手だよね」
 「ノエルも? 踊れるの?」
 「……ま、まあ……。いや、私のは卒業試験の問題集作れとか、知り合いのご令嬢を紹介してくれとかだよ」
 「がめついわねケントは」
 イチョウの木のてっぺんに図体の大きいカラスが佇んでいる。
 親鳥はまだ帰ってこない。地鳴きは餌を求めて去った親鳥に警戒するよう伝えている。そして巣の回りをぐるぐると飛び、雛はその鳥に餌のために鳴いていた。
 ――ああ、あれも親鳥だ。
 「なにしてるの? バードウォッチング? 鳥類学者にでもなるの?」
 「趣味……でも、それもいいな」
 双眼鏡を降ろし、鞄の中からノートを出し問題を書き込んでいく。不可解そうにカノンが覗き込んだ。
 「数学の問題集じゃない。それと今のなにに関係してるのよ」
 「最近バイトを始めたんだ」
 「バイト……? アルバイトを? え? なんでノエルがそんなことするのよ」
 「庶民の生活を知るのも今のうちだからね」
 にやりと笑うと、彼は顔を引き攣らせた。
 「高飛車お貴族様ですこと。……そういえば進路はどうするの、あなた」
 「進路ねえ……」
 ぽりぽりと頬をかいた。
 先日複数の研究機関に誤った研究についての意見書を送付したところ、理事長室に返事の封筒が届いた。
 夏季休暇中に研究施設の見学に来ないかといったラブレターだった。しかしノエルには夏の期間中にやらなければならない事が山積みだった。
  塔屋から何者かの屋上へ上ってくる足音が大きく響き、荒々しくその扉が開かれる。
 「アストリアスー! ここでサボってたのか! 防火設備点検の報告をしろ!」
 息を弾ませ大股で接近するノーサンブリエの級長・ダローウィンが怒鳴った。
 「専門業者がちゃんとしたほうがいいですよ」
 「ダブルチェックのためだろうが! 責任者になったならちゃんとしろ!」
 「なんでケント寮の人間が中央寮の手伝いしなくちゃいけないんですか」
 「殿下の采配に文句があるのか? 貴様の欠席日数が多すぎるからだろうが! ほらっ歩け!」
 片腕を捕まえられ囚人のように引き摺られていく。
 代表室に連行され代表の執務机の前に突き立たされると、まるで証言台のようだった。
 ダローウィンは所定の席につき、彼自身の仕事に戻った。
 点検報告書を隅々までチェックして彼は署名した。
 「ご苦労だったね。アストリアス君」
 「帰っていいですか」
 「一週間後、消防点検に同席すること。懸念事項があれば伝えて。警備部門にも報告を怠らないように」
 「……帰っていいですか」
 「急ぎなら連絡を先に入れなさい。こちらが優先だよ」
 「……Yes, Your Highness」
 後ろでダローウィンの忍び笑いが聞こえた。
 代表室の扉が開き、副監督生のマイダネットが書類を抱えて入ってくる。
 「よう。アストリアス。調子良さそうだな」
 「どうも。Mr.マイダネット」
 彼に正面を譲り脇に下がったノエルは、代表室内に並ぶタペストリーや立派なトロフィー、功績を称える賞状などを眺めた。
 「殿下。会場受付の方ですが正門のみに絞りましょうか?」
 「そうだね。VIPは裏門から入場いただくことになる」
 ――VIPか……。
 シュナイゼル以上のVIPがはたしてこの学院の来賓客にいるだろうか。警備面ではいないに越したことはなく、ノエルの仕事が増えないことを祈った。
 ――待てよ。シュナイゼルが出席したらその他親族が参加するかもしれない?
 昨年のスポーツ・ウィークを思い浮かべて、ノエルは問いかけた。
 「プロムには殿下も参加されるんですか?」 
 「ん? 私は裏方だよ。主役は最上級生方だ。私がいつも主役のようになってしまってはね。――台無しだろう?」
 「……ふうん。てっきり参加されるのかと思っていましたけど。王女殿下を招待なさるのかと」
 「彼女をかい? どうだろうね。私のは再来年だし……その頃にはお越しいただくのも憚れる方になっているかもしれないよ」
 意味深な微笑みに目を瞬かせる。
 ――つまり……戴冠式も近いということか。
 今年には二十歳を迎える。それ以上、玉座を空けておくことはしないだろう。
 なんにせよ今の状況で姫様がブリタニアに来るのは危険だ。国を空ける心配がないと知り密かに安堵する。
 一方で『わたし』の身の振り方をそろそろ考えなくてはいけない時期だ。
 各捜査を継続しながら首謀者の接触をかわしつつ、安全な場所を確保し、カストラリアの奉仕を行う最善の方法の模索。
 ――暗殺任務の期限は来年の夏だ。
 執務机に座り、さらに後から訪れた他生徒の報告に耳を傾けるシュナイゼルをちらりと見遣る。
 ――戴冠式を目にすることは叶わないかもしれない。
 ノエルの暗殺任務は失敗≠キる。それは即ち、『わたし』の死を意味する。
 弱気になるつもりはないが、任務失敗後は未知数だ。
 シュナイゼルを残したまま学院を去ることは、却って彼を危険に晒す。外部機関に告発をする? どこに組織の人間が潜んでいるかわからないのに? リミットまでせめてこの帝国内のネットワークだけでも潰さなければいけない。そのためにサンジェルマン侯爵の屋敷に家庭教師として潜入しているんじゃないか。 
 夏には本物のノエル・アストリアス≠フ消息についても突き止めなければ。
 ――シュナイゼルを護れる信用の置ける人間を増やすこと……。
 プロムナードの役員が揃っての全体会議はいつの間にか始まり終わろうとしていた。終始明後日の方向に顔を向けるノエルをシュナイゼルが柔らかく注意した。
 「……話を聞いていたかい。アストリアス君」
 「巡回の持ち回りの話ですよね。聞いてましたよ」
 「よろしい。それでは諸君、本日はこれにて終了だ」
 号令により、役員達はそれぞれ一礼すると代表室を出ていく。
 シュナイゼルは執務机で書類を整えファイリングし、引き出しに収めるとまた新しい別のファイルを取り出して次の仕事に取り掛かろうとしていた。
 「……終わりだよ。お待ちかねの。帰っていいよ」
 「それじゃ、失礼します」
 鞄を背負いノエルは背を向ける。
 ――失敗≠オたとき彼の側で片時も目を離さず護衛につける人間。
 さらに組織に作戦失敗を感知される前に、二十四時間以内にブリタニアを離れる方法も編み出さないといけなかった。
 
 真夜中の工学棟の冷たい廊下は、非常出口と消火栓表示灯の光をより鮮明に反射している。
 窓の外に見える黒い木々は時折音をたてて揺れる。ラボの隣室にある準備室に忍び込み、機材のもとへ向かう。携帯用ランプの光の上に上衣をかけ、光を拡散させないように準備を整えると、解析装置を起動させた。
 いくらかの時間を消費し、ノエルは自作のボイスレコーダーの音声データの解析を試した。ところが風雨か衝撃が原因なのか、ノイズが走り後半にいけばいくほど不明瞭になりブツブツと音が飛んでいる。
 「……だめか。……解析機のスペックがもっと高ければ……」
 軍用の諜報に用いる高精度の解析機があるが、学院にはないだろう。
 準備室の中を見渡す。ハイエンドPCで取り込んでいくつかのソフトウェアでノイズ除去を行う泥臭い作戦も浮かんだが使用履歴のログが残ることは避けたかった。なによりも。
 「下手にイジると博士怒りそうだなー」
 無許可で機器をいじくり回すのをロイドは好まない。ああ見えて最低限のこだわりを持っている人だ。単純に自分が使用する時に設定が狂っているのが嫌なのだろうと思う。
 小さな耳に装着するタイプのボイスレコーダーを見下ろして、あの労働地区の出来事を思い出す。
 ――どうして組織は……ブリタニアで活動を?
 ノエル・アストリアスの監視だけなら拠点を置く必要性がない。組織自体は規模を膨らませて、ネットワークを構築している。ブリタニア内部でも腐敗は始まっているのではないか。
 共産主義思想を用いて帝国を内部から破壊する。シュナイゼル暗殺についても彼を脅威と捉えているからだ。どれも正解であるがそれだけではないように思う。
 

 a.t.b.二〇〇七 July 
 大食堂

 眩い光を透過するステンドグラス。ロングテーブルに白のテーブルクロス。綺羅びやかなシャンデリア。
 大食堂に来るのは久しぶりだった。
 六月は夏季休暇前の試験週間で余暇を勉強時間に宛てており、その間は寮内の冷蔵庫に蓄えておいた食材で粗食を繰り返していたものの、うっかり先日追加の食材を頼んでおくのを忘れてしまった。ついに冷蔵庫は空っぽになり、購買部の味の悪いサンドイッチで腹を満たすのだけは金輪際したくない。
 試験が一週間前に終了し、残り数日で夏季休暇が始まる。一ヶ月半の休暇に皆どこか浮ついており、食堂内では夏の予定を語り合っている。一年も経つと完全に誰もノエルのことを気にも留めることなく馴染んでいた。却って気楽とさえ感じる。寮のテーブルの最も端の薄暗い方に座り、給仕係が持ってきた食事にありつく。中央のテーブルはノーサンブリエ寮の生徒立ちがテーブルが陣取り、華やかな権威を象徴している。たしかに貴族出身者が多いゆえにテーブルマナーの手本にするならばうってつけだろう。
 十二時十三分。がやがやと騒がしい食堂が徐々に潮が引くように静かになっていく。
 「構わないよ。食事を続けて」その穏やかな一声だけでシュナイゼル・エル・ブリタニアが訪れたのだとわかる。ノエルはソテーしたチキンをエスパニョールソースに絡めてそっと口へ運んだ。
 「……ん?」
 「食事を続けて。アストリアス君、隣の席に座ってもかまわないかな」
 ノエルに尋ねながらも彼は返事を待たずして空いていた隣席に座った。
 「なんですか、いつになく仰々しい」
 ――これはなにか言いたいことがある時の口ぶりだ。
 胡乱な視線に対して、シュナイゼルはいつもの微笑を返した。セッティングされていたナプキンを広げ膝へかけるとお抱えの給仕係がわざわざ隅の方まで来て食事のオーダーを取った。
 水、バゲット、オムレツ、ほうれん草のポテトサラダ、白身魚のポワレ。あれよあれよとテーブルに運ばれてくる料理に待遇の差を感じる。
 「緊張するかい? すまないね。クロヴィスが食堂のメニューに飽きだして呼んできたんだ。それで私にもついでに同じ待遇をね……」
 「……もうすぐ食事を終えるのでお構いなく」
 ノエルの言葉を聞き取ってシュナイゼルは片手を小さく挙げ、給仕係を呼んだ。
 「はい、殿下」
 「彼にデザートを用意してあげてくれるかな。飲み物のおかわりも」
 「Yes, Your Highness」
 ――ああ、そう。話に付き合えということ……。
 ノエルはフォークに刺した一欠片のチキンを頬張った。
 食事の合間を埋めるようにシュナイゼルは切り出した。
 「午後からの次学年進級会議は要出席だよ」
 「心得ております、殿下」
 「先日の政治学の口頭試験の成績……小耳に挟んだよ。相変わらずだね」
 「ありがとうございます」
 ノエルには夏にやらなければならないことがたくさんある。
 彼との長話は好きだが、要件が先延ばしにされるのは時間の浪費である。自身の気が短くなっていくのを感じていた。
 「それと、卒業後の進路計画が未提出だそうだけど迷っているのかい」
 「……気にかけてくださって恐縮です。これも監督生の義務ですか?」
 「そうだね。この学院の生徒は種々多様であろうとも、概ねどこへ行くかは決まっている。さらに君は奨学生だ、皆興味津々ということだよ」
 シュナイゼルはノエルの長い沈黙を熟考と受け取ったようだ。その間に、デザートと冷水のコップが眼の前に給仕の手により並べられていく。
 そして、その時になり、シュナイゼルは最重要要件を口にした。
 「夏は帰省しないのかい」
 「……帰省?」
 「前に言っていたろう? 夏は帰省するという話だったね。君の故郷は……ユトランド南だ。いい避暑地じゃないか」
 ――ペンドラゴンの夏は暑いと噂に聞くが、彼が避暑地というほどならそうなんだろう。
 唐突な話題の切り替えと夏休みの予定のことを考え出して、ソースの味を見失う。
 ナプキンで口元を拭い一息置く。
 シュナイゼルは当然ノエル・アストリアスに関する情報はすべて調べ尽くしている。記録上の故郷。アストリアス公爵とその子息は実在するが、その子息はある日を境に入れ替わっている――ことにはまだ気づいていないはずだが。
 「ペンドラゴンからは小旅行になります。殿下」
 「そうだろうね。……あそこは涼しいのかい」
 「……避暑地とおっしゃるように、ここよりは」
 「ユトランドは天然水採取地としても有名だ。この食堂の水もユトランドのピェールス山脈の恩恵を享受している」
 ――それは知らなかったな。
 そう思ってノエルはコップの中の透明無色の水をじっと観察する。
 「私も暫く視察を怠っていたようだからね。これを機に訪問してみようか」
 「……さようで」
 「それでだ。道案内を頼めるかな」
 ノエルはもうなんとなく、そんな気はしていた。
 予感が当たり苦い顔が表出するのを堪え、意識して誤魔化すように顔の筋肉を不自然に動かした。しかし目は口ほどに物をいうのだろう。
 「……そう睨まないでおくれ。なに、君にも利点はあるよ」
 「断固拒否した場合は、不敬罪で断頭台行きでしょうか」
 シュナイゼルは肩を震わせて笑った。
 「相変わらずだ。そのはっきり言うところ、嫌いじゃないな。――銃殺だよ」
 「何日滞在されるんです?」
 「そうだな……ざっと……七日ほどになるかな」
 ――七日もいてどうするんだ。――ああ、夏季休暇中の予定が一段ずれ込むのか。憂鬱だ。
 げんなりするノエルの様子と対照的に彼は爽やかな笑みを浮かべた。
 「決まりだね。よろしく頼むよ、アストリアス君」
 半ば強引に予定が決定し、ノエルは悪態をつきたくなったがぐっと堪えた。目的を果たしたシュナイゼルは満足したのか、豪勢な食事に取り掛かった。
 帝国第二皇子を七日間も接待しなくてはいけないのかと思うと気が重い。護衛は何人来るのかとか、どの場所にどれくらい滞在するのかとか、そうした地味な根回し作業も含めて、丁重に扱わねばならないからだ。
 


24
午前四時の異邦人
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