a.t.b.二〇〇七 July 南ユトランド
フェルサイド・マナー
月明かりが完全に失われた夜。
シュナイゼルを眠らせたノエルは屋敷の地下室の金庫の前にいた。白手袋をはめ、私室の執務机の天板裏にあったパスワードの数字を打ち込み操作する。金庫は実に見事な早さで開いた。中には様々な場所のカードキー、帳簿、口座情報の発行書、ノートブックがあるべき場所に収められて持ち主の秘密と沈黙を守っている。
その中にあるノートブックの何冊かを開き、携帯電話の灯りをライト代わりに照らしつける。
――イーサンウッド、ブレア・ヘイヴン、クローデン・ハウス……。二年間その地で行なわれている……。
「……献金記録? ……なぜ徴収ではなく寄付しているんだ?」
どれも近郊にあるアストリアス公爵所有の別荘の名だ。しかし、献金記録は妙だ。誰に?と首を傾げていると、いくつかの行の下に寄付先であろう名がある。
カンタベリー信託銀行。ACML医療財団。アクィロ・セントラル信託銀行。
――……ブリタニアの銀行、国際的医療財団、そして、カストラリアの銀行……。
寄付額は一回につき各宛先に学院の年間の学費ほど。ノエルは奨学生なため免除されているが、帝都で平民が二階建て庭付きの新居を購入するのに必要な額だ。決して安くはない。総額でKMFの開発・研究費にも匹敵するだろう。
携帯のカメラ機能を起動し無音撮影する。
ノートブックをさらに捲る。招待状を送るためA四紙に招待客の名前と性別、肩書きがメモされている。その紙は全部で十五枚。クリップで留められている。
――参加者の名前にマークがある。
ペンで黒い丸で塗りつぶされたマークが名前の前に打たれている。
名前の主は政財界、学術・研究分野、医療・福祉分野とその業界トップの関係者達だ。大抵は貴族である。
無音カメラで撮影していく。
『わたし』はブリタニア人ではないし、帝国の貴族社会のことについては詳しくない。派閥や権力勾配。せいぜい知るのはシュナイゼルの母アーデリントの生家と支持する大貴族達の家名くらいだ。事業を持つ 貴族はわかりやすいが、資本主義面の生業を持たないか、過去、九七代治世の断罪を免れたか、十年前の血の紋章事件などでお目溢しがあった旧家などといわれたら自信がない。
唇を軽く噛んだ。
――シュナイゼルを叩き起こすか? いいや。そんなことしたらノエルどころかアストリアス公爵がお縄頂戴になる可能性がある。まだ捕まるわけには……。
「くそ。……あの人なら確実なんだけどな……」
頬を掻く。
この屋敷にいる者たちだって組織の人間でない保証はない。一緒に捜査などしていたら、共謀を悟られる。だからこうして眠らせているんじゃないか。
なにかに繋がるはずの証拠の山を前に力不足を思い知る。悔しい。ノエルがパーティーを開催すれば集まるメンバーと捉えていたが、莫大な寄付金の情報を知った今、見方が変化する。ノエルは主催させられていたのだ。
――なぜ?
アストリアス公爵が関与しているとも考えられるが、招待状の主催者の名は彼の父ではなくアーバンド伯爵の名と印が押されている。
貴族社会において女子はデビュー年齢に定めがあるが、男子においてはその家の方針や大貴族クラスともなれば爵位を持つため社交界の出入りは女子ほど険しくない。
金庫の中をさらに慎重に漁る。ひとつの似つかわしくない洒落たジュエリーケースを発見する。貝殻の装飾的なケースの蓋を摘み上げると、金の塗装の小さな鍵が一本。
――……この鍵は……?
人差し指と親指で持ち上げ灯りに近づける。在り処を表す特徴的な目印は何もない。
「どなたです」
――やば。
咄嗟に携帯の灯りを消し、地下室は一気に暗闇に満たされる。
入口の扉が開き煌々と外の光。逆光の執事の姿が室内を探っている。革靴がコツリと音をたてる。息を潜めたが。彼は退くことなく懐中電灯を点けた。手の中にある鍵を握り込みスラックスのポケットに突っ込む。金庫の扉を少し開けたまま柱の陰に身を滑り込ませる。
執事は地下室を巡回しあちこちに光を向け、半開きの金庫に気付いた。カタンとという音ともに金庫は閉じられ、パネルの操作音が鳴る。桁数は六桁だ。
――変更されたか?
すると今日の捜査は終いだ。証拠情報は画像に収めた。まずまずといっていい結果ではないか。
ある程度納得させ執事が完全退室するまでの時間、埃の漂う闇の中を一点凝視する。
――暗闇。
ありもしない恐怖を人は勝手に作り上げる。その最たるものは暗闇という仮初の盲目だ。
頭を振る。
嫌なイメージが過る。
瞼を閉じる。
フラッシュを焚いたような閃光が駆け巡る。
暗闇の中、這い出ようと必死にもがく自分の白く柔い指。触れた硬く冷たい肉の塊。死体の感触。積まれた屍のピラミッド。野ざらしにされ、粉雪が降りかかり、いくら吐いても白くならない真冬の朝の吐息。
黒い長靴の先端は銀色に光っている。
雪が降っている。すべての音を吸い込んで。
長い外套の裾。革手袋の手が差し伸べられる。
――『迎えに来たよ』
誰かを待っていた。いや、彼が来てくれると期待していた。
――『さあ。おいで』
違った。
――『おいで』
――どこへいくの?
――『あたたかいところだよ』
――みんなは無事なの?
男の低い声は沈黙を愛した。
『わたし』を抱え上げて、黒光りの車に乗せて、王宮に連れて行ってくれるのだと思った。
車は大通りから王宮へ向かう道を曲がらず直進した。窓越しに街を目にした。崩れた瓦礫と配給や炊き出しを待つ人々の列。軍人の闊歩――カストラリア軍の制服ではない者もいた。
――王宮にいかないの? ねえ。ねえったら。
『わたし』は嵐は去ったのだと、栄養失調気味の頭で理解した。
街路には時々ブリタニアの国旗が掲げられていた。
――あれはなに?
隣に座る男はなにも答えず、まっすぐ運転手の頭を見つめていた。
――ねえ……シュナイゼルは? あんなの嘘だわ。信じない。ブリタニアが……。
――『もうすぐ彼に会えるよ』
――シュナイゼルが? 来てくれたの?
ようやく男は『わたし』の言葉に返事をくれた。
男は逆光の中にいる。その顔は曖昧でよく見えないまま、彼は微笑んでいる。
『わたし』は車から連れ出され、リダニウムの郊外からさらに山奥にいた。岩がちな山道を進み、男の手はしっかりと『わたし』の手を握り、歩調はゆっくりだったが逃亡を許さないように力強く引いた。細い棒のような足には擦り切れ血が滲んでいた。
――ここにいるわけ、ないわ。
石造りのお屋敷。表門には何台ものバスが停車している。バスの窓はカーテンで締め切られ人が乗っているのか乗っていないのかはわからない。
『わたし』は抵抗した。
擦り切れたワンピースの生地をぎゅっと握った。裸足で硬い地面を踏みしめる。力は殆ど出なかった。ずっとお腹が減りっぱなしだった。とても嫌な予感がした。
男は優しく言った。身を屈めて。おとぎ話に登場する王子さまが囁くように。
――『中で温かいスープを用意しているよ。チキンのローストも。プディングだってある。今日はクリスマスだからね』
男は扉に向かって指さした。
――嘘! 嘘つき!
『わたし』は精いっぱい叫んだ。食べもののいい匂いなどしてこなかった。それどころか、死体を焼いているひどい臭いがぷんぷん漂っていた。
――『さあ。行って』
恐ろしいとわかっているのに。進んではいけないとわかっているのに。カサカサした唇を引き結んで堪えているのに、足は一歩、一歩と進んでいく。
――いや……。いや……! いや!!
足は動く。駆け出してしまいそうなほど。
煙突からは黒い煙が絶えず吹き上がり、曇天と一体化していた。雪にみえたそれは風に煙が混ざった灰だった。
人間の灰だ。
――いや!
『わたし』は殺されて、焼かれてしまう!
カラカラに乾いた喉から悲鳴が雷のように迸る。骨が軋んだ。足の親指の付け根がもげそうになる。踏みとどまろうとしていた。皮膚には岩の棘が突き刺さっていた。
――『扉を開けなさい』
男は命令を続ける。
指がドアノブにかかる。重くてひとりでは開けられないはずなのに。後ろから誰かが力任せに突き押されるみたいに力が加わり、少しずつ、少しずつ、開けたくないのに、開いていく。
扉の向こうは――。
朝日の眩い光がノエルの顔に降り注いでいた。
鳥の囀り。廊下からは使用人の足音がした。
ベッドの上で身を起こすと、汗だくだった。直角の位置に置かれている全身鏡には、瞳孔が開き、火照った顔のノエルが映り込んでいる。ポケットに指を差し入れると冷たく硬く長細い先に突起の感触がある。鍵を握り締めた。
シャワーの熱い湯を被る。筋と骨の目立つなだらかで味気のない肉体がステンレスに反射している。
慎重に傷をつけないように剃刀を肌の面に沿わせていく。鏡の中には白髭の泡をつけた癖毛のブロンドの男。洗面台には落ちた泡が排水口を目指し流れていこうとしている。
「……扉?」
こめかみを手で押さえる。甲高い耳鳴りがして表情が崩れていく。
鏡の中の顔がぐにゃりと歪んだ。
a.t.b.二〇〇七 July ユトランド
ピェールス山脈近郊
澄み渡る池とその土地一帯の所有権を持つ企業の視察訪問には、担当者達がまるで磁石に引き寄せられる砂鉄のようにシュナイゼルを囲んで着いてまわった。あれこれと説明にかこつけて話しかけているが、彼の視線はノエルに集中していた。
先頭で広報部門の部長職であるバイター氏が、ピェールス山脈の湧水地である池について説明していた。ノエルは後ろを歩くシュナイゼルの注視が突き刺さる感覚を受けつつ平静を装った。
――気づいている。
昨晩、レモネードに睡眠導入薬を仕込んで眠らせた。ボイスレコーダーの在り処も把握したことを知った≠セろう。
態度に大きな変化はないが、こうして顔を背けると不意にその気配がわかる。疑惑の眼差し――その冷たさは過去最低レベルだ。アイスピックの細い先端で彫り抉られているような不快感。
湧水地の脇から地下の洞へ進む。洞窟の中は湿度が高い。天井からぽつぽつと降り髪や肩を湿らせ、足元も不安定だ。
「お足元にお気をつけください」
「ええ」
歩きながら丸眼鏡をかけた男、バイター氏が解説を続ける。
「この水源は、氷河期に形成された岩盤から湧き出ております。ミネラルが豊富でやや硬度が高い」
「湧水ですね。……煮炊きにはいいブイヨンが取れるから、この辺りに住む臣民の健康増進に寄与していますね」
「その通りでございます」
ノエルの返答にバイター氏はにこやかに応じた。
「うちのは地下水で、やや軟水寄りだ。食事はやや繊細な味付けだ。……ああ、すみません。勝手にべらべらと」
流れに乗じて背後に体ごと向けると、シュナイゼルは柔和に微笑んだ。
「君が勝手に話していると聞いているだけでいいから楽だよ」
「歩くラジオですよ」
洞窟の中に、社交辞令の笑い声が渦を巻く。
「では、アーバンド伯爵、お土産にボトリングした水はいかがでしょう」
「ああ。それはいいですね」
バイター氏はそれでは、と屋外への階段に手を向けた。
a.t.b.二〇〇七 July 南ユトランド
フェルサイド・マナー
「ノエル様、こちらは……」
「水だよ。タンク入りの。お土産……!」
執事の一人、ランプシャーは困惑を露わにしながら屋敷から台車を持って現れる。
運転手と他使用にの数人がかりで協力して台車に運び込む。その日一番の汗をかいた。
ボトリングした水ときいてペットボトル程度と想像していたら、ウォーターサーバーの交換用の大きさ。それを三つもいただくとは。
重労働をこなしている隣。涼しい顔で待つシュナイゼルがランプシャーに言った。
「……ランプシャー、レシピを教えてもらったよ」
「レシピでございますか?」
「シンプルだけどスープやシチューが美味しいらしい」
――それはレシピではないのでは?
胡乱な目つきでノエルはシュナイゼルを見つめた。
「夕餐の……ご提案ですか?」
ランプシャーは懐中時計を確認し短く唸った。
「恐れながら、明日の夕餐にされてはいかがでしょう。……今このお時間からですと、仕込みに時間が」
にやっと笑ってやる。
「……へっ。だそうですよ、殿下」
「それなら仕方ないね?」
「残念。明日のお楽しみです」
最後の水入りタンクを台車に載せ終えると、ランプシャーは見計らっていたように咳払いをする。
「旦那様から言伝を預かっておりまして。……明晩本邸に到着されるとのことでございます」
「父が? ……わかりました」
屋敷に殿下を招くと休暇直前に伝えていたが、都市部の方の用事の方を優先して初日の出迎えには同席せず遅れる、という話を聞いていた。当主帰還までにノエルは屋敷を調べ尽くす必要があり、それも今夜までだと腹を括る。
シュナイゼルの探る眼差しは、アストリアス公爵にも向けられるだろう。『わたし』も同じであった。
深夜三時。
静寂と深い夜。あるいは、魔女の時間。
蔵書室に足を忍び込ませると、持ってきていた小型の探知機の液晶に浮かぶ波形が細かく乱れた。
――ここもか。入ったことのある部屋にはある≠ニ考えたほうがいいのか。
昼間、シュナイゼルを蔵書室を案内した。本を立ち読みする振りをしている間にでも仕込んでいたのだろう。
――……風もないのに。
レースカーテンがふわりと揺れている。壁に手を伝わせどこからともなく吹く風の出どころをたしかめる。本棚と壁の間に隙間があり、さらに後ろ側に部屋が続いているようだ。たいていこの手のものの開け方は収められた本を押すか引くかが鉄則だ。本の重量で解除される仕組みでないなら一冊か二冊ダミーの本を操るだけでいい。
手当たりしだいにノエルは本を押したり引いたりを順繰り試し、カチリと解錠音が短く鳴る。そして慎重に隙間風の吹くあたりの本棚を押す。すっと本棚がゆっくりとスライドし後退していく。
人ひとり分の入れるスペースに身を滑り込まるとそこには一枚の扉が現れる。ドアノブの下には鍵穴がある。
――さっきの鍵。
鍵の存在を思い出してスラックスのポケットから拾い上げる。鍵穴は見事に合致しなめらかに回った。
かちゃりと音をたて裏側へ続く扉を押し開ける。
そこは壁一面にファイルが敷き詰められ、執筆環境の揃った事務机とスタンドライトと椅子があるだけの空間だった。
白手袋をはめ、ノエルはライトを点ける。白い光がぼんやりと秘密の部屋を照らしている。壁に収められたファイルは証書や契約情報など資産管理にまつわる関連書類が詰まっている。
――ノエルのための部屋か。
契約書類の名義はノエル・アストリアスのものだ。放蕩息子ではあるがかなり頭の切れるやつらしい。
事務机の引き出しを開けるとそこには大量のレターセットが詰まっている。乳白色、アイボリー、ベージュ。未開封のストックのものや開封済みで使い残しのもの。それらが大半を占める片隅に万年筆、シーリングワックスのための小道具、つけペンの先や軸、凝り固まったインク入りの壺。試し書きのための特徴のない小さなメモ用紙。
その下の段の引き出しを引っ張る。開けた瞬間、何枚か既に使用済みの便箋が勢いよく飛び出して床に散乱した。
一枚を拾い上げ、咄嗟に他の何枚かも拾い、見比べてみる。書き出しには女性の名がある。
――愛しいミレーヌへ……=\―
薔薇色に色づく繊細な言葉の羅列。
「……恋文」
ぼそりと呟く。
何通ものレターにミレーヌ・ド・サンジェルマンの名が記され、どれも途中で諦めている。
それらは最後まで書き切ることなく、綴る言葉の熱量と苦悩が紙のインクに滲み出ている。
――ノエル・アストリアスは、ミレーヌ嬢に恋をし、彼女に会うために社交場を主催し招待状を送った。
サンジェルマン家に出入りするいま、『わたし』は、ミレーヌは大層甘やかされて育った妹姫の扱いだと知っている。本人の姿は当然見当たらなかったが、サンジェルマン家に混乱はない。喪が開けきるまでもうすぐ一年としても、どこか気楽で悲しみの色は薄い。老人が死ぬよりも将来性のある若人が死ぬ方が納得いかないものだが、当主にせよ、母親にせよ、二人の姉にせよ、憚られることなくミレーヌの名を口にし思い出話に花を咲かせる。
――ミレーヌは生きている? それとも疎ましがられているのか。あるいは、外からくる人間に対して家族が偽っているというのだろうか。
根拠のない仮説が育っていく。
三段目の最後の引き出しを開ける。そこも手紙の墓場だった。しかし二段目と違うのは恋文ではなくもっと事務的なもので、たとえば小切手やわずかな現金紙幣、債券、株券……。すべて電子化されている時代になぜ紙で保管されているのか。
『わたし』はすでに一つの答えの整合性をとるために手紙を開く。
――親愛なる、プローメア理事長へ。
手紙には寄付という名の献金する旨と相手方の受取金額の明記、そして便宜を図るように念押しする一言が添えられている。
またその他にも、いくつかの名――それも企業の役員か代表取締役と思しき名で同様の手紙がある。それらがこの引き出しに眠っているということは、そうする必要になかったか、途中で辞めたか、なにかがノエル≠フ身に起きたかだ。
ノエルは静かに携帯で撮影し、画像記録を残していく。
ミレーヌ嬢宛の招待状の書き損じ。パーティーのリスト。招待状の数々。
ノエル・アストリアスは……。
「……利用されていた?」
もしそうであるなら、『わたし』はノエルを大いに誤解していた事になるだろう。
朝日の射し込む食堂のテーブルには、手紙が盆の下地である銀色を 覆い尽くすほど、山盛りになっている。
新聞を広げて地方ニュースに目を通すシュナイゼルは、一度紙面を下げノエルを誂った。
「ラブレターかい?」
一枚一枚、ペーパーナイフで開封し中身を確認していく。殆どがシーズン後半の社交界の招待状だ。
「シーズンも終わりだから顔を出さないかとさ。……宮廷主催のものもある」
再び紙面に視線を戻しかけたシュナイゼルが、その綺麗な瞳で正面に座るノエルを見据えた。
「来てみれば」
「面白そうだけど悪名高い私が行っては……。それに、……殿下の狙いは弟君の相手をさせたいだけでしょう。チェスの」
「ああ、うん。そうだね。会いたがっているのは本当の話だよ」
「高く買いかぶりすぎです。……ですが、もし、お相手をさせていただくなら……」
「……うん?」
ブリタニア帝国・宮廷主催の招待状を掲げてみせる。手触りの良い紙には皇室の紋章が印刷されている。
「見返りが欲しいところですが。殿下」
「見返りとは?」
「お約束いただけますか?」
シュナイゼルは新聞を畳み、テーブルの上にのせた。
「推薦状の件だね」
「ええ。そうです」
いくらか考え、ノエルを見通すように目を凝らした。
「釣り合いが取れると思っているのかい。……要求を呑むなら、ブリタニア帝国内の大学・研究所に限定させてもらう事になる」
「見識を広げることは重要です。我が国にとっても」
「その話は聞いたよ。一昨日に」
「欧州と戦争をしているから? では、私にスパイをお命じになればよろしいでしょう」
嘆息混じりに笑いかけて、彼の顔からその代名詞である笑みが消え冷ややかなものへと変わる。
「は……ブリタニアの伯爵が堂々と<Xパイを? 君にしては……なんとも間抜けな提案だね」
それは、あまり失望させるなと――言っているようにもみえた。
シュナイゼルはノエル・アストリアスを疑っている。そして情報を引っ張り出したい。易々と獲物を逃すことを許すはずがない。だからこうして、はっきりと。わかりやすく。首輪をかけやすいように差し出しているではないか。
この挑発的な誘導にシュナイゼルは警戒心を抱くか、もう少し機会を待ち決断するだろう。
「話は平行線を辿る?」
彼は微笑みを浮かべ直した。
「かもしれません」
ノエルも応じるように口角を上げる。
「今日の計画は?」
「……はい?」
首を傾げる。
シュナイゼルはカップに入った紅茶を飲みきり、席を立った。
窓の外の天気を気にして、厩舎のある方角に指さして言った。
「君の馬を見てみたいな」
「……Yes, Your Highness」
今日の交渉はそこで幕を閉じた。インターバルはお互いに必要だ。
ノエルはその会話を壁となり、黙って聞いていた執事に呼びかける。
「そうだ。ランプシャー。あとで手紙を渡すよ。投函を頼む」
「かしこまりました。……ノエル様。あまり遠出はなさいませぬよう。旦那様が夕方頃にはお着きになります。お出迎えを……」
「わかったわかった」
手で制して、ノエルも椅子を引いて立ち上あがった。
撒き餌に食らいつくだろうか。ノエルは手紙の束を抱えて、ランプシャーを横目に彼の脇を通り過ぎた。
a.t.b.二〇〇七 July 南ユトランド
レイクサイドメア
薄水色の空に白い雲がゆっくりと流れ、夏の太陽が燦々と降り注ぐ。フェルサイド・マナーから離れ、湖畔を抱える森へと続く道を二頭の馬にそれぞれ跨り草の背を倒し進んでいく。爽やかなリネン地の狩猟服とハンチング帽を纏い、日差しを避けるように革の手袋をはめている。先導するように進むノエルの後ろでシュナイゼルは頭上に広がる針葉樹――ジャックパインを仰ぎ見る。
「ビーグルが随分追い回したから遠出になっちゃったな……」
ノエルはハンチング帽を被り直し汗で蒸れる頭に新鮮な風を招き入れる。森の手前で元気よく数匹のビーグルが走り回っている。
ひんやりとした森の空気が、汗ばんだ肌に心地いい。彼らの持つ電磁銃は装飾的な美しさと裏腹に機能性を重視した代物で、旧時代の火薬銃と異なるのは銃声と硝煙が動物を狩るには静かで殺傷能力が強すぎず、また周囲の動物に警戒されにくく連射が可能なことだった。銃身は光を反射し、太陽の下でひときわ輝いて見える。
森の奥深くへと進むにつれ、涼やかな木陰が増えてきた。ノエルは馬を静止させ、手でシュナイゼルにも合図を送る。二人の耳に、かすかな物音が届いた。それは草むらをかき分ける音。茂みの影から、一羽の野兎がひょっこりと顔を出した。毛並みは、夏毛の柔らかい茶色だ。
ノエルはゆっくりとライフル式の電磁銃を構える。物音をたてないことがコツだ。なぜなら電磁銃は火薬使用の銃火器よりも弾速が遅い。引き金をあっさりと引き、風を切るようなわずかな音とともに、弾丸は目標に向かって一直線に飛んでいった。兎は一瞬で息絶え、あたりは再び静寂に満たされていった。
「お見事」とシュナイゼルが賛辞を送り、ノエルは一つ頷くと馬から降りて得物を回収した。
「次は殿下の番ですよ」
シュナイゼルは「うん」といって、手綱を引き周囲を探った。ある一点を注視し、馬上で唇の前に指を立てる。
脇を締めライフル式の電磁銃の照準を定める。風を裂く一瞬の音のあと、ばたりと獲物となった別の野兎が倒れ落ちる音がした。
「素晴らしい。……早く帰れば、夕餐に間に合いそうですね」
その後、さらに二羽を狩り、ノエルは兎たちの下処理を行った。血を抜き、内臓を取り除き、持参したポリ袋と保冷バッグに詰め込む。その様子をしげしげと眺め見ては「手慣れているね」と呟く声に、その昔、蛙やマウス・ラット、ウサギ、鳥などの解剖をしていたからだ、とは明かせなかった。
「熟成させた方が美味しいのですが……今夜我々の糧になってもらいますから。死後硬直が始まるので飛んで帰りましょう」
ナイフと兎ののったシートにアルコールを吹付けて消毒する。あたりに血の混ざった独特な刺激臭が広がるが、やがて柔らかな森林の風がかき消していった。
a.t.b.二〇〇七 July 南ユトランド
フェルサイド・マナー
大食堂の長いテーブルの上。燭台の上の数々の蝋に火が灯り、そこだけがオランダ絵画の世界のような厳粛な明暗が広がっていた。表の方から車の停まるタイヤのザラザラとした音が聞こえてきた。窓辺にライトの反射がちらつき、ノエルは大食堂から玄関前のホールへと向かった。屋敷の使用人達が列をなし、主人の帰還を沈黙と佇んでいる。
天井にほど近い高さの重厚な扉が開けられ、シルバーグレーヘアの円熟味のある男、アストリアス公爵が闇の中から現れる。ノエルは胸に手を当て身を低くした。
「父上。おかえりなさいませ。さぞお疲れになられたでしょう」
「出迎えご苦労。……シュナイゼル殿下は?」
「ああ……、今お呼びするところでした。殿下」
ノエルが姿勢を正し、背後を振り返るとちょうどゲストルームから彼が現れたところだった。
ホールの正面にある大階段の上からシュナイゼルはゆっくりと敷き詰められた絨毯の感触をたしかめるように下りた。ミュージカルのように滑らかに、淀みなく、演出めいた所作さえ彼がすればいやらしさを感じさせず、ものにしていた。
アストリアス公爵の前へ進み出ると、公爵は跪拝した。
「こんばんは。アストリアス公爵閣下。フェルサイド・マナーは快適です。特に饗す者の腕が優れているからでしょう。素晴らしい御子息に恵まれましたね」
「殿下のお言葉、至極恐悦に存じます」
三人が大食堂へと移ると挨拶の間に食事の用意を進めていたのか、ビーフならぬ兎のシチューの濃厚な香りに満たされていた。
「おぉ」と短い歓声をあげ、アストリアス公爵は上座に座った。
「風が冷たかったからな。温かいものが欲しかったところだ」
「新鮮な兎肉ですよ」
「狩りに出かけたのか」
「ええ。殿下と」
「なるほど。それで……。では、食事を始めようか。今宵の感謝を。殿下に祝して。オール・ハイル・ブリタニア」
唱和し、グラスを掲げる。
兎肉のシチュー、サーモンのポシェ、鴨のロースト、デザートにはラズベリーのシャルロット。
食卓は静粛に慎ましく進んだ。皿とカトラリー。食事を適切に口へ運び込む時間の共有。形式張った伝統的な儀礼。
静寂が続けばその空気を打ち破りたくなるものだ。
「父上は今晩滞在されるのですか」
「ああいや、食事を終えたら出るよ。屋敷を。実は予定がぎっしりでしてね。……しかし、殿下と食卓を囲めるとあらばと馳せ参じた次第であります。よろしければ、今後ともご贔屓に」
シュナイゼルは食事の手を一瞬止めて、微笑みで返した。
アストリアス公爵はナプキンで口元を拭った。
「嵐になる」
「嵐?」
ノエルは面白半分に尋ね返す。
「夏の嵐さ。風が唸り、草の香りも冷たく、この世の地底から這い出してくるような」
夏の嵐は魔物を連れてやってきた。
柱時計は規則正しく決まった軋みと共に左右に大きく弧を描く。
その覚醒は乱暴な扉の開閉と振動により唐突に訪れた。ノエルはベッドの上から身を起こした。部屋を慌ただしく飛び出すと、騒がしい階下の様子をギャラリーから見下ろした。
灯りを落としきった、薄暗い玄関は開かれた扉からは、びゅうびゅうと風が入り込み喘鳴のような音がしている。
眠りを破る闇を纏い立つ男に、使用人の持つ小さな照明がかざされる。
白目がより光って輝いた。青い眼が何かを探り見つけようとしていた。
「夜分遅くに何用でございますか」
ランプシャーが尋ねた。
ノエルは大階段を駆け足で下りていった。
風がまた強まり、飛沫を上げた。夏にしては凍えそうなほど寒い夜だ。
男はノエルを見るなり大股で屋敷の中へ突き進んだ。
「なんで! なんでだよ! なんでお前がいる! 誰だ! お前は誰だよ!」
「落ち着け。ここには何の用だ。今何時だと思っている。夜中の二時だ!」
大男の全身は暗く判別がつかないが、地中海のような青い瞳、団子のような鼻、赤らんだ頬、濃く手入れのなされていない眉と、黄色がかった不揃いな歯が湿った口から覗いているのがわかった。吐息からはアルコールの臭いがした。
太い指がノエルの肩を掴み、よく目を見開いて食らいつくように見つめ、そして怒鳴った。
「お前は、何者だ!」
「何のことだ!」
「なぜ、なぜ……俺が……! クソッ、クソッ、クソッ……! あいつら! 殺してやる! 殺してやるからな!」
メリメリと殺意が指先に加わり、肩を圧迫していく。骨が軋む音がした。
ノエルはこの大男がただの泥酔状態でないことに気づいた。
しかし、それを推理し終わるよりも早く、使用人達が駆けつけて大男をノエルから引き剥がそうとした。
「ノエル様。お下がりください、この、不届き者め! 恥を知りなさい! 夜更けに訪ねてきたかと思えばなんです!」
ランプシャーが大声で叫んだ。
見窄らしい姿をした中年男は昂奮し、ノエルに向かって拳銃を向けた。
驚きはなかった。
空間を切り裂く僅かな摩擦音が二発もたらされ、大男はばったりとその場に倒れ込んだ。ノエルはその方向を見た。従僕のひとり、ウーサーの手によるものだった。
ウーサーは全身で呼吸を繰り返し、皮膚から汗を噴き出し、目の焦点は定まらずやや虚ろな表情をしている。
ぎし、と重みの加わる音が上から鳴った。暗い大階段の左右の合流地点である踊り場に、シュナイゼルが降り立った音だった。彼は事態の成り行きを静観していた。
「死んだ……?」
誰かが言った。
ノエルは、床に突伏する大男の傍らに膝をついた。
大男は細かく痙攣し、その瞳にはまだ光が灯っている。
「……致命傷ではなありません。警察と救急を呼んでください。ただちに。……ウーサー、事情聴取に応じて。私も同席します。ランプシャー、あなたはこの男の救急の付き添いをお願いします」
ウーサーは力なく返答し、ランプシャーは携帯電話で警察と救急を呼んだ。
「清潔なタオルを!」ノエルの指示に使用人の何人かが物を取りに行った。
タオルで圧迫止血を行い、大男は朦朧とする意識の中、砂を噛むような物言いで「殺してやる」と呟いた。
ノエルは止血を使用人に交代し、階段上にいるシュナイゼルに駆け寄った。
「殿下。お休みのところ失礼致しました。……落ち着くまで騒がしいでしょうが、ご辛抱を。お部屋にお戻りください」
「この騒ぎで眠っていられると思うかい。……ノエル」
そう言い、シュナイゼルは階下へ下りた。
ノエルがそうしたように身を屈め、大男の顔を覗き込み、ノエルに向かって呼びかけた。
「IDは?」
「警察が来てからにしましょう」
ノエルも階段を下り、憔悴気味のウーサーに対し落ち着かせるように言った。
「ウーサーの行為は、私への脅威に対する正当防衛だった。この場にいる者が証人となります」
ランプシャーが「数十分ほどで町の方から来るとのことです」と報告した。
その言葉通り、数十分後、先に警察が到着し、開口一番シュナイゼルの姿を見るなり仰天した。
「しゅ……シュナイゼル皇子殿下……!? なぜこちらに?!」
「彼は私の友人でしてね。休暇中厄介になっているんですよ」
「は、はあ。これは大変失礼致しました。事情聴取には、殿下も立ち会われるのでございますか?」
「私も目撃者のひとりです。そこにいる従者は、……アーバンド伯爵を訪ねてきたこの男が、伯爵に拳銃を向けたので止めるために護身用の銃を使用し発砲しました」
「皆さまも仰る通りでございますか?」
各自、口々に肯定する。
警察官は「出血は少量ですね」と呟いた。その時、表の車寄せに救急車が到着し、大男は担架に載せられ簡易的な現場処置が始まった。
ノエルは柱時計を確認した。
「……殿下は先にお休みください。ここは長丁場になりそうです」
「睡眠導入薬があれば、よく眠れるかもしれないね」
シュナイゼルはノエルの瞳を見つめた。彼は微笑んだまま、少し首を傾げた。
「この男は、君に明らかな動揺と嫌悪、そして殺意を向けていたね。……心当たりはある?」
「さあ。……初対面です。どこかで会っているのかもしれませんが、そうだとしてもこの者の執着でしょう」
「わざわざ屋敷まで訪ねてくるほどの執着、か」
シュナイゼルは警察官に命じた。
「この男のIDの確認をしなさい」
「はい。ただいま」
警察官は大男の上衣を探り身分証を発見する。それを専用の機器に通し、詳細情報を読み上げていく。
「フェルナンド・ボークナン。年齢は四八歳、ニューブリタニアのノーフォークにある民間のネクシウム・バイオ製薬の役員です。……失礼ですがアーバンド伯爵のご交友関係は……?」
「ネクシウム・バイオ製薬……!?」
ノエルは思わず強く反応を示した。
シュナイゼルは訝しみ、硬い声で尋ねた。
「……ノエル。どうしたんだい」
「なるほど……」
「ん?」
「もしかすると旧知の間柄だったのかもしれません。いえ……友達が多いもので。便りのない方は記憶の後ろの方に追いやられてしまうんです。薄情者かもしれませんが」
警察官はノエルに訊き返した。
「では、面識があると? なにか恨まれたりするようなことは」
「私には心当たりがありませんが、彼には恨みがあるかもしれません」
「そうですか。では搬送いたしますのでお下がりください」
担架が通るために道を作る。男の青い瞳は瞼に隠されていた。
「執事を同伴させます」
「よろしくお願いします」
警察官から引き続き細かい質問が繰り出されるが、ノエルの――『わたし』の頭の中には恐ろしい真実の塗装が剥がれかけているのがわかり、それの恐怖がじわじわと足元に迫ってくる気配を感じていたのだった。
a.t.b.二〇〇七 July 南ユトランド
フェルサイド・マナー 食堂
食堂で軽食をとりながら、一睡もせず朝を迎えた。
窓の外は白み、濁った雲の隙間から青空がほんの少し覗いている。ノエルの座る席から斜め前には彼を監視するように腕を組み、同様に過ごすシュナイゼルの姿がある。
そこへ、ジリリリリと喧しいベルが鳴り、ノエルはテーブルの上に引っ張り出していた電話の受話器を取った。
「はい。こちらフェルサイド・マナー。……私がアーバンド伯爵本人です」
電話は町の警察署からだった。病院まで付き添ったはずの執事のランプシャーの声はやや硬く、大男の名――フェルナンド・ボークナンの失踪を告げた。
「……フェルナンド・ボークナンが、病院から失踪?」
ノエルの言葉に、シュナイゼルは彼に注目した。
「警察が、事情聴取に病室に入ったらいなかったって……脱走ということ?」
ランプシャーは「わかりません」と気の毒なほど弱々しく言った。
「それは、またこの屋敷に舞い戻ってくるかもしれないということだけど」
〈警察はユトランドの地元警察と連携をはかり、厳戒態勢を敷くと仰っていましたので、その点は心配御無用かと存じます〉
ノエルは受話器を耳につけたまま宙を仰いだ。
「……はぁ。夏季休暇中、こちらで缶詰になるか、旅行にでも出かけないとね。……ああ、事情聴取には勿論応じる。被疑者不在でも捜査は継続するだろう。殺人未遂なんだから」
『わたし』はそこで名案が浮かび、ほくそ笑んだ。
「そちらに警察はいる?」
ランプシャーは「はい」と答えた。『わたし』は今から話すことを伝えるよう言った。
「……ボークナン氏は医療品メーカー、ネクシウム・バイオ製薬の役員だ。過去、株を父上に譲って頂いたものを保有している。その関係でお会いしたことはあるかもしれないが……。だから昨晩の、あの身なりには驚いたんだ。彼にしては、薄汚い、浮浪者のような格好だったから。……ああ、そうだ、……私が主催したパーティーリストにも名前があった。招待者は数百人にも及ぶ。杜撰な対応をした覚えはないが、もしかするとその頃の禍根かもしれない。……パーティーは……たしか……クローデン・ハウスが開催地だったかな。そこは、ボークナン氏の滞在する同じニューブリタニアにあるし……。ランプシャー、今の話を覚えた? 警察に伝えて」
視界の端でシュナイゼルは目を細め、手元のカップに入った紅茶を飲んだ。
彼は殆ど聞いているだろう。
ランプシャーがメモをすると言い出したのも計算の内で少し笑った。ノエルは壁に背を預け、天井のシャンデリアを仰ぐ。
「いい? もう一度言うよ。ボークナン氏がパーティーに参加したかもしれないという話だ。そこで私を逆恨みしたかどうか。パーティー主催地はクローデン・ハウス。ニューブリタニアの。他の開催地のイーサンウッド、ブレア・ヘイヴンの可能性も捨てがたいがね。……いずれの開催においてもネクシウム・バイオ製薬に出資・融資しているカンタベリー信託銀行、ACML医療財団、アクィロ・セントラル信託銀行にご協力いただいている。アクィロ・セントラル信託銀行はブリタニアではなくエリア四の銀行だが……医療先進国の銀行が国を跨いで融資するのはなんらおかしい話ではない。クロスボーダー融資だ」
クロスボーダー融資とは、国境を越えて行なわれる融資全般を指す。
この場合、カストラリアの銀行が国境を越えて、ブリタニアの製薬会社に融資を行っている――ということだ。
ランプシャーが隣の刑事から質問を貰いそれをノエルに伝える。
「……パーティーの目的?」
企業側からの依頼を受けて主催したのか? ということだった。ノエルはもちろん本物のノエル≠ナないため真意は測りかねるが、招待状を送ったリストと実際の参加者名簿の中に、サンジェルマン侯爵の名はなかった。しかし、ノエル≠ヘミレーヌ嬢と密接な関係があり、失踪あるいは死亡前後にふたりの目撃情報がある。
「お願いされた、というか……おそらくパーティーの権力勾配、力関係の上位者は私ではなく企業側だと思うよ。私は各企業・財団に寄付しているし……」
――ノエル・アストリアスは、ミレーヌ嬢に恋をし、彼女と会うためにパーティーに招待状を送り続けていたが、訪れることはなかった。
しかし、何か契機があって昨年八月、一緒にいるところを目撃されている。ミレーヌ嬢は死亡しているが事故死。ノエル・アストリアスの成り代わりである『わたし』が存在しているにも関わらず、サンジェルマン侯爵からの便りはない。
すなわち――ノエル・アストリアスは、ミレーヌ・ド・サンジェルマンを餌に利用された側であることが確定した。
サンジェルマンが秘密を握っている。
ミレーヌ嬢をだしにしてパーティー主催を行い何か≠ノ、誰か≠ノ便宜を図った――そう考えられる。
――便宜を図った対象は、組織である可能性が濃厚だ。
なぜなら、『わたし』の成り代わりの素体としてノエル・アストリアス≠選択しているからだ。護国自警会――背後にいるカストラリアのクーデター首謀者がその用意や準備を指揮したとすれば……。
少しずつ、点と点が線で結ばれていく。
――ACML医療財団は国際財団だ。各国の医療系企業と強力なコネクションを持つ。
ネクシウム・バイオ製薬はかつて共同研究で組んだことのある企業である。高度な神経科学の応用と遺伝子工学、生体システムの操作――革新的なバイオテクノロジーを駆使した研究開発を進めているが、倫理問題等でここ七年で治験者や薬品関連で大量の裁判問題を抱えている。
――首謀者はACML医療財団と関係していて、成り代わりを可能にしており、また、『わたし』以外にも被験者が存在する。それが、昨晩現れたフェルナンド・ボークナンこと――本物のノエル・アストリアス≠セったとしたら――?
「……ネクシウム・バイオ製薬……」
違和感があった。あるいは、恐怖かもしれない。
過去に『わたし』はカストラリアの製薬会社を通じて共同研究に参加した。
その時用いた論文内容より飛躍的な結果がなぜかブリタニアに渡っている。ネクシウム・バイオが急進姿勢を打ち出したのは、七年前だ。クーデターは七年前。
嫌な汗が額から顎先に伝う。
――ああ、嫌だ。カストラリアでも実用化を見送っていた、生体実験を……ブリタニアが続けている?
『わたし』に共同研究を持ちかけたのは誰だっただろう。
――……ルーフォンド・アル・ベルケス。カストラリアの現首相。そしてティラナ王女の叔父、公爵だ。
思わず『わたし』はシュナイゼルを睨んだ。
シュナイゼルもまた見つめ返して、微笑んだ。
「話は終わりかい?」
「……シュナイゼル」
「うん?」
『わたし』は内心、すぐに態度を思い直し、視線を逸らした。
それは過去、幾度となく交わしたやり取りのように、あまりに自然な呼びかけだった。
――今日ほど彼に正体を明かしたいと思ったことはないわ。
今すぐにでも、ベルケスに問い質してやりたくなった。学術振興会、科学庁などティラナ王女≠フ研究関連の機密に関してはベルケスが握っている。
今日まで疑問に思わなかったわけではない。
しかし、この肉体の殆どを他人に変えてしまう行為を、国境を越え、それも自分自身だけでなく赤の他人にも用いている――。
フェルナンド・ボークナンに成ったノエル・アストリアス≠ヘ、『わたし』をみて怒り、成り代わった『わたし』を殺そうとした。では、本物のフェルナンド・ボークナンは?
首謀者がなぜそうするか、ノエル・アストリアス≠利用し、フェルナンド・ボークナンを操作するためだとしたら?
指先が冷たくなっていく。震えが全身を覆っていく。
――『わたし』は……『わたし』は……。
とんでもない犯罪の種を作ってしまったのではないか?
それは、どんな罪よりも重く、科学者としてあるまじき成果を生んでしまったのではないか?
『わたし』の研究のテーマは再生≠セった。皮膚や、筋肉や、血液や骨や……あらゆるものを修復するための基礎理論に頭脳を費やしてきた。同時に薬学面では、免疫機能による防御反応を緩和し、臓器や骨髄などの移植におけるリスクを低減させられるようにする理論を構築してきた。
「ひどい汗だ。……すこし休んではどうかな」
「……ああ」
シュナイゼルの言葉に受話器を置いた。
水の入ったコップを一気に飲み干す。さあっと昂る熱が引いていき、どうにも立っていられなくなり、目の前にあった椅子に座った。
「朝食は?」
テーブルの上に肘をつき額に手をあて、俯いた。それどころではなかった。
――今なにかを詰めたら、ぶちまけそうだ。
目眩がする。震えが止まらない。涙を流したいのに枯れ葉が詰まったように堰き止められている。
二カ国間で恐ろしい犯罪が、水面下で推し進められている可能性に――また、その核には『わたし』の研究成果が流用されている可能性さえもある。
――私が……私が……私の研究が……私の研究のせいで……。
「……うっ……え……」
口を押さえノエルは立ち上がる。シュナイゼルに断りを入れる隙間さえなく手洗い場に走った。
鏡に映る顔は、白粉を塗りたくった道化師のように白い。
――どうする? 匿名の告発文を……。いいや、目の前にいるなら口頭で……。
何度も打ち明けるかどうか迷ってきた。彼の生命の危機と、事実の重要性を天秤にかけて。今ならそれは国家に対する、罪。いいや、人道に対する罪として正当性のある告発になりうるはずだ。
それは、つまり。最悪の事態では、ティラナが研究者であること、またその研究を弾劾することに繋がったとしても。
そうして二度と研究することを許されなくなったとしても。
ティラナ王女≠フ研究を弾劾すれば、自ずと正体が明らかになる。『わたし』とて、その被験体であると主張する。
――しかし、信じてもらえなければ、精神病院行きだろう。
正体が明らかになれば、幽閉される?
本来は影武者の役割を与えられ、終身その人生は王室に縛りつけれるはずだった。
――無気力に、研究の罪に嘆きながら? 姫様の名と名誉を傷つけたことを悔やみながら?
「ノエル様。お加減はいかがですか」
従僕ウーサーの声だ。トイレの外から聞こえた。
彼の射撃の腕は鮮やかな手つきだった。態度は動揺そのもので、射撃後落ち着きがなかったが。彼は地元出身で軍経験があるわけではないし、自然な反応に見えたが。
――今は、誰が誰であっても疑ってしまう。
汗は止まらない。頭上からジョウロから水を注がれているように、次から次へと溢れ出す。
ノエルは蛇口を捻りその下に頭を突っ込んだ。頭皮に水がじわじわと冷水が滲み込んでくる。青と白のタイルに溜まる水に朱が溶けて混ざりだす。昂奮のあまり、鼻血が出ていた。
――冷静になれ。この屋敷の人間が関係者であるかどうかたしかめてからだ。
それでも、事態はなにもかも遅すぎると思った。
犯罪の規模が巨きく、ノエルひとりでは対処しようがない。
――シュナイゼルには情報を与えた。彼は何かを掴めると思って、ノエルに接近し貴重な時間を割いた。ボイスレコーダーだってあるし、睡眠導入剤を盛られたことにも気づいている。
焦りは禁物だ。シュナイゼルならじき気づく。
――しかし、研究については? これに関しては、彼の専門外だ。ベルケスについても……。
本当に、ベルケスが首謀者だというのか?
デスモイドをクーデターの混乱に乗じて殺害し、首相の座を獲得した。
カストラリアの内政を掌握した。しかし、野心のない人だ。仮初の姿だったというのか?
――私の知らないところで、私の研究成果が……。
たしかめるには、ACML医療財団かネクシウム・バイオ製薬に潜り込む?
今のノエルでは警戒対象だ。それに、誰がどの程度情報を握っているかも不明。藪をつついて蛇を出すような真似は危険だ。
もしノエルでヘマをしたら、今後ブリタニアでは何も行動を起こせないだろう。シュナイゼルの暗殺期限より先に組織に始末されることも避ける必要がある。
――悪事に気づいていながら、無知を装うというのか?
そうしている間にも、実験が進み、被害者が増えていったら?
――やりきれない。
ノエルの足はいつの間にか、屋敷の外に出ていた。
弱々しい黄金色が、まだらに地上に降り注ぐ。
屋敷よりもさらに上の、緩やかな芝生の丘陵の坂を進んだ。振り返ると遠くの街から運ばれてくる風が、濡れた髪と肌とシャツの襟を乾かして、肌の熱を奪う。
斜面から突出した岩の破片に座り、手のひらのピンクと青い静脈を見つめ、鼻の下を擦ると、滲んでいた朱が移った。
ノエルの不在に気付いたシュナイゼルは、屋敷の外に出て手前の噴水を確認したあと、こちらに気づいた。
足取りは軽やかながら、確かにまっすぐ向かってくる。夏風が緑と彼の金色にも光沢を与えた。
彼はノエルの隣に立ち見下ろした。
「落ち着いたかい」
「すみません。殿下。推薦状を書いてくださいませんか」
「またその話か……」
シュナイゼルは後ろで両手を組んだ。風を受け自由に髪を吹かせ、屋敷を含む周辺一帯の景色を眺めた。
「交換留学制度があるでしょう」
「まあね。しかし、交換留学に関しては我が国の属領国に限られる」
冷ややかに見下ろす視線と交わる。彼の疑心を深めたところで、腰を上げる。
「……ま。殿下が嫌とおっしゃるなら、休学か自主退学します。馬鹿と鋏は使いようだと思いますけど?」
「君にしては退屈な冗句だよ」
岩から離れ、ノエルは斜面を歩き回る。
「それで、どこへ行くつもりかな」
「Ich fahre nach Deutschland, Eure Hoheit! 独立国でしょう?」
「交換留学制度は属領国だと今言ったはずだが。……大学は?」
感情的でないシュナイゼルにしては、相当虫の居所が悪いのか表情が強張っている。
「えーと……三大大学ならどこでも。全部見て回るのもいいかもしれない。……フンボルト、ミュンヘン、ハイデルベルク。国際的ならフンボルト。横断的ならミュンヘン。深度ならハイデルベルクでしょうか」
「第一希望を言って」
ユーロピア連合共和国でないだけ良しとしたのか、シュナイゼルは寛大にも譲歩をした。
それともドイツには、彼の母方のルーツがあるから監視の目が行き届きやすい点を考慮したのか。医療先進国であるカストラリアにつぎ現在、ブリタニアと双翼のドイツへの留学が本命だったと悟られないように演出したが、成功したようだ。この際、留学にこぎつければ後からの文句や疑念などどうとでも対処できる。
「……ミュンヘン」
「わかった。そのかわり……条件がある」
「チェスですか? お引き受けいたしますよ。お安い御用です。……それとも、追加の方ですか?」
「そう。追加のね」
『わたし』は機嫌が回復してくるのがわかった。実のところ、ドイツへの留学は昔からしてみたいことのひとつだった。姫様の影武者となってからは、不可能になってしまったが。しかし、今はかろうじて自由なき自由の身である。
「どうします? なんでも、とは言い切れませんが……スパイを命じればいいと言ったのは私自身ですから」
「そうだね。……君には一時的に捜査官の任を与えようかな」
聞き間違えではないかと思って、『わたし』は眉を顰めた。
「馬鹿と鋏は使いよう、だと言ったね?」
シュナイゼルは彫りの深い顔に陰を作り微笑を濃くした。そして手を差し出した。
勿体つけてノエルは右手を伸ばした。彼は生温い手をしていた。
このゲームは、彼の勝ちだった。
a.t.b.二〇〇七 August
帝都ペンドラゴン・ブリタニア皇宮
その夜、ノエルはシャンデリアの蝋燭の数をかぞえるのを仕事にしていた。
帝都ペンドラゴンに戻りその夏最後の宮廷夜会に参加すること≠ェシュナイゼルが出したチェスに付随する条件だった。つまり――八月の数日間、シュナイゼルの側にて監視下≠ノ置かれた状態で過ごす羽目になったのである。
「浮名流しのノエルが壁の華とは。その名が廃れるのではないかな?」
「両手に花とは。さすがです殿下」
ブリタニアの正装姿で登場したシュナイゼルに向けて、ノエルは胸に手をあて頭を垂れた。
彼の傍らにはそれは美しいふたりの女性がいた。
「姉と妹だよ。お二人とも、彼が噂のアーバンド伯爵だよ」
ノエルは引き続き、恭しく礼をとった。
「オール・ハイル・ブリタニア。ギネヴィア皇女殿下、コーネリア皇女殿下に、謹んでご挨拶申し上げます」
第一皇女のギネヴィアが「面をあげよ」と命じた。
「シュナイゼルがご学友を同伴されるなんて、青天の霹靂ですわね」
「お噂はかねがね。ユフィが言っていた生徒だな? 昨年のスポーツ・ウィークではいい試合を見せてもらった」
第二皇女のコーネリアが昨年行なわれた学院の行事について口にした。ノエルが会ったのは彼女の妹姫であるユーフェミアと、第十一皇子のルルーシュだったが、ユーフェミアが来ていたということはその姉が一緒に観覧することも不思議ではなかった。
ともすると、あの様々な醜態を見られていたのかと思えば、やや気恥ずかしくなった。
「ああ、お恥ずかしい限りです」
皇族の兄妹がこうして一箇所に集まっていると自然と衆目を集めるのも無理ない。招待を受けた多くの貴族達の好奇の目がノエルを弄った。
「一曲踊ってはいかがかな。ノエル、妹を頼むよ」
「しかし、兄上……私は……ダンスは……」
「照れているのかい? 大丈夫だよ。彼は女性の扱いに長けている。そうだろう」
にっこりと、彼は誕生日が一日しか変わらない、双子のような異母妹の相手をするように念押した。
「……まあ。……」
シュナイゼルを一瞥する。その表情は人々をうっとりと陶酔させるほど完璧な微笑だが、有無を言わさぬ圧力がある。いつもならあの手この手でダンスをしないよう配慮してきたのだろうが十六歳を越え、貴族階級の女性ならデビュタント――社交界の成人を迎えている。主催側の女性が踊らなくても問題ない――というわけではないだろう。
「威厳あるコーネリア皇女殿下。わたくしと一曲踊っていただけますか?」
コーネリアの躊躇いがちに差し出されるオペラグローブに包まれた手を取り、手の甲にキスをすると熱気に包まれた円舞曲の渦中まで誘った。
a.t.b.二〇〇七 August
ブリタニア ウィルゴ宮
深夜まで続いた狂騒はクライマックスのカドリールを最後にお開きとなった。
セントダーウィン通りにあるロイヤルガーデンは広大で、なだらかに折り重なる稜線、点在する湖、その合間に溶け込む城館の数々。その一角に黄道十二宮の一つ、処女宮を意味するウィルゴ宮殿があった。
広大な敷地の通り道を進むリムジンの中で、ノエルは遥か頭上に瞬く星々を見上げて同乗するホスト役のシュナイゼルに声をかけた。
「この通りを基準点にしているんですか?」
「……何の話だい?」
「いや。宮殿の配置ですよ」
「警備上の問題で教えられない話だね」
「ははは! ですよね〜」
笑ってやり過ごすが、明日ルルーシュ殿下の宮の所在地がわかれば法則が解けるだろう。皇帝の妃とその家族が住まい立ち入ることの許されない場所に一介の貴族であるノエル・アストリアスが招かれ、滞在を許されるなど本来あってはならない待遇である。
特にこの帝政の――皇暦一九九七年五月六日。血の紋章事件≠ニよばれる転覆事件の起きたようなところにあっては。
皇帝直属の騎士、ナイトオブラウンズの十一人の内九人が反皇帝派に寝返り、六名が誅殺、三名が逮捕。その他、秘密裏に結託・共謀・関与から二五〇〇名の逮捕者を出した。
この頃のラウンズの中でシャルル帝側に残った騎士が二名。そのうちの一人、ナイトオブシックスであったルルーシュ皇子殿下の母、マリアンヌ・ヴィ・ブリタニアである。当時の功績から庶出でありながら、皇帝の皇妃に召し上げられた女傑。
――かわいそうなひと。
向かい合うシートの斜め前に座る麗しい人を、窓の反射越しに見つめる。
六歳にして父帝のクーデターを経験し、九歳から婚約者の国のクーデターの後始末をさせられている彼を。
――シュナイゼルがいなければ、カストラリアは滅んでいただろう。
彼は、最後の砦だ。
安定した治世を築くには、首謀者を捕まえなければいけない。
そのために彼の手駒になる契約を結んだわけだが、同時にタイムリミットを押し進めたかもしれなかった。
――シュナイゼルと組んだことが知れたら、『わたし』は死ぬ。
あの夜、本物のノエル・アストリアス&ッするフェルナンド・ボークナンがフェルサイド・マナーを訪ねてきた夜。それ以降、捜査に進展はなく、彼は失踪したままだ。つまり、そういうことなのだ。彼は死んだか、別の人間に変えさせられている段階にあるだろう。
――『わたし』の研究が、他者を不幸にしている。
罪悪感に押し潰されて苦しんで生きるくらいなら、死ぬ方が幸福だ。
しかし、こうして絶望し自殺衝動に駆られることがあってもなんとか踏みとどまっていられるのは、彼女の戴冠式を夢見ているからだ。石造りの荘厳なリダニウム大聖堂のホール。神託を授かり、聖油を浴び、叙される彼女を見届けるまでは。
「戴冠式が待ち遠しいですね」
『わたし』は彼に笑いかける。彼は意図的に微笑み、瞳は探っている。
「近いんでしょう?」
『わたし』の死期を伸ばすには、彼の疑念を保ち続ける必要がある。
シュナイゼルを警戒させ、客観的に見た時に、あくまでも利用価値があるから手を組んでいると思わせるには、常に緊張感とそれを維持するための疑惑が必要だからだ。
宮殿の応接間に隣接するシッティングルームのソファに疲れた体を沈み込ませると、離宮のメイドがそそくさとガラスのテーブルにドリンクを置いて退室していった。
応接間ですれ違ったこの宮殿の主に挨拶する声が壁越しにくぐもって聞こえた。煩わしい首元のジャボを手荒に解き、いつまで経っても古めかしいブリタニアのドレスコードに悪態をつく。数百年前の流行を現代に持ち越す懐古主義も大概にしてほしい、とはブリタニア宮廷への侮辱になるだろうか。
テーブルに置かれたハイグラスには擦られた皮の色味が透明の液体を色づかせ、そして満たされている。飲み口にレモンの飾り切りがひとつ縁に差し込まれている。おもむろに、それに手を伸ばす。よく冷やされたグラスの感触が指先に伝わる。
「……酸っぱ……!?」
口をつける。思わず飛び上がる。
甘酸っぱいどころの話ではなく、レモンの皮の苦み渋みで顔を強く顰める。作成者はレモネードを知らないのだろうか。
全部飲み切る前にトイレに籠もる方が早いかもしれないとそう困っていると、シッティングルームに正装を脱ぎガウンだけを纏ったシュナイゼルが現れた。
「おや。果汁を入れすぎたのかな。疲労回復にはうってつけだと思ったのだけど」
「とても飲めたものじゃありませんよ」
「そう。……どれどれ。……本当だ」
殆どかさの減っていないレモネードを一口含み、まったく表情を変えず頷いた。
「比率が大事なんですよ。比率が」
「作り直させようか」
ノエルはソファから立ち上がった。暖炉の上にある時計は深夜二時半に近づいていた。使用人達はそれが仕事でもあるのだが、また失敗されても困るのはノエルだけだった。
「キッチンをお借りしても?」
「構わないよ」
上衣を脱ぎ、シャツだけの身軽な格好で厨房に入る。護衛のひとりは一瞬その格好をみて眉根を寄せたが、主人の手前なんら忠告も封じられている。
食堂の奥にある立派な厨房にシェフやコックはいない。彼らの出勤時間まであと数時間。冷蔵庫、果物籠、食料籠にも、主人による無理難題、どんなオーダーが入っても対応できるように新鮮な食材が豊富に既に取り揃えられている。
レモンは簡単に見つかった。蜂蜜も。スパークリングも。
「……食材、他のものも使っていいですか」
「いいよ。なにを作るんだい?」
「チキンサンドイッチ。……グリルで焼こうかな」
最後のカドリールを踊る頃にはスタミナ切れでどうにかなりそうだった。このままお抱えシェフの出勤を待つ手もあったが、空腹が快眠を妨げる。万全の状態でチェスに臨むには一時的な血糖値スパイクを期待するほかない。
「殿下は向こうのリビングでお待ちください」
「ゲストに食事を作らせておいてかい?」
「食事というほどでも。……すぐに出来ます」
食事を作ることは肉体労働だ。そのために最高級の料理人が何人もいる。この厨房の手前にも、深夜にかかわらず護衛が十数名がその職務にあたっている。学院では少人数編成だったものが、居住する宮殿においては万全の警備体制をとっている。住んでいる世界が異なる。全てを掌握し、支配し、人を使うために存在している。この国の皇族の権力の象徴である。それまで学院内の学生の立場と生活環境の中で彼と接していたからか、改めて貴人であると思い知らされる。
そんな人をいつまでも厨房に入れておくことや、そのせいで大勢の護衛の仕事を増やしている――しかし、軽食を作ると言い出した手前引っ込むことが出来なくなってしまった。
それどころか、シュナイゼルはまったくシッティングルームへ戻る気配がなく、むしろ普段立ち入ることのない厨房の中を興味深く眺めている。
調理台の上に並べた新しいハイグラスに「レモネードは?」と彼が訊ねた。
「サンドイッチの方が工程数がかかるので最後です」
「ふうん」
業務用の冷蔵庫は四台ありそれぞれ肉や野菜・果物・海産物などを冷蔵・冷凍と適切に保管し管理されているようだ。
冷蔵庫のマグネットにはシートがあり、その日の担当シェフの名前とメニューに対応するように使用した食材をコックが記入しているらしい。ノエルは置かれていたボールペンを握り、紙の空白部分に名前と使用する食材を書き込んだ。
「野菜はどうします? レタス、トマト、玉ねぎ、ルッコラ……」
「ノエルの好みで構わない」
レモン一個、蜂蜜、炭酸飲料、氷、ミント、ブレッド、皮付き鶏肉三〇〇グラム、レタス、トマト、ルッコラ……。
「じゃあソースは? バジル入りのマヨネーズか、マスタード入りのマヨネーズか、ただのマヨネーズか」
「それも君好みでいいよ」
バジル五枚、マヨネーズ適量(ソース用)、粒入りマスタード(ソース用)……こっそり、パプリカパウダー。
粗方記入を終え、ノエルはいよいよ調理を開始した。
シュナイゼルは厨房内の壁際に立ち、外で待機する護衛に話しかけていた。先月のフェルサイド・マナー滞在で狩猟に出かけた話をしていた。
深夜三時頃に差し掛かり、ノエルは食材の記入欄に一部二重線を引き、新たな数量を書き込んだ。
レモネードのハイグラスは護衛の人数分増やし銀盆に並べていく。
「気遣いは無用だよ」
「いや、もう作っちゃったんで。せっかくなんで飲んでください。毒見しましょうか」
シュナイゼルは肩を竦めて笑い、護衛を厨房の中に入れた。
「種も仕掛けもない。各自、順番に貰っていって」
護衛は一名ずつ中へ入り、レモネードのハイグラスを持って退室した。配給所の光景に似ていた。
作ったばかりのグリルチキンサンドイッチを大皿に盛り付ける。ふと、キッチンのタイルと床が妙に新しいことに気がついた。
「……ここ焼けました?」
「どうして?」
火のあるコンロ周りではなく、調理台の半ばで切り替わっているから不自然だった。通常考えつくのは厨房の部屋自体の拡張だが、それでは今度は小面積に機材や設備・人材配置に難がある。つまり後から改修が行なわれたのだろう。はっきりとそれがわかりやすいのはこの厨房で使用される壁や床の材質が容易に入手できるものではなく、特にコンロ周りに関しては従来のエリアの材質より耐火性に優れたものが使用されているからだ。
「壁と床のタイルが、ここを境目に真新しいので」
「一度燃えかけたことがあるんだ。数年前にね」
「キッチンが?」
シュナイゼルの綺麗な人差し指が厨房から隣接する食堂の方をまっすぐ指し示す。
「……食堂の入口まで火の手がのびたらしいけどね」
「そうですか」
防火扉による封鎖が間に合ったか、消火が間に合ったか。改修するほどというと、相当燃えたらしい。
――大火災には至らなかった。
ウィルゴ宮殿の正式な主は皇妃で彼の母、アーデリントである。彼女は今、ブリタニア東のロングアイランドに住んでいると言っていたが、火災が起きてから住処を移したのだろうか。
「さあ、食べようか。朝になってしまうよ」
「私が持ちますから大丈夫ですって。いや、そこにいる屈強なお兄さん方にシメられるのだけは勘弁――」
彼は喉を鳴らして笑い、持ち上げた銀盆を調理台に置いた。
厨房から出たシュナイゼルはノエルの先を歩き、シッティングルームではなく庭の方へ進んだ。白い薔薇が、西の空高くにある満月の光を浴びて青白く輝いている。
「いい場所があるよ」と背中越しに声が届いた。
広大なグリーンとホワイト庭園の合間に、バロック様式の円柱ドームのガゼボが建っている。六本の白い柱が屋根を支え、その足元を埋め尽くす白い薔薇の数々。微風が甘い花の香とレモネードの甘く酸味に混ぜ新しい匂いをつくりだした。
「真夜中のピクニックにはもってこいだと思うよ」
月光のブラーが幻想的な世界を映し出し、失われたはずの、遠く、懐かしい記憶の扉を叩く音が耳奥でこだました。