Summer Vacation






 a.t.b.二〇〇七 July
 ペンドラゴン中央駅・プラットホーム

 ブリタニア帝国内最大のターミナル駅。四十四のプラットホーム六十七の線路を擁する広大な駅舎は縦横無尽に人の行き来がある中を縫うように目的地である三七番ホームへ向かう。シュナイゼルとの待ち合わせ時刻は九時十八分。出発予定時刻は三十六分だ。夏季休暇シーズンとあり旅行や帰省で急ぐ人々の中で彼ほどの人間が目立たないということはない。実際、待ち合わせ場所には長身の金髪碧眼の男は彼以外にもいるはずなのに嫌に目立ち、なぜだか女性集団に取り囲まれていた。
 「……! あれだ……」
 ノエルは驚愕し、一瞬怯んだが気を取り直した。シュナイゼル・エル・ブリタニアともあろう帝国の皇子が護衛さえも侍らせず、掲示板の前で時刻表を確認している。
 もう一度注意深く周辺を見渡す。ノエルは、いつも遠巻きながら彼の周囲を固めている護衛達の顔を思い浮かべた。それらしい顔の者は周囲のどの場所にもいないようだった。それか、周囲に一般客に扮しているかだと思い、さらに視野を広げ探るもそれらしい影の一つもなく――。
 シュナイゼルはオフワイトのシャツにラベンダー色のベスト、ベージュのスラックスにブラウンのチップシューズ、腕には上着であるベージュのブレザーが掛けられている。そして脇にはトランクが一つと比較的軽装な出で立ちで、彼なりに一般市民に馴染むコーディネートに努めている。それで十分だったが、その燦然と輝く髪や瞳の色を遮るものを身につけていないことで悪目立ちすることは容易に考えついた。
 その予想は既に当たっており、雑踏のなかで彼は女性達から何か話しかけられていて、優雅に応じ微笑を浮かべている。
 「……困ったな……」
 鉄道を介してユトランドへは四時間かかる。
 さらにそこから南下するのに一時間半。一日の殆どを潰す旅程の中でアクシデントは避けたかった。一週間前、カノン・マルディーニに帰省の同伴を手伝うように頼んだ。あの時もっと強く願い出ればよかったと後悔した。シュナイゼルが単身でノエルの帰省についてくるとしっかり聞いていなかった確認の甘さも原因だ。
 ――……とにかく、悪目立ちは避けたい。
 せっかくプラットホームに降り立ったが今後のことを危ぶみ、ターミナル内にあるブティックに戻った。
 ハンチング・キャスケットとサングラス、軽食用のサンドイッチとミネラルウォーターを二人分。紙袋を抱えて再び三七番ホームに戻ると時刻は待ち合わせ時刻を過ぎ二十五分になっていた。
 シュナイゼルは長い首をキリンの様にさらに高く持ち上げ、周囲を見渡した。ノエルは慌てて駆け寄った。
 「やあ、アストリアス君。ごきげんよう。ホームを間違えたのかと思ったよ」
 「で……殿下……申し訳ございません。出発時刻が迫っていますのでひとまず乗車しましょう。……チケットは一等客室ですのでご安心を」
 「すまないね。小切手を出そう」
 「いえ……それは……お気遣いなく」
 貰ってしまったらあとが大変だ。
 ノエルは詰めの甘さを自覚し、何度もホーム上を探るように首を巡らせる。発車時刻は本当にギリギリまで近づいてきているが、護衛の気配がない。
 「あの……殿下?」
 「なんだい。ああ……あまり面前で殿下≠ニ呼ぶのは控えて欲しいな。気取られてしまうよ?」
 「……ところで、お付きの方がお見えになってないのですが……集合時間を誤っているのでしょうか」
 「護衛が私よりも後に顔を見せたことがあったかい?」
 ノエルの顔がさっと青褪めた。
 「……まさか、何も言わず出てきたなんてことじゃ……」
 「まさか、ね?」
 誘拐と思われたら即刻、電気椅子に座らされるだろう。後でこっそり皇宮宛てに連絡を入れなければ。
 気を取り直してノエルは「プレゼントです」とつい先程購入したばかりの品入りの紙袋をシュナイゼルに差し出した。「おやおや、これは?」と尋ねられている合間にノエルは彼の足元にあるトランクを抱え、押し込むように乗車を促した。
 「それでいざという時は誤魔化してください」
 「わざわざ買いに行ってくれたのかい? ありがとう。……しかしね、案外バレないものだよ。こんな場所に私がいるはずがない≠ニ納得するだろうから」
 道を譲り合って通れるほどの通路を抜け、一等客室に辿り着く。足を伸ばして昼寝が出来そうなほど座席は広々としている。
 荷物を棚上に入れ、買ったばかりのミネラルウォーターと軽食用のサンドイッチを備え付けのテーブルに置いておく。
 シュナイゼルは窓際の席に座りハンチング・キャスケットを被り、窓ガラスの反射を見つめた。
 「どうだろう、似合うかな」
 「お似合いです、殿下。……ですが、お召し物と合わせるなら違う帽子にするべきでしたね」
 「構わないよ。君が選んでくれたんだ。大切にするよ」
 「殿下」
 「殿下≠ナはないよ。今二人きりだ」
 「不敬罪で市中引き回しは御免被ります」
 彼は喉の奥で笑った。
 「護衛の方、なんでお連れになっていないんですか。ご自分の立場をお考えください」
 「羽根を伸ばそうと思ってね。そう説教しないでくれよ。この際、ボディガードは君だ」
 ――なにかあったらしょっ引く気なんだろう……。
 ていの良い口実づくり。しかし彼のことだから、巧妙に位置情報を教えて対策はとっているはずだ。
 シュナイゼルがノエルを疑っていることなど容易に想像つく。忙しさでいえば『わたし』の比ではない人が、七日も時間を割く理由が遊興と交際に費やされるだろうか。
 ノエル・アストリアス≠ノついての捜査――今、彼と同じ標的を前にしている。
 車体が静かに最初に揺れた後、プラットホームから緩やかに景色が移ろいで行く。帝都のビル群を抜け切るのはまだまだ先だ。次第に沈黙が訪れ車窓から景色を眺めるだけの時間がどれほど経っただろうか。
 「久しぶりにチェスをしようか」とシュナイゼルから声が掛かった。
 「チェスですか。……持ってきてないですよ。……食堂から持ってきましょうか」
 「いいよ。慌ただしいだろう。そうだね……ここはブラインド・チェスなんて如何かな」
 ブラインド・チェス。――それは、目隠しチェスとよばれる。
 頭の中にイメージした盤面をつくり、口頭で駒を動かしていくというものだ。四時間の退屈を埋めるにはちょうどいいだろう。ノエルはミネラルウォーターの蓋をねじ切り、それをコインの代わりにした。
 またしてもノエルは後手だった。先手の攻撃を受け流しつつ、その有利性を崩していくには膠着状態に持ち込み時間を稼ぐ必要があるが、その手が何度も通じる相手ではない。だが、シュナイゼルは王道を好むため序盤は余計な事はしないだろう。彼に敗ける多くの者は定石の中に取り込まれてしまうため奇を衒う策に出るが、慣れない動きはすぐに暴かれてしまう。
 「勇ましいね。君はいつも、防御と見せかけて攻める手を好むようだ」 
 「今回は負けそうですよ」
 口ではそう言ったがノエルを勝たせようとするかもしれない、と思った。
 ふっと微笑み、喩えようのない宝石の瞳が探るように細められた。
 「なるほど……ならば、ナイトをf3へ」 
 白は優位性に加えて圧力を増していく。あえて躍り出る戦略も考えたが前回の手と似通っているため避ける必要があった。消去法で伏兵のポーンを仕込み、ルークとナイトを犠牲にし白のクイーンに絞って無力化を狙っていく。彼の視線はクイーンに集中している。
 「……次でチェックメイトです」
 「おや。これは……なるほど。美しい構成だ。キングサイドのポーンからか。私の負けだ」
 ――白々しい敗北宣言だ。
 「私が勝ったとは思っていません。……あなたが投了したんです」
 シュナイゼルは勝負よりも指し方、ノエルの勝ち方とその思考の順路に興味があったのだろう。探られる不快な感触、肺を撫でられているようだ。これで彼に明け渡した戦略サンプルは三つとなった。二つはシュナイゼルとだが、もう一つは彼の弟と。――そんな事を考えていると「もし私が君に負けたことを、ルルーシュが知ったらどんな顔をするかな?」と言った。
 「殿下。わざとでしょう。非公式戦ですしノーカウントです」
 「ふふ。……そうだ、今度は私が君を招待しようか。休暇は長い。ぜひ遊びにおいでよ」
 「……私が? 殿下の? 暇じゃないでしょう、あなたは」
 「だからこそだよ。……休暇にはチェスの相手をしてやるようにしているんだけれどね。そこで君に代打ちを頼めないかと思って」
 ノエルはしばらく考え込んだ。
 「ルルーシュ皇子殿下はあなたと本気の勝負をしたいとお考えになっていると思いますけど」
 「嫌かな?」
 これ以上、夏休みのカレンダーに追加の予定を書き加えたくなかった。それに、おいそれと簡単に遊びに行っていいものか。いいや、罠だ。呼ばれるということは皇宮のセキュリティに検知・記録される。
 ――シュナイゼルが欲しいのは、ノエルの生体情報だ。
 顔をはじめとし、網膜や虹彩、指紋、声紋はおろか、静脈パターンから耳介など。DNAさえもだ。
 脳、血液、神経、皮膚の一部を除いては本物そのものだが情報を握られると今後の活動に支障が出るのは避けられない。
 「考えときます」
 ノエルは目を細めて頷くと、また窓の外を眺めた。景色は緑豊かな田舎町に変わっていた。



 a.t.b.二〇〇七 August 
 ユトランド
 
 乗り換え駅のオークリー・メドウズはユトランドの中核駅でコンコースの展望台からは、遠方に山頂付近にまだ雪が残るピェールス山脈が望める。陽光の筋が幾重にも伸び峰を際立たせきらきらと輝いて見えた。
 売店で追加のミネラルウォーターを購入していると、すぐ近くにいたはずのシュナイゼルは電光掲示板の下に立ちそれを眺めている。その姿を距離を置いたところから囃し立てる利用客の姿にノエルの瞼はぴくついた。
 ――あれでもオーラは貫通してしまうか。
 グラサンをかけさせてはいるが、背筋の伸ばし方、歩き方、マナーから仕草が一般人のものではないからだろう。学院生活ですっかり馴染んでしまっていたが、こうして屋外で庶民の生活圏内で優美な所作を目にすると、彼が公人であると改めて思い知る。
 荷物を背負い直し、ミネラルウォーターを抱えてシュナイゼルのもとまで進み出ると、彼は僅かに首を傾けた。
 「ノエル、遅かったね」
 「すみません、殿下。……そちらの荷物は私が運びますから」
 「待ち合わせ場所までは自分で運んだんだ。このくらい問題ないよ」
 「いいえ、そういう意味ではなく……」
 「かえって周囲に正体を明かしてしまうよ」
 一瞬、納得しかけたが、間合いを見計らって密かに連絡を取っている彼の侍従から既にお叱りを受けている。シュナイゼルの足元に置かれたトランクを持ち上げると南下する列車が到着するプラットホームに降りた。
 「マルディーニも呼べばよかったですね」
 「そうかい?」
 カノンがいれば多少の余裕が持てただろうと思い馳せる。ふたりの間に時折流れる、居座りの悪い無言でさえ誤魔化しようがあったものを――。
 シュナイゼルはカノンの近況をとぼけたように言った。
 「彼は……今、卒業後に向けて必須単位取得にあくせくしているよ」
 「……? 彼の成績は上位と記憶していますが」
 「ペナルティで減点されているんだよ。その取り戻しさ」
 「……だから渋っていたのか……いや……」
 ――待てよ。カノンを呼ばないように仕組んでいた……?
 ペナルティを課したのはシュナイゼルだろうが、とひと睨みする。
 「どうかしたかい?」
 「いえ……なんでも」
 サングラスの下でも穏やかな微笑みを崩さず、ノエルを見つめ返すばかりだった。


 a.t.b.二〇〇七 August
 ユトランド南

 ユトランドはレイク・カントリーの南に位置する州の一つで、かつてワシントンの乱で貢献した初代アストリアス公爵が報奨で最初に与えられた土地だった。それは時を越えても世襲制で子々孫々に相続されノエル・アストリアスは儀礼称号としてアーバンド伯爵を持つが、ゆくゆくは十二代目アストリアス公爵を約束されている。現代的整備を行った鉄道駅から一歩外に出ると牧歌的な緑の混じる白い漆喰と煉瓦色のモダンな旧建築物をそのままにした街が広がっている。
 駅前のロータリーには、既に白のリムジンが待機し、従者が恭しく礼をとっていた。
 「おかえりなさいませ。ノエル様。殿下。こちらです」
 「ありがとう。……先に連絡した通りです。けっして失礼のないように」
 「はい。心得ております」
 そっと耳打ちをしそれまで持っていた荷物を預ける。
 背後を振り返れば、ゆったりと人出が疎らの周辺を確認してサングラスを折りたたむシュナイゼルの姿がある。
 「やあ。今日から一週間。短い間だけれど世話になるよ。……彼の名前は?」
 「ランプシャーです。殿下」
 「ランプシャー。どうぞよろしく」
 従者ランプシャーは頭を下げたまま「至極恐悦でございます」と言った。
 「楽にして構わない。完全プライベートだからね。ノエル、この辺りを少し見て回りたいな。衣料品の調達をね」
 ノエルの目配せを受け取ったランプシャーは深く頷き、リムジンに待機している運転手に事情を伝えた。
 駅と連結するモール内にはいくつもの高級ブランド店が軒を連ねる。良し悪しがわからず、それこそカノンがいればあれこれと得意げにうんちくを披露しただろう。シックな外装のブランドの店前で足を止めたシュナイゼルはノエルに微笑みかけた。
 ――ここがいいってことね。
 扉を開けて彼を通し、シュナイゼルの左後ろに付き直す。
 シャツやトラウザーには目もくれず、季節商品の方へ直進しスイムウェアの並びを前にして、水着を手に取り見比べた。
 「水着……ですか?」
 「川が敷地内にあると言っていただろう。泳いでみたくなってね。……水着を忘れたんだ」
 「殿下も泳ぐんですね」
 「意外かな。ノエルも泳ぐだろう?」
 滞在中の予定は空白だらけだった。採水地の飲料メーカーとウォーターサーバーの事業者の製造工場、行政の視察以外の行動はまっさらであり、どんな事をするかなどはその時々に任せようと考えていた。
 一着で庶民の持つ携帯電話ほどする価格の水着の入ったショッパーを持ってブランド店の外に出ると、たった今思いついたかのように「そうだ。本を購入したい」とシュナイゼルは次なる願いを口にした。
 事前にリサーチ済みであるから抜かりはないが、この辺の大型書店と帝都の大型書店は格が違う。尤もシュナイゼル程の身分であれば電話一本でどんな絶版書でも届けて貰えるだろう。
 「品揃えは良くないと思いますが」
 「郷土史に関するなどはその土地の書店の醍醐味だよ」
 後ろで手を組み、シュナイゼルは東西南北の道が合流するメインホールの一角にある大型書店へと足を向けた。
 棚に収まる文庫版古典シリーズの中から一冊を手にし、パラパラと捲っては同じタイトルの別出版社のものと比較している。
 ――……郷土史関係ないだろ。
 そっと毒づいて、彼の読む書籍のタイトルを覗き込む。
 「ホメロスですか。うちに蔵書ありますけど」
 「訳を比較するのもおもしろいんじゃないかな」
 「まあ、それはそうかも」
 ――……まさか、休み中読書三昧なのか?
 「ノエル。君の好きに選んで構わないよ」
 「……じゃあどっちも」
 イリアス、オデュッセイアの二作品の各社訳本をそれぞれ一冊ずつ買い物カゴに投入する。
 ホメロスだけでは済まず、シュナイゼルは棚の上から下までを順繰りに眺めて「オウィディウスはある?」と尋ねた。
 「ええ。大抵のものは」
 「では、それらを一式」
 一式ということは各タイトル各出版社ごとに、という意味だ。
 カゴの中は本で満たされていき既にずっしりと重たくなっている。
 「それ、全部読み切れるんですか?」
 「君が読むんだよ」
 「はあ?! ……私が朗読をするんですか?」
 「ぜひ講釈もお聞かせ願いたいね」
 「いつも授業でやっているじゃないか」と悪気なくシュナイゼルは続けて言った。
 どうやらノエルには夏季休暇中に休み≠ネどないらしい。
 眉間を指で押さえ、少し唸った。それであればずっと川遊びしている方が遥かに有意義だと思った。ノエルは精算しようとカゴをカウンターに運んだ。
 シュナイゼルはノエルの後ろではなくまた途中の本棚のある一点を見つめて立ち止まっていた。
 店員に精算を後回しにするよう頼み、彼のところに戻るとその背表紙のタイトルを呟くように読み上げた。
 「“体制崩壊の砦”……クラン・ドロフィルード……。フランドロ・ローディックの別名義かな」
 ノエルは目を瞠る。そこでシュナイゼルがフランドロ・ローディックに目をつけていることがはっきりした。
 「……わかったんですか?」
 「単純なアナグラムさ。目次は?」
 ノエルはそのハードカバーブックを手にして目次を開いた。内容はあからさまな王権神授説否定≠ェ目立つ。
 「王権神授説の否定、幻想的血統の打破、王権神話の終焉……」
 「ふふ。よくもまあこの本が……出版社は? 恐らく彼はいくつもの名義を持ち、都度、発禁を受けているのだろうね。しかしそれも有害図書の流通を帝国内で行えばたとえ本籍が帝国になくとも裁判は起こせる」
 シュナイゼルはノエルの瞳を見下ろして微笑んだ。
 「……君がローディックだとしたら……目的はなんだと思う?」
 「同志獲得、レジスタンスへの思想的訴求……ですか?」
 「……フッ、そうだね。的確だ。……もっと踏み込むならば――洗脳、かな」
 ノエルの口角がゆっくりと上がった。
 「共産主義の?」
 「平等を謳うが現実は為政者による富の寡占状態だ。その他の体制の揚げ足を取るだけで、自分たちの腐敗を秘匿している」
 「我々とて同様では? 搾取構造であるのを偽るかそうでないかの差でしかない」
 「君はその恩恵を享受する身の上だが。いささか、高慢な見地ではないかな」
 ――完璧な正論だ。
 ノエルが共産主義者だとしても、彼の立場ではすべてにおいて欺瞞であり、偽善でしかない。浅はかな理想主義者――シュナイゼルにはその様に映るだろう。しかし、これで脅威レベルは下がる。ノエル・アストリアスは若気の至り≠ナ思想を抱く者の行為に酔いしれる世間知らず――そう思われれば、さしたる敵でもない。警戒も緩くなっていくだろう。
 ノエルはクラン・ドロフィルードの本をカウンターに持っていった。
 「彼のロイヤリティに貢献するのかい?」
 「あなただって興味あるでしょう?」
 ノエルはカードで決済し、そばにいるシュナイゼルを盗み見る。
 彼はノエルの決済ルートを追跡し履歴を洗うだろう、と思った。シュナイゼルは本ではなくノエルの行動を誘導するために書店に入ったのだ。ミレーヌ嬢と違いノエルのクレジットカードも口座も正真正銘の本人のものだが、過去の決済情報まで遡り何か掴むかもしれない。それが、今この『わたし』の演じるノエルに不都合な新事実が現れたとしても。
 ――いっそ、シュナイゼルに捕縛されたほうが安全だろうか?
 だがしかし、そうなっては彼を守る盾がなくなる。降参する相手でないならばどこまでも逃がし続けるか、反撃の時間を稼ぐしかない。
 
 モール付近の噴水のある公園。ノエルは本を入れ二重にした紙袋をそっとベンチに降ろした。生温い夏の風が水のにおいを連れていた。公園は地元の人々の憩いの場になっているのか、親同伴で遊びにきている子どもたちが声を弾ませてエネルギーを発散するようにどこまでも走り回っている。
 購入したばかりのハードカバーを開き封じられた後半部分の包装を解く。
 「出版社はイース・ルヴィエール印刷局だそうです」
 「イース・ルヴィエール印刷局……? ふむ……面白そうだね。虚構の出版社だと思うよ。実体は別だ」
 ノエルはあえて追及した。
 「虚構?」
 「地下出版といったほうがいいかな。君が以前持っていた本。あれも企業出版ではなかった。……この通り別名義で市場流通するものもあるが、卸売と書店との取引はどうなっているのか探り甲斐がありそうだよ」
 「……地下出版を行っている場所――所在地は知っているんですか」
 「気になるかい?」
 それを知ってどうするつもりだ――と彼の薄明の瞳は物語っている。
 エイムスバレーの労働地区。――第二教区正十字出版社とは労働地区を地図にした時の見取り図そのものだ。
 「……君の方こそ、詳しいんじゃないかな。あの本をどこで入手したんだい」
 「古本市場で見つけたと言ったら?」
 出任せだったがシュナイゼルは「なるほど」と静かに頷いた。実際、不特定多数の目に触れる場所での頒布はあるだろう。
 考え込んでいると彼は何かにはたと気づき、静かにノエルの顔をじっと見つめていた。そして顎でその方を示した。
 今度は何だと顔を向ける。赤レンガの広場の片隅。キッチンカーでレモネードが売られていた。 
 「……レモネード?」
 「喉が渇かないかい。飲みたいな」
 買ってこい≠フ合図だ。
 「……Yes, Your Highness」
 パシリには慣れている。ノエルは薄笑いを浮かべお使いを頼まれた。

 低い建物の続くこじんまりとした田舎の景色と、ゆっくりと流れていく淡い雲をぼんやりと眺める。まさかこんなところに帝国の統治者の子供がいるだなんて夢にも思わないだろう。
 ベンチに深く腰を落ち着けてストロー越しに甘いレモネードを吸う。程よく冷やされた液体が喉を潤し心地よく腹に落ちていく。
 「公爵は屋敷に滞在されているのかな」
 「……タウンハウスの方です。ここより北のディア・ボーンの」
 「今年は別荘には行かないのかい」
 「別荘ですか」
 「休暇中はそこでパーティーを主催していると小耳に挟んだものでね」
 本物のノエル・アストリアス≠フ行動をそこまで調べたかと感心した。しかし『わたし』はノエル≠フ過去にそれまで無関心だった。シュナイゼルが話題に上げるということは注視≠オているという意味だ。つまり『わたし』もそのパーティーについて調べる必要がある。
 「……殿下が視察にお越しにならなければそうするつもりでしたよ」
 「おや。それは悪いことをしたね」
 軽やかに笑って受け流すが、瞳の奥は鋭い輝きを湛えており、本当の意味で笑っていないのを知っている。ノエルは「ああ、そういえば」と視察の件を思い出した。
 「採水地の関係各社・行政には問い合わせ済みです。明後日に訪問しますがよろしいですか」
 「ああ。ありがとう。こちらでの都合は君に一任するよ」
 緊張はこのレモネード甘みのようにほどけることはないようだ。
 子どもたちの歓声が不意に大きくなり、鼻先に草原の薫りが掠めていく。口の中で甘い水にどこかで味わった炭酸の刺激が蘇った。


 a.t.b.二〇〇七  南ユトランド
 フェルサイド・マナー

 アストリアス公爵の屋敷はやや盛り上がった丘の上に建ち、そこから波打つような広大な平野とその向こうに小高い山をを見渡すことができた。付近に流れるなだらかな曲線の川筋がいくつか合流し、大きな脈を形成する地形の合間には高い木々の連なりと、小さな村や街が点在する。教会の鐘楼の尖塔が白く光っているだけで、他に遮るもののない、ただ見晴らしのいい丘からの景色はひどく退屈だ。
 二階にあるゲストルームの窓を押し開けると、一気に大地をさらった風が吹き込んできた。
 「いい眺めだ」
 「三日も過ごせば飽きますよ」
 「楽しませてくれるだろう。期待しているよ」
 ノエルは彼の微笑みを眉を上げて躱した。
 「こちらにクローゼット、奥にバスルームがあります。お好きなようにお使いください。ランプは? 点きますか」
 ベッドの脇で荷解きを始めていたシュナイゼルがサイドテーブルの上にあるシェードランプのスイッチを押した。カチリと音とともに暖色の光がぱっと灯る、西日から遮られて薄暗い室内の中でその光は強く主張した。
 「問題なさそうですね。……非常口はこの部屋を出たら廊下の右側奥の突き当りにあります。何かご用命があればヘッドボードにある呼び鈴で……ボタンがあるので押してください。執事のノードンが光の速さで駆けつけることでしょう」
 「ご丁寧にどうもありがとう」
 ノエルは両手を打ち執事に伝えられていたことを思い出した。
 「夕食前ですが……ろくに食べてないですし、軽く摘めるものを用意させています」
 「ああ。お腹ぺこぺこだよ」
 シュナイゼルがシェードランプのスイッチを押した。室内は屋外の光の黄色と薄青い陰影の二色の世界に分割される。
 反射光が優れた金色の髪や白い肌に揺らめいた。

 「この地にピュタゴラスという人物がいた。サモスの生まれでがあったがこの島とその支配者たちをのがれ、圧政を憎んで、進んで亡命者となったのだ……」
 新品の本の紙は指に馴染み吸い付くようになめらかだ。夏の花――デルフィニウムやジギタリス、アスターの咲く庭のガーデンファニチャーはどれも流麗な曲線を描き装飾的だ。ノエルはラタン製の安楽椅子に寝そべり、テーブルを挟み向かい側に座るシュナイゼルのためにオウィディウスの変身物語を朗読した。
 テーブルの上にはティーセット。三段に重なる銀プレートにアップルパイやスコーン、スモークチキンとアボカド、トマトの挟まったサンドイッチが盛られている。乳脂肪分別にクロテッドクリームは二種類。ジャムはラズベリーにマーマレード、桃、蜂蜜、バターと豊富に取り揃えている。
 スコーンの上にたっぷりのクリームとラズベリージャムを載せて、大口を開けることなく、しとやかに食べ進めるシュナイゼルの顔を本の陰から覗く。
 紅茶を飲みスコーンを押し流し、彼は涼やかな眼差しをノエルに向ける。それから逃れるように、紙面の文章に視線を落とした。
 「続けて」
 短い命令を受ける。
 傍らのサイドテーブルに手を伸ばしカップから紅茶を口に含む。すぐにそれを元に戻し、親指を挟んでいた頁を開きお直しては続きの文章を辿る。
 「冷たい死の恐怖におびえている人間たちよ、どうしてあの世を恐れるのか? 暗闇を、どうしてこわがるのか? われわれのからだは、火葬堆≠フ炎に焼かれようとも、長い年月に朽ち果てようとも、何の苦しみも受けるものではないと知るべきなのだ。霊魂にいたっては、これは死ぬことがなく、以前のすみかを去っても、つねに新居に迎えられて、そこに生きつづけ、そこをすみかとする=v

 ――万物は変転するが、何ひとつとして滅びはしない。

 「万物は変転するが、何ひとつとして滅びはしない。魂は、さまよい、こちらからあちらへ、あちらからこちらへと移動して、気にいったからだに住みつく。獣から人間のからだへ、われわれ人間から獣へと移り、けっして滅びはしないのだ。柔らかな蠟には新しい型を押すことができ、したがって、それはもとのままではいられないし、いつも同じ形をたもつことはできないが、しかし同じ蠟であることには変わりがない=v

 ――それと同じように、霊魂も、つねに同じものではありながら、いろんな姿のなかへ移り住む――。
 一文に目を凝らす。過去どこかで耳にしたような言葉の違和感。
 ――『万物は永遠に流れゆく川のようなもの。今ここにいるおまえも、その身体の細胞は日々生まれ変わり、古いものは死に、新しいものが取って代わる。おまえは昨日の自分ではない。同様に、肉体を離れた魂も、別の器を求める。その時、過去の記憶も、その肉体での役割も失われ、新たな生を始める』
 淀みのない言葉。声。
 ――声?
 背筋が際立つ。あのボイスレコーダーの声の男。ノイズ混じりの霧の中に漂う正体不明の男。 
 目を見開いたまま硬直するノエルを訝しみ、シュナイゼルは声を掛けた。 
 「どうしたんだい」
 「……いえ。なにか……」
 何かが思い出せそうだが、蓋は何重にも頑強な鎖に巻かれ、押さえつけられ、南京錠によって堅く守られている。
 「万物の変化は無意味だと思うかい」
 「……どんなに栄えてもいずれは衰えていく。栄枯盛衰です。……このブリタニアとて栄華を誇っても終焉はある。されど、何度も乗り越えてきた。形を変えながら歴史となっていく」
 シュナイゼルが空になったカップにフレーバーティーを注ぐ。
 「……私達は、地球……宇宙にとっての細胞に過ぎない。では人間とは?」
 「意味を名付ける者。信号を送受信し作用し合う。細胞同士のコンタクト」
 くすりと小さく音をたてて笑う声が草花の揺らめきに吸い込まれていく。
 「彼女と同じことを言う人がいるとはね」
 「……王女殿下の?」
 「学者肌のね」
 シュナイゼルはティラナ王女のことを彼女≠ニ呼ぶ。義務的な、適切な距離感を保とうとするように。
 それ以上に驚いたのは、いくら捻ってもその言葉の記憶が空白だということだった。
 ――……入れ替わった時そんなこと言ったっけ……?
 なにせ六年か七年も前の記憶だ。忘れないように憶えられる限りのことを反芻するが、本当の『わたし』の姿さえ思い出せなくなっていた。虫食いの穴だらけのそこに姫様の姿を思い出して、『わたし』は彼女の影だったと言い聞かせて、存在の形を押し留めている。
 幸いにもシュナイゼルの記憶ほど確かな情報はない。高度な計算機のように。正確無比に。過不足なく必要なだけ。外付けの記録装置のような信頼性をもって。
 「婚約者がいるというのは、どのような感覚ですか?」
 「君は……選り取り見取りだったね」
 「はい。選り取り見取りですよ」
 本を持ったまま両手を広げてみせる。
 彼は視線をしばらく宙に預け思案した後、具体的な例を上げた。
 「右手と左手。アクセルとブレーキ。フォークとナイフ。……こんなものかな」
 「へえ。実用的ですね」
 「欠けると機能しなくなる」
 その通りだ。互いを相互補完し機能する。彼らふたりの立場も同じ。無理をすれば出来ないこともないが、それぞれが見合う能力を適切に使用することでしか本領を発揮しないものがある。肉体、駆動車、規則の象徴――国家を象徴しているようだ。
 「殿下にしては、ロマンチストな喩えで驚きました」
 「そうかい?」
 「政略結婚だから義務を優先しているのだろうと」
 「そういう側面があるのを否定しないよ」
 本をサイドテーブルに置いて、皿に盛られたままのスモークチキンと野菜たちのサンドイッチを取る。
 「あーあ。残念だなぁ。あなたほどの人がよその国の人になっちゃうなんて。ブリタニアの国益を損ねますよ。……私だったらどうにか解消させますよ。……たとえば……ティラナ王女を殺す、とかね」
 興味深げに細められる瞳を見つめ返し、ノエルはわざとらしく肩を揺らして笑った。「冗談ですよ。私にできるわけがない」といいながら、大きくサンドイッチを頬張る。
 不敬な失言を受け流しシュナイゼルは「では、もし出来るとしたら君ならどうする」と尋ねた。
 親指についたソースを舐める。
 「……うーん、そうだなあ……やっぱりたくさんの仲間は必要ですよね。優秀であればあるほど成功率は高まる。ただし自惚れの賢い者は仲間に入れない。勝手なことをしでかすから。……様々な分野に精通し、機動力のある仲間をたくさん作って追い詰めるのが定石でしょう。……私は自惚れ屋なので要らない人材ですよ。ご安心を」
 シュナイゼルはしつけ縫いのような微笑みで「使いどころはある」と言った。
 ノエルはにやりと笑って「情報撹乱、陽動作戦にはもってこいではないですか?」と言い返した。
 「推理小説でもっとも怪しい人間は犯人ではなくブラフですよ」
 二つめのサンドイッチに手を伸ばし齧る。
 「そして、早々に退場する」
 「裏で暗躍するために?」
 「ああ、それもありますね」
 濡れたタオルで指先を拭い、冷めきった紅茶を喉に流し込む。
 シュナイゼルは質問を続けた。
 「……野良の組織のため、兵士を集める方法は?」
 「優秀なのに社会からあぶれた人、また優秀であることを証明したい人、居場所のない孤立した人、集団に心酔しやすい若年者、考えに固執する老人、金のない者の手軽な労働……。大義名分や都合のいい権威性も用意してあげて、扇動すればイチコロです。プロパガンダの完成です。シームレスな情報の渦中では人間に正確な情報の取捨選択と判断は不可能です」
 「君が支配者だとしたら?」
 「まず銀行を押さえ、軍事力を握り、世論を味方につけるでしょう」
 安楽椅子に体重を預ける。湿度は低く花の匂いと、美味しい食べものに満たされる幸福。夏の陽は長く永遠の楽園にいると錯覚する。
 
 
 白い石畳の道に人影は少なく、建物の濃い影と付近を流れる川のせせらぎと鳥の囀りが田舎町の一角にあった。
 祈りの時間はとうに過ぎ、説教師は表門で頭を下げたきり入ってこなかった。朝の散歩にちょうどいいと町まで歩いてきた。軽やかなカラーシャツに白のスラックス。磨いたばかりの靴が光っている。シュナイゼルは何を着ても似合った。軽装であれ正装であれ。
 ――それは、昔からそうだった。
 ぼんやりと浮かぶ記憶の泡沫のなかで、着替えの準備に手間のかからない子供だったことを思い出す。
 衣装係は子供の男性王族の衣装作製の蓄積があり、十日ほどで彼の儀礼用の衣装を仕立て上げた。対して王女のものはいつも時間がかかる。動きやすい簡易な長いワンピースを着ていると、たとえ入れ替わっている時でもちゃんと侍女の扱いを受けられた。
 「古い教会だね。十五世紀の時計機構がまだ使用されている」
 外観をひと目見てこの国ですべてを持つために生まれてきた青年がいうとその形容には価値があるように思えてくる。
 錘時計。振り子時計と混同されるが左右の往復時間と垂直への重力の降下は性質が明らかに異なる。
 ブリタニアの歴史を鑑みるならば十五世紀の代物がずっとここに残っているわけがない。
 「移築でしょうか。時計≠サのものが残っていることに価値があるのでは? 針が進むことより、進み続けた痕跡が」
 「Clocca……鐘、か。音で時を告げていた頃、人々は耳≠ナ時間を感じていた。それが今では、目で追うようになった」  
 無人の教会の中は静謐で、熱が上がってきた外よりもずっと冷たい空気が大昔から滞留しているように古い匂いがした。ふたりは木製の長椅子の列を通り探るように聖堂内を見回した。
 ステンドグラスの光が差す奥の壁へと歩く。そこには、風化した石に刻まれた碑文がある。
 鐘の音が止み、聖堂は静寂に包まれる。ステンドグラスの青い光が二人の影を伸ばす
 「聖歌の一節ですね。古い形式だ」
 「“Et regnum cadet, sicut folium in hieme.Sed germinabit iterum, sub lumine abscondito.”」
 「……そして王国は冬の葉のように落ちる。されど、秘められた光のもとで再び芽吹く」
 しばし考え込むノエルにシュナイゼルは「戻ってブランチにしようか」と声をかけた。

 ルッコラと無花果のサラダ、クルミとゴートチーズ。オムレット・ア・ラ・ブランシュ。デザートに白桃とミントのマチェドニア。
 朝の教会から戻ってまもなく、アストリアス公爵邸の庭では、使用人たちによって楡の木陰に白布のかけられた丸テーブルと籐の椅子が用意されていた。木漏れ日が、皿に載った食材の上に金と緑の斑模様を落とし、鳥の囀りと水辺のせせらぎが、遠くから聞こえる。
 ノエルはシュナイゼルより少し遅れて席についた。
 風に揺れる淡い髪、濃い緑の中でその姿は影のように輪郭が曖昧だった。
 黒い陶器皿の上に、深緑のルッコラと紫の無花果、白くほぐれたゴートチーズが盛られ、焼かれたクルミが散らされている。
 ノエルは、しばしその彩りを眺めたまま、フォークを取らない。シュナイゼルが先に口をつけるのを見守り、小さく息を吐いて口に運んだ。

 領地内の農園までの道を歩く。少し様子を見てくるだけだといえば、シュナイゼルが興味を示し行きたがった。腕に掛けたバスケットにジントニックとグレープフルーツジュース、ビスケット、キャラメル、パンの余りで作られたラスク、青リンゴが二玉。
 長い一本道と広原の中を進み歩くだけの時間、退屈とは無縁だった。
 「欺瞞の正当化はいかほどまで許されると思うかい」
 「……そうですね」
 彼は本を片手にホメロスのオデュッセイアの話における問いを投げかけた。
 盲目の吟遊詩人、ホメロスの代表作のひとつ。西洋文学の礎であり、あらゆる時代の王侯貴族の子弟たちが教養として嗜みに数えあげた作品である。オデュッセイアとは、トロイア戦争を終えた英雄オデュッセウスが、故郷イタケーへの十年間にわたる困難な帰還の旅と、帰還後に妻ペネロペの求婚者たちを退治する物語である。
 神々の怒りにより難破し、漂流生活を余儀なくされた彼は力ではなく、知恵≠竍策略≠ナ困難を突破していく。
 オデュッセイアは度々人を欺き、その物語自体が自伝的英雄譚であり、美化と誇張と都合のいい解釈によって成り立っている。――いわば、信頼できない語り手である。
 「人間的知性の象徴とか?」
 「肯定的なんだね」
 「嘘とは嘘をついた本人以外に知られた時か、本人が突き通せないほど脆弱である時に嘘の報いを受けるのであって、そうでないなら多くは、まやかしであれ幸福のカンフル剤ですよ」
 喉を鳴らして彼は笑った。その横から見える長い睫毛が綺麗にカールしていた。
 「いやね。同意見だったから」
 「殿下は嘘を嗜みになられるのですか?」
 「君も、だろう?」
 「揺さぶろうったってそうはいきませんよ」
 「手強いね」
 農園に到着すると、収穫を終えたばかりの野菜が倉庫の入口に土をつけたまま箱に入っているのが見えた。農夫にひと声かけ辺りを散策する。葡萄、桃、チェリー。いくつか分けてもらってデザートにするのも悪くないだろう。
 食べ頃なピンクがかった赤いペッシュ・プラットを一つもぎり匂いを嗅ぐ。薄皮越しに瑞々しく芳醇な甘さが香り立つ。折り畳みナイフで実を割り皮を剥く。
 「うん、美味しい。……殿下もどうぞ」
 種を取り除き、半分に割ったものをシュナイゼルに差し出す。彼は平たい桃ではなくノエルの手首を握るとそのまま、掌のなかにある実に齧りついた。艷やかな波打つ金糸が掠める。
 「私の手は皿でもフォークでもないんですが」
 わずかに果汁が滲み、手首に垂れる。それを舐め取る一瞬の舌と唇の感触が皮膚に伝わる。
 「失敬、……まだ少し実がかたいけど、甘いね」
 「マスカルポーネチーズと一緒に食べると美味しいですよ」
 「楽しみだね」といって彼は蟠桃を手に残りを食べすすめた。

  
 錨をおろし漂う小舟の上から水面に指をかけると細かい波が襞をつくり、遥か遠くにまで大きく広がっていく。
 反対側の端にもたれて本を読んでいるシュナイゼルは買ったばかりの水着を履いて白い上裸を晒している。彼の長い脚は折り畳みきれず、座席の上に載せ足首で交わらせている。身を浅く保つことでボートの均衡を保っているふたりに会話はない。
 サングラスに覆われ視線の動きは不明瞭だ。静かに本の頁をめくる音と、船体にぶつかる水の音、風で揺れる木の葉の擦れ合う音。また指で水をかき回す。
 シュナイゼルがゆっくりと口を開いた。
 「理事長からきいたよ。オファーを受けるんだって?」
 「オファーって大層な。ただの視察ですよ。視察」
 「ブリタニア以外も視野に入れているのはなぜかな」
 体勢を変え仰向けになる。舟が揺れ音が大きくなった。
 ノエルの胸の傷はとっくに治っていた。日焼け止めの独特な香りが鼻につく。太陽は頭上にあり、眩しくまた軽く汗ばむほどの熱を放っている。荷物のなかを手だけで探ると指先に硬いケースの感触が伝わる。
 「大学は国ではなく研究内容が重要ですよ」
 「もちろん。……分野は絞ってあるのかい」
 「おおよそは」
 頁を捲る音がする。
 「ブリタニアならどこへでも書いてあげるよ」
 出せる≠ニいうのは推薦状のことだ。理事長だけでなく学院代表のサイン入りの推薦状が必要だった。
 ノエルは条件などお構い無しに手元の工作に夢中だった。ターボライターのパンチで葉巻のヘッド底面に穴をあけ、先端をライターで回すように炙った。
 エリア三――大陸南の一帯のうちの一つ、ドミニカ産の葉巻。強く甘い薫りが口内を満たしていく。
 サングラスを外し、シュナイゼルはノエルを睨んだ。
 「殿下もどうです?」
 「いけないね。ノエル。今年から法改正された。十八歳からだ」
 「……私有地なんで。治外法権ですよ」
 「ここだけ時の流れが遅いだって? 主観的判断だ。さあケースを渡しなさい」
 長い腕を伸ばし、さあ、と手を広げる。推薦状の話をしたうえで間が悪いなと思い、葉巻入りのシガーケースを渋々渡す。
 「そちらの葉巻とライターもだよ」
 「もうちょっとだけ。……あー、これが大人の味! 最高!」
 本当は十六歳や十七歳どころではないのだが、ノエル・アストリアスの体でいる限りもとの年齢などあてにならない。
 煙を溜めては吐き、また溜めていく。空は澄んでいるが吐き出すと工場地帯の煙のように見えた。
 ――こんな時、主権免責特権を持つが姫様が羨ましい。
 主権免責特権とは君主あるいはその地位に該当する者に与えられる、自らの地位から生じる裁判権からいかなる事由での罪からも免れるという王権最大の特権である。国際法の原則であるため、外国であってもその犯罪には問われないというわけだ。残念ながら、今やただの他人の成りすましには適用されない。
 それでも引き下がらず食らいつく。
 「だから治外法権ですって。ここは学院じゃないし」
 「帝国法の話をしているんだよ」
 「かたいなぁ……どうせ調べついてるんでしょ。私がいかに不良であるか。いまさらじゃないですか。親告罪で警察に引き渡しますか? 視察の件を帳消しにするだけでいいか……。……殿下は、儀礼場面ですすめられたら断るんですか?」
 「酒はともかく喫煙は違うよ」
 身を起こすとボートのバランスが移り船体が上下する。波打つ水音と水影の反射が美しい青年の顔に反射する。
 ふっと息を吐き出せば、白いスモークは緩やかに漂いシュナイゼルの顔をヴェールのように包みこんだ。
 「お裾分け」
 彼は微笑み、不良少年からそっと指から葉巻を引き抜いた。


 レモンの木をいつ植えたかなど問われれば答えられないだろう。
 ずっしりとした実は今にも地面に落ちてしまいそうだ。素通りすればいいものを縫い止められたかのように動けなくなったのは昨日飲んだレモネードの味が口内に蘇ってきたからだろう。
 短い宵の始まり。
 吹き込む風は涼しく活動的になるには最適な温度だ。厨房から上階のゲストルームまで戻って来ると、窓から入る心地よい風がグラスに差し込んだストローを揺らした。
 彼は窓際で誰かと通話している。真剣な様子から休暇を遮る用件だと察して、ノエルは側にあるテーブルに銀のトレーを置いた。
 出ていけ≠ニも命令しないのでノエルは一人掛けのソファに座って待つことにした。彼の方には読みかけのウェルギリウスのアエネーイスの本がある。本には栞が挟まれているのか筋が入っている。やがて話を終え戻って来ると「それは?」と首を傾けた。
 「どうぞ。夕方に採って帰ってきたレモンで作りました」
 「レモネードを?」
 「スタンドのよりも甘めにしてあります。……っぷはぁ……!」
 試しに一口飲んでみる。口の中に炭酸の微細なバブルが弾け痛快な衝撃に顔に皺をつくる。
 「炭酸?」
 「昨日飲んだものはパンチがありませんでしたね。……スパークリングは苦手でしたか?」
 「いいや。……いただこう」
 シュナイゼルはグラスを持ち上げレモネードを吸った。一瞬にして広がる、言葉にならぬ刺激に目元の筋肉が強張るのがわかった。
 「うん。美味しいよ」
 シンプルな感想になにか考えて「蜂蜜を多めに入れた?」と訊いたのではっきりと肯定した。
 「炭酸で風味が消えるから、多めに」
 それから閉じられたアエネーイスを途中から開き、肘掛けに腕をつき、思索に満ちた目で文字を追いかけ始めたかと思うと「アエネアスについてだが……」と何度も経験した問答の口を切った。
 「運命は絶対的なものとして描かれるが、英雄アエネアスの行動は神々の宿命に対して無駄な抵抗だと思うかい」
 「……人間讃歌が目的であるなら抵抗さえも物語になりうるのでは? だってこの本を読んでいるのは神ではなく我々人間です。人間のためのものだから、愚かしさを装飾し擁護する余地が求められるんじゃないでしょうか」
 シュナイゼルは静かに言った。
 「模範解答だね」
 「文学は政治と密接に関わっていた。ローマ帝国初代皇帝アウグストゥスの政治的プロパガンダとして機能した点からいっても、主軸は神ではなく人間にあります」
 「……フランドロ・ローディックの本のように……?」
 「……かもしれません」
 わずかな緊張が走った。気配は予測通りゲストルームの前に迫っていた。
 そして扉を叩く音にたった今気づいたように振り返った。執事が部屋に二歩入った。
 「ノエル様。明日のご予定の確認に参りました」
 「ありがとう、夕餐の席でも言ったように九時頃に出発するよ」
 「かしこまりました」
 深く頭を下げ執事は部屋の外へ出て扉を閉めた。
 アストリアス家の使用人はみな静かで穏やかだが、本物かどうかは『わたし』にはわからない。確かめるには本物の本人を知る必要があった。よって、この屋敷の中で迂闊は話はできなかった。
 中断された話をどこから戻そうかと考えていると、「なぜ本だろう?」とシュナイゼルは続けた。
 「……今や本などはデバイスを介しても読める。その他の伝達手段はある。それでもなぜ、そうするのだろうね?」
 「答えには気づいておられるのでしょう」
 「まあね。……言わせたがりは嫌いかい」
 シュナイゼルの頭脳が間違うことは殆どない。希望的観測に対して実践的で着実なルートを選択する。言葉巧みに操作することは呼吸と同じだ。しかしノエルは目算ではなく、実際にその本を読む者達を前にし、会話をし、実態の一部を把握している。
 情報を与えすぎるとノエルの足跡が明るみになるだろう。推薦状を書かせるまでは駆け引きをする必要があった。熟考し時間をかけて、それらしく振る舞う。
 「……本というのは嗜好品の時代だったこともあります。特権・知識階級の人間にしか価値がなかった。識字率の低かった時代。文盲のひとがいた時代。今は教育というものが受けられます。ブリタニアも平民であっても最低限学習機会はある。……ローディックの本は非常に平易で……平民を基準にした場合、初等科であれば高学年で読みこなせるでしょう。それはなぜか?」
 シュナイゼルは脚を組み、面白そうに口角を持ち上げた。
 「物語というのは類型すると、最小の数まで絞っておよそ七つのパターンがあるそうです。ジャンルは喜劇だとか悲劇だとか、勇敢な騎士の物語や、英雄劇、探求、再生……これらの古典と同じように。……原則は同じなんです。彼の作品の特徴は推理小説のようにルールに従って書かれる。少しずつ味付けを変えてあるだけで……その骨格は子供でもわかるようなものを題材にし大衆小説の皮を被せている」
 満足そうに頷いた。
 「……これで、よろしいですか。殿下?」
 「答えを最後まで言っていないよ」
 「……読み聞かせをするんですよ」
 「ああ」
 「人間の脳の認識は個人差がある。視覚的に優位な者、聴覚的、文字の認識、空間の認識。……本というのは五感を刺激します。五感を通して情報を侵入させていく。では先程、子供の話をしましたね。子供とはたいてい自分の力だけで読むことはできない。子供だけでなく文盲のひとたちは朗読で情報を仕入れます。子供も文字を完璧に読めるわけではない。近くの大人の手助けを借りて読むことをするでしょう。本を読むことの中にある行為、実は拡散効率が非常に高いんです」
 ちらりとシュナイゼルを見遣る。彼はまだあるだろう≠ニ笑みを深めた。
 ノエルは呆れて鼻から息を吐いた。
 「情報とは反芻することで脳に定着していく。電子化された情報には閲覧のための環境条件に制約がある。――もっとも優れた効果は……疑わない相手からもたらされること」
 親から子、友人、恋人、仲間、知り合い――。
 愛情のなかに、人々の信頼と信用を借りて着実にウイルスのように潜り込んでいく。
 「思想汚染≠ナすよ」
 「上出来だよ」
 「どうも」
 乾いた口の中にレモネードの甘酸っぱさを取り込む。
 シュナイゼルは俯き、何かを考え、それから眉間を指で揉んだ。ノエルは黙ってそれを眺めていた。忠実な下僕のように。
 「……悪いね。肩を貸してもらえるかな」
 「いいですよ」
 ノエルは席を立った。シュナイゼルの傍らで身を屈め、肩に回すように脇の下に腕を差し込んだ。
 「立ち上がれますか?」
 「……ん、ああ」
 グラスを倒れてしまわないようにテーブルの端から中央へ押し出す。
 ベッドまで運ぶ。ほとんど足に力が入っていない。倒れ込むようにベッドに仰向けになり、閉じた瞼が開くことはなかった。年齢相応の無防備な寝顔。淡い月光がブルーの影色をつくりだし、白い頬に差し込む睫毛をより長く見せる。
 「殿下? おーい。……お疲れだったんですね」
 声をかけたあと、しばらく見下ろしていた目を壁にかかった時計に向ける。眠剤の効果は六時間から十時間ほどだ。同じ手は二度と使えない。今夜中に調べ尽くす必要があった。
 ノエルはテーブルに戻った。
 「……おっとっと」
 わざとらしかっただろうか。
 テーブルに残った本に栞を挟み、グラスをトレーにのせる拍子にマドラーを落として床に這いつくばる振りをする。
 枕の下。ベッド下。カーペット裏。サイドテーブルの引き出し、その裏――。
 ――あった。
 思わず口角があがる。
 シュナイゼルが策もなく無防備を晒すはずがない。小型の薄型盗聴用ボイスレコーダーが養生テープで貼り付けられている。それに手を伸ばすことなく、そっと引き出しを押し込む。
 マドラーを回収し、床から立ち上がる。飲み干したグラスの底にマドラーの先が当たるようにわざと音をたててやる。
 「甘すぎたかなぁ……」
 トレーを持ち上げ、部屋の扉の前でもう一度シュナイゼルを振り返る。一定の間隔で胸が上下する。よく眠っている。
 「おやすみなさい」
 月が薄雲に隠れていく。影の境目は消失し均一になる。



25
午前四時の異邦人
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